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Ⅴ.エデンの園 2


 何かが聞こえた気がしたえみりは軽く首をかしげて藤花に声を掛けた。


「あの、藤花さん」

「なに」


 奈々を膝の上に抱いてプリンを食べさせていた藤花は顔を上げてえみりを見た。


「なんだか下に来客みたいですけど」

「ほんと? 紫子さんにお客なんて珍しい」

「奈々ちゃん、よろしいんでしょうか」

「いいんじゃない? それならなおさらここで預かっていたほうが」


 カンカンカン、階段を踏む音が聞える。


 ややして戸口に現れた人物を見て、藤花ははっとした。


「あの、先輩、わたし」


 泣きそうな顔のリコは、しかし部屋にいるのが藤花と奈々だけでないと知って、一瞬固まる。ちゃぶ台の前で澄まして正座しているあの子は誰?


 藤花はつかの間どんな顔をしていいか分からなかった。だが、


「プリン、あるよ」

「えっ」

「おいしいよ?」


 藤花のやや硬い笑顔をまじまじと見つめる。


「リコお姉ちゃん、おいしーよ」


 明るい奈々の声に救われた思いがしたリコは、自然と微笑んだ。


「あの、じゃあお邪魔します」


 リコは部屋に上がると、えみりの隣に腰を下ろした。


 えみりはにっこり笑って、目の前に置かれた白い箱からプリンを取り出し、スプーンを添えて差し出した。


「どうぞ」

「あ、ありがとう」


 ホームメイドの焼きプリンからは甘い香りが漂っていた。


「おいしいんだよ」


 と奈々に言われて、リコは「いただきます」とプリンを一口食べた。


「あ、おいし」


 そうつぶやくと、えみりは両手をぱちんと合わせて、


「ありがとうございます。お口にあってよかったです」


 リコは藤花を見て、『誰なんですこの子は』と目で聞いた。藤花は、


「あー、紹介するね。この子はえみり。そのプリンを作ったのもこの子なの。えみり、この子はリコ。前にいた学校の後輩なの」

「はじめましてリコさん。わたし、藤花さんの新しい恋人ですの」


 しれっとして言う。


 恋人ですって、とリコは一瞬で燃え上がった。そして気づく。前に藤花先輩とデートしたという女に違いない。


「またあんたはそういうことを」


 藤花が呆れているところを見ると冗談らしい。けれど、えみりの藤花を見る目で確信する。本気の目だった。


 しかし、リコは彼女の作ったプリンをもう食べてしまっていた。こんなにおいしいお菓子を作れる人を恨むのは難しかった。


「リコ」


 と、藤花はあらたまって声をかけた。


「はい」


 リコは藤花が何を言おうとしているのか分からず緊張した。


 藤花はふっ、と柔らかい笑みを見せた。


「昨日はあんなこと言ってごめん。謝るわ。つい意地悪なこといっちゃった。許してね」


 リコは大きく目を見開いて、藤花を見つめた。それは彼女がよく知っている、優しい先輩の顔だった。


「いいえ、そんな」


 還って来た、とリコは思った。あの優しい先輩が。自分がよく知る藤花先輩が。


「それにしても」


 と藤花はあることに気がついて唇の端に笑みを浮かべた。


「この三人が揃うなんて」


 そしてクックックッ、とあまり性質のよくない笑みを漏らす。


「先輩?」

「藤花さん?」


 あのサイテー男に傷つけられた少女が三人。しかもそのことを知っているのは藤花だけなのだ。


「くふふっ、はっはっはっは。あーはっはっはっ」


 皮肉な笑みは哄笑に変わった。


 そんな藤花を、二人の女子高生はいぶかし気に、幼い少女はきょとんとして見つめていた。



 一階の一○一号室では、大人たちの会話が続いていた。


「そうですか。ではこのアパートはご主人が」


 リコの父親の言葉に紫子はうなずいた。


「ええ。亡くなった主人の形見というか、私たちにとってこのアパートは主人も同然なのです。父親をなくした奈々を気の毒がる方は多いのですけれど、あの子も私も少しも寂しいとも不幸とも思いません。だってあの人は毎日、私たちを包みこんでくれている。夏の日差しからも冬の寒さからも守ってくれているのです」


 そう聞くと、リコの父親は大きく鼻をすすった。


「いや、失礼。立派な旦那さんですな」

「はい。ただ」


 話が湿っぽくなったせいか、努めて明るく、


「最近ではだいぶ老朽化してきまして。修繕するか建て替えるか、というところなんですけど、なかなか決心がつかなくて」

「ははあ。土地もお持ちなんですか?」

「ええ。ですから土地を担保に銀行からお金を借りて、という目処はついているのです。ただ、奈々がもう少し大きくなるまでこのアパートには手を付けたくないのです。思い出もありますし」


