Ⅳ.《にしき荘》狂騒曲 2
「奈々ちゃん」
今日はためらわずに塀越しに声をかける。
「だれ?」
「お姉ちゃんだよー」
「どこ?」
「ここだよー」
塀の穴から指だけ出してひらひらさせる。
「まって、今そっちに行くから」
そう答えて、小走りに塀を回り、アパートの正面から庭に入った。
「はい、こんにちは」
「あー、藤花お姉ちゃんのコーハイちゃんだ」
「リコだよ。覚えていてくれた?」
「うん。リコお姉ちゃん」
こいつ私の名前忘れてたな、と思いながら、リコは奈々の頭を撫でた。
「藤花先輩に会いにきたんだけど、いないんだね」
「うん。お出かけだって。きれーなお姉ちゃんと、おしゃれして」
「なにっ」
聞き捨てならない話だった。そんな、ライバルは奈々ちゃんだけじゃないの?
「きれいなお姉ちゃんて誰? 奈々ちゃん知ってる人?」
「しらなーい。はじめて見た」
私や奈々ちゃんの他に愛人(?)がいたなんて。リコは心中穏やかではなかった。むろん、本気で嫉妬していた訳ではないのだが。
「そっかー。それで奈々ちゃんは何してるの?」
「えっとねー、ダンゴムシ集めー」
「え」
「ダンゴムシ集めてねー、板の上で転がすの。ほら」
そう言って手に持った赤いおもちゃのバケツを見せる。なかには数十匹のダンゴムシが、あるものは丸まり、あるものは小さな足をワシャワシャ動かして這い回っていた。
「あう」
リコはバケツの中から慎重に視線を逸らして、
「た、楽しいの、それ」
「うん」
にっこりと笑う。もしやこの子は何か抑圧されたものがあるのでは、といらない心配をしてしまう。
「でもねー、ほんとはブランコしたいんだー」
「ブランコ?」
そうそう、そっちの方が健康的だ、たぶん。
「うん。藤花お姉ちゃんに連れてってもらおうと思ったのー。でもお出かけしちゃったから。お母さんは藤花お姉ちゃんと一緒じゃなきゃ公園行っちゃだめだって」
そうだ。
なら、先輩の代わりに、私がこの子と遊んで上げるんだ。先輩のように。先輩になって。
「そっかー。じゃあさ、お姉ちゃんと公園行く? 一緒にブランコ乗らない?」
奈々の顔にぱっと喜色が浮かぶ。
「ほんと? いいの?」
「もちろんいいよ。紫子さん・・・お母さんはいる?」
「うん」
言うなり駆け出していって、部屋の中に向かって大声で、
「おかーさーん、リコお姉ちゃんと公園行って来るー」
そしてまたリコの所に駆け戻ると、その手に掴まった。
「行こう、はやくはやく」
「うんうん、わかった。でも、その前にそれ逃がしてあげましょうね」
そういって赤いバケツを指差す。
「うん」
奈々は元気よく答えると、庭に向かってバケツを振った。数十匹のダンゴムシはまるで豆まきの豆のようにぱっと宙に舞った。リコはなるべくそちらを見ないようにして、奈々の手を引いて、
「さ、公園にいきましょう」
「うん!」
《にしき荘》からニブロックほどのところにある児童公園で、リコはブランコに乗ったリコを軽く押していた。もちろん落っこちないように慎重に、慎重に。奈々はきゃっきゃっと歓声を上げて喜んでいる。
けれど、夏の日差しは容赦なく照りつけていた。リコは自分だけでなく奈々も帽子を被っていないことにしばらくして気づいた。小さな子は体温調整機能が未発達だ、ということを何かで読んだ記憶があった。
「お姉ちゃん」
「ん、なに」
「のど渇いたー」
奈々がそう言ったのを潮に、リコはどこか日陰で休むことにした。近くのスーパーマーケットにドリンクスタンドがあったことを思い出す。
「じゃあジュース飲もうか」
「飲むー」
リコは奈々を連れて、スーパーの売り場の一角に設けられたバー形式のドリンクスタンドに行った。フルーツジュースを美味しそうに飲む奈々。リコはアイスティーを選んだ。冷房の効いた場所にいると、炎天下にはなかなか出て行きづらいものがある。
幸い、というべきか、このスーパーにはこども連れの買い物客のために、屋内に小さなプレイルームが用意されていた。フェルトの床には靴を脱いで上がるようになっており、中には小さなすべり台と、スポンジで出来た大きなブロックが置いてある。シンプルな施設だったが、奈々は大はしゃぎで、他のこども達と一緒になって走り回っていた。
リコは若い母親に混じって隅のベンチに腰掛け、元気な奈々を見ていた。他愛のないことで笑い転げたり、全身を使ってはしゃいでいるちいさな子を見ていると、なんだか胸に迫るものがあった。きっと、先輩もこんな風に奈々ちゃんと遊ぶことで癒されていたんだ、となんとなく理解する。
しばらく小さなこども達を見ていたリコだったが、はっと気がついて時計を見ると、すでに夕方になっていた。
(そういえば、前に紫子さんは夕食の時間は決まってるって言っていたような)
リコはスポンジ・ブロックで遊んでいる奈々に声をかけた。
「奈々ちゃーん、そろそろ帰ろー」
リコは奈々と手を繋いで歩いていた。
夕方になって、いくぶん気温は下がったようだった。家々の屋根の上にはオレンジ色に染まった大気が広がっている。子供の頃、遊び疲れて家路を辿った時のことを思い出す。夏の夕暮れにはどこか切ない思い出があった。
けれど奈々は元気いっぱいで、テレビのアニメの主題歌を歌っていた。その楽しそうな歌に、リコもなんだかうれしくなって歌い出したい気分だった。
角を曲がり、《にしき荘》が視界に入ってきた時だった。
アパートの前に赤色回転灯を光らせた白黒ツートンの自動車が止まっているのが見えた。
(え、警察)
リコは胸がドキリとした。
(何かあった?)
