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アルコイリスと七色の樹液 1章

人間は決して足を踏み入れることのできない昆虫だけが生きる独自の世界がある。その世界はそこに住む住民によって人間界と区別し昆虫界と呼ばれる。その世界へは人間が入ろうとしても入れない。その場合はその代り、人間は別の場所へ行くだけである。別の場所とは人間界のどこかである。

つまり、昆虫たちにとってはあるポイントへ行くと昆虫界という名の別次元へ突入することができるという訳である。ただし、昆虫界の住民は人間界に入ることができる。

ようは昆虫界に入れるのは昆虫を中心とした人間以外の生き物のみなのである。実はこの昆虫界に住む昆虫には多くの人間界に住む昆虫とはいくつかの違うところがある。

第一に、昆虫界に住む大抵の昆虫は朝や昼といった明るい時間帯に活動を行うことが多い。第二に、リアリティーには欠けるが、昆虫界の昆虫は二足歩行ができる。

第三に、昆虫界に住む昆虫は成虫になってから二年が経つと、6年間は小学校へ通って処世術を学ぶことになる。とはいえ、昆虫界には人間界のようにさらに上の中学校や高校は存在しない。また、昆虫界は人間界とは違い幼稚園や保育園もないので、昆虫界の虫は三歳から修学することになる。

昆虫界には甲虫王国という国家が存在する。甲虫王国のほとんどは全てが森の中にある。森林には高木からなる高木林と低木からなる低木林というものがあるが、甲虫王国にはその両方が存在する。甲虫王国は広域に渡って樹木が繁茂しており高所から見ると海のように見える樹海でもある。

甲虫王国の人口は3000匹を超えている。他国からの移民を除くと、その名のとおり、この王国にはカブトムシやクワガタといった甲虫たちが住んでいる。甲虫類は昆虫の中で最も多く世界に30万種が知られている。説明が少し遅れたが、甲虫とは堅い羽を持った昆虫のことを指すのである。甲虫目は体の皮膚や前羽が刀の鞘のようになっているため鞘翅目とも言われる。

話は変わるが、人間界や甲虫王国のカブトムシにはサイカチムシという別名と『昆虫の王様』と言う尊称がある。カブトムシはなぜサイカチムシとも呼ばれるのかについてはサイカチという木に生えた小枝の枝分かれした棘にカブトムシの角が似ているからだとする説がある。

人間界では一般的にカブトムシが幼虫でいる期間は8ヶ月程であり、成虫の寿命は押し並べて一~三ヶ月とされている。カブトムシとはかなり短命な昆虫なのである。ところが、カブトムシはこの昆虫界というところにおいては成虫になってから少なくとも70年以上は生きる。

一方のクワガタムシは人間界では約1500種類が知られている。クワガタの場合の幼虫の期間は2~5ヶ月であり、成虫の寿命は押し並べて1~5年とされている。

ところが、クワガタは昆虫界というところでは少なくとも80年以上は生きる。クワガタはカブトムシよりも長生きする傾向にある。それは得てして人間界で女性の方が男性よりも平均寿命が長いのと同じであるが如しである。なにより、昆虫界の樹液には甲虫を長生きさせる神秘の力がある。

小学校に通っていると子供とも言えるが、甲虫王国の虫は同時に成虫になってもいるので、あるいは大人とも言える。しかし、昆虫は成虫になっても、中身はしばらく子供のままである。昆虫界には成人式がある訳でもないので、甲虫王国では子供と大人の境界線は曖昧模糊である。

甲虫王国の森には樹液の出る出ないに関わらず、普通は人間界では生えるはずのない木も実に多種多様に生えている。アルコイリスという木はその中でも特に注目に値するものである。

アルコイリスの樹液は実に七色もある。そのため、甲虫たちはそれを七色の樹液と呼んでいる。アルコイリスの樹液の味はそれぞれ色によって違っておりそのどれもが最高に美味とされている。

そうなると、アルコイリスには多くの甲虫が寄り集まってくることになる。とはいえ、アルコイリスの近辺では樹液の奪い合いによるケンカをするようなことはない。なぜなら、甲虫王国では皆がアルコイリスの樹液を吸うことができるようしっかりと管理されているからである。

アルコイリスは近くに住み着いている甲虫だけではなく遠くに住む甲虫たちにとっても圧倒的な人気を誇っている。アルコイリスにはそれ故に遠方からも一生に一度はその樹液を吸いたいと思う甲虫たちが遠路遥々やって来る。甲虫王国の国民ではアルコイリスを知らない者はいないくらいである。

昆虫界には先に上げた甲虫王国の他にもいくつかの国家が存在する。それらは以下の4つである。第一に、りんし共和国は国民により首相が選出されておりチョウとガの住む国である。

第二に、雑虫合衆国はいくつかの州が連邦政府の下で統合されておりセミやトンボなどの住む国である。第三に、まくし公国は公爵デュークが存在しておりハチやアリの住む国である。

第四に、節足帝国はかつて国家がバラバラに存在していたが、今は皇帝の下で一つに統一されておりムカデやダニなどの住む国である。体節動物とは体に節があるものを言うが、節足動物は足にも節があるものを言うのである。後者の節足動物は全ての動物の80パーセントを占めている。そのため、正確には色んな生き物が節足動物だが、節足帝国はそこから命名されたのである。甲虫王国には王様キングが存在する。ようは人間界と同様に昆虫界においても種々雑多な国家が5つも林立しているという訳である。イントロダクションが少しばかり長くなっってしまったが、これはその中でも甲虫王国の中の話である。


ここは甲虫王国の中の『平穏の地』である。名前のとおり、ここは虫にとっての安全地帯セーフティー・ゾーンである。簡単に言ってしまうと『平穏の地』は治安がいいということである。

甲虫王国は『平穏の地』のような『~の地』という100以上のセクションからなっている。その土地にはそれぞれの個性があるので、虫はどこへ行っても楽しむことができるようになっている。

とあるクヌギの木の幹である。そこにはコクワガタの家族が住み着いている。彼等はとてものんびりとした気性の家族である。そこはクヌギの木の一種類のみが極めて多い純林と呼ばれるところである。

テンリという名のオスのコクワガタは太いクヌギの木から生えている枝に乗っている。テンリは生粋の平和主義者である。そのため、テンリは誰とでも仲良くなりたいと思っているし、誰かしらがケンカをしているところを見るのは大の苦手である。テンリは心やさしきクワガタだという訳である。 

「ねえ」テンリは傍にいる父親のテンリュウに話しかけていた。「明日はいよいよアマくんと一緒に旅に出るんだよ。ぼくは今からワクワクしちゃうなあ」テンリは興奮気味である。

「そうだね。テンちゃんは無事にお家に帰ってこられるといいね」

 テンリュウは息子の発言に応えた。テンリは「うん」と頷き続けた。

「パパも七色の樹液を食べたことはあるんだよね。七色の樹液はどんな味だったの?」

「それはもう言葉では言い表せない程にどれもおいしかったよ。道のりは遠くて険しいけど、テンちゃんも無事にアルコイリスまで辿り着いて七色の樹液の味を堪能できるといいね」テンリュウは言った。

「うん」テンリは力強く頷いた。「ぼくはきっとアルコイリスまで辿り着くよ」

「そうだね。それでは夕食にしようか。お家のクヌギの樹液はしばらく吸えなくなっちゃうから、テンちゃんは今夜もしっかりと味わうんだよ」テンリュウは和やかな口調で言った。

テンリとその父親のテンリュウの二匹は樹液の出ているところまで木を伝って移動した。そこではすでにテンリの母であるミナミと小学4年生になるテンリの妹のミナが食事を始めていた。

「テンちゃんは明日からいなくなっちゃうと寂しくなっちゃうねー」ミナは悲しそうである。

「ええ」母親のミナミは穏やかに言った。「そうね。でも、テンちゃんはずっと行ったきりじゃなくてまたすぐに帰ってくるのよ。ミナちゃんはそれまでパパとママと楽しみにして待っていましょうね」

「ミナちゃんも小学校を卒業したら、アルコイリスに行ってもいいー?」ミナは聞いた。

「あら」ミナミは言った。「それはダメよ。ミナちゃんには残念だけど、それは我慢してね。外の世界は危険が一杯でミナちゃんには早すぎるのよ」ミナミはすまなそうにしながらも本懐を口にした。

「でも」ミナは言った。「ミナちゃんは学校に行く途中で危険な目にあったことは一度もないよー」

「それは通学路ができるだけ安全な道が選ばれているからよ。ミナちゃんにはまだまだ知らないことがたくさんあるのよ。今は特に危険な思想の持ち主もこの王国にはいるのよ」ミナミは言った。

「それなら、アルコイリスには家族の皆で一緒に行こうよー。そしたら、アルコイリスにはミナちゃんも行っていいでしょー?」ミナは無邪気に提案した。ミナミは断腸の想いで「それもダメよ」と言った。

「パパも一人で皆の面倒を見るのは大変でしょう?」

「うん」父親のテンリュウは食事をしながらも頷いた。「それは確かにそうだね」

「それじゃあ、テンちゃんがアルコイリスに行くのも危険じゃないのー?」ミナは聞いた。

「ぼくは大丈夫なんだよ。けど、ミナちゃんの言うとおりだよ。家族の皆で行けば、ミナちゃんの面倒を見るのはパパだけじゃないよ。ぼくもママもミナちゃんの面倒を見てあげることができるよ」テンリは名案を思いつき口を挟んだ。これには妹のミナも光明が差したように顔を明るくした。

「そうね。でも、テンちゃんはアマくんと一緒にアルコイリスに行くんでしょう? だから、ママとパパもアルコイリスにテンちゃんが行くことを許可したのよ」母親のミナミは告白した。

「え? そうなの? アマくんが一緒じゃなくてぼくが一人だけだったら、旅に出るのはダメだったの?」テンリは落胆している。妹のミナはテンリのその姿を見て少し悲しくなってしまった。

「そんなに落ち込むことはないんだよ。最初は誰だってそうなんだからね。世の中にはどうして一匹だけじゃなく色んな虫さんたちがいるんだとテンちゃんは思う?」父親のテンリュウは聞いた。

「うーんとね。もし一人だと、とっても寂しいからかなあ? だって」テンリは言った。「パパとママとミナちゃんとアマくんがいなかったら、ぼくはすごく嫌だもの。ぼくが一人だと悲しいものね」

「そのとおりだよ。よくわかったね。この世の中は支えあい助けあうために色んな虫が存在しているんだよ。だからね。例え一匹ではできないことがたくさんあったとしてもそれが絶対に恥ずかしいことだとは限らないんだよ。生き物はそのために一匹だけじゃないんだからね」

「うん」テンリは首肯した。「わかったよ。旅の途中でアマくんになにかあったら、ぼくは助けてあげるね」

「テンちゃんはいい子だね。情けは虫のためならずだ。虫はそうやって他の虫を助けてあげていれば、いつかは巡り巡ってそれが他の虫からだったとしても助けてもらえることになるんだよ」

「それじゃあ、ぼくが一人前になったら、家族の皆でアルコイリスに行こうね」

「やったー!」ミナは楽しそうである。「ねえ。テンちゃんは皆で行く前に少しミナちゃんにも七色の樹液を持って帰ってきてー! そうすれば、ミナちゃんも樹液を食べられるよー」

「うん」テンリは了解した。「いいよ。それじゃあ、ミナちゃんは楽しみにしていてね」

「あら」ミナミは口を挟んだ。「それはダメなのよ。ママはなんだか『ダメ』って言ってばかりで悪者みたいだけど、とにかく一人でたくさんの七色の樹液を持って帰ってきちゃうと他の皆の分がなくなっちゃうでしょう? だから、ミナちゃんは我慢してね。我慢できる?」母親のミナミは教え諭すように聞いた。

「えー」ミナは駄々をこね始めた。「嫌だよー! ミナちゃんも早く食べたいよー」

「ミナちゃんは心配しなくても大丈夫だよ。ぼくはきっと一人前になるから、いつかは家族の皆で七色の樹液を食べられる日は来るよ」テンリは希望に満ちた口調で言った。

「やさしいテンちゃんはミナちゃんも連れて行ってくれるって」母親のミナミは穏やかである。「その時はきっとすぐにやって来るから、ミナちゃんはそれでもいい? それなら、我慢できる?」

「うん」ミナはうれしそうに言った。「わかったー! ミナちゃんは待ってるー」

食事が終わると、テンリは父親のテンリュウと話を交わした。今までのテンリの行動範囲は割と狭かったのだが、これからの旅では一気に拡大することになるので、テンリはテンリュウから知らない土地に行った時のアドバイスをもらった。まず、大切なのは謙虚さである。

「郷に入っては郷に従え」とも言うように新天地にやって来たら、その土地の特性を知るためにその土地に住んでいたり詳しかったりする虫の話に耳を傾けることが大切なのである。

テンリュウは『平穏の地』から出て様々なところへ行ったことがあるし、そればかりか、実は海外にも行ったこともあるので、経験はそれ相応に積んでいる。

もう一つ大切なことは甲虫王国にはやさしい虫も一杯いるということである。だから、テンリとアマギだけでは解決の困難な問題に直面した時は他の虫に頼るのもいいことである。

それは先程のテンリュウが言っていたことにも繋がる。つまり、虫は助け合うために一人ぼっちではないという訳である。テンリはそれを肝に銘じアマギに頼りアマギを助けるだけではなくこれから出会う全ての虫に対して助け合いの精神を忘れないようにした。

テンリたちの4匹のコクワガタの家族は眠りに就いた。この日は興奮してしまい中々寝つけなかったが、テンリは体力をつけておくため体だけは休めておくことにした。

その夜は風の吹きすさぶ夜だった。暴風雨とまでは行かないまでも雨もパラパラと降り出した。それでも、日付が変わる頃になると、雨と風は弱まり出した。


翌日である。テンリが目を覚ますと、雨はやはり上がり、天気は快晴だった。旅に出るには絶好の日和である。テンリもそうだが、道の辺の草花も気持ちよさそうである。

テンリの家族の住むクヌギの木には早朝からオスのカブトムシがやって来た。彼こそはテンリの親友であるアマギである。アマギはいつでも明るく朗らかで元気一杯な男の子である。

