Ⅵ.終わる夏 2
藤花は一○一号室で紫子を手伝って夕飯の仕度をしていた。
それはしばらく前からの日課だった。奈々がテレビを見て大人しくしている間に料理をするのだ。
夕食の用意が出来ると、三人はちゃぶ台を囲んで手を合わせた。
「いただきます」
と唱和する。紫子に言われてテレビを消した奈々は、続きが気になるのかそわそわしていた。
「奈々、お行儀よくなさい」
そう注意されても視線はちらちらと何も映っていないテレビの方に行きがちだった。
「大丈夫だよ、奈々」
藤花はこっそりと、
「ちゃんと録画してるから」
そう聞くと奈々はニコッとして、
「ありがとう藤花お姉ちゃん」
と、これもこっそりと答える。もちろん、紫子は知らん顔をしているけれど、すべて聞えているのだった。
夕食が終わると、藤花は奈々のために録画しておいたテレビアニメを再生してやり、片付けを手伝った。
「あのさ、紫子さん」
しばらくしてから、食器を拭きながら藤花は言った。
「なあに」
「あたし、こんどバイトすることにしたんだ」
「あら」
紫子は笑顔を見せて、
「それはいいわね。どこ? 近く?」
「うん。そこのコンビニ」
「ああ、あそこ」
「うん」
「もう決めて来たんだ?」
「うん。黙っててゴメン」
「いいのよ。藤花ちゃんが決めたことだもの」
「うん。ちゃんと家賃も払うから」
「まあ。でも、それはいいわよ」
「でも、」
「いいの。藤花ちゃんは家族だもの。それに、じっさいの話、お家賃払えるほど貰えないでしょう?」
「・・・」
「それにね、私こそ奈々のベビーシッターのお礼をしなきゃと思っていたのよ」
「いいよ、そんなの」
「どうして」
「だって奈々は家族だもの」
紫子はくすくすわらって、
「ほらね。はい、だからこのお話しはこれでおしまい」
「うん。ありがとう紫子さん」
しかし藤花は、もじもじしながら、
「あのさ、もう一つお話しがあるんだけど」
「まあ、なに」
「あのさ、あたし、なにか資格を取ろうかと思ってるの」
「あら、何の?」
「うーん、まだ決めてないんだけど。やっぱり将来のことを考えると、何か手に職が無きゃ、とか思うし」
「そうなの」
「まだぜんぜん下調べの最中なんだけどね。ただ、紫子さんには話さなきゃ、と思って」
「葵姉さん・・・ご両親にはなにも?」
「うん。まだ」
そしてしばらくは食器の触れ合う微かな音と、水道の水音、そして奈々が見ているビデオの音だけが聞えた。
紫子はきゅっ、と水道を止めると、
「藤花ちゃん、」
と、姪を正面から見た。
「なに?」
紫子はエプロンで手を拭きながら、
「これはあなたのお母さんから言われていたことなんだけど」
「え」
藤花はドキリとして叔母の顔を見た。
「時が来たら話してほしい、て言われていたの」
そしてにっこりして、
「どうやら今がその時らしいわ」
「あの、お母さんはなんて」
「では葵姉さんの伝言を伝えるわね。もし藤花ちゃんにその気があるのなら、学校に通っ
てはどうか、て。専門学校でもいいし、大学入試資格検定を受けて、大学に進学してもいい。お金のことなら心配しないでいいから、藤花ちゃんの好きな道を進みなさい、て」
「お母さんが。そんなことを」
「ああ、そうそう続きがあったわ。もちろんお父さんも援助を惜しまない、て」
そう聞くと、藤花は紫子に背を向けた。鼻をすする音が聞える。紫子は後ろから藤花をぎゅっと抱きしめた。
「誰よりも藤花ちゃんのことを心配しているのはご両親よ。あなたに可能性をあげたい、そう言っていたわ」
「うん」
藤花は微かに肩を震わせていた。
