明智五右衛門vs古舘任一郎『クロトカゲ』
元華族である黒椿久光の邸宅に、あまりにも凡庸で、それでいて不気味な犯行予告が届いた。
―4月1日 貴方の家のお嬢様を連れ去ります
赤蜥蜴―
『連れ去ります』の一文が、誘拐なのか、ロマンチックな駆け落ちなのか、久光には判断がつかなかった。
しかし、念には念を入れ、彼は都内でも名だたる私立探偵、明智五右衛門を雇った。
その端正な顔立ちと、常にどこか憂いを帯びた瞳を持つ明智は、黒椿邸の玄関ホールに静かに立っていた。
夜もとっぷりと更け、何の問題も起こらない。何事もなく終わる。そう一同が安堵し始めた、その時だった。
メイドの一人が久光の元に駆け寄る。
「華枯お嬢様の姿がどこにもありません!」
「なんだって!」
連れ去られたのは、高音の妹であり、世間一般には「高音の出涸らし茶」とまで言われる、ややふくよかで地味な次女、華枯だった。
誘拐となれば刑事事件である。
お馴染みのお洒落な自転車に乗って、あのテーマ曲を自ら鼻歌で歌いながら、ライトを煌々と浴びて彼が登場した。
「どうもどうも古舘です!」
自転車を駐車場の片隅に停め、黒椿邸に現れたのは、警視庁刑事部捜査一課の古舘任一郎警部補であった。
「あれ、古舘さんが担当するのですか?古舘さんは殺し専門だとばかり…」
現場に先に到着していた大林刑事が、手帳から目を離さずに言った。
「ん~。犯人の『完全犯罪』の謎を尋問で崩すというのが私の見せ場だからね。今回はそれがないので…地味になりそうだ。ところで、犯人から何か要求はあったの?」
大林警部は手帳を開きながら答える。
「それが全く。誘拐にしては何の要求もないそうです」
その時、ヒステリックな声が響いた。
「だから…これは妹の自作自演ですわ!」
長女の高音は、まるで自分こそが誘拐されるべき主人公であるかのように胸を張り、古舘警部補に訴えかけた。
「高音、よしなさい!」久光がたしなめる。
「だって!あの福笑いみたいな華枯、痩せる気が全くない華枯、何をやってものろまな亀の華枯。どうしてあの子を誘拐する?昔から誘拐されるヒロインと言ったら高値の華と相場が決まってますわ、ですわよねお母様!」
「高音さん…私を巻きこまないで…。『悪役親子』とかいう新ジャンルの主役なんて御免ですわ…」
「まぁ…お母様…今更良い人ぶらないで…それとも何かしら…寿命が近くなって…善人になるっていうあれかしら?」
古舘は頭を押さえるポーズをしながら、明智に囁いた。
「やれやれ…これはとんでもない喜劇になりそうだ」
明智は静かに煙草に火を点け、紫煙をくゆらせた。
何時間経っても手がかりすら見つからない。犯人からの接触もない。皆に焦りが見え始めた、その時だった。
「お腹が空いたわ…何か軽くつまめる物はないの?」
まるで高級ビュッフェの空席を尋ねるかのような、あまりにもマイペースな次女・華枯の登場に、一同は呆然自失。
「ほらごらんなさい、やっぱり自作自演じゃない!」
高音は満面の笑みで勝ち誇る。
「ジサクジェン?何のこと、ジサクジェンとかいう食べ物でもあるの?ねぇ、ずるいわ、皆で食べてたの」
『自作自演』を新しいフランス菓子と勘違いする華枯の能天気な返答に、高音の顔はさらに赤くなる。
その瞬間、久光のスマホが、この場の空気を切り裂くように鳴り響いた。
「貴方の家のお嬢様を頂戴致しました」
機械的で抑揚のない声。しかし、その内容が、華枯の存在と真っ向から矛盾する。
「…頂戴いたしました?」久光は完全にフリーズ。
「おい、どういうことだ。華枯嬢はここにいる。お嬢様はもう他にいないはずだ!」
大林警部が声を荒らげる。その横で、古舘は腕組みをし、明智は紫煙を静かにくゆらせた。