アマギは体長およそ80ミリのスタンダードなカブトムシである。年は10歳でありテンリと一緒である。テンリとアマギは二年前に小学校を卒業しているという訳である。

「おーい! テンちゃん! 迎えに来たぞー!」アマギはクヌギの木の前の地面から呼びかけた。

「おはよう」テンリはクヌギの木を下りながら聞いた。「調子はどう?」

「おれはすこぶる元気だよ。テンちゃんの方はどうだ?」アマギは聞き返した。

「ぼくも元気だよ。今はパパとママと一緒にご飯を食べていたんだよ」テンリは言った。

「そうなのか? それじゃあ、邪魔しちゃったかな? ごめん。用意ができたら、早速に行こう」アマギは意気揚々としている。テンリと一緒にいることはアマギのパワーの源となるのである。

「うん。そうだね。ご飯はもう食べ終わっていたから、用意はできているよ。ぼくは行ってくるよ」テンリは地上から木の上に向かって呼びかけた。木の上にはテンリュウとミナミとミナがいる。

テンリの家族は総出でテンリを見送りにきてくれた。アマギはテンリの家族の全員と面識がある。逆に、テンリもアマギの家族の全員と面識がある。

「それじゃあ、気をつけて行ってくるんだよ。いいかい? テンちゃんはよく聞くんだよ。一生懸命にがんばっている虫は苦しみから逃げてもいい時だってあるんだよ。テンちゃんはがんばり屋さんだし、それはパパもよくわかっているから、パパはあえてテンちゃんに『がんばれ』とは言わないよ。テンちゃんの場合はあんまりがんばりすぎないようにしないといけないからね」テンリュウは励ますようにして言った。

「帰ってきたくなったら、テンちゃんはいつでも帰ってきていいのよ」

 母親のミナミは言った。アマギは無言でその様子を見つめている。

「うん」テンリはお礼を言った。「ありがとう」

「テンちゃんは元気に帰ってきてねー」先程に起きたばかりのミナは言った。ミナは6歳なので、今は小学校の4年生だが、今日のミナはたまたま学校がないのである。

「うん。ミナちゃんも元気にしていてね。それじゃあ、バイバーイ」テンリはお別れの言葉を口にして進行方向に体の向きを変えた。アマギも同様にした。

「アマギくんも気をつけて行ってくるんだよ」テンリュウは気遣いを見せた。

「うん。ありがとう。それじゃあ、さようなら」アマギは振り返ってからそう言うと片手を上げた。テンリュウとミナミとミナの三人はそれに応えてくれた。

「いよいよだね」テンリはもう振り返ることをせずに歩きながら言った。

「うん。そうだな。よーし! それじゃあ、アルコイリスに向けて出発だー!」アマギは歩きながら景気よく雄叫びを上げた。それを受けると、テンリも気合いが入った。

見送るテンリュウはあまり心配をしていない。それはテンリュウが投げ槍な気持ちだからではない。テンリュウはテンリとアマギの絆の強さを信じているのである。

一人ではできないことでもテンリにはアマギがついているので、おそらくは大丈夫だろうとテンリュウは安心している。テンリとアマギは事実一緒にこれまでも助け合って生きてきた。

テンリとアマギが見えなくなると、テンリュウはミナミとミナを促し木の上に戻って行った。ミナはテンリがいなくなって寂しそうだが、ミナミはテンリュウと同じ気持ちである。

「旅は憂いもの・つらいもの」や「旅は情け・虫は心」など様々な思いを胸にし、テンリとアマギの偉大なるジャーニーはたった今ここから始まった。


悪いことをしている訳ではないのだから、こそこそする必要はないのだが、テンリは不安感から委縮してしまっている。テンリはやさしくてとても謙虚な性格をしているのである。

何も考えていないので一方のアマギはなんら普段と変わりのない物腰である。アマギは家族とお別れをする時もすぐそこに行ってくるみたいにとてもさばさばしていた。

細かいことを気にかけるテンリと大ざっぱなアマギ・やさしい心を持つテンリと強い心を持つアマギはお互いに自分の持っていないもの、あるいは完全ではないものを持っているので、尊敬し合うことができるのである。とはいえ、思いやりを持っているところはどちらも同じである。

「なんだか、ぼくにはまだ旅に出たっていうリアリティはないけど、昨日の夜のアマくんはよく眠れた?」テンリは家族の姿が見えなくなる程に遠くへやって来ると相棒に対して話を始めた。

「うん」アマギは気楽に答えた。「おれはよく眠れたよ。テンちゃんはどうだったんだ?」

「ぼくは緊張して眠れなかったんだよ。でも、体は休めていたから、元気だよ」テンリは言った。

「そうか? さすが、テンちゃんは体調管理がうまいな。でも、緊張することはないよ。リラックスだよ。リラックス」アマギはアドバイスした。「別にいつも通りの心境でいてもなんら問題はないよ」

「うん」テンリは素直である。「そうかもしれないね。アマくんはいつもどうやって寝ているの?」

「寝方か? おれは土の中に潜って寝ているよ。テンちゃんは違うのか?」アマギは聞いた。

「ぼくも土の中で眠ることはあるけど、クヌギの木の幹の布団をかけて寝ている日もあるんだよ」

「おお」アマギは感嘆の声を上げた。「それはいいな。今夜はおれもやってみよう。テンちゃんはいいことを考えるな」アマギは称賛した。テンリは「ううん」と言い謙虚である。

「そんなことはないけど、アマくんもやってみるといいよ。お布団は中々いいんだよ」テンリはうれしそうにしている。一旦やるといったら、アマギは必ずやる男なのである。

ここでは虫の暮らしの習性について参考までに説明しておくことにする。甲虫には次のような区別ができる。体が平らなので、木の隙間などで暮らすクワガタやクロツヤムシ・体が丸いので、隠れる時は土の中に潜り込むカブトムシやハナムグリといったように区別ができるのである。

「でもね。昨日ぼくの使っていた布団が風で飛ばされてなくなっちゃったんだよ。仮に布団があっても旅には持って行けなかったかもしれないけど」テンリは少し悲しそうである。

「ふーん」アマギは相槌を打った。「そうなのか。それは残念だな。そう言えば、昨日の夜は突風が吹いていたもんな。でも、テンちゃんにはまたいい布団が見つかるよ。おれも一緒にいい布団を探すのを手伝うよ」アマギは申し出た。テンリは素直に「ありがとう」とお礼を言った。

「でも、荷物になっちゃうから、持って行くことはできないよね?」テンリは聞いた。

「いや」アマギは言った。「そんなことはないぞ。心配はないよ。布団くらいはおれが運んで上げるから」

「そっか。アマくんは力持ちだもんね」テンリはそう言って頼りがいのある相棒を褒めた。

カブトムシは自身の体重の40倍のものを持ち上げることができる。人間で言えば、それは自動車を持ち上げることができるのと同じである。アマギは新しい話題を持ち出した。

「テンちゃんはアルコイリスが何本あるかを知っているか?」

「ううん」テンリは否定した。「そう言えば、ぼくは知らないよ。何本あるの?」

「聞いた話によると、アルコイリスは7本あるらしいぞ。ちょっと少なめだな」

「そうだね。でも、アマくんはどうしてそんなことを知っているの?」テンリは不思議そうである。

小学生の時から勉強は好きではなかったので、アマギは基本的に無学である。とはいえ、テンリが不思議そうにしているのはアマギが無知だからではなく単純に気になったからである。

「おれのジイジからその話を聞いたんだよ。ついこの間」アマギは思いつきを口にした。「そう言えば、これはパパに言われたんだけど、サセボじいちゃんにも挨拶に行かないといけないな」

サセボとは全長およそ60ミリのグラントシロカブトの老人ロートルのことである。グラントシロカブトは割と珍しい種類のカブトムシである。体が乾いていると、普段はその名のとおり白色をしているのだが、グラントシロカブトは湿っていると茶色になるからである。

サセボという老人はアマギの祖父の親友でありアマギとテンリとも知り合いなのである。つまり、アマギは自分の祖父からサセボを連想したという訳である。

もっとも、サセボの住む場所には通りかかることになるので、道を変更する必要はなかった。『平穏の地』の地図は頭に入っているので、テンリとアマギにもすぐにそれはわかった。

「ねえ」「テンリはせっせと歩きながら危懼を抱いている。「毎日ぼくたちはこれからの生活でちゃんと樹液を吸えるかなあ? 旅をするのは初めてだから、それは少し心配だよね」

「そうか? テンちゃんは心配性だな。大丈夫だよ。なんとかなるって」アマギはにこやかに言った。「仮になんとかならなくても、その時はその時に考えよう」アマギはまさしくなんでもないといった様子である。これこそはいつも太陽のように明るいアマギの性格の真骨頂である。

 とはいえ、アマギと対照的にテンリは暗い性格の持ち主だと決めつけてしまうのは早計である。アマギの言っていたとおり、テンリは心配性なだけであってネガティブではない。

 だから、相手が明神であろうと死神であろうと、テンリとアマギは明るく接してフレンドリーな対応をすることができる。それはテンリとアマギのいいところでもある。

 小学生の時のテンリとアマギには必然的に友達は多かった。それでも、今のところ、親友と呼べるのはテンリにとってはアマギであり、アマギにとってはテンリだけなのである。


15分ほどが経過した。テンリとアマギの二匹は今もとことこと歩いている。その間のテンリはもう不安を口にするようなことはしなかった。テンリは物事を割り切れないアナログな虫ではないのである。

とはいえ、アマギが傍にいることにより、テンリは安心感を覚えているというのも事実である。特にトラブルに遭遇することもなくここまでの旅は絶好調である。

ひとまず、立ち上がりは順調に進んでいるので、テンリは大いに満足しているが一方の元気があり余っているアマギにとってみると少々物足りないくらいである。アマギはうれしそうな顔をした。

「おれたちはもうすぐサセボじいちゃんのところへ到着するぞ」

「無事に到着できそうでよかったね」テンリは歩きながら答えた。テンリとアマギの二匹はそれから間もなくサセボの元へ到着した。元気な老人のサセボはスクワットをしていた。

「ぼくたちは会いに来たよ」テンリはサセボの顔を見かけると元気よく呼びかけた。

「おや」サセボはスクワットを中止しながら返事を返した。「こんにちは」サセボは木の前の地面に二本足で立ち止まっている。テンリは「こんちは」と挨拶を返した。

「ぼくたちはアルコイリスに向けて旅に出ることにしたんだよ」

「それはそれは」サセボは目を細めた。「旅に出ると、虫には色々とつらいこともあるかもしれないけど、がんばって行ってくるんだよ。大切なのは早く行ってくることではなくゆっくりとでも前進することだからね」サセボは年長者としての気配りをした。テンリは「うん」と返事をした。

「そうだね」テンリは頷いた。テンリの隣にいるアマギも納得している。

「それでは年長者として他にもなにか言葉を送ってあげようか。今回はわしが考えたとっておきのものを披露しよう。それじゃあ、そうだな。うーん」サセボは唸り始めた。

「うん」アマギはなぜかもうお礼を言った。「ありがたい言葉をありがとう」

「おや?」サセボは不思議そうにした。「わしはまだ何も言っておらんよ。それでは気をとり直して言わせておくれ。好奇心を持ちなさい。創造と進化を得られるから」サセボは胸を張って言った。しかし、このサセボの言葉に対し、テンリとアマギは同時に頭を傾げた。テンリとアマギは全く理解できていない。

サセボはいつも哲学者のようにして小難しいことを言うので、先程のアマギは話をはぐらかそうとしたのである。サセボは理論家イデオローグな男なのである。そのため、サセボは普段から理論を述べるのが好きなのである。サセボはさっきの言葉の解説を滔々と弁じ立て始めた。

「虫は好奇心を持つことによって新しい出会いがあり往々にしてそれが自分を次のステップへと導いてくれることがある。虫はその経験によってまた新たな発見をすることがあり・・・・」

「あー!」アマギは木の幹を触りながら言った。「じいちゃんも布団をかけて寝ているのか?」

 一応は話を聞いてはいたのだが、アマギはいつの間にかサセボから少し離れた場所に移動していた。サセボは話の腰を折られ少しがっかりしていたが、すぐに機嫌をよくした。

 サセボもアマギの自由奔放ぶりは重々承知している。サセボは改めて少し誇らしげにした。

「それは今日の朝に発見したばかりなんだよ。その幹は中々いい布団になりそうだろう? ちょうどよかったよ。この場所からだと、アルコイリスに行く途中にわしの孫がいるから、テンちゃんとアマくんはこれをわしからプレゼントとしてその孫に届けてはくれないかな? 強制はしないがね。もちろん」

 サセボは申し出た。アマギは二つ返事で「うん」と了承した。

「別にいいぞ。それじゃあ、渡してあげよう。テンちゃんもいいよな? そう言えば、テンちゃんが持っていた布団もこんな感じのものだったのか?」アマギは気楽な口調で質問した。

「うん」テンリは言った。「というより、この幹はもしかするとぼくの使っていたものかもしれない」

「えー!」アマギは驚いた。「そうなのか? それじゃあ、どうする? 返してもらおうか?」

「ううん」テンリは主張した。「それはいいよ。でも、よかったら、おじいちゃんのお孫さんに会うまでぼくはこれを使わせてもらってもいい? 大事に扱うから、特に壊したり汚したりする心配はないよ」

「ああ」サセボは首肯した。「わしは構わないよ。しかし、テンちゃんは本当にそれでいいのかい?」

「うん」テンリはやさしく言った。「いいよ。このお布団は別に宝物っていう訳でもないからね」

「さすが、テンちゃんは心が広いな。それじゃあ、この布団はおれが持つから、心配はいらないよ。でも、なにか、紐みたいなものはないかな? 角に紐を括りつけて運びたいんだけど」アマギは言った。

「ああ」サセボは手を打った。「それなら、家にちょうどいいものがあるよ。どれ。わしがパッパと結び合わせてあげようか」サセボはそう言うと種々雑多なものがある物置きに行き紐を持って帰って来た。

「ありがとう」アマギはお礼を言いサセボに懇願した。「頼むよ」

「任しておくれ。わしはこういうのが得意なんだよ」サセボはそう言うと少し布団に穴を開け紐を通してからアマギの角に括り付ける作業を始めた。サセボはそんな作業をしながら話し始めた。

「わしの孫はズイカクと言って『樹液の地』で元気に暮らしているはずなんだよ。そのズイくんには婿方の家族の特徴的なしゃべり方が伝染しているから、それを覚えておいておくれ。知ってのとおり、わしはグラントシロカブトだが、ズイくんはオスのティティウスシロカブトなんだ」

