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Ⅴ.エデンの園 1


 翌日、藤花はアパートの自分の部屋で、窓枠にもたれていた。以前のように、ただ空を見上げて。


 太陽はようやく中天に達しようとしていた。今日も暑い午後が約束されたような天候だった。


 カンカンカン。


 階段の音が聞える。けれど、この部屋に来ると限らない。お隣の坂下さん(電器店勤務)か、そのまたお隣の宮沢さん(美大生)かもしれない。


 それとも新聞の勧誘か、公共放送の集金か。だったら断ってやる。新聞なんか読まないし、この部屋にはテレビなんてないのだから。


 戸口に人影が見える。見覚えのある顔だった。


「藤花さん、来ちゃいました」


 はにかんだ笑顔を見せる。


「プリンを焼いてみたんですけど」

「入んなよ、えみり」


 そう言われて、えみりは「お邪魔しまーす」と明るい声を上げて部屋に入ってきた。手には有名デパートの紙袋を提げていた。


「ケーキにしようかと思ったんですけど。暑いですし、冷たいものがいいかな、と」

「うん。ありがと」

「食べます?」

「後でもらうよ」


 えみりは首を傾げて藤花を見た。


「そうですか。なら、冷蔵庫に入れておきます」

「うん」


 えみりは持ってきた紙袋から白い箱を出して、そのまま冷蔵庫に入れた。


「ドライアイスが入ってますから、出すとき火傷なさらないように」

「うん」


 窓から空を見ながら気のない返事をする藤花を戸惑いの目で見つめて、


「あの」

「なに」

「お隣に座ってもいいですか」

「好きなところに座りな」

「はい、ではお言葉に甘えて」


 そう言うと、藤花と並んで窓枠を背にもたせかける。そして藤花のマネをして空を見上げた。


「なに」

「いえ」


 えみりも短く答える。


「藤花さんと同じものを見てみたくて」

「そう」


 そしてしばらくしてから、


「えみりには何が見えるの」

「そうですね。くじら」

「は?」

「それからあっちのは馬かな」

「えみり?」

「それであれは・・・マンドラゴラの根」

「何のこと」

「何って。雲の形じゃないですか」


 そう聞くと、藤花は脱力して笑い出した。


「想像力が豊かだね。メルヘン少女か」

「そういう藤花さんには何が見えるんですか」

「そう・・・だね」


 しばらく黙ってから、藤花は答えた。


「何もない空に、もやがかかっている。底の見えない深い青い穴が、ずっと宇宙まで続いている。きっと今に重力がなくなって、地上のものは何もかもが空に向かって落ちていくんだ」