「やれやれ…私の出番はなさそうだと思ったら、今度はコメディ・ミステリーをやらされる羽目になるとはねぇ」と、古舘は天を仰ぐ。
「そういえば…」
明智五右衛門が、静かに口を開いた。紫煙は、まるで考える糸のように立ち上る。
「黒椿様。貴方のご家庭には、『お嬢様』と呼ばれている、もう一人のご家族がいらっしゃいましたね?」
「え…?」久光の頭の中に、電撃が走った。彼は、まるで懺悔するかのように、か細い声で答えた。
「ああ…そういえば。あの子は、妻の麗華が溺愛して、『黒椿家の箱入り娘、お嬢様』と呼んでいまして…」
全員の視線が、久光が指さした方向、つまり、いつも猫が陣取っているはずの、玄関横のアンティークチェアへと向かう。
そこは、もぬけの殻だった。
「黒と影!あの子がいない!!」
久光の妻、麗華がヒステリックな絶叫を上げた。「黒と影」とは、黒い毛並みに、影のように真っ白な胸毛を持つ、愛猫の名前である。
「…つまり、犯人が連れ去ったのは、猫、だと?」
大林警部は手帳に「誘拐されたお嬢様(猫)」と書き込もうとして、ペンが止まった。
華枯が「つまめる物」を探しにいったはずのキッチンから、一人の青年が戻ってきた。彼は黒椿家の家庭教師である。
「ところで、黒椿様、ご一同様」
家庭教師は、満面の笑みを浮かべた。
「『黒と影』は、私が頂戴いたしました」
そして、彼はワイシャツの袖をまくった。
そこには、異様なほどにリアルな、深紅のトカゲの刺青があった。
「赤蜥蜴…」明智が呟く。
「ええ。『赤蜥蜴』です。私、黒猫が世界で一番好きなんです。あのコントラストの美しさには、もう耐えられなかった。こんな凡庸な家に置いておくには、あまりにも美しすぎる!」
古舘警部補が尋ねる。
「つまり…あなたは、猫好きが高じて、犯行予告を出し、お嬢様(猫)を連れ去った…と?」
「ええ。」
家庭教師――いや、彼は自らを『赤蜥蜴』と名乗り直した――は、胸を張ったまま宣言した。
「黒と影は、私が心ゆくまで愛でます!いえ、愛で尽くしますとも!」
その横で、麗華の顔色は見る見るうちに青ざめていく。
「いやぁあああ!うちの箱入りお嬢様を返しなさい!あの子は毎朝、私のドレッサーの前で一緒に毛づくろいする相手なのよ!あなたなんかのところに行ったら――毛並みが乱れるでしょうがぁ!」
「そこですか奥様!?」
大林警部が思わずツッコむ。
古舘は、額を押さえたまま深くため息をついた。
「いやぁ…これは誘拐なのかな?窃盗なのかな?そもそも『完全犯罪』を崩す隙がない事件って、やはり私の出番はなかった」
明智は、静かに煙草の灰を落としながら言った。
「古舘警部補。とりあえず逮捕してはいかがでしょう。罪状は……そうですね……『猫泥棒の美学的誤算』あたりで」
「いや、そんな罪状ないよ明智くん!」
だが、赤蜥蜴はまったく怯まない。
「どうぞ私を捕まえてください!しかし――あの猫だけは返さない!」
そこへ、まるで演劇のラストシーンのように、黒椿邸の奥から声が響いた。
「にゃぁぁあああんッ!」
扉をすり抜けて、黒と影が戻ってきた。
後ろには――華枯が、猫用の煮干しをポリポリつまみながらついてきていた。
「この子、勝手に私の寝室に入ってきたから……ほら、煮干しでつって戻してきたのだけれど?」
赤蜥蜴、崩れ落ちる。
「な……なぜ……!私の愛ではなく、煮干しごときになびくなんて……!」
華枯は、ぽつりと言った。
「煮干しごときって失礼よ。煮干しは尊いのよ……?」
なぜか明智が深く頷いた。
「確かに。料理の基本ですからね」
古舘は天を仰ぎ、スーーッと深呼吸をした。
「えー……じゃあ何?誘拐犯が猫を盗み、猫は煮干しで帰宅し、私は二時間もここでコメディ観劇してただけってこと?」
