切符を無くした、車掌さんがとても怖い
久しぶりに電車に乗った。めったに遠出しないから、切符を買うのだってソワソワした。駅で缶ジュースを買ったら財布の中が空になってしまったが、往復切符だから全く問題ない。
何気なくポケットの中から切符を出そうとしたが、ここで違和感があった。どれだけ指を入れてもプラスチックのツルツルとした、あの角ばった感触がない。どうやら切符を失くしてしまったようだ。
じわり、と汗と不安が湧いて出る。
素知らぬ顔で手を組み、窓を眺める。そうしなくてはならない。誰にも気付かれてはいけない。もし、ここで車掌さんが来たらお金を払えず無賃乗車をしていることになってしまう。それだけはなんとしても防がなくてはならない。
それだけではない、駅に着くまでに見つけ出さなければ改札を通ることもできないし、帰りは徒歩移動しなくてはならない。さらには、犯罪者のレッテルを張られてしまうかもしれない。これは致命的だ。無賃乗車の汚名を雪ぐのに、一体どれほどの月日がかかる?
現在、自分は車掌席に通じる方向のドアから最も遠い位置に座っている。しかし、それがかえって自分の致命的瞬間を目の当たりにする準備のように思えてならない。あのドアが開く瞬間というのは、例えるなら病院で注射針を刺されるコンマ一秒前のようなものだ。確実な痛みが待っている。
ただ、車掌さんが来るかどうかは分からない。来ない時だってあるではないか。駅に着くまでしばらくかかるのだから、ゆっくり落ち着いて探せば十分間に合う。
窓の外を緩慢に過ぎる新緑の山野は、午前の光を緑に反射することで絶対的な安心を抱かせてくれる。これは生きるだけで曖昧な不安を感じるとされる現代人にとってかけがえのないものだ。
ガラス越しの滑らかな日差しが座席シートを炙り、よく干した洗濯物の匂いがする。車内は自分の逆立った髪を柔らかく下ろす材料ばかりだ。何故か子どもの頃を思い出していた。
ふと思い付いた、肩の力が抜けたからだろう。左ポケットに入れている財布の中に入れたのではないかという考えだ。
まさか財布を入れて窮屈なポケットに大事な切符を詰め込むことなんてないだろうと、そもそも探すこともしていなかったが、右ポケットに無いなら左ポケットにあると考えるのは最も妥当なところだ。
財布を取り出して中を確認すると、紙切れのようなものがあった。それを見た途端、脳みそ全ての記憶が結合し、財布の中に切符を入れていたのだというカバーストーリーが次から次へと作成された。瞬きする頃には、安心と納得が体を満たす。
よかった、これで大丈夫だと手に取る。近所のスーパーでもらったレシートであった。カバーストーリーは一瞬にして消滅した。安心はそれ以上の緊張へと導いたようだった。
引き戸がガラガラと音を立てた。その瞬間、心臓が大きく跳ねた。
「切符拝見します」
来てしまった。電車の端に座っている人から順に切符を確認している。もう間もなく来る。しかも、あの車掌さんは顔が非常に恐ろしい。街を歩けば会う人全員に目をそらされそうな顔だ。
ポケットをいじくりまわしたり、尻の下に敷いていないかを、わたわたと忙しなく探ったが見つからない。この間も常に窓を眺めたり、あくびをしたりしながら、あくまで自然な風を装っている。これは最後の抵抗だということは嫌というほど分かっているから、なるべくそうだと意識しないように。
車掌さんがすぐそばに来ていた。結局、切符は見つからなかった。どうやら年貢の納め時のようだ。収める金は一切無いが。
「お客さん」
「すみませんでした!」
「切符、落とされてますよ」
「え?」
車掌さんの手を見ると、改札に通して穴が開いた切符が差し出されていた。
「お客さんの切符ですよね、足元に落ちてましたよ。ご乗車ありがとうございます」
車掌さんはそのまま、次のお客さんの切符を確認していた。
ポカンとしたまま考える。もしかしたら、周りに気取られることを恐れるあまり、上手く足元を見れていなかったのか?だからすぐそこにある切符に気付かなかった?
しばらく車掌さんの背中を見つめた後、思わず叫んだ。
「なんだよもー!」
「お客さんお静かに」
電車がガタンと大きく揺れた。その拍子に頭を窓に強打したが、外に見える山の緑は涙が出るほど美しかった。決してたんこぶを作ったからではない。