まっさきに思いついたのは藤花のことだった。まさか、まさか。
我知らず走り出す。けれど、手を繋いでいる奈々はそんなに早く走れない。しかたなく、はやる気持ちを抑えて歩幅を奈々に合わせる。
「あー、パトカーだー」
奈々は無邪気に笑いながら走っている。
アパートの正面に行くと、一階の川西親子の部屋の前に何人か立っているのが見えた。
リコは不安に押しつぶされそうになりながら、その場に駆け込んでいった。
「なにか、あったんですか」
そう声をかけると、いっせいにリコと奈々の方を向いた。若い男女の制服警官と、私服の刑事らしい中年男性、そして紫子と、ワンピース姿の藤花だった。
「奈々?」
紫子はそう言って娘を見た。
「お母さん、ただいまー」
リコは元気に答えた。
「あのねー、リコお姉ちゃんと公園で遊んだのー。あ、それでね、フルーツジュース飲んだの」
「そうなの、公園にいたの」
「うん。それでねぇ、セブン・マートでジュース飲んだの」
そして奈々は胸を張って、
「奈々、ちゃんと言えたよ? リコお姉ちゃんにジュースもらったって。奈々えらい?」
そんなことを言う娘に、紫子は、
「そう、えらいわ。リコさん、ありがとう」
「あ、いえ」
「さ、奈々、おうちに入りましょう。手を洗うの」
「はーい」
紫子に連れられてリコが部屋に入ると同時に、藤花がつかつかとリコに近づいてきた。
「先輩、」
何があったんですか、と言おうとしたリコの頬を、藤花は思い切り叩いた。
「えっ」
怒りに引きつった顔で藤花は言った。
「何のつもりなの! 奈々を勝手に連れ出すなんて!」
「え、あの」
「大騒ぎになっていたのよ。紫子さんがトイレに入っている間に、庭で遊んでいた奈々がいなくなったって」
リコは自分を見ている警察の三人と、アパートの前のパトカーを見た。ようやく何が起きたのかを理解した。
「あの、違うんです、これは」
「なにが違うの! あんたって子は」
「まあまあ」
私服の刑事らしい男が苦笑いで取り成した。
「大体の事情はわかりました。こちらの娘さんも悪気があったわけではないようですし」
リコは青くなって、なんとか誤解を解こうと説明しようとした。けれど、藤花の怒りに気おされてうまく言葉が出なかった。
「あのっ、私、私、」
それを遮って藤花は言った。
「お前はまたあたしから大事なひとを奪おうというの」
その言葉を聞いた瞬間、リコの膝から力が抜けた。その場にぺたんとお尻を落とす。
「私、私は」
刑事は藤花を手で制して、リコの前にしゃがみこんだ。温和な顔の小父さんだった。
「まあまあ、そう心配しなくてもいいですよ。事件性がないことは分かりましたし。ただ、ちょっと署まで来ていただけませんか。お話しを聞かせてください」
そして気遣わしげに、
「立てますか?」
と訊ねた。
「はい、あの、あれっ?」
リコは膝の力が抜けてしまい、自分では立つことができなかった。刑事は制服姿の女性警察官に命じた。
「君、ちょっと手を貸してあげて」
「はい」
女性警察官に支えられて、リコは何とか立つことが出来た。そのままパトカーの後部座席に乗せられる。
「後で川西夫人にもお話しを伺います。ですが、ご心配なく。書類上のことで済みますから。そうお伝え下さい」
刑事にそう言われて、藤花はうなずいた。けれど、その目はじっと後部座席のリコに向けられていた。
「先輩、あの、先輩」
パトカーの後部座席から、リコは藤花になんとか分かってもらおうと懸命に話しかけていた。だがパトカーはそのまま発車してアパートから遠ざかって行く。赤色回転灯も消えていたし、サイレンも鳴っていなかったけれど、リコの姿は護送中の犯人のように見えた。
その夜、リコは自分の部屋のベッドの上にいた。
頭からタオルケットを被って、枕に顔を埋めて。
そんな格好でいても暑くないのは、エアコンの設定温度をうんと低くしているからで、室内は寒いくらいだった。
(このまま冬眠しちゃいたい)
不可能なことは分かっていながら、リコはそんなことを考えていた。