甲虫王国ではクワガタ同士やカブトムシ同士やカナブン同士といった風な組み合わせなら、種類の違う虫でも結婚することができる。例えば、チリクワガタとアマミコクワガタが結婚し、たまごが生まれたら、子供は親のどちらかの種類を受け継ぐことになるので、チリクワガタか、もしくはアマミコクワガタの子供が生まれてくることになる。しかも、甲虫王国ではカブトムシとクワガタが結婚することもある。

その場合は子供を生まれないので、番はプラトニック・ラブとなる。テンリの場合はたまたま両親がコクワガタ同士だったのである。間違いのないように言っておくと、ズイカクは『樹液の地』に住んでいると先程のサセボは言っていたが『樹液の地』ではなくアルコイリスは『極上の地』というところにある。サセボはやがてアマギの角と木の幹に繋がった紐を結び合わせる仕事を終え「よし」と言った。

「長さもちょうどいいし、これなら、布団がアマくんのお尻にぶつかることもないだろう。そうそう。最近はこの近所におもしろい虫さんが引っ越してきたという話だから、よかったら、会ってみるといいよ。その虫さんの家もテンちゃんとアマくんのこれから行く途中にあるそうだからね」サセボは親切に教えてくれた。隠居はしていても少しはサセボにも噂を耳にする機会はある。

引っ越しとは言っても、甲虫王国の場合はガム・テープなどによる荷造り(パッキング)の必要はないので、甲虫王国の引っ越しは人間界とは違ってごくごく気楽なものである。

「うん」アマギは頷いた。「わかった。それじゃあ、おれはそれも楽しみにしておくよ」

「それではくれぐれも気をつけて行ってくるんだよ。無理をしないよう注意するんだよ。わしはテンちゃんとアマくんが元気な姿で帰ってくることを楽しみに待っているからね。ズイくんには『わしも元気にやっている』とよろしく言っておいておくれ」サセボはゆっくりとした口調で懇願した。

「うん。わかった。布団は必ず届けてあげるからね。バイバイ」テンリはお別れの言葉を述べた。

「それじゃあな」アマギはそう言うと手を振りテンリと共にサセボと別れた。

 テンリとアマギの二人なら、ケンカすることもなく仲良く旅を続けられるだろうと見送る係りのサセボは思った。テンリとアマギはケンカをしたことがないというのが事実である。

 「ケンカするほど仲がいい」と言うが、テンリとアマギの場合はケンカしない程に仲がいいのである。テンリとアマギは相手の意見を最大限に尊重するから、意見が衝突することはないという訳である。

 テンリとアマギにはズイカクに布団を届けるというミッションができた。そのため、テンリは意気込んでいるが、無心なので一方のアマギは平常心のままである。


今のテンリとアマギの二匹は長い長い旅の序章にいる。これからは色々な困難に見舞われることもあるかもしれないが、今のところのテンリとアマギの二匹は意気揚々としている。

二匹の現在地は『平穏の地』の中である。今しばらくスタート地点である『平穏の地』を抜けるためには歩く必要がある。昆虫からすれば『~の地』は割と広いのである。

アマギは民謡を口ずさんで歩いている。アマギの歌のうまさは世間並である。テンリとアマギの二匹はそんな調子でさらにてくてくと歩いているとやがて虫だかりができているのを発見した。

「あそこの中心にいるのはもしかしてサセボじいちゃんの言っていた虫じゃないか? 随分と人気者みたいだな」アマギは感心した様子である。テンリも同じく感心している。

テンリとアマギの二匹が近づいて行くと、正確にはそれは虫だかりではなく行列だということが確認できた。テンリとアマギが列の先頭に行くと大きなケヤキの幹が横倒しになっていた。

つまり、幹が衝立の役目を果たしているのである。テンリとアマギはそれでも横になった木を攀じ登ってその向こう側へ行った。そこには一匹のオスのオオクワガタの姿が認められた。

彼の名はクシロと言い、クシロはある職業に就いている。とはいえ、昆虫界の全ての虫が職業につく訳ではなくむしろ昆虫界の昆虫は無職の方が圧倒的に多い。

「はじめまして」テンリはクシロのいる側の地面に着地しながら話しかけた。「ぼくはテンリだよ。こっちはアマくんだよ。最近『平穏の地』に引っ越してきた虫さんっていうのは君のことなの?」

「いいや」クシロは答えた。「ぼくは引っ越してきた訳じゃないよ」

「違うんだって」テンリはアマギに報告した。アマギもたった今この場にやって来たところである。

「それじゃあ、君は何をやっているんだ? 一体」アマギは聞いた。

「君の前にはどうして行列ができているの?」テンリは続け様に質問をした。

「まあまあ」クシロは気取らずに言った。「そう焦らず一つずつ話を進めて行こうか。ぼくの名前はクシロと言うんだ。色んな虫さんの悩み事を聞いてアドバイスをして回っている旅のカウンセラーさ」

「そうなの? それなら、ぼくたちもなにか相談させてもらおうよ」テンリは提案した。

「いや。それは無理だよ。なにしろ、おれには悩みが全くないもんな。強いて言うなら、悩み事がないのが悩みだ」アマギは言った。テンリでなければ「そうでしょうね」と言うところである。

「そうか。それはとてもいいことだね。ただ、もし、悩みを相談したいのなら、列の最後尾に並んでね。ええと、コクワガタの君はテンリくんって言ったかな?」クシロは聞いた。

「うん。ぼくはテンリだよ。よろしくね。でも、今はどうして他の虫さんの話を聞いていないの?」テンリは素朴な疑問を口にした。それについてはアマギも興味を示している。

「単純な話だよ。今は休憩時間なんだ。さすがのぼくも頭を整理しないといけないからね」クシロは簡潔に答えた。助手はいないので、クシロは一人で仕事をこなしている。

「そうだったのか。休憩中なのに、邪魔をしちゃってごめん」アマギは謝った。

「いいや。気にしないでいいよ。ぼくは君達と知り合いになれてよかったよ。でも、さすがにそろそろ時間かな」クシロはそう言うと早速に横になったケヤキの木に足をかけようとした。

「よかったら、ぼくたちにも相談の模様を聞かせてくれる?」テンリは声をかけた。

「残念ながら、それはできないんだよ。相談する虫のプライバシーに関わる問題だからね。それじゃあ、ぼくは行かせてもらうね」クシロはそう言うとケヤキの木の向こう側へ行ってしまった。

「別に心配はいらないよ。このケヤキの木の陰に隠れて盗み聞きしていればいいんだから」アマギは提案した。アマギはがっかりしている姿を見てテンリをかわいそうに思ったのである。

「え? でも、それって悪いことじゃないの? いいのかなあ?」テンリは疑問を呈した。

「誰にも言わなければいいんじゃないか? 少なくとも、おれはそう思うよ」アマギは主張した。

「うーん。そうかなのかなあ?」テンリはまだ渋っている。テンリは優柔不断な方ではないが、今は聞きたいという欲望と聞いたらいけないという強迫観念の葛藤に苦しんでいる。

「そういうものだよ。カウンセリングがもう始まっちゃうぞ。耳を澄まそう」アマギはそう言うと聞き耳を立てる態勢に入った。テンリでなければ「お主も悪よのう」と言うところである。

 結局はここで聞いた内容は誰にも話さないということを誓いテンリもクシロとクライアントの話を聞いてみることにした。ただし、テンリは遠慮してアマギの後ろに隠れている。

テンリとアマギには見えないが、相談者のコカブトムシは横になっているケヤキの木の向こう側でクシロに挨拶を終えモジモジしながら話を切り出していた。

「あの、ぼくはホタカって言います。相談事っていうのは友達が一匹もできないっていうことなんです。小学校に通っていた頃は何匹かの友達ができていたんですけど、卒業してから今日までの5年間は一匹も友達ができていないんです。ぼくは元々暗い性格なんです。それでも、性格は今までのままでいたいんです。そういう考え方っていけないんでしょうか?」ホタカは低姿勢のまま答えを求めた。クシロはホタカの話の合間小間で何度か頷きながら話を聞いていたが。クシロは徐に返答をすることにした。

「いいえ」クシロは言った。「いけなくはありませんよ。例え、友達が一匹もいなくても性格が暗くても消極的でも全く構わないのです。ただ、それは虫の色々な個性の一つだというだけの話です。性格が明るくて積極的な虫だけがこの甲虫王国にのさばっていたらどうでしょう? もし、そうなら、世の中は平坦でつまらないだけではなくぼくだったら、すぐに疲れ果ててしまいます。色々な種類の花があるように色々な個性があり色々な生き方があって色々な考え方があるから、楽しくて潤いのある世の中が成り立っているものなんです。ホタカくんはホタカくんらしく生きていけばいいんです」

「わかりました。ぼくはこれからその言葉を大切にします。ありがとうございました」

「どういたしまして」クシロはとても穏やかな口調で言った。「またの相談事があれば、ぼくのところへ来て下さい。ぼくはしばらく『平穏の地』に滞在する予定ですからね」

 ホタカは去って行った。評判のとおり、クシロはやさしい虫だったので、ホタカは安堵している。帰って来た答えにも励まされたので、ホタカは満足した。

「はい。それでは次の方の番です。どうぞ」クシロは事務的に呼びかけた。次の相談者はヤクシマスジクワガタの夫婦である。夫婦はクシロの前にやって来ると、まずは妻の方から話を切り出した。

「内の娘はレズビアンだったということがわかったのです。相談の内容というのはそれを矯正した方がいいかどうかということなんです。私は娘がそうありたいというのなら、娘はそのままでもいいと思うのですが、主人はなんとしてでも矯正すべきだと言ってきかないんです。私達はどうするべきでしょうか?」

「ぼくの意見を言わせて頂けるのなら、それは矯正するべきではないでしょう。同性愛者を認めるべきか否かは根源的には差別をするかどうかに繋がっています。お二人も差別していいとは思いませんよね? 虫は老い病になり必ず死が訪れます。決して生とは何もかも自分の思い通りに行く訳ではありません。それなのに、同じ状況に置かれている虫がどうしてただ自分とは違うから等という下らない理由で他の虫の自由に束縛を加えて言い訳があるでしょうか? もし、自分の個性を否定されてわずかな自由さえもがんじがらめにされた時にご自分がどう思うかを考えてみて下さい。答えは歴然ですよね? そうです。束縛などは加えてはいけません。虫には他の虫に対して干渉していいこと、干渉してはいけないことの二種類があるのです。同性愛者に対しては明らかに後者です。それを受け入れるだけの度量が必要になってくるかもしれませんが、どうか、ぼくの話を参考にしてよくお考えになって下さい」クシロは言葉を紡いだ。

「お話はよくわかりました。家内と娘ともよく相談して私も身の振り方をよく考えます。ありがとうございました」夫のクワガタはそう言うと妻を連れこの場をあとにした。

「はい」クシロは相談者がいなくなったのを見届けると言った。「それでは次の方の番です。どうぞ」

続いての相談者はマミという名のメスのサイカブト(タイワンカブト)である。サイカブトのオスは短い角が特徴でココヤシの害虫として知られている。マミは「はじめまして」と話し出した。

「いきなり、本題に入らせて頂きますが、私にはムツという小学6年生の息子がいるのです。ですが、ムツは二日も前から行方不明なんです。私はもうそれはそれは心配で・・・・」

「なるほど」クシロは痛み入るといった様子で言った「そのような時はどういった心構えで事に対面すればいいのかを相談しにいらしゃって下さった訳ですね」

「いいえ」マミは違った答えを口にした。「もし、よろしければ、息子を捜索して下さらないかと思ったのです。いかがでしょうか?」マミは身を縮めながら細々と言った。

「大変に恐縮ですが、ぼくはあいにくなんでも屋でもないですし、探偵のような仕事も承ってはおりませんので、探し虫についてはお引き受け致しかねます。ご了承下さい」クシロは平身低頭で言った。クシロの仕事は心のケアをベースにしているのである。マミは悲しそうな顔になってしまった。

 そのため、クシロはマミを気の毒に思いせめて相談者にムツの目撃情報くらいは聞いてあげようかなと思った。その時である。アマギは突然にケヤキの木を飛び越えこちらに顔を出した。

「探し虫なら、おれたちに任せくれ!」アマギは堂々と言い放った。

「ねえ」テンリの方も顔を出しアマギに言った。「本当は姿を見せたら、ダメなんだよ。この話はもう遅いけど」テンリによる盗聴大作戦は志半ばでおしゃかになってしまった。

「まさかとは思うけど、君達はずっと話を盗み聞きしていたんじゃないだろうね」クシロは詰問口調である。テンリは「ごめんなさい」と言い恐縮している。

「でも、ぼくたちはここで聞いた話は誰にも言わないよ」テンリは約束した。

「それは当然だよ。だが、だからといって・・・・」クシロのセリフは遮られた。マミが話に割って入って来たからである。マミは息子がいなくなってからずっとパニック状態なので、今は藁にも縋る思いなのである。

「あの、本当に私の息子を探してくれるんですか?」マミは自信なさげに聞いた。

「うん」アマギは自信たっぷりである。「探すぞ! 任せてくれ!」

「よし」クシロは決心した。「それなら、こういうことにしようか。もし、君達にムツくんを見つけることができれば、盗み聞きの件は許してあげるとしよう。ただし、見つけることができなければ、ぼくの助手としてしばらくは働いてもらおう。それでいいね?」クシロは確認した。クシロは合理主義者なのである。

「うん。それでもいいぞ」アマギは頷いた。テンリにも異論はない。

「一日に一回はムツくんを見つけられなくてもぼくのところへ報告しに来ること、絶対に逃げ出したりしないこと、この二つの約束は守ってくれるね?」クシロはやさしい口調で聞いた。

「うん」テンリは応じた。「守るよ。ムツくんはママと同じでサイカブトなの?」

「ええ」マミは弱々しく言った。「そうよ。ムツくんは細長い角を持った男の子なの」

「よし」クシロはう確認した。「それなら、探しに行ってきてくれるかい? 早速」

「うん」テンリは頷いた。「わかったよ。行こうか」テンリは不安そうにアマギへ呼びかけた。

「うん」アマギは元気一杯である。「行こう! よーし! 絶対にムツくんを探し出してやるぞー!」

話はとんとん拍子で進み、テンリとアマギの二匹は八年児のムツ探しへと繰り出して行った。見送るマミとクシロは不安そうである。会ったばかりとはいえ、自信満々なアマギを頼もしくは思っているが、マミは何分にもムツがどこかで死んでしまっているのではないかとも考えている。

