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Ⅱ.夏休み前 1


 藤花は縁側に座って、庭で遊ぶ奈々を見ていた。


 《にしき荘》には向かいの道路との間に細長い小さな庭があって、一階の部屋には縁側がしつらえてあった。道路との境にはコンクリートブロックの塀があり、ところどころに風通しのための穴が開いていた。


 とても小さな、庭とも呼べないくらいの細長い空間。それぞれの部屋の前には住民たちの朝顔の鉢植えやプランターボックスが並んでいた。


 そんな小さな庭も奈々にとっては大庭園も同じらしい。サンダルをぱたぱたさせてあちこち駆け回っている。


 手にはプラスチックのおもちゃのシャベルを握っていた。さっきからそれであちこち掘り返して、パンツが見えてしまうのにもお構いなしでしゃがみこみ、ミミズやら土グモやらを見つけてうれしそうに笑っていた。


 奈々のその無邪気な笑みを見ていると、藤花はとてもやさしい、満ち足りた気分になれた。何の憂いもない、幸福ではちきれそうな笑顔の奈々。


 大好きな庭で、手にはお気に入りのシャベル、傍らには優しい藤花お姉ちゃん。幸福なこども時代を満喫する奈々の姿は、藤花に自らの幼い頃を思い出させた。


(ここは奈々にとってエデンの園みたい)


 罪無き楽園の、天使のような少女。


 藤花は左足にだけサンダルを履いて右足は縁側の上に乗せ、膝の上にあごを乗せていた。右足を抱きしめるような格好で目を細めて奈々を見守っていた。


 ふいに、塀の向こうに人の気配を感じて藤花は目だけを動かしてそちらを見た。風通しのために等間隔で穿たれた穴の向こうに見慣れた顔が見え隠れしていた。


(リコ・・・)


 藤花はすぐに視線を逸らし、立ち上がって奈々に声をかけた。


「奈々ー、こっちおいで」


 そして走って来た従妹を抱きとめて、


「お姉ちゃんとオママゴトしようか」


 と誘う。


「おままごとー」

「うん。泥でお団子をつくりましょう」

「お団子屋さんだー」

「そうそう。ほら、お水を汲んで来て」


 奈々は赤い小さなオモチャのバケツを持って庭の隅のコンクリートの小さな流しに走っていった。


「ほうら走らないの。転んじゃうよ」


 塀のすぐ向こう側にリコが居るのは分かっていた。けれど、はしゃいでいる奈々はそのことに気づかなかったし、藤花も奈々に気を取られているふりをしてリコの方を見向きもしなかった。


 リコは何度か話しかけようとしている様子だった。手を上げて、口を開こうとしていた。けれど、いつまでたってもその声は藤花の耳には聞えてこなかった。


 藤花は庭の隅で、奈々と泥をこねながら、そっと壁の向こうを伺う。いつの間にかリコの姿は無かった。


(いい気味だ)


 藤花は胸の晴れる思いがした。


(あたしから声なんてかけてやらない)

(そうやって、いつまでも苦しんでいればいい)

(裏切りものめ。薄汚い泥棒猫め)


 一瞬、悪魔めいた笑みを浮かべた藤花は、しかし奈々を見ると優しく微笑んだ。


 奈々は一心に泥をこねて、いくつもの泥団子をこさえていた。それを一列に並べている。泥だらけの手で鼻をこすったらしい。顔には刷毛で掃いたような黒い痕があった。奈々は並んだ泥団子を満足そうに見て、ニコッと笑った。


「でーきた」


 その無垢の笑顔。


「できたよ、お姉ちゃん」


 藤花は微笑みを返し、そしてあることに気付いた。


 自分に全幅の信頼を置いた、奈々のあけすけな笑顔。純粋な好意以外のなにものも見えない笑み。


 それはかつてリコが彼女に向けていた笑顔と同じだった。


(あの子も、奈々と同じだった。あたしなんかを慕って、いつも後についてきて。多少うっとおしくはあったけれど、それでもあたしはかわいいと思っていた)

