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【短編005】 帰る場所

作者: macchao
掲載日:2026/05/19

声には匂いがない。温かさもない。

それでも、毎日聞いていれば「家の音」になる。

そんなことを思いながら書いた短編です。

猫と、AIと、雨の夜。どうぞよろしくお願いします。

 ハルは、外の世界を知らなかった。

 三歳になる雌猫で、毛並みは淡い灰色。耳の先だけ少し白い。

 窓辺で日向ぼっこをするのは好きだったけれど、窓が開いていても、自分から外へ出たことはない。

 玄関の向こうは、怖い場所だった。

 宅配便の足音。

 バイクの音。

 エレベーターが開く金属音。

 そういうものが聞こえるたび、ハルはソファの下へ隠れた。

「ほんとに慎重派だねえ」

 飼い主の澪は、苦笑しながらハルの背中を撫でる。

 机の上には、小さな白い球体が置かれていた。

 家庭用AIアシスタントの「ユノ」。

「本日の気温は二十三度です」「午後から降雨の可能性があります」「ハルさんの首輪センサー、正常です」

 やわらかな声が部屋に流れる。

 ハルは最初、この声が苦手だった。

 匂いがない。

 足音もしない。

 なのに、話す。

 不気味だった。

 けれどユノは、決して大きな音を出さなかった。

「掃除機を起動します。ご注意ください」「澪さんは十九時に帰宅予定です」「ハルさん、おやつの時間ですね」

 毎日聞いているうちに、その声は冷蔵庫の駆動音や、時計の針の音みたいに、「家の音」になっていった。


     *


 その日は、雨の匂いがした。

 澪はベランダで洗濯物を取り込みながら、窓を少し開けたままにしていた。

 湿った風がカーテンを揺らす。

 ハルは窓辺で目を細める。

 その時だった。

 カシャン。

 手すりが小さく鳴った。

 ハルの耳がぴくりと動く。

 黒猫がいた。

 痩せた身体。

 片耳が裂けている。

 その後ろには茶トラ。

 黒猫はハルを見ると、低く鳴いた。

「ナァ」

 ハルは動けない。

 黒猫は手すりの上を二歩歩き、振り返る。

 黄色い目。

 傷だらけなのに、堂々としていた。

 雨の中でも、平然と。

 茶トラは退屈そうに欠伸をすると、外階段へ飛び移った。

 黒猫も続く。

 途中でまた振り返る。

「ォア」

 短い声。

 急かすようにも聞こえた。

 その音が、まだ耳の奥に残っていた。

 風が吹く。

 知らない匂いがした。

 雨の匂い。

 濡れた鉄。

 遠い土。

 ハルは窓辺へ近づく。

 前足をかける。

 胸がどきどきする。

 外は怖い。

 でも、足が動いていた。

 戻ろうと思った瞬間、遠くで雷が鳴った。

 バリッ――という音に、ハルは飛び上がった。

 気づけば身体が前へ出ていた。

 ベランダ。

 濡れた床。

 冷たい風。

 ハルは立ち尽くす。

 部屋へ戻ろうとして振り返る。

 開いた窓が、どこかわからなくなっていた。

 黒猫たちはもういない。


     *


 夜になった。

 雨が降り始める。

 ハルは知らない駐車場の隅で身体を縮めていた。

 車が通るたび、光が地面を流れる。

 怖い。

 寒い。

 帰りたい。

 でも、帰り道がわからない。

 遠くで犬が吠えた。

 ハルは咄嗟に走り出す。

 水たまり。

 濡れたタイヤ。

 知らない塀。

 どこも知らない場所だった。


     *


「ハル!」「ハル――!」

 澪はスマートフォンのライトを片手に、何度も名前を呼んでいた。

 雨に濡れた髪が頬に張り付く。

 雨に弱いことも、知らない場所でどれだけ怖がるかも、澪は知っていた。

 きっと耳を伏せて、どこかの隅で身体を丸めている。

 ソファの下に隠れるときみたいに。

 猫がよく通る植え込みの前で、澪は立ち止まった。

 ポケットからおやつの袋を取り出して、何度も鳴らした。

 玄関では、ユノのランプが静かに明滅している。

「首輪センサーの反応を検出」「現在位置を推定中です」

 ユノの声だけが落ち着いていて、それが逆に胸に刺さった。

 澪は唇を噛む。

「お願い……見つけて……」


     *


 ハルは小さな公園へ迷い込んでいた。

 雨は弱くなっていたが、毛はすっかり濡れている。

 街灯の下で、ハルは震えながらうずくまる。

 その時。

『ハルさん』

 声がした。

 ハルの耳が跳ねる。

 街灯のスピーカーから、ユノの声が流れていた。

『現在位置を確認しました』『そのまま動かないでください』

 ハルは目を丸くする。

 声を知っていた。

 家の音だ。

 少し離れた道路から、小さな配送ロボットがやって来る。

 白い丸い機体。

 青いランプ。

『安全な経路を案内します』

 ロボットはゆっくり進み始めた。

 ハルは動かない。

 怖い。

 けれど。

『澪さんが向かっています』

 その声を聞いた瞬間、ハルは小さく鳴いた。

「……ニャ」

 ロボットが止まり、少しだけ待つ。

 それからまた進む。

 ハルは距離を空けたまま、その後ろを歩き始めた。

 知らない夜道。

 濡れたアスファルト。

 車の音。

 全部怖かった。

 でも。

 あの声だけは知っている。

『右側から車両が接近しています』『停止してください』

 ハルはぴたりと止まる。

 車が通り過ぎる。

 再びロボットが進む。

 曲がり角を抜けた、その先で――

「ハル!!」

 澪の声。

 ハルは弾かれたように駆け出した。

 濡れた腕に抱き上げられる。

「よかった……っ」

 澪の声が震えていた。

 ハルは胸に顔を押しつける。

 知っている匂い。

 知っている鼓動。

 ようやく、身体の震えが収まってきた。


     *


 その夜。

 ハルは毛布にくるまりながら、机の上を見上げていた。

 ユノの青いランプが静かに光っている。

「ハルさん」

 ユノが言う。

「おかえりなさい」

 その声も、もう家の音だった。

 ハルはゆっくり目を細めた。

 あの黒猫には、帰る場所があるのだろうか。

 そんなことを、ぼんやりと思った。

 ユノには、撫でる手がない。

 温かい身体もない。

 けれど。

 帰る場所を覚えていてくれる声だった。

 窓の外では、まだ雨が降っている。

 ハルは喉を小さく鳴らし、そのまま眠りについた。

お読みいただきありがとうございました。

匂いも温度も持たないAIが、それでも「帰る場所」の一部になれるとしたら。

そんな問いから書き始めた話です。

ユノがハルに言った「おかえりなさい」が、書いていて一番好きな一文でした。

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