テンリとアマギはムツを見つけられるかどうか、クシロは半信半疑である。とはいえ、こうなってしまった以上はクシロもテンリとアマギを信じることにしようと思い直した。

クシロはマミに慰めの言葉をかけ自分も情報を収集することを約してマミとの連絡方法を確保し一旦マミを家に帰した。その後のクシロは自分の仕事に戻った。


その後のテンリとアマギのコンビはあたりをきょろきょろと見回しながら歩いていた。まさか、そうも簡単にムツが見つかるとは思えないが、二匹は念のために注意を怠らないでいる。

ズイカクに布団を渡すミッションはまだしもムツを探すミッションはハードルが高いので、テンリは気を引き締め、ここからは目を皿のようにしてムツを探そうと決心している。

ただし、テンリはアマギの方を見ると少し安心した。アマギは相変わらず堂々としているので、アマギが一緒なら、テンリはムツも見つかるような気がしている。

「ねえ」テンリはだいぶクシロのいた場所から離れるとアマギに話しかけた。「ムツくんを見つけるに当たって、アマくんにはどんな秘策があるの?」テンリはアマギの堂々とした態度には根拠がありその根拠とはなにか自分の知らない作戦や情報をアマギが知っているのではないかと思ったのである。

「秘策ってなんだ?」アマギはきょとんとしている。「そんなものあるのか?」

「アマくんはムツくん捜しを自信満々で引き受けていたから、なにか、秘策はあるんでしょう?」

「ああ」アマギはもさっとした感じのままである。「そうか。別に秘策なんてないよ」

「え? それじゃあ、アマくんはどうしてあんなにも自信満々にムツくんを見つけるって言っていたの?」テンリは不思議そうにしている。アマギはそれに関して納得の行く説明をした。

「まあ、適当だよ。なるようになるよ。ケ・セラ・セラだな。あはは」

アマギはサイコロを振る時のように出たとこ勝負で生きている。テンリはそれに付き合わされても「怒髪が天を衝く」ということには決してならない。テンリは「そっか」と言った。

「まあ、なんとかなるよね。でも、もし、なんとかならなかったら、どうしよう?」

「テンちゃんは相変わらず心配性だな。でも、そこがテンちゃんのいいところでもあるんだよな。なんとかならなかったら、どうするかはならなかった時に考えればいいんだよ」アマギは余裕である。

「うン」テンリは首肯した。「わかった。でも、ぼくたちはムツくんの姿を見たことがないよね。本当はもっとムツくんのママから詳しく話を聞いておくべきだったんじゃないのかなあ?」テンリは聞いた。テンリとアマギは当然のことながら探偵でもあるまいし、虫探しのノウハウなんてものは持ち合わせていない。

「そうか? まあ、なんとかなるよ。お、あそこに誰かいるぞ。話を聞いてみよう」アマギは木の幹の上を見て言った。アマギはもうそれにより問題は解決したも同然だと思っている。

実際のところはアマギが最初に出会った虫にムツの目撃情報を聞いたくらいでムツを発見できるのなら、ムツの母であるマミはこれ程に苦労していないというのが事実である。

アマギはそれでも未来フューチャーに関しては明るいことしか、考えてはいない。とはいえ、テンリだって少しは期待を持っている。アマギは悠然としているが、それは伝染して少しテンリも悠々閑々と構えることにした。これはいわゆる一種の相乗効果というやつである。

念のために付け加えておくと、あの時はアマギが飛び出さなくても、テンリはアマギに相談しマミがクシロと別れたあとマミにムツ探しを申し出るつもりだったのである。

アマギの指摘したところではマメクワガタとヤマトサビクワガタがおしゃべりをしている。その二匹は共にメスである。名前は順番にシーナとニーナである。シーナとニーナの二匹は姉妹である。テンリとアマギのコンビはシーナとニーナの二匹がいる木に攀じ登って行った。

「こんにちは」テンリは話しかけた。「ぼくはテンリでこっちはアマくんだよ。はじめまして」

「こんにちは」シーナは言った。「まあ、かわいいコクワガタね」

「ありがとう」テンリは素直に万謝しはにかんでいる。「ぼくはうれしいな」

 テンリはやはりやさしい性格をしているのである。

「こっちのカブトムシは中々たくましいわ」ニーナはアマギのことを褒めた。特にアマギはそれを受けても何も言わなかったので、早速にテンリは本題に入ることにした。

「一つ質問をさせてね。どこかでサイカブトのオスを見たりはしなかった?」テンリは聞いた。

「そうね。うーん。残念だけど、私には見た記憶はないわ」シーナは言った。

「本当に残念だけど、私もそうよ。お役に立てなくてごめんなさいね」ニーナは謝った。

「いや」アマギは気にしていない。「まあ、いいよ」

 気にしていないのはテンリも同じである。シーナとニーナの目撃情報に期待はしていたが、それはあくまでも期待に過ぎなかったので、特にテンリは落胆しなかった。道が険しいだろうことはテンリにもよくわかっている。シーナとニーナには大いなる期待を抱いていたが、性格が明るいので、ダメなら、ダメで別にアマギは構わないのである。すると、どこからか「おい!」と不意に声がした。

「誰だ? まさか、おれのハニーちゃんたちに手を出したりはしていないだろうな?」

アマギとテンリの二匹は同時に声のした方に顔を向けた。テンリとアマギの二匹の元には大型のノコギリクワガタが気を攀じ登りながらやって来た。彼は名をティランと言い、体長は70ミリ・メートルほどである。ティランの年齢は15歳だが、昆虫は人間よりもうんと早熟である。

ティランは二匹の女の子たち(シーナとニーナ)と昔からの腐れ縁である。ティランにとってみれば、シーナとニーナの二匹は沈魚落雁な存在である。

「別になんでもないのよ。この子たちはいなくなった虫さんを探していて私達にも聞き込みをしに来ただけなの」シーナは弁解してくれた。すると、ティランはアマギの方をじろりと見た。

「おい!」ティランはすごみを利かし言った。「お前さんはちょっと腕試しをしてみないか?」

「うん」アマギは全く臆することもなく返答した。「おれは別にいいぞ」

「え?」テンリは確認した。「いいの?」テンリの方がアマギよりも不安そうである。

「うん」アマギは軽々と言った。「別にいいぞ」アマギは自信満々である。

カブトムシは戦うというイメージがあるが、人間界においてはただ二匹を向い合せただけでは逃げるばかりでがっぷりと組みついたりはしない。だからこそ、基本的にはメスの匂いをかがせたり尻をつついて興奮させたりするとカブトムシはやる気を出すことがある。

アマギとティランは別にシーナとニーナを賭けて戦う訳ではないので、今回の場合は例外である。アマギとティランはただ単に力比べが好きなのである。とはいえ、甲虫王国では人間界の例外が通例である。アマギはティランと向き合い、両者は儀礼的に自己紹介をした。

「コクワガタくんは戦いの合図を出してくれ」ティランはテンリに向かって言った。

「うん。わかったよ。レディー・ゴー!」テンリは合図した。アマギはそれと共にティランに組みついた。すると、アマギは組みついたかと思った途端に下の角でティランを放り投げた。ティランは哀れにも木の幹から落下しながら腸が煮えくり返る思いで「くそー!」と負け犬の遠吠えを叫んだ。

「ハニーちゃんたちの傍なんだから、ちょっとくらいは手加減しやがれー!」

アマギVSティランの戦いは一瞬で蹴りがついてしまったが、何もティランが弱すぎるのではない。アマギは実のところケンカがものすごく強いのである。アマギの強さは一級品である。

「わーい! アマくんの勝ちだー! やったね。アマくんはやっぱり強いね」テンリはティランが落下するのを見届けてから小躍りして喜びを表現した。一方のアマギは平然としている。

「本当ね。あなたってすごく強いのね」シーナは感激した様子である。

「いや」アマギは嫌みにならない程度に否定をした。「あれくらいは何でもないよ」

「ティランくんが帰ってくると面倒なことになりそうだから、ぼくたちはもう行こうね」テンリは提案した。ティランに再戦を挑まれたりしていたら、切りがなくなってしまうからである。

「うん」アマギは首肯した。「そうだな。今回は勝ち逃げしよう。でも、ティランにはおれが謝っていたって言っておいてくれ。ああ、それと、いい勝負だったから、機会があれば、ケンカはまたやろうとも言っておいてくれ。それじゃあな」アマギはシーナとニーナに対して明朗にお別れの言葉を述べた。

金言アフォリズムを言うようだが、勝負事には負ける虫がいるからこそ、勝つ虫がいる。だから、アマギはどんな時でも勝負の相手に対する尊敬の気持ちを忘れないのである。

「バイバーイ」テンリはシーナとニーナにお別れを告げると文字のとおりアマギと共に飛んで逃げた。とはいえ、テンリは最後にちゃんとティランがもぞもぞと動いているのを確認しておいた。ティランが無事かどうかをチェックしたのである。テンリは博愛主義者なのである。

その後のテンリとアマギは再度『平穏の地』の地面を歩き出した。相変わらず、アマギは木の幹の皮でできた布団を引っ張っている。アマギにとっては先程の勝負はいい運動だった。

「アマくんは布団を持っているっていうハンデがあったのに、ティランくんのことはあっという間に倒しちゃったね。アマくんは本当に格好よかったよ」テンリは手放しで褒めた。

「まあ、見た感じだと、体長はおれの方が大きかったからな」アマギは謙虚である。とはいえ、アマギの目測のとおり、アマギは10ミリほどティランよりも大きかったというのも事実である。

「それにしても」テンリは言った。「ケンカっ早い虫さんはどこにでもいるんだね?」

「うん」アマギは納得している。「そうだな。世の中には色々な虫がいるっていうことだな」

「色々な虫さんがいるから、この世の中はいいんだよね?」テンリは同意を求めた。

「おお。テンちゃんはいいことを言うな。そのとおりかもな」アマギは感心している。

「え? ぼくは感動したから、よく覚えているけど、このセリフはホタカくんの質問に答えている時にクシロさんが言っていたんだよ。アマくんは聞いていなかったの?」テンリは聞いた。

「うん。クシロさんはそんなことを言っていたのか。聞いていなかったよ。半分は寝ていたからな」

「そうだったの?」テンリは驚いている。「アマくんはそれでよくタイミングよく飛び出せたね」

「まあ、たまたまだよ。ようするに物事はなんとかなるっていうことだな」アマギは笑っている。

「うん」テンリは納得した。「そうだね」テンリはアマギと同様に単純なのである。

実際はアマギが飛び出したせいで厄介事に巻き込まれているので、なんとかはなっていないような気もするが、アマギは全くそれには気づいていない。それに気づいてはいるが、この先も希望が絶無という訳でもないので、テンリはアマギに対してとやかく言わないのである。

テンリとアマギはお喋りをしながら地面を歩いている。すると、今度はオスのミヤマクワガタの姿が見受けられた。ミヤマクワガタは付け根の歯が小さいタイプの蝦夷型と大きいタイプの富士型の二種類に分類されるが、今のテンリとアマギが発見したのは前者である。

テンリとアマギはムツの目撃情報が得られるのではないかと思い当該のミヤマクワガタに話を聞いてみることにした。そのミヤマクワガタはちょうど地面で暇そうにしていた。

「はじめまして」テンリは挨拶した。「ぼくはテンリでこっちはアマくんだよ」

「はじめまして」少年は返した。「おれはミヤマだ。最近に引っ越してきたおもしろい虫っていうのはおれのことだよ。君達もその噂を聞いてきたのかい?」ミヤマはテンリの挨拶に対して丁重に応じた。

「ううん。そうじゃないよ。でも、へえ。そうなんだ。ミヤマくんはすごい虫さんなんだね。ミヤマくんはどんなおもしろいことができるの? 一体」テンリは興味深そうにしている。

「いや。テンちゃんはちょっと待ってくれ。おれは重大なことに気がついたぞ。君はそもそもどうして偽名を使っているんだ? どんな理由が隠されているんだ?」アマギは興味津々の様子である。

「偽名だって? おれはそんなものは使っていないよ。おれはいつでも本名を名乗っているよ」ミヤマは訳がわからないといった様子である。アマギはそれでも再び食い下がって聞いた。

「だって」アマギは言った。「君はミヤマクワガタだろう? 名前がミヤマな訳じゃないじゃないか」

「そうは言われても、おれはミヤマクワガタのミヤマなんだよ。それは動かしがたい事実だよ。それに、ミヤマクワガタだから、ミヤマだなんて覚えやすくていいじゃないか」ミヤマは真剣に反論した。

「いや」アマギは言い返した。「ミヤマクワガタだけど、名前はミヤマじゃないんだろう?」

「いや」ミヤマは反論した。「ミヤマクワガタだからこそ、ミヤマなんだよ。わかないかい?」

「そんなバカな」アマギは衝撃を受けた。「ミヤマクワガタのミヤマなんて・・・・」

「ちょっと待った。『ミヤマ・ミヤマ』を連発しすぎて話が無駄にややこしくなってきているよ。ここはもっとわかりやすく話をした方がいいんじゃないかなあ?」テンリはようやく口を挟んだ。

「ん? そうか? まあ、本音を言えば、偽名でも偽名じゃなくてもどうでもいいんだけどな」アマギは能天気な口調で言った。テンリもそれについて本当は同意見である。

「うーん」ミヤマはがっくりきた。「どうでもいいと言われると少し残念な気もするけど、まあ、おれはミヤマクワガタのミヤマなんだよ。よろしく頼むよ。それよりも、おれのダンスを見てみないかい?」

「ミヤマくんは踊りが踊れるの?」テンリは期待を込めて質問した。

「オフ・コース」ミヤマは気障ったらしい。「しかも、おれのダンスはどんな難攻不落の虫に対しても大受けするんだよ」ミヤマは自画自賛した。ミヤマのダンスはそんなにも虫に感銘を与えると言いたいのである。

「ふーん」アマギは興味深そうにしている。「自信満々だな。それじゃあ、やってみてくれよ」

「OK!」ミヤマは声を張り上げた。「それでは会場にお集りのレディース&ジェントル・マーン!」

「ここは会場じゃないし、メスはいないよ」アマギは面倒くさそうに指摘した。

「写真撮影や動画撮影はお控え下さい。なお、あまりの完成度の高さに・・・・」ミヤマのセリフは中途半端になってしまった。アマギは待ちきれないといった様子で口を挟んだからである。

