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Ⅳ.《にしき荘》狂騒曲 1


 夏休みに入ってしばらくたったある日、藤花はえみりに誘われて彼女の家に遊びに行くことになった。


 バスで二停留所ほど離れた住宅地だった。当日はえみりが《にしき荘》まで迎えに来た。小さな子供じゃないんだから、という藤花に、わたしがエスコートしたいんです、とえみりは微笑みながら言った。


 えみりは藤花の腕を取ると、まるで恋人のように腕を絡めてきた。そんなえみりに若干のうっとおとしさを感じつつも、藤花はこの日の外出を楽しんでいた。


 《にしき荘》に来てから、本格的な『お出かけ』はこれがはじめてだったのだ。これまではせいぜいが商店街くらいまでで、しかもなるべく店員と話さなくてもよい店を選んでいた。


 だからここしばらくは美容院へも行っていない。美容師のお姉さんとどんな髪型にするかを話すことさえ苦痛だったのだ。鏡を見ながら自分でカットした髪は左右が不均衡になっていた。ただ、見ようによってはそういうスタイルと見えなくもなかった。


 藤花はこの日、以前母親が持って来たワンピースを着た。こんな服を着る機会が来るとは夢にも思っていなかった。



 その家はごく普通の一戸建てだった。えみりの様子から大きなお屋敷なのだろうと想像していた藤花は意外に思った。


 紹介されたえみりの母親も、ごく普通の中年の女性に見えた。えみりによく似たおっとりしたひとで、やさしい笑みを浮かべていた。藤花が挨拶すると、


「いらっしゃい、藤花さんね。えみりがお世話になってしまって」

「いえ、そんな。たまたまです」


 母親という人がどこまで知っているのかわからないので、曖昧に答える。


「藤花さん、わたしの部屋に来てください」


 手を引っ張られて階段へと誘われる。


「まあ、えみりったら。誰もあなたのお大事の藤花さんを取ったりしませんよ」


 部屋に通されると、藤花は勧められてクッションに腰を下ろした。うっかり片膝をついてしまい、あわてて座り直す。久しぶりのスカートに若干の戸惑いはあった。えみりはクッション抱えて、ほんのり頬を染めて藤花の向かいに座った。


 室内は空調がほどよく効いており、快適だった。藤花の見る限り、女の子の部屋にしてはごくシンプルだった。


 ベッドにはかわいらしい花柄のベットカバー、本棚には童話の本がずらりと並んでおり、その手前には携帯ゲーム機とそのソフトが置かれていた。机の上にはノートパソコンと携帯オーディオ。


「・・・普通だ」


 藤花はそれだけ見て取るとぽつりとつぶやいた。


「そうでしょうか。よく、わかりません」


 えみりははにかんで答えた。


「お友達には、天然とか、変キャラとか言われますけど」

「ああ、それも納得」

「ええー、どうしてですか」

「普通に変」


 そんなことを言って笑い合う。


 ノックの音が聞して、母親が紅茶を持って来た。


「えみり、チーズケーキ、そろそろいいんじゃないかしら」

「あ、そうだった」


 えみりはあわてて立ち上がった。


「これから焼くの? 無理しなくても」

「いえ、冷蔵庫で粗熱を取ってるところですから。もういい頃合です。ちょっと待っててくださいね」


 そう言って階下のキッチンに行ってしまう。後には藤花とえみりの母親が残された。


「藤花さん」


 やさしい声で母親は言った。


「えみりから聞いています。たいへんな経験をしたそうね」

「えっと、あの」


 どこまで話しているのだろう、ととっさに口ごもる。


「ごめんなさい、全部聞いているの」

「え」

「あの子ったら、何でも話してくれるのよ。ふつうは母親には話さないようなことまで」


 苦笑とも取れる笑みを浮かべて、


「我が子ながら、あの子の天然ぶりには呆れる時があるわ」

「はあ」

「藤花さん」


 改まってえみりの母親は言った。


「あの子を迷い道から導いてくだすって感謝しているわ」

「は?」


 藤花は戸惑っていた。えみりを導いた覚えなどなかった。


「あなたの思い切った行動が、あの子に道を教えてくれた。そう思っているの」

「そう、ですか」

「ええそう。それに」

「それに?」

「あなた自身のつらい経験が、あなた自身を救った。そう思うの」


 藤花は本格的に困惑していた。いったいこのオバさんは何を言っているのだろう。


「わからないかしら。そうね、渦中にいるとわからないものかも知れないわ」


 そう小さくつぶやくと、


「ではこれだけは憶えておいて。神は乗り越えられない困難はお与えにならないの。どんなに辛いことも、それは明日の糧になる。もう生きていけないと思っても、その経験自体が生きる力になる」