すると、今までビデオを見ていた奈々が、とことこと走って来て藤花の前に立った。背伸びして頭を撫でようとした。
「藤花お姉ちゃん泣かないで。奈々がイイコイイコしてあげるから」
そう聞くと、藤花は膝を折って奈々を抱きしめた。
「ありがとう奈々。ありがとう紫子さん」
紫子は、奈々を抱きしめている藤花をしっかりと抱きしめた。
コンビニエンスストアのレジに藤花は黙って立っていた。
薄いベージュにチェーン店のロゴの入った制服が妙に似合っていた。どこから見てもバイト学生のような姿だった。
時刻は十四時を過ぎており、店内には客の姿はなかった。
九月に入ってからはこの時間帯に小中高生が来ることもなかった。昼時はさすがに込み合ったけれど、今はエアポケットに入ったかのような静寂が店内を支配していた。店長とバイトの大学生の男の子はバックヤードで在庫のチェックをしている。
ここで働き始めてから二週間。最初はレジの操作に戸惑ったり、お客の対応にあたふたしたりもしていたが、最近はようやくそれらにも慣れて来た。
もともと無愛想だったせいか、「いらっしゃいませ」の一言がなかなか出ずに、口の中で小さく、「いっしゃしゃいせー」とか、意味不明の言葉をごにょごにょつぶやくのがやっとだったのだ。
だが、今はしっかりと滑舌よく「いらっしゃいませー」「お弁当、温めますか?」「ありがとうございましたー」と言えるようになっていた。
と、自動ドアが、がーっと音を立てて開いた。
「いらっしゃいませー」
と元気良く声をかける。
「わーい、藤花先輩だぁ」
「藤花さん、こんにちはー」
入ってきたのは見知った顔の二人だった。
「わ、なんであんたたちがここに」
藤花は顔を赤くして、
「なんで、って、ねぇ」
リコはえみりを見ながら、
「そりゃあね。だって《にしき荘》に行く時ってたいていここで何か買ってたし」
「うー」
藤花は頭を抱えて、
「恥ずかしいから黙ってたのに」
「あー、大丈夫ですよぉ、先輩は立派にやってますって」
「そうですよ、藤花さん。最初の頃の『いっしゃしゃいせー』よりはだいぶ進歩しましたよ」
「わ、ばか、えみり」
藤花はくわっと目を見開いて、
「見てたのかい!」
リコはいたずらっぽく笑いながら、
「えへへへ、先輩のことが心配で」
「いったいいつから」
「初日から」
そう言うリコの言葉を聞いて、藤花の顔は真っ赤から真っ青になった。
「見てたの・・・」
「はい。見てました」
えみりはくすっと笑って、
「藤花さんがお釣りを間違えた時も、カップ麺の山を崩してしまった時も。あと、モップがけしててコケた時も。あの時は飛び出していって手伝ってあげたかったです」
照れを通り越して羞恥に身悶える藤花は、辛うじて反撃した。
「が、学校は? ふたりとも学校はどうしたの」
「あー、自主的休校ということで」
「サボリかよ」
「いえ、わたしは今日はちゃんと早退しました。具合が悪いからって」
「どこがちゃんとだ」
藤花はぶつぶつと不機嫌そうにつぶやくと、
「と、とにかく、仕事の邪魔なんだから帰ってよね」
「あ、それはないですよぉ先輩」
「そうです。だって私たちお客様ですもの」
そして互いの顔を見ながら、
「ねー」
と声を揃える。
「うー」
藤花が、こいつらどうしてくれよう、と思った時だった。
自動ドアが、がーっと音を立てて開いた。
「いらっしゃいませー」
藤花はとっさに営業スマイルで来店した客に声をかけた。
「おー、さすがプロ」
「すてきです、藤花さん」
ぱちぱちと手を叩く二人に、藤花は小さな声で、
「あんたたちねー、いいかげんにしなさいよ」