「藤花さんこそ詩人じゃないですか」

「そうかな」

「ええ。あと、大作RPGのラストシーンみたいです。ほら、この間発売された」


 えみりの言うタイトルは藤花も聞いたことがあった。


「ふーん、そうなんだ」


 そんなことを言いながら、藤花は隣のえみりのふわふわの巻き毛を指先で弄んでいた。


「いつか、」


 ぽつりとえみりは言った。


「いつか、藤花さんの見ているものを見てみたいです」

「見なくていいよ」

「どうしてですか」

「こんなの見なくていい。あんたはあんたの見たいもの見ればいい」

「だから藤花さんの見ているものが見たいんですって」


 藤花はくすくす笑い、


「ほんと、変わってるね」


 藤花は空から地面に目を移した。庭には奈々がいて、おもちゃの如雨露で遊んでいた。


「奈々―」


 そう呼ぶと、奈々は二階の窓を見上げた。


「おいでー。プリンがあるよ」


 奈々は、しかしすぐに返事をしなかった。部屋にいるらしい紫子に何事か話している。何か言い含められた奈々は、しきりとうなずいている。


「奈々―?」

「あのねー、お母さんが行ってもいいか聞きなさいって」

「もちろんいいよ。あたしが言ってんだから。上がってきな」

「はーい。お母さん、いいって」


 奈々がアパートの建物の外をぐるりと回って、階段のある正面へ走って行くのを見送りながら、


「ああ、ごめん、あの子にもプリンご馳走していいわよね」

「もちろんです。六つありますから。藤花さんのお友達でしたらどなたでも」

「従妹なの」

「そうなんですか」


 やがて元気のいい足音が聞え、奈々が階段を上がってくるのが分かる。


「紹介してくださいますか」

「奈々に? 奈々を? いいけど」

「わたしのことは藤花さんの新しい恋人と」

「こらこら、奈々に変なこと吹き込まないの」


 そして戸口に現れた奈々に、


「上がったら手を洗いなよ」

「はーい」


 えみりはすっと立ち上がり、


「プリンを出しますね。スプーンはどこですか?」


 藤花に食器戸棚の引き出しの場所を聞いたえみりは、手を洗い終えた奈々とキッチンで行き会った。紹介してと言ったのに、えみりは自分から奈々に微笑みかけた。


「はじめまして奈々ちゃん。私はえみりっていうの。藤花さんの・・・お友達なの」

「はじめましてー」

「おりこうさんね。待ってて、いまプリンをあげるから」

「うん」


 奈々は、えみりが冷蔵庫から出して来た箱の中を背伸びして覗き込んだ。


「お姉ちゃんが作ったの。美味しいよ」

「プリンて作れるの!」

「もちろん」

「すごーい。あ、そうだ、ケーキとかも作れる?」

「作れるよ」

「すごい、すごい」


 ぴょんぴょん飛び跳ねながら、


「藤花お姉ちゃん、ケーキ作れるんだって」

「ほらほら奈々、邪魔しないの。こっちにおいで」

「奈々も手伝うー」


 えみりは微笑みながら、


「なら、このスプーンを持っていって。はい」

「うん! おっ手伝い、おっ手伝い」


 藤花はそんな従妹を見て微かに笑い、つかの間安らいだ。こんな時間はいつまでも続かないのではないか。そう自覚しながら。



 瑞希は真珠子の自宅にいた。


 真珠子の部屋はおよそ年頃の少女の部屋には見えなかった。三方の壁にはどっしりした木製の本棚が置かれ(種類はさまざまで、皮表紙の英語の本もかなりあった)、ほとんど本の壁と化していた。


 のみならず、その前には平置きされた本が幾つもの塔になっている。それはさながら本の山脈のようだった。床の上にも本が散乱しており、足の踏み場も無い。


 窓際には机とベッドがあったが、机の上といわずベッドの上にまで雑誌や本が置かれていた。机の上の本の山にノートパソコンが閉じた状態で立てかけてあった。使うときは膝の上に置くのだそうだ。


 真珠子は机の前の椅子に座り、瑞希はどうにか一人分の床面を確保して、本の山脈の間に腰を下ろしていた。真珠子は「本の上に座ってもいいよ」と言っていたけれど、それはさすがに遠慮した。


「すごい部屋だね」

「まあね。もとはお祖父ちゃんの書斎だったの。本の半分くらいはお祖父ちゃんのなの」


 と、本棚の一角を指差す。


 そこには小さな写真立てが飾られていた。額縁の中で笑っているのは髭を生やした老紳士だった。


「わたしが中一の時に亡くなったんだけどね。大学の教授だったの。なんでも知ってる大好きなお祖父ちゃんだった」


 誇らしげにそう語る真珠子を見て、瑞希はおぼろげながら彼女の普段の言動の背後に隠された思いを理解した。彼女が『知ること』『考えること』を求めて止まないのは、学究の徒だった祖父の影響だったのだろうと思ったのだ。


 だが、瑞希はそんな話をするためにここに来たのではなかった。


「リコの話、本当なの」

「もちろん」

「いったいどこからの情報なの、それ」

「企業秘密。まあ、教職員にも私の協力者(シンパ)がいる、と思って頂戴」


 奈々の誘拐未遂(?)事件は大事にはならなかった。リコも書類送検すらされない見込みだという。学校側も不問に付すのだという。


 真珠子からメールでそのことを知らされた瑞希は、こうして彼女の部屋にやって来たのだった。「あの部室に棲んでいたんじゃなかったのか」と思いながら。もっとも、『棲んで』いる、という意味ではまさしく真珠子はこの部屋に『棲んで』いるのだ。この、本の山で出来た巣穴に。