あのあと、警察で事情を聞かれたリコは、つっかえつっかえでも説明することができた。刑事さんは親切だったし、制服姿のきれいな女性警察官がずっとそばにいてくれて、なにかと気を使ってくれたのもうれしかった。
最悪なのはその後で、迎えに来た両親と会ってからだった。母親は青ざめた顔で黙っているし、父親は激怒して、誤認逮捕じゃないのか、と刑事たちに喰ってかかっていた。
(いえいえ、別に犯罪というわけでは)
(逮捕とか補導というわけではないのです)
(ただ、最近は小さなこどもが犯罪に巻き込まれることが多いので、万一を考えてのことでして)
小一時間も話してから、ようやく警察署を出て、父親の運転する車で家へと帰る。道中、父親も母親も一言も口を利かなかった。ただ、後部座席に並んで座った母親は、娘の手をしっかりと握って、家に着くまで離さなかった。
車から降りると、リコは自分の部屋に閉じこもった。ドアを閉める前、両親のこんな会話が耳に入ってきた。
「とにかく、先方の家にも詫びにいかんとな」
「そうですね。事情はどうあれ、ご迷惑をおかけしたことに変わりは無いわけですし」
「まったく、嫌な時代だ。小さい子を遊ばせただけでこんな、」
「でもしかたないですわ。そういう世の中になってしまったのですから」
もちろん自分の不注意だ、とリコは思った。あの時、きちんと紫子さんに話せばよかった。姿が見えなくても、しばらく待てばトイレから出てきた紫子さんには会えたはずだった。きっと、奈々ちゃんが声をかけるのとトイレの水を流すのが同時だったんだ。ほんの十秒、時間がずれていたなら。
だが、それはいまさらどうしようもないことだった。
それよりもショックだったのは藤花のあの言葉だった。
「お前はまたあたしから大事なひとを奪おうというの」
私はまた同じことをしてしまったの?
先輩は私のことを許してくれないのだろう。その思いがリコの胸を抉り、新たな痛みをもたらした。
どうすれば許してもらえるだろう。私は何をすればいいのだろう。考えても考えても分からなかった。
トントン、とノックの音が聞えた。
リコは答えなかった。
「リコ、入るわよ」
母親の声が聞こえ、一拍置いてからドアが開いた。
「なにこれ」
母親は部屋の温度に気づいて、すぐさまエアコンを止め、窓を開いた。むしむしした夏の夜の空気がどっと侵入してくる。
「リコ、あなたね、いくらなんでも冷やしすぎよ。風邪をひいてしまうわ」
母親はベッドに腰掛けた。
「リコ。お父さんとも相談したのだけど、川西さんのお宅には明日お詫びに行こうと思うの」
黙っている娘に、しかし母親は辛抱強く言って聞かせた。
「あなたの言い分はわかるわ。ただ小さい子と遊んでいただけなのに、て思っているのね。
でもね、親にしてみたら、まだ小さなこどもが自分の目の届かない所に行ってしまう、というのはとても恐ろしいことなの。わたしだって、リコが急にどこかへ行ってしまったらすごく心配するわ。だから」
ちがうのお母さん。私がショックなのはそんなことじゃない。それは分かっているの。でも、お母さんは知らないでしょ。私と先輩と、あの人の関係を。
「リコ、聞いて。人は知らず知らずのうちに罪を犯してしまうことがあるの。気づいた時にはもう手遅れで、その気はなかったのに人を傷つけてしまうことが。でもね、リコ、ただひとつを除いて、罪は償うことができるのよ」
リコは顔を上げ、涙で汚れた顔を母親に向けた。
「ひとつを除いて?」
「そうよ。命だけは取り返しがつかない。それだけはどうにもならない。でも、それ以外なら。そうね、たとえ一生かかってやっと許されるような罪でも、償うことは出来るの」
リコは唇を震わせて、何かを言おうとした。
「私は・・・」
「リコ、胸を張りなさい」
母親は強く言った。
「あなたは間違えたかもしれない。でもそう思うなら償いなさい。卑屈になることも、自棄になることもないわ。あなたの罪はお母さんも一緒に引き受けるから」
「お母さん・・・」
母親はリコの頬を優しく撫でた。