「うわあーっ」
大声を上げたのはたった今入ってきた客だった。
その顔を見た藤花は、
「ありゃ」
そしてリコとえみりは、
「あれ」
「あらあら」
と、それぞれ声をあげた。なぜなら来店したのはあの『サイテー男』だったからだ。
「な、なんだお前ら、なんでおれの行く先々に、」
震える声でそんなことを言う男は、しかし三人相手では勝てないと思ったのか、それとも以前のリコとえみりの仕打ちを思い出したのか、「うわぁ」と情けない声を上げると、回れ右をして自動ドアに向かい、閉まりかけたガラス戸に挟まれ、「ぐぇっ」とおめき声を上げてから、後ろも振り返らずに走り去った。
「なに、あれ」
藤花は呆気に取られてそれを見送り、リコとえみりは意味あり気に視線を交わし、にやりと小悪魔めいた笑みを浮かべた。
藤花は両手を腰に当ててつぶやいた。
「何しに来たんだ、あの野郎」
リコとえみりも、
「まったくですね」
「ほんとです」
などと言っている。藤花は二人を睨んで、
「あんたたちも! ガッコサボってこんなところに来てないで勉強しなさいよ」
真珠子は久しぶりに実家に帰ってきた兄の様子がおかしいことに気づいた。
いつもならへらへらと笑って真珠子をからかったり、スキンシップと称して妹の体を触ってくるのに、どこかオドオドとして落ち着かない様子だった。
「どうしたのお兄ちゃん。きょうは大人しいね。いつもみたいにオッパイ触らないの?」
大学生の兄は怯えた顔で、昔付き合っていた女の子に復讐されたのだと言葉少なく答えた。
「あ、あいつら、つるんでやがった、つるんでやがったなんだよ。それで俺の行く先々に待ち伏せしてやがって」
真珠子は冷たく、
「それはお兄ちゃん、自業自得でしょ。散々女の子を泣かしてきた報いだよ」
「だけどさぁ」
なおも言い募るこの兄に真珠子は、
「これに懲りたら外でオイタはしないことね。他所の女は怖いでしょ」
そして甘やかすように、
「お兄ちゃんのことわかってあげられるのは妹のわたしだけなの。わかるでしょ?」
「真珠子・・・」
すがるような目で妹を見る。
「お兄ちゃんが外で悪いことをするのを見聞きするのは辛いの」
そう、馬鹿な兄の悪評は何度も聞いてきた。自分と同じ学校に通う女子生徒に手を出しているのも知っていた。
「私なら・・・真珠子ならお兄ちゃんを慰めて上げられるよ」
ねっとりとした甘い毒液のような言葉。
「これ以上被害者を出さないために・・・お兄ちゃんが外の女の子を泣かせないように」
兄は真珠子にすがりつき、その豊かな胸に顔を押し付けた。
「怖いんだよ、女が。もう怖くて外の女となんか付き合えないよ。お願いだ、助けておくれよ真珠子、真珠子ぉ」
真珠子は兄の頭を愛おしそうに抱え込む。
(これで・・・お兄ちゃんはもう誰も傷つけない。外のひとに迷惑を掛けることもない。誰も不幸にしない。なぜなら)
「大丈夫。お兄ちゃんにはわたしがいるよ。お外の女なんかもう止しなよ。これから先ずっと一緒にいてあげるから」
(藤花先輩やリコが立ち直れば、兄が復縁を望んでも拒絶されるだろうとは予想していた。復讐されて逃げ帰ってくることもあるだろうとは踏んでいたけれど、まさかこれほどの効果があるなんて)
(兄が泣きつく先は、幼いころから弄んでいて逆らう心配のない妹の私になるのは分かっていた)
(もうお外には出さないからね。サイテー男のお兄ちゃん)
そして真珠子は聖母のような、それとも毒婦のような微笑みを浮かべた。
(今回のリリカルダメージ症候群はこれで納まるはず)