 リコの母親は縁側の向こうの小さな庭を見た。プランターボックスには背の高いひまわりが咲いてる。その下にはおもちゃの赤いバケツが転がっていた。無邪気に遊ぶ幼子の姿が見えるような気がした。そして、


「まるでエデンの園ですわね」


 とつぶやいた。


「こどもたちが遊ぶ姿が見えるようだわ」

「そうですわね」


 紫子は考え深げに、


「奈々にとってここは楽園でしょう。いずれ無くなってしまうことが約束された――本当に無くなってしまうのではなく、幸福なこども時代に別れを告げる時が来る、という意味ですけど――思い出の場所。藤花にとっても、きっと私にとっても」


 その時、二階の部屋から大きな笑い声が聞こえてきた。藤花の声だった。


「あら、上はにぎやかですわね」


 紫子はそう言って笑い、岩崎夫妻も笑った。



 瑞希が《にしき荘》の前までくると建物の前に自動車が停まっているのが見えた。白い国産のセダン。どこかで見たような気がしたが、白いセダンなどありふれている。瑞希はその車を横目で見ながら階段を上った。


 藤花に会ってどうしようという考えがあるわけではない。ほんとうに、ただここに来たかったのだ。リコが言うところの『昭和の香り』のする部屋に。


 瑞希が開け放たれたドアの前まで来た時だった。


 室内から笑い声が聞こえてきた。


「くふふっ、はっはっはっは。あーはっはっはっ」


 藤花の声だった。


 一体何が、と思いながら、戸口に立って声をかける。


「中島先輩?」


 室内にいた四人の少女の視線が瑞希に集中した。


 窓際の藤花は奈々を膝の上に抱いて大笑いしており、奈々も一緒になって笑っていた(藤花にわき腹をくすぐられているらしい)。ちゃぶ台をはさんだ反対側にはリコと見知らぬ少女が並んで座っている。二人ともなぜか困り顔をしていた。


「あの、いったい何が」


 そう問う瑞希を見て藤花は、


「あはっ、結びの神の登場だね」

「え?」

「これでフルメンバー。くっくっくっ」


 そしてまたひとしきり笑う。藤花と奈々の笑い声は、従妹ということもあってどこか似ていた。何が面白いのか分からないリコとえみりと瑞希は、ただただ困惑するばかりだった。



 えみり手製のプリンをふるまわれた瑞希は、訳がわからないままに一口食べ、「おいしい」とつぶやいた。その言葉を聞くとえみりはにっこりと笑い、リコは苦笑した。瑞希がさっきの自分と同じようなことを言ったからだ。


 こうして、えみりの持ってきた六つのプリンは五人の少女たちの口の中に消えた(奈々が二つ食べた)のだった。


 藤花が上機嫌で、


「瑞希があのつまらない『夏休みウェルカム・パーティー』を開いたお陰でえみりと知り合いになれたの」


 などと言うのを、瑞希は釈然としない思いで聞いていた。あの外しまくりで失敗した惨めなパーティーがどうしてこの事態を引き起こすきっかけになったのかさっぱり分からなかったのだ。


 同様の思いはリコも同じだった。


 奈々ちゃんの件でひどい言葉を投げつけられたと思ったら、今度はまた優しい言葉をかけてくれる。


 えみりにとっては、自分に関しては疑問の余地はなかったが、藤花の言うパーティーのこと、瑞希を指して言った《結びの神》という言葉の意味が分からなかった。藤花に聞いても、