「前置きはいいから、早く始めてくれー! おれは楽しみにしているんだよ!」

「そうかい? それではレッツ・ダンシング!」ミヤマはそう言うと二本足で立ち上がり軽やかなステップから始めスピンやナチュラルやリバースやビートやアクロスといったようなダンスを次々と披露した。

 ミヤマはダンス界の先駆者パイオニアを気取っている。

その後も調子は変わらず約一分が経ってやっと終わりに近づくと、最後はお尻を右に振り振りし、左に振り振りして両手を広げ結びとした。ミヤマは息を切らしながら6足歩行に切り替えた。

「おれのダンスはどうだった?」ミヤマは充実感に満ちた顔で聞いた。「最高だろう?」

「うん」アマギは満面の笑みを浮かべている。「テンションは最高だな」

「ん? それはどういう意味だい? なんだか、含みのある物言いだな」ミヤマは訝しげにしている。

「おれたちはせっかく披露してもらったんだから、言いにくいんだけど、ダンス自体は下手っぴに分類されるんじゃないかな?」一応はアマギも歯に衣着せた物言いのつもりで言った。

「なんだって?」ミヤマはそれでも少なからずショックを受けた。

「そうかなあ? ミヤマくんのダンスは下手っぴかなあ? ぼくはあんまりダンスについて詳しくはないけど、ミヤマくんのダンスは中々斬新でおもしろかったよ」テンリは一応のフォローをした。

「下手っぴすぎておもしろかったんじゃないか?」アマギは悪気のないまま意見を述べた。

「よーし」ミヤマは腹を括った。「それ以上はもう聞きたくない。言いたいことがあるのなら、ここからは男らしく拳で語り合おうじゃないか」ミヤマはそう言うと二本足で立ち上がりストレートやジャブやアッパーを繰り出した。ミヤマのダンスの疲れはもう衝撃の発言により吹っ飛んでしまっている。

「うん」アマギは決心した。「いいぞ。戦いでどちらが正しいかを決めよう」

「えー? アマくんはまたケンカするのー? ダメだよ」テンリも一応は止めに入った。

ただし、アマギはしょっちゅう暴走するので、テンリもアマギを止められるとは思っていない。テンリはそれでも無類の平和主義者なので、言うだけは言っておきたいのである。

「まあ、テンちゃんは少し待っていてくれよ。勝負はどうせ一瞬で決まるだろうから」アマギはもはや完全にやる気満々である。それはミヤマも同様だった。

「確かにそうだよ。一瞬でおれが勝つんだからな」ミヤマはそう言うといきなり飛び上がり空中に浮かんだ。そうかと思えば、ミヤマは勢いよくアマギの体を上から挟み込んだ。

「わー! 大変だ! アマくんが負けちゃう!」テンリは心配している。しかし、アマギはテンリがそう言った矢先にミヤマをくっつけたまま素早く空中で一回転しミヤマを地面に叩きつけた。ミヤマはやがて「うげ!」という呻き声を上げるとぴくりとも動かなくなってしまった。

「わー! ミヤマくんは死んじゃったの? 死んじゃダメだよ」テンリは心配している。

「いや」アマギは茶化した。「自分でケンカを売ったのに、結局は負けたから、ミヤマは起き上がるのが恥ずかしいだけだろ」アマギはこれまでのやり取りからミヤマはこれくらいでは傷つかないだろうと判断したのである。能天気なアマギでもそのくらいの判断能力は持ち合わせている。

「別に恥ずかしくなんてない!」ミヤマはひっくり返ったまま虚勢を張った。その後は数10秒が経過したが、ミヤマは起き上がらなかった。ただし、ミヤマは足をばたつかせている。

「ミヤマくんはどうして起き上がらないの?」テンリは不安になって聞いた。

「いや」ミヤマは照れ臭そうである。「実のところ、捕まるものが周りにないんだよ。悪いんだけど、おれを起こしてくれないかい?」ミヤマはお願いした。

 ミヤマは今まで自力で起き上がろうとしてがんばっていたのである。

「そうだったのか。ぼくは気づいてあげられないでごめんね。はい。掴まってね」テンリはそう言うとミヤマに両手を差し伸べた。ミヤマはその手を取り起き上がりながら「ありがとう」と口を開いた。

「まあ、ダンスのことは許してやるよ。虫にはそれぞれに好みっていうものがあるからな。どちらにしろ、おれのダンスはこれからもっと発展して行く予定なんだ」

 ケンカは詮なしことだと考えたので、ミヤマは丸くなった。それはとても賢明な判断である。

「いや」アマギは否定した。「よく考えたら、おれも言い過ぎだったよ。ごめん」

 アマギは謝罪した。ただし、下手の横好きと言ってしまうとかわいそうだが、今のミヤマはダンスに対する熱意と実力がアンバランスな状態なのである。アマギとミヤマはともかくあっさりと和解した。

「ところで」テンリは質問した。「ミヤマくんに一つ聞いてもいい?」

「ああ。いいよ。おれのダンスはどうしてうまいかって? それは努力の賜物だよ」ミヤマは完全に調子に乗っている。さっきのケンカは全く堪えていない。ミヤマはアマギと同じように神経がず太くできているのである。テンリは「いや」と軽く無視をして話を続けた。

「そうじゃなくてね。ミヤマくんはどこかでサイカブトのオスを見たりはしなかった? 小学6年生のムツくんって言うんだけど」テンリは期待を込めて聞いた。アマギも期待をしている。

「さあ?」ミヤマは答えた。「見なかったな。おれは記憶力がいい方だから、間違いはないと思うよ」

「そうか。それじゃあ、仕方ないな。それじゃあな」アマギはあっさりと見限った。

とはいえ、アマギはミヤマをバカにしている訳ではない。アマギは必要以上にがっかりしないため無意識の内に情報が得られなかった時もさばさばとしているのである。

「ミヤマくんはお話に付き合ってくれてありがとう」テンリも「バイバーイ」というお馴染みの言葉でお別れをした。テンリとアマギは有能な秘書のようにてきぱきと行動しミヤマの元を去って行った。

 ミヤマは名残惜しそうにしてそれを見送っている。ミヤマは密かにまたテンリとアマギと会えたらいいなと思っている。テンリとアマギもミヤマからは好印象を受けている。

 少しすると、ミヤマはダンスの練習をすることにした。そんなにすぐにうまくなるとは思えないが、いつかはアマギを見返してやろうとミヤマは密かに誓っている。

 ミヤマは引っ越して来た先で面白い虫だと評判になっているが、それはダンスがコミカルなせいもあるし、性格が三枚目なので『平穏の地』ではそういう評価を得ているのである。


テンリとアマギはミヤマと別れてからしばらくは無言だった。だが、それは別にテンリとアマギの二匹が不機嫌だからではなく思い思いの感慨に耽っていたからである。

テンリはムツを見つけ出すためになにかいい策はないかどうかと思いを巡らせている。しかし、今のところはこれと言っていい案が浮かばないので、テンリは苦しんでいる。

アマギは今日の夜ご飯のことを考えている。今日はどんな木の樹液を食べることになるのだろうかとアマギはワクワクしている。アマギはムツの捜索について特に思い悩んだりはしていない。ただし、ムツは今も元気にしているのか、それぐらいはアマギも心配している。

「それにしても」テンリはアマギと共に歩きながら話を切り出した。「ミヤマくんは評判のとおり面白い虫さんだったね」テンリはムツの捜索について一時的に考えるのを中断したのである。

「うん」アマギは同意した。「だけど、ミヤマにはどこか胡散くさいところがあるけどな。つまり、疑わしい」

アマギは断言した。テンリは「えー!」とびっくりした。

「ミヤマくんは疑わしいのー? それじゃあ、本当はムツくんのことについてなにかを知っているのに、実はなにかの訳があってそのことを隠しているのかなあ? だとしたら、ミヤマくんは策略家だね」

「まあ、その可能性はあるな。おれ的にはあのいかにも『不審人物です』ってところは怪しい」

「それじゃあ」テンリは決心した。「ミヤマくんにお話を聞いてみようか。もう一回」

「そうだな」アマギは間髪入れずにすぐさま同意した。「そうするか」

話はまとまり、テンリとアマギの二匹は来た道を引き返して行った。テンリとアマギは間もなく先程と同じところでミヤマを発見することができた。この場所はミヤマの家なのである。

「ねえ。ねえ。ミヤマくんはどこかでサイカブトのオスを見たりはしなかった?」テンリはダンスに熱中しているミヤマに対して遠慮しながらもしっかりと聞くべきことは聞いた。

「ええと、おれの記憶の限りでは見なかったと思うけど、って」ミヤマはダンスを止めると鋭く突っ込んだ。「ちょっと待てー! テンちゃんはどうしてまたさっきも聞いたことをおれに聞き直すんだよ! しかも、セリフまでそっくりそのままで」ミヤマはテンリとアマギに気つくと少しうれしそうにしている。

「だって」アマギは単刀直入に言った。「ミヤマはなにかを隠しているんだろう? おれにはわかっているんだぞ」アマギはミヤマを指さした。確かに短縮するとアマギの言いたいことはそうなる。

「おいおい」ミヤマは興奮気味である。「その決めつけはなんだよ。失礼じゃないか。おれがそのムツくんを匿ってでもいるっていうのかい? そんな訳はないじゃないか。こんなに清廉潔白な青少年を捕まえてよくそんなことが言えるな。よーし! わかった! おれは何も隠していないっていうことを証明するためにおれもテンちゃんたちのムツくん捜しについて行ってやるよ。特別だぞ」ミヤマはやや照れくさそうである。ミヤマはどさくさに紛れてテンリとアマギと友好を持とうとしているのである。

「え? 本当? わーい! ミヤマくんも一緒に来てくれたら、ぼくは心強いよ。ミヤマくんは優秀そうだものね。よかったね」テンリはアマギに同意を求めながら心から大喜びしている。

「うーん」アマギは冷めている。「そうか? こんなのいるか? 役に立つかな?」

「え?」ミヤマはきょとんとしてしまい思わずショックを受けて聞き返した。アマギは「あはは」と笑った。「冗談だよ。ミヤマの虫懐っこさはもしかしたら聞き込みの時に役に立つかもしれないもんな。旅の仲間として歓迎するよ」アマギはミヤマに対して手を差し伸べた。ミヤマは「へへへ」笑んだ。

「昨日の敵は今日の友だな」ミヤマはアマギの手をしっかりと握り返しながら言った。

「そうだ。今は折角だから、サセボおじいちゃんの布団をミヤマくんのお家に置いて行かせてもらおうよ。そうすれば、アマくんはもっと身軽になれるもんね」テンリは提案した。

「そうだな。そうさせてもらおう。ミヤマはそれでもいいか?」アマギは訊ねた。

「ああ。別に構わないよ。ここは『平穏の地』だ。まず、盗まれることもないだろうからな」ミヤマは寛容である。ミヤマはなんだかんだ言ってもテンリとアマギと友達になれてうれしいのである。

「よし」アマギはお願いした。「それじゃあ、テンちゃんは紐を解いてくれるか?」

「うん」テンリは首肯した。「もちろんだよ」テンリはそう言うと作業に取りかかった。

一時はこうしてサセボの布団はミヤマの家に置いて行くことになった。ミヤマの言ったとおり、盗まれる可能性は低いが、一応はテンリも用心し布団を葉っぱで隠しておくことにした。

ミヤマはテンリがその作業をしている間にサセボとは誰でありどうして他人の布団を持ち歩いているのかと聞いてきたので、テンリとアマギはそれを受けると簡単に事情を説明しておくことにした。

ミヤマはテンリたちとムツとの関係も聞いてきたので、クシロとの一件は伏せておきながらもムツとの面識はないが、今は単なる虫助けをしているのだとアマギは説明しておいた。


テンリたちの三匹は情報を求めミヤマの家を出発し再び歩き始めた。テンリはミヤマという名の一時の仲間が増えて心強くなったので、今はとてもうれしそうである。

アマギも基本的に虫付き合いは好きな方だし、テンリが喜んでいるのを見るのも好きなので、ムツの捜索におけるミヤマの加入はプラスになったと判断し、今のアマギは上機嫌である。

ミヤマは面白い虫だという評価を受けている割にはよく煙たがられてしまうので、友達は少ない方である。そのため、ミヤマはテンリとアマギという友達を大事にしようと思っている。

「そう言えば、ミヤマはどうしてさっきの場所に引っ越すことにしたんだ? なにかの理由があるのか?」アマギは歩きながら聞いた。今は布団がなくなったので、アマギは先程よりも楽そうである。

「深い理由ではないけど『理由はない』と言ったら、それは嘘になるな」ミヤマは答えた。

「それじゃあ、ミヤマくんはどうしてあそこに引っ越しを決めたの?」テンリは聞いた。

「今は昔の話だけど、幼虫の時のおれはライラックの花の傍の土で暮らしていたんだ。おれが引っ越して来た先はその場所に近いからっていうのが第一の理由かな」ミヤマは感慨深げに言った。

「そうなんだ。ミヤマくんは幼虫の頃の思い出を覚えているの?」テンリはまた聞いた。

「いや」ミヤマは否定した。「実はあんまり覚えていないんだよ。でも、その場所に行けば、なにかを思い出す可能性もあるかもしれないからな。テンちゃんとアマはやりたいこととかっていうのはあるのかい?」

「うん」アマギは肯定した。「おれたちにもやりたいことはあるぞ。でも一応は言っておくと、おれの名前はアマじゃないぞ。テンちゃんは『アマくん』って言うけど、おれはアマギだぞ。念のために自己紹介しただけだから、アマって呼んでくれてもいいんだけどな」アマギは寛大である。ミヤマはそれを受けると納得した。

「話を戻すけど、おれたちはアルコイリスで七色の樹液を吸いに行くんだ。今はその途中なんだよ。といっても、その旅は今日から始めたんだけどな」アマギはとりあえずの近況報告をした。

「そうだったのかい? でも、待てよ。それなのに、今はどうして見ず知らずの虫探しなんかをやっているんだい?」ミヤマは軽い調子で聞いた。ミヤマは別にどんな理由でもいいのである。