「さて、これはなかなかに予想外だったな」


 平然としている真珠子に、


「ちょっと、他人事みたいに言わないでよ」


 と抗議する。


「これも《リリカルダメージ症候群(シンドローム)》だなんていわないでよね」

「その一症例だと思ってる」

「なんですって」

「《バタフライ効果(エフェクト)》って聞いたことない?」


 首を横に振る瑞希に、


「北京で蝶が羽ばたくと、その気流の乱れがまわりまわってニューヨークの嵐になる、というヤツ」

「まさか。そんなこと」

「ま、理屈の上での話しだけどね。私が言ってる《リリカルダメージ症候群(シンドローム)》というのは、人間の情動に関わる相互の影響とその結果、ということなの。それを病気になぞらえて言っているの」

「訳が分からないんだけど」

「ふふん。いつかゆっくり教えてあげる。そうだ、今度うちに泊まりに来なさい。一晩みっちりレクチャーしてあげる」

「勘弁してよ」


 瑞希はげっそりしてそう答えた。この部屋のどこにもうひとりを泊める余地があるというのか。その視線に気づいた真珠子は、


「安心なさい、客間くらいあるから。それとも私のベッドで一緒に寝る?」

「ぜったい嫌」

「あら残念」


 少しも残念そうな様子を見せず、真珠子は続けた。


「ま、つまりそういうこと。森羅万象はすべからく連鎖し、関連し、関係しているの。神のドミノ倒しね、要するに」

「またそんなことを」


 しかし、瑞希はあることに気づいた。


「ちょっと待ってよ。それじゃ私が藤花先輩を怒らせたことが原因だとでも言いたいの」

「たぶんね」

「たぶん、て」

「怒って飛び出した先輩から電話があった。しかも見知らぬ番号のケータイから。たぶん飛び出した先で出会った“誰か”から借りたのね。そして、その後で滅多に外出しない先輩が“誰か”に会うために外出し、しかもドアに鍵をかけていった。いつもの外出ならドアは開けっ放しなんでしょう?」

「ええ」

「たぶん遠出していたんでしょう。“誰”かに会うためにね。そして、ドアが閉まっていたから、岩崎さんは部屋で待つことが出来ず、階下に降りた。そして大家さんの娘と会い、公園に連れて行くことになった。そこには“誰か”つまり“人物X”の介在があるの。まあ同一人物とは限らないんだけど」

「“X”って何のこと」

「だから、その“X”との出会いのきっかけとなったのがあなたのパーティーなのでしょ」


 瑞希は色をなして、


「そんな。屁理屈じゃない。しかも想像含みの」

「確かな話しじゃない。でもそれが何? 症例として確認できるなら臨床的に対処可能なの」

「また分からないことを言う」


 瑞希は頭をふり、


「それじゃあこれから私はどうすればいいの。どうすれば彼女たちを救えるの」

「救う、ですって」


 真珠子は目を光らせていった。


「あなたは何か勘違いしていない? 自分の活躍で彼女たちを救えるとでも? あなたは彼女たちの運命をどうにか出来るとでも本当に思っているの? いえ、言い方を変えましょう。あなたは運命の役割をしたいの? だとしたらそれは傲慢というものだよ」

「さんざん人を焚きつけておいて」

「神ならぬ人の身で出来ることなんて限られている。だからこそ人はベストを尽くすの」

「私にどうしろって言うの」

「どうすれば救えるか、ではないの」


 真珠子はまるで託宣のように厳かに言った。


「自分に何ができるか、それをお考えなさい。その結果がどうなるかは、神のご意思なの。神の御手はあなたを通して彼女たちに触れる。あなた自身が神になる必要はないの」


 瑞希はやや気おされて、


「真珠子ってクリスチャンだったっけ」

「いいえ。でも無神論者でもないの」


 そしてまたしても年頃の娘とは思えない不敵な笑みを見せる。


 ややして瑞希は言った。


「・・・先輩の所に行くよ」

「ふうん。行ってどうするの」

「わからない。わからないけど、行きたいの。あの懐かしい感じのする先輩の部屋に。きっとこんなむさくるしい部屋で、あんたなんかの顔を見ていたせいだと思う」

「失礼だな、君は」

「悪かったわね」

「ふん。つまりあなたは直感に従うと?」

「なに、非合理だとでもいいたいの」

「いいえ」


 真珠子は目を細め、


「理性と知性だけでは解決できない問題もあるの。理非を絶したところに真実はあるのかもしれない。いい判断だと思う」

「また訳のわからないことを」


 そうつぶやき、瑞希は立ち上がって真珠子の部屋を辞した。



 白いセダンが《にしき荘》の前に停まった。


 リコは母親に促され、後部座席から降りた。手には高級デパートの紙袋を持たされていた。両親が降りて来るまでのわずかな時間、二階を見上げ藤花の部屋をうかがう。ドアは開いているようだった。