 藤花はただ目をパチクリするしかなかった。


 やがて、出来上がったケーキを持ってえみりが部屋に戻ると、


「あら、長話をしてしまったわ。ではごゆっくりね」


 と、ニコニコ笑いながら部屋を辞した。


 藤花はやや放心してクッションに座っていた。その前に皿が置かれる。甘い香りに我に返った。


「チーズケーキです。うまく焼けたと思うんですけど」

「あ、ああ、ありがとう。おいしそう」


 やや塩の効いたその味に、藤花はふっと心がゆるむ心地がした。甘いお菓子には魔法がかかっている。どこかでそんなことを聞いた覚えがあった。


「あのさ」

「はい?」

「えみりのお母さんてクリスチャンなの?」

「え? いえ、うちは浄土宗だったと思いますけど」

「ふうん?」

「あ、でも」


 と、えみりは両手をぱちんと合わせて、


「母はミッションスクールに通っていたそうです、けど?」

「ああ。そうか」

「何かありました?」

「ううん。ただ、」

「ただ?」

「神なんて言葉、久しぶりに聞いたな、と思って」

「?」


 そして、それから二人は他愛のない話をして過ごした。えみりの好きな音楽の話、学校のこと。携帯ゲームで一緒に遊んだりもした。


「藤花さんはゲームとかしないんですか」

「うーん、あんまりしたことないな。ほら、あたし体育会系だったし。実際に体を動かす方が好きだったし」


 さりげない過去形に気づいたのかどうか。


「わたしと反対ですね。運動とか苦手で。小さい頃から本とかゲームの方が好きでした。だからアクション系はあまり得意じゃないですし。RPGとか、育成シミュレーションなんかの方が好きですね。パズルもあんまりやりませんし」

「へぇ」

「あ、あと最近だと《マリアン・グルービィ》のカードバトルがお気に入りです」

「ああ、あれ」

「ご存知なんですか」

「アニメでしょ。従妹が夢中なの。たまに一緒に見るし」

「うれしい。お仲間ですね。おいくつくらいの方なんですか」

「ことし四歳だったかな」

「あ、そうなんですか」


 えみりは奈々の歳を聞いてややしおれた。


「まあ、もともと未就学児童がメインターゲットの作品だし」


 と口の中で小さくつぶやく。


「えーと、えみり?」

「はい?」

「もしかしてオタク?」

「はい」


 なぜか嬉しそうに肯定する。


「ゲームとかアニメの世界で一時、辛い現実を忘れるのはいいことだと思うんです。別の世界を生きるというか、自分じゃない自分になるというか。それも生きるために必要だと思うんです」

「ああ」


 藤花は何かしら思い当たることがあったらしい。ふっと微笑んだ。


「あたしにとっての《にしき荘》と同じか」

「え?」


 えみりは首をかしげ、藤花の静かな微笑みを見た。



 新聞部の部室には、二人の女子生徒がいた。


 一人はむろん真珠子だった。夏休みだというに相変わらず部室にこもっているのだ。定位置である奥の机の前に陣取っていた。


「夏休みなのに何やってんだか」


 その手前には瑞希が机に頬杖をついて座っていた。


「まったくだね」


 真珠子はぱらぱらと企画シートをめくりながら「休日出勤、というところかな」などとうそぶく。


「それにしてもあなたもマメねぇ。わざわざ先日の結果を報告に来るなんて。メールで済むでしょうに」

「直接あんたの見立てを聞きたかったの」

「あら、ずいぶん頼りにされているのね」

「違う」

「なにが違うの」

「苦情を言いに来たの」


 瑞希はガタン、と音を立てて椅子に座りなおすと、


「真珠子の言うとおり、ぶっちゃけて話しては見たよ。そしたら先輩キレちゃってね。部屋を飛び出したの。さすがにヤバかったかも、と思ってリコと手分けして街中を探すハメになった」

「で?」


 小憎らしいほど泰然として真珠子は先を促した。


「で! しばらくしてリコのケータイに電話があったの」

「なんて」

「余計なことするな、てさ」

「ふーん」


 瑞希はたま椅子をガタンと言わせて抗議した。


「ふーん、て何それ。あんたのアドバイスに従ったんだよ。責任とりなさいよ」


 しかし真珠子は平気な顔で、


「実行したのはあなたでしょ。責任は実行者がとりなさい。責任転嫁は迷惑だな」


 あまりと言えばあまりな答えに、瑞希は顔を真っ赤にして、


「信じられない。ここに来て第三者のふり? 冗談じゃない」

「そう、冗談ではないの。それにね、完璧な計画だなんてわたしは言っていませんからね。私に出来るのは助言だけ。道を切り開くのは当事者のあなたたちなんだから」

「この・・・魔女め」

「ふふん。なんとでもお言い」


 瑞樹の暴言を馬耳東風と聞き流す。真珠子は、


「ところでその電話はどこからかけたのかしら」

「なに、なんのこと」

「中島先輩からの電話。確か前に携帯電話を壊したと言ってたよね?」

「うん」

「アパートには固定電話もない。前にそう言ったよね」

「言った」

「ならどこから電話してきたのかな」

「知らないよ……いえ、そういえば、その後でリコがリダイヤルでかけてみたら、知らない女の声がしたからすぐに切った、と言っていたような。誰かに借りたのかな。でもそれが重要なことなの?」