「話せば、長くなるけど、簡単に言えば、さっきも言ったとおり、単なる虫助けだよ。おれたちは困っている虫を見過ごせないんだ」アマギは少々いい加減な答えを口にした。

「そうなのかい? 話は変わるけど、この辺には絶対に足を踏み入れてはいけない『危険の地』っていうのがあるっていう話を聞いたことはあるかい?」ミヤマは新しい話をクローズ・アップした。

「ああ」アマギは答えた。「名前だけはよく知っているよ」

 それはテンリも同意見である。ミヤマは平然と話を続けた。

「さすがのおれも入ったことはないし、実話を聞いた訳でもないけど、話によると『危険の地』にはおれたち(クワガタやカブトムシ)の天敵がわんさかといるらしいな」

その一例を上げれば、タヌキ・イタチ・サル・フクロウなどがおり、その他にも昆虫の捕食者がわんさといるのである。両親に止められているので、アマギとテンリは二人共『危険の地』に近づいたことはない。

「だとしたら『危険の地』は本当に怖いね」テンリは恐ろしそうにしている。

「別に心配はいらないよ。君子は危うきに近寄らずだ。『危険の地』には足を踏み入れなければいい。ただ、それだけの話だよ」アマギはテンリのことを元気づけた。テンリは素直に「うん」と言った。

「そうだね。近寄らなければ、怖がらずにすむものね」テンリは納得している。

 しかし、ミヤマには不吉な考えが頭をよぎっていた。ムツはひょっとして『危険の地』に迷い込んでしまったのではないだろうかとミヤマは思ったのである。仮にそうだとしたら、ムツの命の保証はなくなってしまうことになるが、今はまだミヤマもそれを口にはしなかった。

 八方の手を尽くしてそれでもダメだったら、その時に改めてその考えを提示しても遅くないとミヤマは考えた訳である。ミヤマも一方でムツの身の心配を募らせたことは間違いない。

 テンリとアマギはもちろんのことミヤマも一緒になって会ったことのないムツを心配しているのである。テンリたちの三匹は全ての虫のことを仲間だと思っているからである。


テンリたち一行のこれから行く先にはアトラスオオカブトとセアカフタマタクワガタがいる。両者は共に性別はオスである。彼等の名前は順番にコンゴウとヒュウガである。

コンゴウの方のアトラスオオカブトは角が個体により様々でそれぞれが別種のように見えるカブトムシである。この種の名前の由来はギリシア神話の巨人であるアトラスから来ている。

ヒュウガの方のセアカフタマタクワガタの大顎の形のよさは一級品である。セアカフタマタクワガタという種は大顎の先端が二股にわかれているためにパリーフタマタクワガタとも言われる。

コンゴウの体長は約100ミリあり、ヒュウガの方のそれは約94ミリである。80ミリのアマギでも大きい方なのだから、アマギと比較してもその体の大きさは一目瞭然である。

コンゴウとヒュウガの名は甲虫王国では少しばかり有名である。その理由はあるグループの主力として活躍しているからである。とはいえ、それは真っ当なグループではない。

コンゴウとヒュウガが所属しているのは悪の組織という言葉が当てはまりそうなグループである。今のコンゴウとヒュウガは向かうところ敵なしと言わんばかりにして森を闊歩している。


話はテンリ・サイドに戻る。遠くの方の空には白雲が浮いているが、テンリたちのいるこのあたりには黒雲が浮いている。なんだか、雲行きは怪しくなって来ている。

天気は崩れてきているという訳なのだが、雨は今のところは降ってはいない。朝に起きていた時は晴れていたのにも関わらず、今は雲行きが怪しいので、なにかしらの悪いことでも起きるのではないだろうかとテンリは少し心配になってしまっている。一方のアマギは無心である。

ミヤマはムード・メーカーの役割を果たしているので、テンリたち一行の雰囲気は暗くはない。ミヤマは意味不明ながらもマリモの真似をしたりウイルスに感染したブロッコリーの真似をしたりしているので、テンリたちの雰囲気はむしろ十分に明るいくらいである。

ミヤマはどのようにしてマリモやブロッコリーの真似をしたのかというと、マリモの方は緑色の葉っぱを体に巻き「ぼくはマリモの妖精だマッリモ」とミヤマは主張した。しかし、アマギからは漏れなく「それはないだろう」とつっこみを入れられてしまった。

ブロッコリーの方はもっとひどかった。ミヤマは両手で「もさっ」とした感じを出しブルブル震えながら「苦しブロッコリー!」と甲高い声で奇声を上げて見せた。

テンリたち一行はミヤマがそんな下らないことをしてから少しすると再び虫を発見することになった。情報収集に関しては今回が初仕事なので、ミヤマは少し張り切っている。

「歩いている内にまた誰かいたから、話を聞かせてもらおうか」テンリは呼びかけた。アマギとミヤマは即同意した。テンリの言った誰かとはコンゴウとヒュウガの二匹のことである。

「こんにちは」テンリは挨拶した。「ぼくはテンリだよ。こっちはアマくんとミヤマくんだよ。質問をしてもいい?」テンリは聞いた。コンゴウとヒュウガはいかにも強そうだが、テンリは全く怖がってはいない。テンリ・サイドにはアマギとミヤマがいるからだが、当のミヤマはけっこうビビりまくっている。

「ああ」ヒュウガは話を促した。「もちろんだ。質問っていうのはなんだい?」

「君たちはどこかでサイカブトのオスを見たりはしなかったか?」アマギは質問した。

「ああ。それなら、確かこの道を真っすぐ行ったところで見たな。ロープが張ってあるその先だ。昨日見たばっかりだから、間違いはないはずだ。そうだよな?」コンゴウは確認した。

「ああ。そうだ。間違いない」ヒュウガは頷いた。ヒュウガはニヤニヤしている。

「そうか。教えてくれてありがとう。助かったよ」アマギはお礼を言うと他の二匹と共に言われた道の方角へ向けて進んで行った。テンリとアマギは進路が決まり喜んでいる。コンゴウとヒュウガはケンカを売って来るようなことはしなかったので、ミヤマは密かに安堵している。

ヒュウガはテンリたちの三匹の姿が見えなくなるとほくそ笑んだ。ヒュウガはテンリたちの三匹を難所に送ったことについて面白がっている。もっとも、それはコンゴウとて同じ意見である。そのため、コンゴウは実のところ笑いをこらえるのが大変だったのである。

「なんの疑いも持たずに進んで行ったな。あいつらはよそ者か?」コンゴウは問いかけた。

「そうだろうな。この辺の地理には詳しくないみたいだ。さーて」ヒュウガは楽しそうにしている。「絶対に足を踏み入れてはいけない『危険の地』へ足を踏み入れてあいつらは無事でいられると思うか?」

 ヒュウガの言うとおり、テンリたち一行は現在『危険の地』へ向かっている。

「まあ」コンゴウの方も完全に他の虫の不幸を喜んでいる。「無理だろうな」

「カブトムシは中々に筋はよさそうだったようだが」ヒュウガは評価を下した。元来の性格はかなりのインテリなので、ヒュウガは物事を深く考える癖がついている。

「なーに」コンゴウは言った。「あそこに足を踏み入れれば、どれ程のカブトムシだって成す術はなしさ」

「ははは」ヒュウガは相変わらず愉快そうである。「それもそうだな。まあ、ご愁傷さまだ」

 コンゴウとヒュウガはやはり化外の民である。そのため、所属している団体からはやっつけ任務を帯びることもある。甲虫王国にはそれによって泣かされてきた虫も少なくはない。

 アマギはケンカが強いと言ったが、コンゴウとヒュウガは現時点においてそれと同じくらいか、あるいはそれ以上の実力の持ち主である。甲虫王国にはまだまだ戦闘のプロは山程いる訳である。

 時にはそういった者たちが危険な思想を持っている場合もあるので、ミナミはミナに対して旅に出るのは危険だと言っていたのである。だが、実力者の中には当然のことながら正義を掲げている者もいる。


その頃である。何も知らないテンリたちの三匹は思わぬ大収穫に大喜びしていた。テンリたち一行は寄りにもよって全員がコンゴウとヒュウガの悪評を知らなかった。

 アマギはフィジカル・フィットネスで体の調子を整えている。ミヤマもそれを真似て来たるべき試練に備えている。アマギには動物的な勘が働いているのかもしれない。

テンリだけは平然としている。楽にムツのことを探し出せるとは思っていないが、テンリはアマギとミヤマに対して信頼感を抱いているので、今は割と余裕なのである。

テンリたちの三匹は今も歩き続けている。カブトムシやクワガタの通行人はいない。『危険の地』に近づけば、近づく程にその傾向は強くなっている。当然と言えば、当然である。

「おれたちはこれでクシロさんの下で助手として働かなくてもすむぞ。やったな」アマギは喜んでいる。

「まあ、ムツくんは見つかっていないんだから、喜ぶのはまだ早いよ。しかし、クシロさんっていうのは誰だい? そもそも、クシロさんの下で働くっていうのはどういうことだい? テンちゃんとアマはただの虫助けでムツくんを探しているんじゃなかったのかい?」ミヤマはいよいよ核心をついた。

「まあ」アマギは全く動揺する素振りを見せずに言った。「それはそうなんだけど、ようするに、ムツくんの捜索は虫助けでもありおれたちのためでもあるっていうことだよ」

 初めはわかったようでもありよくわからないようでもある説明に小首を傾げたが、テンリとアマギにも色々と事情があるのだろうとミヤマは勝手に納得しておいた。

その後のテンリたちの三匹は20分くらい歩いた。現在の時刻は午前12時である。その間のミヤマは話し手の妙手として一人で喋りまくった。ミヤマはお喋りなのである。

それはテンリとアマギも嫌ではなかった。アマギにとっては十分に暇つぶしになったし、テンリはテンリで他人の話を聞き無作為に情報を収集することが好きなのである。

「ぼくたちは今までかなりの距離を歩いてきたから、ロープはもうすぐ見えるかなあ? そうかと思うと、楽しみだね」テンリはミヤマの長話が終わってからしばらくするとうれしそうに言った。

「ゴールはそれほど遠くではないんじゃないかな? あまりにも遠くなら、さっきの虫さんたちはここからだと遠くだって教えてくれていただろうからな。そうだ。それまではしりとりでもしないか?」

 アマギは提案した。ミヤマは「よし」と言い乗りのいいところを見せた。

「いいぞ! やろう! おれ→アマ→テンちゃんの順番だ。行方不明」ミヤマは言った。

テンリにも異論はなかったので、しりとりはその後も妙な雰囲気の中で続いた。正確には「意識不明」→「意味不明」と続いた。ミヤマはまた自分の番になると「一意専心」と述べた。

「あ」アマギは言った。「ミヤマは負けな。でも、罰ゲームはなしだから、大丈夫だぞ」

「いや」ミヤマは断固として反対した。「今のはセーフだろう。四字熟語だぞ」

「四字熟語ではあるけど、最後に『ん』がついているよ。それに『不明』はついていないよ」

 テンリは冷静に分析した。当のミヤマはというと「いやいや」と譲らなかった。

「そのルールはちょっと無理があるだろう。確かに『ん』がついたことはおれも認めるけど、もう一つのルールは鬼畜という他の何物でもないぞ。ん? おれたちがそうこう言っている内にロープが見えてきたな。どうする? とりあえずはこのまま直進するかい?」

 ミヤマは遠くに見えるロープを仰ぎ見ながら聞いた。

 ロープは地上から15センチくらいのところに杭で一直線に張られている。

「おれたちは特に当てはないんだから、今はそうしよう。おれもそうするけど、テンちゃんとミヤマもムツくんがいないかどうかの注意を配っていてくれよ。もし、見逃すようなことがあったら、せっかくここまで来たのに、その努力は水の泡になるからな」アマギは珍しく真っ当なことを言っている。

テンリたちの三匹はやがてすぐにロープの下を潜りその先へ向けて歩を進めて行った。ようは虫にとっての危険地帯である『危険の地』へ突入してしまった訳である。ミヤマは話し始めた。

「それじゃあ、しりとりは最初からにしよう。順番はまたおれからで同じでいいよな? 桑繭」

 その後のしりとりは次のように続いた。「誘拐」→「言い草」→「殺虫」→「海風」→「絶食」といった感じである。ミヤマは自分の番になり一瞬「ええと」と言ってアイディアを出した。

「次は『く』か。それじゃあ、食うか、食われるか」ミヤマは言った。

「それっていいのか? 言葉というよりは文章っぽくないか?」アマギは疑問を挟んだ。

「別にいいんだよ。最後に『ん』さえつかなければ、なんでもいいんだよ」ミヤマは言い張った。

「ギリギリでセーフっていうことにしてあげようよ」テンリは許容した。

 テンリはいつだって寛容なのである。アマギは「そうか?」と言い受け流した。

「そうだな」アマギは言った。「それじゃあ、次は『か』だから、監禁」

「あ」テンリは指摘した。「アマくんは最後に『ん』がついちゃったよ」

「え? あ、本当だ。しまった。ということはおれの負けか」アマギは悔しそうである。

テンリもそうなのだが、思考回路はアマギとミヤマも甚だしく単純にできている。二匹はすでにポカをしていてリーチ状態なので、テンリもこのままポカすれば、ゲームの敗者はその時点でビンゴである。冗談はさておきミヤマは今までのしりとりのある法則性に気づいた。

「一つ言わせてもらいたいことがあるんだけど、いくらなんでも物騒なワードばっかりを出しすぎだろう。誘拐・殺虫・絶食・監禁ってこれは明らかにムツくんを意識しているだろう」

「えー?」テンリは否定した。「そんなことはないよ。少なくとも、ぼくは意識していなかったよ」

「しかも、殺虫って言ったのはミヤマだぞ。食うか、食われるかもそうだし」アマギは口添えした。

「ああ。わかったよ。おれだって無意識の内に言っちゃっていたみたいだからな。それじゃあ、もう一回しきり直しにしよう。それに、今度は物騒な言葉はなしにしよう。まあ、さっきのが偶然なのだとしたら、ある意味では恐ろしいことだけどな。それじゃあ、ミヤマクワガタ」ミヤマは言った。