 それでは先輩はいるのだ。そう思うと落ちつかなかった。


「さ。リコ」


 父親に呼ばれて一○一号室の前に立つ。緊張気味の父親がドアベルを鳴らして、「ごめんください」と声をかける。


「はーい」


 中から返事があり、ドアが開いた。


「どちらさま・・・あら、リコちゃん」


 にっこりと笑う。その笑顔に岩崎親子は救われた気がした。


「はじめてお目にかかります。リコの父親です」

「母です」


 けれど両親は堅苦しく頭を下げた。


「この度はうちの娘がご迷惑を」

「まあまあ、そんな迷惑だなんて」


 紫子は普段と変わらない朗らかさで、


「立ち話もなんですから、どうぞお上がりください」

「は、では失礼します」


 部屋のつくりは二階の藤花の部屋と大差なかった。大きな違いは、奥の六畳間に大きなガラス戸と縁側があり、庭に出られるようになっていることだけだった。


 その六畳間に親子三人が正座して頭を下げる。謝罪の言葉に対して、紫子さんは大らかに笑って答えた。


「私の方こそ、うろたえて警察に電話してしまって、かえって申し訳なかったですわ。リコさんには以前にもうちの奈々と遊んでもらったことがあったのに。リコさんに悪気がないことは重々承知しておりますし」

「そう言っていただけると。ただ、かたちはどうあれ、娘の短慮が招いたことに変わりはありません。どうか」


 もう一度頭を下げようとする父親に、


「いえ、そんな。どうぞお気になさらずに。むしろ奈々を見ていていだいて感謝しなけれならないのはこちらですから」


 それまで黙っていたリコの母親が、


「本当に申し訳なく思っているんです。私ももし娘に万一のことがあったら、と我が身に置き換えて考えてみたのです。その身を裂くような辛さは、とても軽い罪とは申せません。本当に申し訳ございませんでした」


 そう言って深々と頭を下げる。リコもいたたまれない思いで頭を下げた。


 紫子はその様子を見ると、ぐっと膝を乗り出し、リコの母親の手を取って、


「どうぞ頭をお上げください。お気持ちは十分に」


 そしてリコを見て、


「リコさんもどうか。あなたが優しい、気立てのよい娘さんだということは見ていてわかります。だから、ね」

「ごめんなさい紫子さん、私は、私が」

「わかっていますよ。だからどうかお気になさらないで。あなたには藤花ちゃんのことでも感謝しているの。これからも是非いらして」

「はい」


 話が一段落すると、リコが持っていたお詫びの品(高級おかき)が、「お持たせで申し訳ないけど」と言いながら箱が開けられた。お茶を啜りながらのひと時は、和やかな雰囲気に包まれていた。


 話題は自然と奈々、そして藤花の身の上に及んだ。


「藤花さんは姪御さんなのだそうですね」


 そういうリコの母親に、


「ええ。姉の一人娘です。私は姉とは歳が離れていまして、藤花のことは姪というよりも妹のように思っていました。体を悪くして退学したのですけれど、自分を見つめ直すいい機会だからと一人暮らしをしています。たまたま上の部屋も空いていたものですから。

 あの子は奈々のことを妹のようにかわいがってくれています。ここでの生活はあの子にとってよい休養になっていると思いますわ。それにかわいい後輩の方も来てくれますし」


 そう言ってリコに笑いかける。


「今は娘さんは」

「ええ、上で藤花が見ていてくれています。あ、そうだリコさん、よろしければ上に行かれては? 奈々にも会って行って」

「え、でも」


 藤花先輩に会う心の準備が。


「大丈夫、奈々は今回のことは何も知りません。あの子も誰に似たのかアバウトな性格なの」


 くすくすと笑う。


「そうさせてもらいなさいよリコ」


 と母親にも言われ、リコは覚悟を決めた。


「はい、ではお言葉に甘えて失礼します」


 どんな顔で先輩に会えばいいのか。一晩考えても、その答えは出ていなかった。

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