「大したことではないの。つまらない話」


 というばかりで要領を得ない。


「まあいいじゃないの。済んだことだもの」


 三者三様の疑問・疑念を解き明かすため、だからリコは車で両親と一緒に帰るのを断った。瑞希たちと一緒に歩くことにしたのだった。


 藤花の部屋の戸口で、リコとえみりと瑞希の三人は藤花と奈々に別れを告げた。それはもちろん再会を約した挨拶で、藤花はそれにこう答えた。


「みんな、いつでも遊びに来なよ」


 三人は《にしき荘》を後に並んで歩いた。道の曲がり角で振り向くと、二階の窓から藤花と奈々が笑顔で手を振っているのが見えた。三人も手を振りながら角を曲がった。


 藤花の視界から出たとたん、三人は顔を見合わせた。


「えっと、えみりさんでしたっけ」


 瑞希は今日初めて会った少女に声をかけた。


「はい」

「あの、よければだけど少しお話ししませんか。いえ、別に問い詰めようとかそういうんじゃなくて。お話しを聞きたくて」

「そうですね」


 えみりは思案顔で、


「わたしも何がどうなっているのか知りたいですし」

「リコもいいよね?」


 もちろん望むところだった。リコはこくこくと無言でうなずいた。


 商店街まで出た三人は、腰を落ち着けて話せるところを探してしばらくうろうろした。ある喫茶店の前で、


「あ、ここにしようよ」


 と瑞希が言うと、えみりは、


「あの、できればここ以外で」


 とバツが悪そうに異を唱えた。


「なんで?」


 というリコの無邪気な問いに、


「ここは、その、ちょっと」


 と煮え切らない態度を取る。追求してはいけない何かを感じ取った瑞希は、


「じゃああっちのハンバーガーショップにしましょう。三階の禁煙席なら落ち着いて話せるし」


 そして三人はソフトドリンクだけを持って禁煙席に納まると、それぞれが知っていることを話し始めた。



 お互いの話がパズルのピースのようにぴたりと収まったとき、三人の少女たちは一応に「ああ・・・」と声を上げた。


「するとなに、私たちはそのサイテー男に振り回されていたということなの?」


 瑞希の問いかけに、えみりは答えた。


「そうとばかりは。むしろ瑞希さんが積極的に動いて下さったおかげではないでしょうか。瑞希さんのパーティーの失敗があったから、藤花さんは部屋を飛び出してわたしに会えたのですし」


(そうか。この子が“人物X”なのか)


 瑞樹はそう理解した。真珠子が分からなかった“要素(ファクター)”とはこの子のことだったのだ、と。


 そしてえみりは、藤花が《結びの神》と瑞希のことを呼んだ理由がようやく分かった。疑問が晴れすっきりした表情をしていた。


「私はまだ納得いかない」


 リコは不満そうに、


「結局、先輩は私のことを許してくれたの? それとも今日のは先輩の気まぐれだったの?」

「というよりも、これはあれね多分」


 瑞希は空中で指を動かしながら、


「リリカルダメージ症候群(シンドローム)

「はあ?」

「青春のうんたらかんたら(・・・・・・・・)


 リコは首を振って、


「分からないよぉ」

「うーん」


 瑞希は頭をかいた。


「でもそうとしか言えないの。たぶん、先輩は部屋を飛び出した時に、溜め込んでいたものをあらかた吐き出してしまったんだと思う。そして」


 その後をえみりが続けた。


「そしてわたしに出会った。藤花さんにとってわたしがどれほどの存在なのかはわかりません。けど、お話ししていて分かりました。藤花さんが少しづつ穏やかな表情になって行くのが」

「そして奈々ちゃんの一件で、たぶん最後まで残っていた負の感情を出し切ったのだと思う」


 瑞希がそう言うと、三人はもう一度、「ああ・・・」と声を揃えた。


「ところで」


 気を取り直して瑞希はこう言った。


「今後のことだけど。皆はどうするの」


 えみりは、


「そうですね。わたしは藤花さんの本妻の座を狙いたいです」


 と冗談とも本気ともつかないことを言う。


「ちょっとぉ、だめだよそんなの」


 リコが色をなして、


「先輩は私のなんだから。水泳部では手取り足取り教えてもらってたんですからね」

「それは過去のことではないでしょうか。やはり藤花さんは美味しいお菓子を焼ける人を望まれると思いますけど」


 何を張り合っているんだろうこの二人は。瑞希はテーブルに頬をついて二人の掛け合いを見ていた。女子高生ドツキ漫才のペアはこの二人の方が面白いのではないかしら、などと不謹慎なことを考える。


「そういうリコはどうするの」


 瑞希から水を向けられたリコは、


「えーと、藤花先輩と仲直りできたみたいだから、もっと深い仲になりたいかなぁ」


 『深い仲』が何を意味するのかは疑問だったが、瑞樹は深く考えないことにした。


「なら瑞希はどうするの」


 と聞かれ、


「とりあえず私の役目は終わったような気がする」


 真珠子に報告してあげなきゃ、という言葉は呑みこんだ。背後で《真珠さま》が暗躍していたと知ったら、きっといい気はしないだろう。それに真珠子も自分も、結局決定的な手は打てなかったのだ。要するになるようになった、のではないか。瑞希はそう思うのだった。


「先輩の所に遊びに行く時、たまに誘ってよ。つまり、お邪魔でなければね」


 そして、何の気なしにそう言った瑞希の言葉に、リコとえみりはキャー、と嬌声を上げたのだった。


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