「お」アマギは言った。「ミヤマにしては中々に乙な単語を出してきたな。それじゃあ、体形」

 テンリは歩きながら「池」と言った。しかも、今のテンリは目をキラキラさせている。ミヤマは「毛糸」としりとりを続けたが、テンリは「あ」と言葉を挟んだ。

「ちょっと待って」テンリは制止した。「違うんだよ。本当に池があるんだよ。よく前を見てごらん」

「お」アマギも木々の合間から見える池に気づいた。「本当だ。おれは池なんて初めて見たぞ」

「わーい! 池だー!」テンリはそう言うと楽しそうに池の方へ飛んで行った。

「おいおい」ミヤマは注意した。「テンちゃんはあんまりはしゃぎ過ぎると危ないぞ」

 すると、ミヤマのセリフを聞き終わる前に池の中へ着水してみるとテンリは溺れてしまった。

「わー!」テンリは水の中でもがきながら救助を要請した。「助けてー! 息ができなくて死んじゃうよー!」

 カブトムシやクワガタは口ではなく気門というお腹の穴から息をしている。両者はその気門から空気を吸って酸素を取り入れる。その後はまたいらなくなった二酸化炭素を気門から外へ出す仕組みになっている。

 昆虫には肺という呼吸器官がないので、取り入れた酸素は気管を通って筋肉や内臓などの組織に入り込むのである。そのため、ゴキブリの退治には食器洗い用の洗剤が効果的である。もし、洗剤をかけられるとゴキブリは気門が塞がってしまい呼吸ができなくなるからである。話を戻すと、今のテンリは気門が水に浸かった状態なので、息苦しくなるのは当然である。ミヤマは冷静に「ああ、」と言った。

「やっぱりだ。聞いた話によると、池とか、川とか、海とか、そういうのは意外と危険なんだぞ。すぐに助けるから、テンちゃんは待っていてくれ」ミヤマはそう言うとテンリの方へ飛ぼうとした。

「その必要はないゲロ」第三者の声はテンリの救出を制止した。

「なんだって?」ミヤマは愕然としてしまった。「アマはなんて薄情なことを言うんだ」

「いや」アマギはきょとんとした顔で言った。「おれは何も言っていないぞ」

「それじゃあ、今のセリフは誰が言ったんだい? ん? ぎゃー! 出たー!」ミヤマは絶叫した。ミヤマが振り返ると、そこにはヒキガエルの姿を認めることができた。ヒキガエルの大きさは12センチである。

ということはアマギよりも4センチも大きい。ヒキガエルの背面は黄褐色であり、腹面は灰白色で黒色の雲状紋がある。ヒキガエルはガマガエルやイボガエルとも呼ばれる。

重要なのはヒキガエルが舌で昆虫を捕食するということである。この情勢とは対照的に池には誰かが作った笹舟が浮いている。カエルは続けて発言した。

「もう一度だけ言うぞ。助ける必要はない。お前らは全員がおれのエサになるんだゲロ」

「よし」アマギは奮起して気迫を見せた。「ミヤマはテンちゃんを助けに行ってくれ。おれはこいつの相手をする」アマギは一般の人民という点では百姓である。だが、アマギはその中でも勇気凛々の百姓なのである。

「ああ」ミヤマは首肯した。「わかった。でも、無茶はするなよ」ミヤマはそう言い残しテンリの溺れている場所へ飛んで行った。詳しくはアマギの強さを知らないが、今は緊急事態なので、ミヤマはよしとした。

「そうはさせるか。お前らはここで食われて死ぬ運命なんだゲロ」捕食者のカエルはそう言いながらも抜け目なく救出隊のミヤマのあとを追いかけようとした。その時である。

 アマギはカエルが背を向けミヤマを追おうとしているのを見ると角で突撃した。ヒキガエルはその結果としてアマギの強烈な突きを食らい「痛て!」と前につんのめった。

「お前はあとで料理してやるから、今はちょっと待っていろゲロ」カエルはそう言うとぴょんぴょんと跳ねて池の中へ入って行った。しかし、アマギはそれを黙って見過ごさなかった。

「おい! 待て! カエル!」アマギはそう言うとまた角で突撃した。しかしながら、カエルはぴょんと跳ねてそれを軽くかわした。すると、今度はアマギが池の中に飛び込んで溺れてしまった。

「おれ様にそう何度も同じ手が通用するか」カエルは余裕の表情である。ミヤマは「おーい!と呼びかけた。

「アマが時間稼ぎをしてくれたおかげでテンちゃんは無事に救出したぞ!」

 しかし、ミヤマは状況を認識するとアマギを救出するため慌ててアマギの方へ飛んで行った。

「おいおい! おれがそれを黙って見過ごすと思うのか? って」ミヤマの方へ行きかけていたカエルは「痛てー!」と再び絶叫した。テンリはカエルの尻を顎で挟んだからである。

「ミヤマくんは今の内にアマくんを助けてあげて!」テンリはカエルには申し訳ないと思いながらも言った。

「わかった。テンちゃんはでかしたぞ。アマは必ずおれが助ける」ミヤマは言った。

「痛てて!」カエル走りをさすっている。「お前はこうしてやる」ヒキガエルはそう言うとテンリを水の中につけた。すると、テンリはカエルから離れてしまいまたしても溺れてしまうことになった。

「まずはお前から食ってやろう」カエルはテンリに向かって残忍な笑みを浮かべた。

「待て!」アマギはミヤマに救出され復活して呼びかけた。「お前の相手はおれだ!」

「お前は何度やってもおれには勝てないゲロ」ヒキガエルは相変わらず余裕である。

「ミヤマはテンちゃんを助けておいてくれ」アマギはお願いした。「頼む」

「わかっているよ。おれはライフ・セイバーじゃないんだぞ。まったく」ミヤマは無駄口を叩きながらもテンリの救出へ向かった。とはいえ、ミヤマもテンリのために必死である。

アマギVSカエルである。カエルは自分よりも体が大きく一度はそのカエルに敗戦していてもアマギは全く臆することなく勝利する気が満々である。アマギは戦闘において不屈の闘志を持っているからである。アマギは飛行しながら間合いをつめカエルへ突撃した。

「お前はまたそれか。芸のないやつだ。お前は飛んで火に入る夏の虫だゲロ」ヒキガエルはそう言うと「ビュッ!」と舌を出した。しかし、アマギは空中で上方向に一回転しそれをかわした。

アマギは「おりゃあー!」と言うと回転した勢いを利用し下の角をカエルの顎に引っかけ力一杯に遠方へと放り投げた。力持ちのアマギによる渾身の力技である。

ヒキガエルは川の向こう岸を超えながら「なんだとー!」という叫び声をあげ遥か遠くへ飛んで行った。アマギは反動でもう一回転し池に落っこちそうになったが、それは踏み留まった。

「やったね。アマくんはすごいよ。今の技はカッコいいね」テンリは歓声を上げた。

テンリはすでにミヤマに救出してもらいお礼も言い終わっている。テンリはアマギに対してトロフィーのカップを贈呈したいくらいに感動している。

「あれはミヤマとのケンカで覚えた技だよ」アマギは淡白な口調で言った。

「とにかく」ミヤマは切羽つまった調子で言った。「ここは早く出よう。カエルはまた帰ってくるかもしれないし、なによりも、ここは絶対に足を踏み入れてはいけない『危険の地』だったんだ」

テンリたち一行は危機的クリティカルな局面を切り抜けてもぼやぼやしている訳にはいかない。テンリたちの三匹は羽を広げ飛行しながら『危険の地』の出口へと向かった。

「そうか。だから『入っちゃいけないよ』っていう意味でここへくる前にロープが張られていたんだね。それに気づかなかったなんてうっかりしていたね。でも、ぼくたちはもう入っちゃったんだから、それはしょうがないよね。今は一刻も早く逃げないとね」テンリは大切なことがなにかをわかっている。

「そうだな。でも、これじゃあ、目撃証言も本当かどうかは疑わしいな」アマギは言った。

「いや」ミヤマは断言をした。「疑わしいというよりもきっとあれは嘘だろう」

「あ、ムツくんらしき虫がいた」テンリは歓喜の声を上げた。アマギはテンリの指の先を見つめた。

「そうだろう? だから、こんなところにはいる訳ないって言ったんだよ。え? テンちゃんは今なんて言った?」ミヤマは聞き返した。今は気疲れしているので、ミヤマはテンリのセリフを聞き逃してしまったのである。テンリは飛行のスピードを一気に緩めながら木の幹を指さして言った。

「向こうを見てよ。木の幹の間にカブトムシがいるでしょう? あれってムツくんじゃないかなあ?」

「本当だな。ムツくんはもしかしてこの『危険の地』に迷い込んで出られなくなっていたんじゃないか?」アマギは推測を述べた。アマギとミヤマの二人も飛ぶスピードを緩め一時停止した。そして一旦は帰路を外れてテンリたちの三匹は左方向へと飛んで行った。

「おーい!」アマギは問題の木の前に来るなり呼びかけた。「君はもしかしてムツくんか?」

「え? うん。ぼくはムツだよ」オスのカブトムシは少しだけ顔を覗かせて返事をした。

「二人とも今の返事を聞いたかい? ムツくんだって言っていたよ。しかも、サイカブトだ。いやー! ここまでは山あり谷あり長かったなー! でも、いい思い出話ができたよ。そもそも一番はなにがつらかったかって」ミヤマは得意げになって話をしていた。だが、アマギはそれを途中で遮った。

「ゆっくりと話をしている暇はなさそうだぞ。カラスがこっちを見ている。ムツくんはおれの手前の角にしっかりと掴まっているんだぞ」アマギはそう言うとムツを頭に乗せ他の二匹と共に飛び立った。

突然のことだったが、ここのタイミングで雨が降り出した。しかも、雨脚はかなり激しい。ムツは「あの」となにかを言いかけたが、テンリはそのセリフを遮って叫び声を上げた。

「カラスがこっちに来たよ。ごめんね。ムツくんの話はあとで聞いてあげるからね」

「どうする?」ミヤマは言った。「さっきのカエルとはレベルが違うぞ。さすがのアマにしても勝算は低いぞ」

 つい先程まではふざけていたが、今のミヤマはすでにまじめモードに切り替えている。

「ああ」アマギは首肯した。「確かに戦うのはまずいかもしれない。カラスと戦って勝てるかはおれにも自信はない。となると、本当にどうするか。時間の問題で直に追いつかれちゃうぞ」

「ぼくはいいことを考えたよ」テンリは発言した。テンリには焦眉の急において光明が差した。テンリたちの4匹は雨のせいですでにびしょ濡れになってしまっている。

「なんだ?」アマギは早急に話を促した。「すぐに聞かせてくれ」

「カラスが近づいてきたら、Uターンしてするんだよ。ぼくはカラスの下・アマくんは左・ミヤマくんは右に飛んで行くの。その後はまた帰り道に戻ろう」テンリは早口で説明した。

「なるほど」ミヤマは納得した。「カラスを撹乱させる訳だな。それは名案だ。作戦はそれで行こう」

「どっちにしても考えている暇はなさそうだ。来たぞ!」アマギは大声を張り上げた。

アマギの言うとおり、カラスはテンリたちの4匹の元へ突進してきた。しかし、テンリの言ったとおり、テンリたちの三匹は方々に散りカラスの後ろへ回り込むことに成功した。

テンリたち一行はカラスが後ろを振り返った時には元の道に戻っていた。テンリたち一行はカラスが消えたカブトムシとクワガタを探しているのを後ろにし距離をどんどんと突き放して行った。

テンリはその間にも次の対処法を提案していた。ムツはパニック状態なので、今はただアマギの角に掴まることに必死である。アマギはテンリの提案を聞き終えると二つ返事でその内容を採用した。

「さすが、テンちゃんはアイディア・マンだ。次はその作戦で行こう」

「カラスがそろそろおれたちの行方に気づく頃だぞ」ミヤマは危惧するように言った。

「本当にこっちに近づいてきたよ」テンリは後ろを振り返って確認した。

「よし」アマギは呼びかけた。「それじゃあ、覚悟を決めろ! 皆」

 その数秒後である。カラスは肩透かしを食って怒りながら乱鴉を始めテンリたち一行の間近まで迫って来た。テンリたちの三匹はカラスの「カー!」という叫び声を聞きながらマックスのスピードでケヤキの木に突っ込んで行った。しかし、テンリたちの三匹はぶつかる直前で急ブレーキをかけ、テンリとアマギは右へと避け、ミヤマは左へと避けた。ようはカラスを木にぶつけて自滅させようとしたのである。

「わー!」テンリはちらっと後ろを振り返ると報告した。「カラスも木を避けたよ」

「それなら、作戦の第二段階だ」アマギは叫んだ。そのため、テンリとミヤマは気を引き締めた。テンリたちの三匹はやがてさらにその先にあった二本目のケヤキの木も同じように避けた。すると、今度はそれに対応できなかったカラスはケヤキの木の幹に猛スピードで激突してしまった。

「やったぞ! 作戦勝ちだ! テンちゃんはよく咄嗟に二重の罠を考えられたな」アマギは猶も飛行を続けながら言った。これは確かに三人寄れば、文殊の知恵である。

 テンリたちの三匹はカラスとの破天荒な大勝負に勝利した。カラスはその証拠としてもうこちらにやって来ない。カラスは気を失ってしまったのである。

「カラスくんにはちょっと申し訳なかったかなあ?」テンリは聞いた。

「いや」ミヤマは励ました。「カラスはおれたちのことを殺す気できていたんだから、あれくらいは止むを得ないよ」ミヤマは同時にテンリはやさしいなとテンリの十八番に感心した。

 命は助かったとはいえ、振り返ってみれば、テンリは冷汗三斗である。というか、実は振り返らなくてもテンリは今まで死ぬ程の恐怖と戦っていた。

「そう言えば、ムツくんは無事か?」アマギは呼びかけた。今まではずっと全力で飛行し続けていたので、今のテンリたち一行はカラスの気絶しているところからかなり離れたところにいる。

「あー! いつの間にか、ムツくんがいないぞ! どこに落として来たんだい? なーんてこった♪ えーらいこっちゃ♪ って」ミヤマは自分のことを戒めた。「今はふざけている場合じゃない」

「出口はせっかくもう見えているのにね。でも、しょうがないから、戻ろうか。早く行かないと、ムツくんは誰かに食べられちゃうよ」テンリは提案した。アマギの方は「よし」と即断即決した。

「おれが一人で行ってくる。テンちゃんとミヤマは『危険の地』の外で待っていてくれ」

「うん」テンリは言った。「わかった。アマくんは気をつけて行って来てね。ぼくはアマくんを応援しているよ」これは甲斐甲斐しくもアマギに対してのテンリによる心からのエールである。

