【短編005】 帰る場所
声には匂いがない。温かさもない。
それでも、毎日聞いていれば「家の音」になる。
そんなことを思いながら書いた短編です。
猫と、AIと、雨の夜。どうぞよろしくお願いします。
ハルは、外の世界を知らなかった。
三歳になる雌猫で、毛並みは淡い灰色。耳の先だけ少し白い。
窓辺で日向ぼっこをするのは好きだったけれど、窓が開いていても、自分から外へ出たことはない。
玄関の向こうは、怖い場所だった。
宅配便の足音。
バイクの音。
エレベーターが開く金属音。
そういうものが聞こえるたび、ハルはソファの下へ隠れた。
「ほんとに慎重派だねえ」
飼い主の澪は、苦笑しながらハルの背中を撫でる。
机の上には、小さな白い球体が置かれていた。
家庭用AIアシスタントの「ユノ」。
「本日の気温は二十三度です」「午後から降雨の可能性があります」「ハルさんの首輪センサー、正常です」
やわらかな声が部屋に流れる。
ハルは最初、この声が苦手だった。
匂いがない。
足音もしない。
なのに、話す。
不気味だった。
けれどユノは、決して大きな音を出さなかった。
「掃除機を起動します。ご注意ください」「澪さんは十九時に帰宅予定です」「ハルさん、おやつの時間ですね」
毎日聞いているうちに、その声は冷蔵庫の駆動音や、時計の針の音みたいに、「家の音」になっていった。
*
その日は、雨の匂いがした。
澪はベランダで洗濯物を取り込みながら、窓を少し開けたままにしていた。
湿った風がカーテンを揺らす。
ハルは窓辺で目を細める。
その時だった。
カシャン。
手すりが小さく鳴った。
ハルの耳がぴくりと動く。
黒猫がいた。
痩せた身体。
片耳が裂けている。
その後ろには茶トラ。
黒猫はハルを見ると、低く鳴いた。
「ナァ」
ハルは動けない。
黒猫は手すりの上を二歩歩き、振り返る。
黄色い目。
傷だらけなのに、堂々としていた。
雨の中でも、平然と。
茶トラは退屈そうに欠伸をすると、外階段へ飛び移った。
黒猫も続く。
途中でまた振り返る。
「ォア」
短い声。
急かすようにも聞こえた。
その音が、まだ耳の奥に残っていた。
風が吹く。
知らない匂いがした。
雨の匂い。
濡れた鉄。
遠い土。
ハルは窓辺へ近づく。
前足をかける。
胸がどきどきする。
外は怖い。
でも、足が動いていた。
戻ろうと思った瞬間、遠くで雷が鳴った。
バリッ――という音に、ハルは飛び上がった。
気づけば身体が前へ出ていた。
ベランダ。
濡れた床。
冷たい風。
ハルは立ち尽くす。
部屋へ戻ろうとして振り返る。
開いた窓が、どこかわからなくなっていた。
黒猫たちはもういない。
*
夜になった。
雨が降り始める。
ハルは知らない駐車場の隅で身体を縮めていた。
車が通るたび、光が地面を流れる。
怖い。
寒い。
帰りたい。
でも、帰り道がわからない。
遠くで犬が吠えた。
ハルは咄嗟に走り出す。
水たまり。
濡れたタイヤ。
知らない塀。
どこも知らない場所だった。
*
「ハル!」「ハル――!」
澪はスマートフォンのライトを片手に、何度も名前を呼んでいた。
雨に濡れた髪が頬に張り付く。
雨に弱いことも、知らない場所でどれだけ怖がるかも、澪は知っていた。
きっと耳を伏せて、どこかの隅で身体を丸めている。
ソファの下に隠れるときみたいに。
猫がよく通る植え込みの前で、澪は立ち止まった。
ポケットからおやつの袋を取り出して、何度も鳴らした。
玄関では、ユノのランプが静かに明滅している。
「首輪センサーの反応を検出」「現在位置を推定中です」
ユノの声だけが落ち着いていて、それが逆に胸に刺さった。
澪は唇を噛む。
「お願い……見つけて……」
*
ハルは小さな公園へ迷い込んでいた。
雨は弱くなっていたが、毛はすっかり濡れている。
街灯の下で、ハルは震えながらうずくまる。
その時。
『ハルさん』
声がした。
ハルの耳が跳ねる。
街灯のスピーカーから、ユノの声が流れていた。
『現在位置を確認しました』『そのまま動かないでください』
ハルは目を丸くする。
声を知っていた。
家の音だ。
少し離れた道路から、小さな配送ロボットがやって来る。
白い丸い機体。
青いランプ。
『安全な経路を案内します』
ロボットはゆっくり進み始めた。
ハルは動かない。
怖い。
けれど。
『澪さんが向かっています』
その声を聞いた瞬間、ハルは小さく鳴いた。
「……ニャ」
ロボットが止まり、少しだけ待つ。
それからまた進む。
ハルは距離を空けたまま、その後ろを歩き始めた。
知らない夜道。
濡れたアスファルト。
車の音。
全部怖かった。
でも。
あの声だけは知っている。
『右側から車両が接近しています』『停止してください』
ハルはぴたりと止まる。
車が通り過ぎる。
再びロボットが進む。
曲がり角を抜けた、その先で――
「ハル!!」
澪の声。
ハルは弾かれたように駆け出した。
濡れた腕に抱き上げられる。
「よかった……っ」
澪の声が震えていた。
ハルは胸に顔を押しつける。
知っている匂い。
知っている鼓動。
ようやく、身体の震えが収まってきた。
*
その夜。
ハルは毛布にくるまりながら、机の上を見上げていた。
ユノの青いランプが静かに光っている。
「ハルさん」
ユノが言う。
「おかえりなさい」
その声も、もう家の音だった。
ハルはゆっくり目を細めた。
あの黒猫には、帰る場所があるのだろうか。
そんなことを、ぼんやりと思った。
ユノには、撫でる手がない。
温かい身体もない。
けれど。
帰る場所を覚えていてくれる声だった。
窓の外では、まだ雨が降っている。
ハルは喉を小さく鳴らし、そのまま眠りについた。
お読みいただきありがとうございました。
匂いも温度も持たないAIが、それでも「帰る場所」の一部になれるとしたら。
そんな問いから書き始めた話です。
ユノがハルに言った「おかえりなさい」が、書いていて一番好きな一文でした。