「さて、というところで明日はお母さんたちと謝りに行きましょう」
「お父さんもなの?」
「ええ、そう。もちろんお父さんも一緒よ。私としては、先様とは母親同士話せばきっと分かって下さると思うけれど。贈り物に熨斗が必要なように、仮にも一家の主がくっついていく必要があるの」
そう聞いてリコは微かに頬をゆるめた。
「それじゃお父さんは飾りなの?」
「飾りよ」
言下に断じる。
「ひどおい」
「いいの。男親なんてものはね、こういう時のためにいるようなものなんだから」
リコは涙の痕が残る顔で、ようやく微笑んだ。
「お腹すかない? 何か食べられる?」
リコは首を振った。
「じゃあ今夜はもう寝なさい。明日は顔を洗ってシャンとするのよ」
「うん」
「それじゃあね」
「あ、あのお母さん」
「なに?」
リコはベッドの上で寝返りを打って言った。
「窓、閉めて行ってくれる?」
そう聞くと母親はしようのない、という顔をして、
「こら。甘えんぼ」
そして窓を閉めると、エアコンの設定温度を適正なものにして部屋を出たのだった。
(罪は償うことができる)
そう母親は言っていた。本当だろうか。自分は償えるのだろうか。ほんとうに?
リコはベッドの中で膝を抱え、体を丸めた。
(償えるものなら償いたい)
(神様、もしいるのなら)
(たすけて・・・)
明日、どんな顔をして紫子さんに会えばよいのか。そして藤花先輩に。
「ううう」
リコは声を殺して泣いた。
長い夜になりそうだった。
藤花は窓から夜空を見上げていた。
風通しのいい部屋も、今夜ばかりはむしむしと暑い。
「お前はまた私から大事なひとを奪おうというの」
リコに投げつけた言葉を胸の中で反芻する。
(大事なひと? あいつが? あのサイテー男が? はん、冗談じゃない。あんなのと奈々を一緒にするなんてどうかしてる。私はただリコを傷つけたくてあんな言い方をしたんだ)
ものわかりのいい、優しい先輩のふりをするのにはもう飽き飽きしていたから。あの男との一件があった後でも無条件で自分を慕うリコを忌々しいと思っていたから。
復讐のつもりもあったのかもしれない。
自分を裏切ったリコへの残酷な復讐。その場にへたり込んだリコを見るのは快感だった。
(あの時、確かに私は心の中で快哉を叫んだ・・・)
「サイテーだ、私」
藤花はうずくまり、膝を抱えた。今は何の悦びもなかった。
「あやまらなきゃ」
ぽつりとつぶやく。これでおあいこにしたいな、と思う。傷つけられて、傷つけて、また傷つけられて、傷つける。そんなことはもうごめんだった。
えみりはキッチンでいそいそと立ち働いてた。
今日はいい日だったなあ、と、昼間の藤花との逢瀬を思い返して、自然と頬がゆるむ。
今日のチーズケーキは大成功だった。だからあしたはプリンを持って《にしき荘》へ持って行こう。それには今夜の内に焼いて、冷蔵庫でよく冷やしておかないと。
あ、そうだ、持って行くまでにぬるくなってしまうから、ドライアイスもいる。明日朝一番に近所のセブン・マートに行こう。
そんなことを考えながら牛乳に砂糖を混ぜていると、母親がひょっこりとキッチンに入ってきた。
「あら、こんな時間にお菓子作り?」
「うん。明日藤花さんのところに持って行こうと思うの」
「あなたも思い込むと一途ねぇ。ご迷惑ではないの?」
「平気よ。いつでも来な、て言われてるし」
しかし母親はじっとえみりの手元を見詰めながら、
「大丈夫なの。またまわりが見えなくなっていない?」
えみりの手が止まった。
「前の男の人とはそれでうまく行かなくなったのではないの」
「そんなこと。あれは全然違う」
「そう。ならいいけど。あなたはこうと思うと一直線だから、それは気をつけなさいね。道路はまっすぐばかりではないわ。急カーブもあるし、十字路もあるのよ」
「わかってるわ。わかってる」
そしてやたらと力を入れてボウルの中の牛乳をかき混ぜる。白い飛沫がテーブルに飛び散り、えみりはあわて布巾でぬぐった。
母親は何も言わず、ただそんな娘の様子を気遣わしげに見ているのだった。