その後も藤花は昼間はコンビニでアルバイトをして、夜は《にしき荘》に帰ってから少しづつ大学入試資格検定のための勉強を始めた。
順調に行けば(あくまで仮定の話だったが)、リコたちと同じ年に大学一年生になれるはずだった。
そしてもちろん、バイトが休みの時には、奈々と《にしき荘》の庭で遊ぶのだった。
奈々の今のマイブームはサッカーらしい。小さなオモチャのボールを蹴って、小さな庭を駆け回っていた。
「パス、パス、」
テレビで覚えたらしい言葉を盛んに繰り返しては、つま先でボールをつんつん突付いて転がしながら、横に向けて倒してある赤いバケツに近づいて行く。どうもドリブルをしているつもりらしい。倒したバケツがゴールという訳だった。
藤花は縁側に腰掛け、そんな奈々を優しく微笑みながら見守っていた。
ふと空を見上げる。
夏の名残の白い高い雲が青空をゆっくりと動いていく。けれど、暦の上ではもう秋のはずだった。
藤花はとりとめもなく思考を遊ばせていた。心に浮かぶ事柄をふわふわと追いかける。それは、ちょうどボールを追いかけて小さな庭を右往左往する奈々のような心の動きだった。
『サイテー男』はあの日を最後に藤花たちの前に姿を現さなくなった。どうやら引っ越したらしい、というのがリコの報告だった。
あれからコンビニにはいろいろな人が来た。
学生、サラリーマン、主婦、お年寄り、年齢も職業もさまざまな人たち。レジからの定点観測が藤花の新しい趣味だった。世の中にはなんと大勢の人がいるのだろう。そしてその人たち一人一人には、その人なりの過去が、現在が、未来が、望みが、絶望が、痛みが、喜びがあるのだ。
そうだ。みんな同じなんだ。みんなそうして生きている。それぞれの人が、その人なりの痛みを抱えて。でも、それが生きるということなのだ、痛みのない人生なんてないのだ。そのことを藤花は知った。
「ごーる!」
奈々が赤いバケツのすぐ前で蹴ったボールは、そのままバケツの中に飛び込み、その勢いで上を向いて立ち上がった。
「藤花お姉ちゃん、ほら、ごーる、ごーる」
うれしそうに駆けてくる奈々を抱きしめ、藤花は思った。この子もいつか痛みを知る。いつまでも無垢ではいられない。けれど、その時に自分は何かが出来るはずだ、出来るようになっていたい、と思うのだった。
そうだ。
あたしは長いことここで足踏みをしていた。この居心地のよい楽園で。けれどその日々はもうすぐ終わる。別に出て行くわけじゃない。もうしばらくはここに置いてもらおう。でも、ここでの長い休暇、いつだか瑞希が言っていた、人生の夏休みは終わるのだ。
「藤花ちゃん」
部屋の中から紫子が声をかけた。
「電話。葵姉さんからよ」
そして一拍置いて、
「出る?」
と聞いた。
「はい。もちろん」
藤花は笑い、サンダルを脱いで縁側から部屋に入る。受話器を受け取ると、入れ違いに紫子はサンダルを突っかけて庭に出た。
「さあ、奈々、お母さんがキーパーよ。華麗なドリブルを見せてちょうだい」
「うん。パス、パス」
「キーパーにパスしてどうするのよ」
「お?」
藤花は叔母と従妹を見ながら、受話器を耳に当てた。
「もしもしお母さん?」
そうだ、バイト代が入ったら、新しいケータイを買おう。
藤花は母の声を聞きながら、そんなことを考えていた。
(了)
あとがき
読んでいただきありがとうございました。
この作品は以前別のサイトで「リリカルダメージ症候群」として公開したものに加筆修正したものです。
楽しんでいただけたら幸いです。
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