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Ⅰ.ドロップアウトの底辺 2


 角を曲がってアパートの視界から外れると、リコは笑みを消し、不安そうに瑞希に言った。


「ねえ、先輩は気付いてるのかな。もう知ってるのかな」


 瑞希は理知的な瞳をしばたたいて、


「どうかな」


 と言った。けれど。


(先輩は間違いなく気付いている)


 瑞希はそれを確信していた。


(あの目は、知っていて知らない振りをしている目だ)


 瑞希は内心を気取られまいと努めて冷静に、


「分からないけど。でも、大事なのはそこじゃないでしょう」


 リコは唇を噛んで黙っていた。


「先輩がどうこうよりも、あなたがどうするかでしょ」


 リコはうつむいて歩いていた。


「今日だって、せっかく私がコンビニに寄って二人だけで話す時間を作ったのに」

「わかってる」

「その後だって、話せるチャンスはあったはずだよ。そりゃあ奈々ちゃんの乱入でタイミングを逸してしまったかも知れないけど」

「わかってる」


 瑞希は軽く首を振った。


「先輩にちゃんと話す気がないなら、もう行かない方がいいよ。あなたが辛くなるだけだよ」

「わかってる」

「ねえ、リコ、本当にわかってるの? このままウヤムヤにしたくない、て言ったのはリコなんだよ?」

「わかってるって言ってるでしょう!」


 我知らず大声を出してしまったことに気付いたリコは、大きく息をついた。


「・・・ごめんなさい。つき合ってくれたのに」

「いいけど」


 瑞希はクールに応じた。


「でも、こんなだったら行かない方がマシだよ。あなたも傷つくし、先輩だって」

「・・・ね、藤花先輩はもしかしたらもう気付いてるんじゃないかな」

「そんなこと・・・」

「知っていて、それで知らんふりしてるんじゃ」

「リコ、そんなこと考えちゃだめ」

「そうだ、きっと先輩は気付いているんだ。私の裏切りに」

「よしなさいリコ」


 瑞希は親友の肩を抱いた。


「わかってる。わかっているから」


 リコは歩みを止め、うつむいた。涙が、その頬を伝う。


「――――」


 リコは声もなく泣いていた。その震える肩を抱いて、瑞希はまだ明るい夏の空を見上げた。西の空に、ようやく星が輝きはじめていた。



 藤花は窓枠にもたれて夜空を見上げていた。


 先刻後輩たちが帰った時と同じ姿勢のままだった。叔母には自分で食事の仕度をする、と言ったものの、はなから夕食を摂る気などなかったのだ。


(さっきお菓子を食べたし)


 藤花は虚ろな目で星の瞬きを数えながら思った。


(食事なんてわずらわしいこと、何でしなきゃならないんだろう)


 生きるために食べなきゃいけない。それは分かっていた。


 生きる?


 自分が生きているのか藤花には自信がもてなかった。また生きる目的も思いつかなかった。さりとて死ぬ理由も見当たらない。


 階下からは、奈々が見ているらしいテレビ番組の音が聞えていた。時おり奈々の甲高い笑い声が聞える。藤花は微かにわらった。今の自分に出来ることは、奈々のお守りをすることくらいだ。それ以外は、こうして日がな一日窓から空を見ているだけ。


 きっと今のあたしは役立たずなのだ。藤花はそう思い、そしてその自虐的な考えに少しだけ安らぎを感じていた。


 以前の自分はこうではなかった。


 勉強は出来なかったけれど、水泳部のエースで――学園の誰もが知っている有名人。顧問の先生からの期待を込めた厳しい指導、先輩たちからはかわいがられ、同学年の子たちからは一目置かれ、後輩たちからはあこがれの視線を浴びる。それが当たり前だった。


 でも。


 あの男にあってあたしは変わったんだ。


 それも悪い方に。


 微かな振動音が聞こえた。


 その音は室内から聞えていた。部屋の隅に置いてある机の引き出しの中から。


 藤花はのろのろと机まで這って行くと、引き出しを開けた。中から二つ折りの携帯電話を取り出す。そのボディにはいくつもの傷がついていた。ただ落としただけではこうはならない。壊れていないのが不思議なくらいの有様だった。


 ひびの入っている背面のサブディスプレイに表示された発信者を見た藤花の頬に、さっと朱が差した。二つ折りのボディを開いて今しがた着信したメールを見る。


 本文を一読した藤花は、ぎりっと歯を食いしばり、すぐさま返信のメールを打ち始めた。だが怒りのために指先が震え、うまく打てない。


 焦れた藤花はメールを諦め、登録したままになっていた発信元へワンプッシュダイヤルした。TELもメアドも消しておくんだった。いや、そもそも着信拒否にしておくべきだった、と今更ながらに悔やむ。