(だからリコがあたしを裏切るなんて信じられなかった。あの男とあたしに隠れて会っていたなんて)


 藤花は恐ろしい考えに思い到って愕然とした。


(あたしをあれほど慕っていたリコはあたしを裏切った。それでは奈々も、こんなにもあたしを慕ってくれている奈々も、いずれはあたしを裏切るのだろうか)


「お姉ちゃん?」


(そんなこと、ありえない。考えたくない。奈々が、あたしの奈々が)


 幸福なこども時代を過ごしている奈々がそんなことをするはずがない。


「お姉ちゃん、どうしたの?」


 幸福なこども……。藤花はあることに気づき再び愕然とした。


 父親を失い、母親と二人でこんな古ぼけたアパートに住む奈々は本当に幸福なのか。それはただ自らの不幸を知らないだけなのではないのか。


 奈々はいずれ幼稚園に行く。小学校にも通うことになるだろう。友達の家との違いに嫌でも気付くはずだ。そうなっても奈々は無邪気に笑えるのか。


「お姉ちゃんてば」


 藤花は泥団子を手に持ったまま、呆然と目の前の幼子を見つめていた。


 その目に涙が浮かぶ。


「お姉ちゃん、どうしたの? 泣いてるの? お腹痛い?」


 奈々は心配そうに、泥だらけの手で、やはり泥だらけの藤花の手を取った。泥団子がぼとりと落ちて潰れた。藤花は引きつった笑みしか浮かべられなかった。


 奈々は、そっと手を離し、駆け出していった。


「お母さーん、とーかお姉ちゃんが泣いてるの。また(・・)お返事しなくなっちゃったの」


 藤花には、紫子を呼ぶ奈々の声は聞えていなかった。不意に気が遠くなり、両手を地面についた。泥しか見えない。だめだ、下を向いてはダメだ。空を見よう。雲を見よう。藤花はそう思い、顔を上げた。


 藤花の頭の上には、光に満ちた夏の青い空が広がっていた。思わず差し伸べた自分の手が泥に汚れているのが見えた。


(あたしの手は汚れている。リコを裏切ったから。さっきリコを無視したことで、あたしの手も汚れてしまった)


 腕は力を失い胴の両側にだらりと下がる。


(リコのことを裏切り者なんて思っていながら、あたしは、あたしこそがリコを裏切った)


 藤花は空を見上げた。涙で滲み、歪んだ空を。



 蒼い顔をして戻ってきたリコを見て、瑞希はベンチから立ち上がった。そこは《にしき荘》からニブロックほど離れた公園だった。


「どうだったのリコ」


 けれど何も答えない。リコはさっきまで瑞希が座っていたベンチに腰を下ろした。しかたなく瑞希もその隣に座った。


「先輩には話せたの?」


 首を横に振る。


「もしかして留守だったとか」


 再び首を横に振る。


「黙ってちゃわからないよ。先輩には会えたんでしょう?」


 リコは激しく首を振った。


「せ、先輩は庭にいたの、奈々ちゃんと」


 つっかえつっかえリコは話しはじめた。


「奈々ちゃんと遊んでた。でも、私のこと無視(シカト)して」

「それはきっと気づかなかっただけよ。奈々ちゃんもあなたに気付いていなかったでしょう?」

「・・・うん」

「ほら、きっと童心に還って遊ぶのに夢中になっていたんだよ。知ってるでしょう? 奈々ちゃんと遊ぶことで癒されているの。きっとそう。だからわざとリコのことを無視したわけじゃ」