「あるいわね」


 瑞希はいらいらと真珠子を睨みつけ、


「何を考えているの」

要素(ファクター)が一つ足りないような気がする。《リリカルダメージ症候群(シンドローム)》の治療に」

「またそれなの? 私が知りたいのはそんなレッテルじゃなくて、いったいなにがどうなっているのか、てことなのに」

「まあそう焦りなさんなって。物事はね、ドミノ倒しのようなものなの。小さな動きが連鎖して次の動きを引き起こす。私たちの知らない要素(ファクター)によって引き起こされる事柄も当然あるはず」

「なにそれ」

「もう一波乱か二波乱ぐらいは覚悟しておいた方がいいってこと」


 そう言って、真珠子はにやっと笑った。


「またそういう思わせぶりなことを言う」

「いえ、もしかしたら私たちの知らないところで、すでに事態は進行しているかもしれない」

「この上なにが」

「神ならぬ身の知る由もなし、よ」


 というのが学園新聞の主筆の返事だった。



 リコはしっかりした足取りでアスファルトを踏みつけて歩いていた。


 午後の日差しがじりじりと照りつける。帽子を被ってくるべきだったと思ったがもう遅い。こういう日こそ部活で泳げればいいのに、と恨めしい気持ちで天を仰ぐ。


 プールの循環ポンプが故障したために、夏休み中の水泳部のスケジュールが大幅に変更になったのだ。むろん、プールが使えないからと言って全面的に練習がなくなるわけではない。


 基礎体力作りの体操だのマラソンだのは予定されていた。だが、グランドも体育館も他の体育会系の部活で使用することになっており、休みが始まってからスケジュールに割り込ませるのは至難の技だった。


 大会選抜者は顧問の先生の母校のプールを借りられることになっていたが、それ以外の部員は各自自主トレのこと、というのがこの夏の水泳部の活動状況だった。


 そんなわけで選手でもないリコは思いがけず自由な時間を手に入れ(もとより自主トレなどするつもりは毛頭なかった)、さっそく有効に活用することにしたのだった。


 ハンカチで額の汗を押さえながらリコがたどり着いたのは《にしき荘》だった。

 先日の一件以来、来るのは初めてだった。瑞希も誘ったのだが、部室棟に用事があるとかで来られないという。


(帰宅部なのに部室棟に何の用があるんだろ)


 そういえば新聞部の《真珠さま》と仲が良いと言っていたような気もする。変人として名高い新聞部の主筆については、あまりいい噂は聞かなかった。


 闇姫とか黒姫とかいう子飼いの部下を使役して、学園のダークサイドで君臨している、というのがもっぱらの噂だった。もちろん学園伝説の一つなのだろうけど。瑞希さんもあんな人と付き合わない方がいいのに。


 リコは頭を振ってつまらない考えを消し去ると、《にしき荘》の二階に上がる。鉄製の階段がカンカンカン、と小気味良い音を立てた。


 けれど、すぐに気づく。藤花の部屋のドアは閉まっていた。ドアの前まで行き、念のためノックをして、声をかけ、ノブをがちゃがちゃさせてみる。鍵がかかっていた。珍しく外出中らしい。


 リコはがっかりして階段を降りた。特に用事があったわけではない。けっして歓迎されないだろうことはわかっていた。けれど、それでもリコは藤花のことを思い切ることができないでいた。


 自分のこの気持ちは何なんだろう。自分でもわからない。


 最初は、ただの憧れだった。


 抜き手を切って泳ぐ藤花の姿がきれいだと思っていた。競技会ごとにタイムを更新して行く藤花を素直に尊敬していた。ていねいに指導してもらって、うれしかったのも事実だ。自分にはないものを持った藤花がとても眩しく、一緒にいられるだけで楽しく、誇らしかった。


 だからなのかも知れない。


 先輩の彼氏が自分を誘ってくれた時、うれしかったのは。


 先輩には何もかなわない、取るに足らないんだと思っていた自分を、こともあろうに先輩の彼が望んでくれた。自分にも先輩と同じくらいの価値があると、この人は認めてくれたんだ、と。


 先輩を裏切っているという自覚はあった。けれど、やめられなかった。だからデートもわざと先輩と同じ場所に行きたがった。先輩と同じものを見、同じ経験をしたかった。


 そうだ。もしかしたら私は、あの人のことなど好きではなかったのかも知れない。私は先輩になりたかっただけなのかもしれない。だから。


 だから先輩と別れた彼には何の魅力も感じなかった。一緒にいてももう楽しくなかった。つまらない女だ、と言われてフラれたのも当然だと思う。


 リコはそんなことに今さらながらに気づき、昏くわらった。そうだ、私が好きだったのは藤花先輩だけなんだ。だから、今でもこうして会おうとしている。嫌われても、避けれても。ただ、藤花先輩との関係が決定的に壊れてはいないことを確かめるために。


 でも、先輩がいないなら仕方が無い。今日はもう帰ろうと、コンクリート塀の横を通ったときだった。


 風通しの穴越しに、庭で遊ぶ奈々の姿がチラリと見えた。

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