 ほどなくして相手と繋がる。藤花は怒気を孕んだ声で言った。


「どういうつもり。いまさら会いたいだなんて。もうあんたとは終わってる。リコとよろしくやればいいじゃない。え?」


 相手の話を聞くに連れ、藤花の頬は真っ赤を通り越してドス黒く変色していった。


「なんて勝手なことを! あの子と別れたからあたしとヨリを戻したいって言うの。冗談じゃない。あんた自分が何を言ってるのかわかってるの? なにをヘラヘラしてるの! バカにすんな!」


 藤花は吐き捨てるように怒鳴った。


「サイテー!」


 通話を切ると、藤花はケータイを壁に向かって投げつけた。ガン、と音を立てて携帯電話は壁に衝突し、床の上に転がった。今度こそ完全に壊れたに違いない。藤花はそう思った。



 翌日の昼過ぎの事だった。


 窓から外を見ていた藤花は、パラソルを差した女性がアパートに向かって歩いて来ることに気付いた。


 パラソルが視界を遮り、向こうからはこちらが見えない。けれど、藤花にはそれが誰だかすぐに分かった。


 ややしてから、階段を昇る足音が藤花の耳に届いた。そして戸口にはたたんだパラソルを持って立っている一人の女性の姿があった。サラサラの髪、すっと通った鼻筋、切れ長の目。


「藤花、元気だった」

「うん。お母さんは?」


 藤花の母は一拍間を置いて、「元気よ」と答えた。


「今日はなに」


 藤花は短く訊いた。


「紫子にお中元の挨拶にね。それと、あなたの着替え」


 見ると確かに風呂敷包みとデパートの紙袋を抱えている。


「紫子さんは今日は留守だよ。奈々ちゃんとお出かけしてる」

「そうみたいね。部屋には鍵がかかっていたし」

「あがったら」

「そうね」


 母親が六畳間に上がっても藤花は窓際から動かなかった。


「一応夏物の服を持ってきたわ」


 そう言って風呂敷包みを開く。中には一見してよそ行きとわかるサマードレスやワンピースだった。そんなおしゃれ着なんて着ないよ、と藤花は思ったけれど、何も言わなかった。


「どう、最近は」

「別に」

「体はもういいの?」

「たぶん」

「お薬はきちんと飲んでるの?」

「うん」

「ちゃんと食べてる? なんだか痩せたみたいよ」

「一応」


 母親はため息をついた。


「藤花」

「なに」


 母親は静かに言った。


「私では力になれないのね?」


 藤花は何も答えずにまた空を見た。それは拒絶、というよりも無関心と言うべき態度だった。


「母親として、女として、あなたの気持ちは分かるわ。どれほど辛かったか」


 藤花は空を見上げたままだった。


「ほんとうは私があなたのことを受け止めて上げられればよかったのだけど・・・信用してもらえないのね」


 何の反応も見せない娘に、母親はため息をついた。


「でもね。私はあなたの親です。あなたのために出来ることは何でもするわ。私たちにはあなたを受け止められなくても、あなたを受け止められる環境は用意して上げられたと思うの。ここでしばらく休むといいわ。そして、落ち着いたら帰っていらっしゃい。もともとあなたは紫子に懐いていたしね。

覚えてる? 幼稚園の時に親戚みんなで海に行ったときのこと。あなた、あの子の水中メガネを気に入っちゃって。水泳用だ、て聞いたら、じゃああたし水泳選手になる、て」

「スイムゴーグル」


 藤花はぼそっと言った。


「あたしにはもう不用のもの」


 藤花の母親は自らの失言に気づいて口を閉じた。そして思い出したように紙袋をちゃぶ台の上に置いた。


「紫子に渡して。ゼリー菓子だから冷やして食べてって」

「うん」


 藤花はそれだけ答えた。母親はもう一度そっとため息をついて立ち上がった。


「お父さん・・・」

「えっ」


 唐突につぶやいた藤花に、母親はいぶかしげな視線を向けた。


「お父さん、まだ怒ってる?」

「いいえ。怒ってなんていないわ」

「そう?」

「そうよ。それに、あの時だって本当は怒っていたわけではないの」

「へぇ?」

「心配していたのよ。でもね、男親はあんな態度でしか表現できないのよ」

「そんなものかな」

「そんなものよ。父親なんて娘のこととなると、てんでみっともないんだから」

「へぇ」


 藤花は母親が来てから初めてわらった。


「おかしいの。お父さんのこと、容赦ないんだ」

「長年連れ添った間柄ですからね。それに、男なんてだらしないものよ。強いのはいつだって女の方なんだから」


 母親も笑って見せる。


「ありがとう、お母さん」


 藤花はそう言って、また空を見上げた。


「あたし、ここで空を見ているの」

「ええ」

「毎日、毎日。空を」

「そう」

「雲が流れて行くのを見ていると飽きないの」

「そうなの」

「朝焼けに輝いている雲があって、きれいだなぁ、て思っていると、いつの間にか夕日に赤く染まった雲に変わっているの。それで、雲に月がかかってる、と思って見ていると、いつの間にか入道雲の影からお日様が顔を出したりして」