「見えないもん」

「え?」

「奈々ちゃんからは見えないもん。だって塀の穴は奈々ちゃんの背よりも高いところにあるんだもん。それに、それに」

「リコ・・・」

「先輩は私のこと気付いてた! 気付いていたのに無視されたの」


 リコは瑞希の腕を掴み、錯乱したように言った。


「先輩は気付いている! 知ってるんだ。私が、あの人と隠れて会っていたことに。私が先輩からあの人を奪ってしまったことに!」


 そして「どうしよう、どうしよう」と口の中でつぶやく。


「大丈夫だよ、リコ。だいじょうぶ」


 瑞希はリコの背中を撫でながら言った。


「先輩は、多分ずっと前から知っていたはずだよ。たぶん、あの事故の前から」


 えっ、とつぶやいてリコは瑞希を凝視した。


「どういうこと」


 瑞希はため息をつき、言った。


「はっきりと確認したわけではないけれど」


 考え考えゆっくりと話す。


「私、先輩が校舎の裏でケータイで誰かと話しているのを偶然見かけたことがあるの。ほら、先輩が退学する少し前、みんなで帰りにハンバーガーショップに寄ろう、て話があったでしょ。あの時、先輩だけどこかに行ってしまって、私が探しに行った時のこと」

「先輩がケータイを落として壊した時のこと?」

「落としたのではないの。校舎に投げつけたの」

「えっ」

「直前まで誰と、何を話していたかはわからない。先輩はあの時、通話を終えるのと同時に校舎の壁に向かって投げつけてたの。そして私が居ることに気付くと、先輩はケータイを拾いながら言ったの『壊れちゃった』って」

「・・・」

「あの後、結局ハンバーガーショップに行くのはお流れになって、別々に帰ったのだけど。先輩の様子はちょっと変だった。あなたのこと見ようともしなかった」


 瑞希は長い髪をかきあげ、


「けどね。それからしばらくは何事も無かったように振る舞っていた。きっとあなたに気を使っていたんだ。自分が知ってしまったことに気付かれまいと」

「どうして、どうしてそんな」

「あなたのこと傷つけたくなかったのでしょ。先輩はそういう人だよ。それに、そのときにはもうあの人とは別れていたのだし。知らなければそれでいいと思っていたのでしょう。でも」


 リコの目をしっかりと見て、瑞希は言った。


「あの事故からすべてが変わってしまった」


 瑞希はなるべく感情を交えずに淡々と語った。


「先輩が水泳部の部活中にプールで溺れたのはそれから一週間くらい後のことだったでしょ。最初は信じられなかった。インターハイで優勝した先輩が、こともあろうに溺れるなんて。ね、おかしいと思わない?」

「それは、だって足がつったって」

「準備体操だってしたはずでしょ」

「じゃあ何が原因だったって言うの。あのときは私もプールサイドで見ていたんだよ?  普通に泳いでいた先輩が、急にもがき出して、体の自由が利かないみたいだった」


 必死で言い募るリコに、


「足がつったのは本当でしょうね。でも、私の友達の見立てでは、それはきっかけだろうって」

「きっかけ?」

「ええ。これはその友達の受け売りだけど、たぶんこうだろうって。あの日、何か心配事があった先輩は、準備体操に身が入らなかった。足がつったのもそのせい。でも、それだけならどうということもなかった」


 リコは青い顔をして瑞希の話しに聞き入っていた。


「でも、先輩はその時に・・・パニックを起してしまった」

「・・・」

「なぜかはわからない。でも、その日まで先輩はひどく緊張した日々を送っていたというのが友達の説なの。うわべは平静をよそおって、何かに耐えていた。その精神的なストレスと、肉体的な不調が重なって、平静を失ってしまった」

「そんな。だってそれはそのお友達の想像でしょう? 証拠なんてなにも」

「状況証拠だけだよ、もちろん。でも、その後のことを思い出してよ。あの事故の後、先輩は二度と泳ごうとしなくなった。身体的な故障はなにもなかった、というのは聞いてるでしょう」