「ふふふ……まさに『完全犯罪崩壊』ですね古舘さん」と、明智がくゆらせた紫煙を指先で弾く。
「待ちなさい……!まだ私の計画は終わっていない!」
警察が身構える。
赤蜥蜴は、ポケットから小さな紙切れを取り出し、それを高々と掲げた。
「第2の犯行予告です!ここにいる『もう一人のお嬢様』を――私は必ず頂戴しに参る!!」
赤蜥蜴は高らかに宣言し、その紙切れを警官たちの目の前に突きつけた。
古舘は、もはやため息をつくエネルギーも残っていなかった。ただ、半目になりながら尋ねる。
「あの……『もう一人のお嬢様』って、誰のことですか?まさか、また猫じゃあないでしょうね」
赤蜥蜴は、自信満々の笑みを浮かべ、館内を見渡した。
「ふふふ……私が愛でずにはいられない、美しきオブジェ。この屋敷の『高値の華』ですよ!」
次の瞬間、彼の視線が、華枯の持つ煮干しの袋を凝視している人物に固定された。
「貴方を、頂戴いたします!」
赤蜥蜴が指差した先――それは、先ほどから煮干しにやけに反応し、ときおり猫のように「クンクン」と鼻を鳴らしていた、明智五右衛門であった。
「え?」明智は、くゆらせていた紫煙を、思わず吹き出した。
「な、何を馬鹿な!明智五右衛門はお嬢様ではないぞ!」
大林警部が声を上げる。
しかし、赤蜥蜴の目は、狂信的な光を放っていた。
「いいえ!その端正な顔立ち、常に憂いを帯びた瞳、そしてその紫煙をくゆらせる仕草!ああ、なんて詩的で退廃的な美しさ!彼は人間ではない!この黒椿邸で最も蠱惑的な美術品に違いない!」
赤蜥蜴は恍惚とした表情で続け
た。
「この完璧な『黒い椿』のような貴方こそが、私『赤蜥蜴』としての真のアート活動の完成系!私は貴方を探偵業から解放し、心ゆくまで愛で尽くします!」
「ちょっと待ちなさい。私は人間で、煮干しも嫌いではありませんが、誘拐されるのはご免です。そしてBLの趣味もありません!」
明智は、初めて口調に焦りの色を滲ませた。
古舘警部補が、ついに我慢の限界を超えた。彼は異様にハイテンションなジェスチャーで、赤蜥蜴に詰め寄った。
「あなた、この探偵を、この家の『もう一人のお嬢様』だと断定する根拠は何なんですか!?」
赤蜥蜴は、ポケットから取り出した第二の犯行予告の紙を、古舘警部補の鼻先に叩きつけた。
「フン。これを見ればわかるでしょう!私の予告状に、嘘偽りなど一切ない!!」
古舘警部補が、紙切れに書かれた稚拙な文字を読み上げる。
4月1日 貴方の家のお嬢様を連れ去ります
赤蜥蜴
「……これ、さっきのと同じですよ。どこに『もう一人のお嬢様』のヒントが?」
赤蜥蜴は、勝ち誇ったように古舘警部補の背後、黒椿邸の壁に掛かっているカレンダーを指さした。
「よく見なさい警部補。今日は何日だ!」
古舘警部補は、カレンダーを見た。そこには大きく「4月1日」と書かれている。
「だから、今日はエイプリルフールでしょうが!」
古舘警部補は、今度こそ天を仰いだ。
赤蜥蜴は、静かに、そして美学的に微笑んだ。
「その通り。エイプリルフールです。つまり――」
彼は、両手を広げ、演劇のカーテンコールのように締めくくった。
「私の犯行予告は、全て嘘!華枯嬢の誘拐も、黒と影の誘拐も、そして今、明智探偵を『お嬢様』と断定したことも、全てが『壮大なエイプリルフールの嘘』だったのです!」
一同、呆然。大林警部は手帳に「犯人の動機:エイプリルフール」と書き込み、ペンをへし折った。
明智五右衛門は、顔の前で立ち上る紫煙を、指先で静かに弾いた。哲学者然とした面持ちで、静かに呟いた。
「……やれやれ。エイプリルフールというのは、作家(ふじの白雪)が嘘をついてまでオチを捻り出す日らしい」
黒と影(猫)が「にゃぁ」と鳴いて締めた。