「……」

「ほんと、飽きないの」


 うっとりと空を見上げる藤花の痛ましい表情を見て、母親はそっと指先で自らの目の端に浮かんだしずくを払った。


「また来るわね、藤花」

「うん」

「紫子によろしくと伝えて」

「うん」

「藤花、あなたは・・・」

「うん」


 心ここにあらず、と機械的に受け応えする藤花に、母親は小さくつぶやいた。


「お前はそれほどまでに・・・」

「うん」


 母親はもう何も言わず、藤花の虚ろな表情を見ながら、ゆっくりと後ずさり部屋を出たのだった。


 時間や曜日の感覚を失って久しい藤花は、さっきまで母親がいたはずだけど、と思いながらやはり空を見ていた。千変万化、刻々と表情を変える空を。


 ずっと。


 一人で。



 その夜、夕食を負えた紫子は、奈々がテレビのこども番組を夢中になって見ているのを確認すると、受話器を取り上げた。数回のコールの後に相手が出た。


「はい中島です」

「葵姉さん? 紫子です。今時間いいかしら」

「まあ、もちろんよ。でもこっちはいいけど、奈々ちゃんは見てなくて平気?」

「大丈夫、いま《マリアン・グルービィ》見てるから」

「え?」

「テレビアニメよ」

「ああ」


 そして紫子は昼間留守していたこと、お中元の礼を述べた。


「気を使わなくていいのに。姉妹なんだから」

「そうは行かないわ。あなただって奈々ちゃんの世話で大変でしょうに。ほんとうに、なんだか押し付けてしまったみたいで」

「何言ってるのよ、藤花が私を頼ってここに来てくれたのよ。だからこれは私と藤花の友情の問題なの」

「そう言ってもらえると」

「正直なところね、私、妹がほしかったの。だって末っ子だったでしょう? しかも葵姉さんとは一回り以上違うし。だからお姉さんになるって憧れだったの」

「そうだったわね。今でも覚えてるわ。藤花には叔母さんって呼ばせなかったものね」

「そりゃそうよ。あの頃は私も花も恥らう女子高生ですからね。オバサンなんて呼ばれてうれしいはずないじゃないの」

「そうよねぇ。それで一時期、藤花も混乱していたみたい。ほら、紫子のことを若い叔母さん、夕子のことを年とった叔母さんとか呼んで」

「夕子姉え、怒ってたわよねぇ」

「ほんと。それで夕子のことは叔母さん、紫子はお姉さん、て」

「それでも夕子姉えは『私だけオバサンなの』ってすねて」

「あの子もこどもみたいなところがあるから」


 三人姉妹うち、どういう訳か一番の年の離れた葵と紫子は気が合うのだった。


「それでね、紫子」


 と、藤花の母は改まって言った。


「藤花のことなんだけど」

「なに。藤花ちゃんなら心配ないわ。奈々とも仲良くしてくれるし。私も助かってるくらいよ」

「ええ。でもやっぱり、ね」

「心配はわかるわ。そうね、正直に言うけれど、何食かは抜いているようだわ」

「やっぱり」

「少し痩せたものね。最低でも一日一食は一緒に食べるようにしているのだけど。あまりしつこく言うのもね。藤花ちゃんの自主性は尊重したいの」

「そうね。気を遣ってくれてありがとう」

「やめてよ姉さん。あの子は私にとって、親戚の子たちのなかでも特別なの。顔もよく似ているしね。ほんとの妹と思っているのよ」

「ありがとう」

「やめてってば。それとね、姉さん」

「なあに」

「藤花は絶対に大丈夫よ」

「え、」

「あの子の心のエネルギーは今は空に近いけど。でも今は充電中なの」

「そうなの?」

「そうよ」

「どうして分かるの」

「そりゃあね、」


 紫子はくすくす笑いならがら、


「あの子、私と顔だけじゃなくて気性も似ているから。私もね、ツヨシを、夫を亡くした時、そりゃあ落ち込んだわ。一時はそれこそ今の藤花ちゃんみたいだった。

 でもね、このアパートが私を抱きしめてくれた。ツヨシの遺したこの《にしき荘》がね。ここにはツヨシの優しさが宿っているの。だから藤花ちゃんも、いずれは傷を癒し、飛び立てるはずよ」

「そうあってほしいわ。ほんとうにそうあってほしい」


 電話の向こうの葵は、祈るようにそうつぶやいた。

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