 リコは反論しかけ、しかし何も言えずに口を閉じた。


「それからは坂道を転がり落ちるようだった。部活を休み、やがて学校にも来なくなった。一日中お部屋に閉じこもっていたって。学校への届け出も、最初は病欠、次に休学。その間に心療内科への通院。そして結局、今年の春に退学。この夏から叔母さまの所で養生することになった」


 リコは大きく目を見開いていた。


「そんな。それじゃ私のせいだって言うの。私があの人と付き合ったから、だから」

「そんなこと言っていないでしょう」

「言ってるじゃない! でも、だって、先輩は水泳で体を壊して、それで退学したって。先輩がご自分でそうおっしゃったのに。私を責めることばなんて一つも」

「だから先輩はそういう人なんだって。でも、でもね、先輩も聖人君子ではないの。今日リコのことを無視したのもそういうことでしょうね。気持ちを納められない時もあるんだよ」


 瑞希はリコの青ざめた顔から目をそらした。リコはぽつりと、


「知っていたんだ、瑞希は」

「うん」


 瑞希は誰も居ない公園を見ながら答えた。


「知っていて、私と一緒に先輩に会っていた」

「言い訳はしないよ」


 そして視線をそらしたまま、


「ぶってもいいよ」


 とつぶやいた。


 瑞希の視野の端で、リコの手がひらめいたのが見えた。瑞希は頬を打たれることを覚悟して、歯を食いしばった。


「なんでやねん!」


 リコは手の甲で軽く瑞希の肩を叩いた。


「リコ?」


 戸惑って隣に座るリコを見る。リコは涙を溜めた目で、半ば笑いながら、


「そんなの、決まってるじゃないの」

「リコ・・・」

「ずっと付き合ってくれてありがとう。感謝してる。私の気の済むようにしてくれてたんでしょ」

「うん、まあね」

「瑞希のこと、恨めないよ。だって、だって」

「相方だから、でしょ」


 それを聞くと、リコは感情の堤防が決壊してしまったらしい。わっ、と声を上げて泣きながら、瑞希に抱きついてきた。


「き、君とはやっとられんわ」


 そう言いながら泣きじゃくるリコの背を撫でて、瑞希はやさしく言った。


「ええかげんにしなさい」



 それから数日後のことだった。


 リコは教室の窓から空を見ていた。


 机の上には数学のテスト用紙が置いてある。クラスメートたちは、一様にペンを走らせて解答欄を埋めようと躍起になっている。


 だが、リコはどうしても問題に集中できなかった。自分が先輩に対してしてしまったこと、その事実が彼女の思考を邪魔していた。


 だからリコは空を見た。なにも考えなくても済むように。罪の意識から逃れるために。


 ベルが鳴り、答案が回収された後も空を見続けていた。幾人かのクラスメートが教室の隅でひそひそ話しているのにも気づいていなかった。


「ねえ、岩崎さんちょっとヘンじゃない?」

「テスト中からずっとああだったよ」

「なに、ストライキ?」

「諦めてるんじゃない? 投げているんでしょ。気持ちは分かるけど」

「そうかな。それにしてはテストが終わってもあのままじゃない」

「あの日かな」

「ねえねえ、聞いた話なんだけど」

「なになに」

「岩崎さんさぁ、彼氏に振られたらしいよ」

「あー、それでか」

「あの略奪愛の彼ね」

「なにそれ」

「ほら、水泳部の三年に中島先輩っていたじゃない」

「知らない」

「ほら、去年インターハイで優勝した」

「ああ。でもその人、体壊して退学したんじゃなかったっけ」

「それがね、なんでも彼氏を岩崎さんに盗られて、そのショックで体調を崩したんだって」

「へー」

「それで今度は岩崎さんがその彼に振られたんだってさ。なんか新しい女が出来て二股かけられてたとか」

「自業自得、因果応報ってか」

「でもさぁ」

「なに?」

「それって男の方が悪いんじゃないの?」


 クラスメートたちの噂話しはいつ果てることもなく続いていた。

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