「おれもそのとおりだよ。よーし! わかった。それじゃあ、おれはダンスをして応援しているよ」ミヤマは意気込んだ。テンリはそれを聞くとダンスが雨乞いにならなければいいなと密かに思った。とはいうものの、本当にダンスをしただけで雨が降り出したら、ミヤマは大したものである。

アマギはやけにものわかりがいいなと違和感を覚えた。アマギは自分が一人で行くと言ったら、テンリとミヤマからはてっきり引き止められるのかと思っていたからである。しかし、アマギは単細胞なので、そんなことはすぐに頭の中から消えて行った。アマギは道を引き返すべく逆向きに飛んで行った。

 いつの間にか、雨は止んでいる。あれは村雨だったのである。村雨とはざっと降ってすぐ止む雨のことである。、そのため、雲は退きまた太陽が顔を出し始め少しずつあたりは明るくなって来ている。

 現在の時刻は午後の一時である。テンリとアマギによる旅は初日から波乱万丈な場面の連続である。しかし、これはまだまだ長い長い旅における序章に過ぎない。


 切り替えは早いので『危険の地』を脱出するためのゴールはすでに間近になっていたにも関わらず、引き返すことになってしまってもアマギは特にがっかりとはしていない。

しばらくの間は特に何事も起きなかったのだが、テンリたちの三匹が引き返してから5メーターほど行ったところでアマギは「それで?」と言い不思議そうにした。

「テンちゃんとミヤマはどうしてついてきているんだ?」アマギは聞いた。アマギはしばらく一人で飛んでいたのだが、少しすると、テンリとミヤマもアマギと並んで飛ぶようになったのである。

「だって」ミヤマは言った。「アマを一人にしておける訳ないだろう?」

「ぼくがついて行くって言ってもアマくんはどうせ一人で行くって言うだろうからね。さっきはあえて何も言わなかったんだよ。ミヤマくんも同じことを考えていたなんて少し驚いたけどね」テンリは説明した。つまり、テンリとミヤマは無駄な押し問答を省いたのである。

「そうか。わかったよ。それなら、ムツくんをさっさと見つけようか。あ、ムツくんがいたぞ!」アマギは指摘した。テンリとミヤマの二匹は飛ぶスピードを緩めた。

 ムツの発見場所は木を隔ててカラスの倒れている向こう側である。ムツはピクリとも動かないので、今は投げ出された時に頭を打って気絶してしまっていた。

「ムツくんがいたのはいいけど、傍にはネコがいるぞ」ミヤマは地上に向かって降下しながら指摘した。

「タイムー!」テンリはムツとネコの間に割って入った。ネコはメスのロシアン・ブルーであり、イワミと言う名である。イワミは止まる素振りを見せずにテンリに近づいて行った。

「テンちゃんはなんて無茶なことをするんだ。ムツくんは気を失っているけど、死んではいないぞ! 早く逃げよう! ネコに食いちぎられて見るも無残な姿になっちゃうぞ!」アマギはミヤマと共にムツの元で生死の確認をし終えるとテンリの行動を見かねて必死に呼びかけた。

「テンちゃん」女性の声(イワミの声)はこの場に響いた。

「は? 誰がなんて言った? 今」ミヤマは不思議そうに聞いた。アマギも不可解な顔をしている。

「大きくなったわねー!」イワミは肉球でテンリの頭を撫でながら言った。

人間界ではカブトムシやクワガタが成虫になってから大きくなることはあり得ないが、ここ(昆虫界)ではそんな掟は存在しないので、甲虫は成虫も大きくなることがある。

「テンちゃんとは久しぶりね。元気にしていた?」イワミは親しげに話しかけた。

「うん。ぼくはずっと元気だよ。イワミさんは元気だった?」テンリは聞いた。

「ええ。私も元気よ。テンちゃんはどうしてこんなところにいるの?」

「ぼくたちはムツくんを探していたんだよ。イワミさんはムツくんのことを食べないであげてね」

「ああ。そのカブトムシくんのことね? そのムツくんはテンちゃんのお友達なのね? わかったわ。むつくんのことは絶対に食べたりしないから、テンちゃんは安心してちょうだい」イワミは好意的な対応をしてくれている。ミヤマは隙を見つけると「あのー」と言い話に割って入った。

「おれには今一状況が飲み込めないんだけど、テンちゃんはイワミさんっていうネコさんとはどういう関係なんだい? 一体」ミヤマはポカンとしている。アマギは静観している。

「昔ね。私はテンちゃんのパパにケガをしているところを助けてもらって命拾いしたことがあるのよ。その頃はまだテンちゃんも小学4年生だったけど、私にとっては恩人の息子だったの。それからというもの、私はテンちゃんとも仲良くなったという訳よ」イワミは昔を思い出しながら目を細めて説明をした。

当時のテンリはケガをしたイワミを元気づけようとして健気にも色々な形の木の枝や石を持って来てそれを虫に見立てて劇場を開いて慰めてあげていたのである。

「ふーん」アマギは得心した様子である。「そうだったのか」

 アマギもこの反応ということはアマギもそれを知らなかったのである。それはともかくテンリの過去を知ることができたので、アマギとミヤマは満足そうである。

「そうだ。ねえ。私はおいしい栗の実がなる木を見つけたんだけど、テンちゃんもよかったら一緒に行ってみない? お友達も一緒でいいのよ。 もちろん」イワミは穏やかな口調で提案をした。

「でも、ぼくたち(昆虫)は栗の木の実は食べないんだよ。ごめんね」テンリは謝った。

「あら」イワミは言った。「それはうっかりしていたわ。そうだったわね。私はテンちゃんにすごく失礼なことを言っちゃったみたいね。ごめんなさい。それじゃあ、今の話は聞かなかったことにしてちょうだい」イワミは常識のある大人の女性である。だが、時々はドジなことをしてしまうのである。

「だけど、栗の木からも樹液は出るんだよ。それに、ぼくは栗の実を記念として持って帰りたいな。栗の実は茶色くて形が綺麗だものね。だから、イワミさんはやっぱり案内してくれる?」テンリは聞いた。

「ええ」イワミは喜んでいる。「もちろんよ。テンちゃんと一緒に行けることになってよかったわ」

「アマくんは寄り道するのは嫌かなあ?」テンリは旅のお供に聞いた。

「別に嫌じゃないよ。おれも行きたい。なにしろ、樹液が吸えるもんな」

 アマギは楽しそうである。テンリは律義に「ありがとう」とお礼を言った。

「それじゃあ、ムツくんをママのところに届けたら、イワミさんはそこへ連れて行ってね」テンリはお願いした。部外者のミヤマはそのやり取りを傍観している。イワミは「ええ」と首肯した。

「それでもいいわよ。テンちゃんもテンちゃんのお友達も私の背中に乗ってちょうだい」イワミは提案した。イワミは『危険の地』を抜けるところまでテンリたち一行を連れて行ってくれるのである。

テンリたちの三匹と気を失っているムツはイワミの背中に乗った。その際はイワミに聞かれたので、アマギとミヤマは自己紹介をしておいた。テンリはさりげなくミヤマも一緒に栗の木に行くかどうかを聞くと、ミヤマはそのテンリの心遣いに大喜びで大賛成した。

「さあ」イワミは歩き出しながら聞いた。「乗り心地はどうかしら?」

「イワミさんの背中はとっても快適だよ」テンリは答えた。

 アマギとミヤマはそれについて同意見である。イワミは「ええと」と口を開いた。

「行き先はまだ聞いてなかったけど、私はこのまま直進すればいいの?」イワミは聞いた。

「ああ。そうだよ。ところで」アマギは聞いた。「イワミさんはどこに暮らしているんだ?」

「ここよ。私は皆から見て『危険の地』と呼ばれるところに住んでいるのよ」

「へえ」ミヤマは感心した。「それじゃあ『危険の地』はイワミさんにとっては危険じゃないのかい?」

「ええ。危険じゃないわよ。さすがに『危険の地』にネコを食べる動物はいないからね」イワミは軽い口調で言った。ミヤマはそれを受けると確かにそれは当たり前かと思い直した。

どうであっても、テンリたち一行はこれにより捕食者に襲われる可能性は激減したので、ほとんどはムツの捜索隊の念願は成就した。テンリたちの三匹は万馬券を当てたみたいにして喜んでいる。

「話は変わるけど、ムツくんっていう子は大丈夫なのかしら? 誰かに傷つけられたりはしていないの? あそこにはたくさんの柄の悪い生き物も暮らしているのよ」イワミは心配している。

「ああ。確かにそうみたいだな。でも、外傷は見当たらないから、ムツくんは危険な飛行に驚いて振り落とされちゃっただけだろう。悪いことをしたな」アマギは申し訳なさそうである。

「ムツくんはそれ以前に行方不明になってから今日で三日目だよ。お腹も空いているだろうし、随分と怖くてつらい思いもしていたんだろうね。かわいそうだね」テンリは付言した。

「とはいえ」ミヤマは言った。「発見がもう少しでも遅れていたら、食料の問題にしろ、捕食者の問題にしろ、ムツくんは今以上に危ないところだったよ。なんとか、助かったんだから、よしとしよう」

「悪いんだけど『危険の地』の出口まで行ったら、イワミさんはそこで待っていてくれる? ムツくんをムツくんのママに引き渡したら、ぼくたちはまた帰ってくるからね」テンリは言った。

「わかったわ。つまり、テンちゃんたちは今まで虫助けをしていたのね。偉いわねえ。そうだ。ねえ。ネコは汗をかくと思う? 汗はかかないと思う?」イワミはクイズを出した。アマギはそれを受けると逸早く「かかない」と答え、ミヤマはそれに同意した。しかし、テンリは異論を述べた。人間は汗をかくし、ネコは人間と同じく哺乳類だから、イワミも汗をかくとテンリは答えた。

「テンちゃんの正解よ。ただし、私達ネコは肉球だけにしか、汗はかかないのよ」イワミは言った。

 テンリは納得した。クイズには不正解だったので、アマギとミヤマは残念そうである。とはいえ、ミヤマはともかくそんなことは三歩も歩けば、アマギの場合は忘れてしまうのである。

「ほら」イワミはやさしく言った。「目的地にそろそろ到着よ。私は毛づくろいしたり伸びをしてストレッチしたりして気長に待っているから、テンちゃんたちはゆっくり行って来ていいのよ」

 毛づくろいは体温を低下させ清潔にするために行うネコの習性である。

ネコの習性に関してもう少し説明を加えておくと、爪とぎは古い爪をといで鋭くするためであり、顔を物にこすりつけるのはフェロモンをつけて自分の縄張りをアピールするためである。また、相手に向かって両目を閉じるのは親愛の情を示すためとネコはそれぞれに意味があって行うのである。

「うん。わかった。でも、ぼくたちはイワミさんが退屈しないようにできるだけ早く帰るようにはするよ。イワミさんは背中に乗せてくれてどうもありがとう」テンリはお礼を述べイワミの背中から降りた。

 ミヤマとアマギはそれに続いた。今までは自分が乗っかっていたから、イワミは殺菌消毒するのかなとテンリは思ったが、そうではなく毛づくろいは前述したように常時においてネコが行うものである。

「それじゃあ」アマギは一旦お別れの挨拶をした。「またなー!」

 イワミは右手を上げて応えてくれた。テンリとミヤマはイワミに「バイバイ」の仕草をした。

ミヤマは最後にイワミにもダンスの査定をしてもらおうかと思ったが、今は心配事があるので、とりあえずは止めておいた。クシロに相談する程のことではないが、ミヤマには少し考え事がある。

テンリたちの三匹はイワミと別れクシロの元へと向かうことになった。イワミは世話女房のように心配しながらテンリたち一行のことを見送ってくれた。

テンリたちの三匹の事情は詳しく知らないが、彼等には無鉄砲なところがあるということはわかったので、イワミはつい些細な問題に関しても不安を感じてしまうのである。


自分たちがムツを連れて帰ったら、クシロはどんな顔をするだろうかと思うとテンリはワクワクする思いで歩いていた。とはいえ、テンリも自分が粗相のお詫びとして行動しているということを忘れている訳ではない。テンリはとてもデリケートなのである。そのため、反省の気持ちはあるが、テンリは役目を果たせたと思うとつい少し誇らしげな気持ちになってしまうのである。

今のアマギの方はなんとも思っていない。明日は明日の風が吹くというのがアマギの信条なので、アマギは特にムツを発見できたことをすばらしいとは思っていない。だが、ムツが見つかるのは当然だと思っていても実際に見つけ出したら、アマギだってうれしいことはうれしい。

ミヤマは自分の家に通りかかるとテンリとアマギのことをつぶらな瞳で見つめた。テンリはそれを正面から受け止めた。アマギは白々しい思いでそれを見つめ聞いた。

「おれたちはもう一回ここをとおりかかることになるけど、ミヤマはもう家に帰っているか?」

「いや」ミヤマは否定した。「おれも一緒に行くよ。最後の舞台にはやっぱりムツくん救出の立役者がいないと場が締まらないだろう?」ミヤマはスーパー・ヒーローを気取っている。

「そうか。わかった」アマギは了承した。面倒くさいので、アマギはミヤマの図々しい発言を無視することにした。ミヤマは少し張り合いをなくして残念そうである。

これこそはミヤマの心配事だった。ミヤマはテンリとアマギにさらっと同行することになったが、実は自分も一緒に旅を続けることができるだろうかとミヤマは心配だったのである。ミヤマはそれ程にテンリとアマギのことを気に入ってしまっている。メンバーは変わらず、アマギとテンリとミヤマの三匹は歩き出した。アマギはまだムツを背中に乗せたままである。そのムツは不意に身悶えし出した。

「わー! カラスに殺されるー!」ムツは目を覚ますなり一人で大騒ぎしている。

「おお」アマギはのん気に言った。「ムツくんはついに起きたか」アマギは飄逸なのである。

「ムツくんは安心して大丈夫だよ。ほら、カラスはもうどこにもいないよ。よかったね」テンリは慰めてあげることにした。テンリのやさしさは今も健在である。

「え? あ、本当だ。まさかとは思うけど、カラスはもしかして皆が倒したの?」ムツは聞いた。

「ああ」ミヤマは胸を張ってしゃしゃり出てきた。「やつはおれが倒した。なぜなら、おれは泣く子も黙りブーイングも歓声に変えてしまうマッチョ・マンだからな」ミヤマはまるでサイクル・ヒットでも達成したみたいな威張りようである。しかも、ミヤマは大した千三である。

「嘘をつくなよ。嘘つきは泥棒の始まりだぞ。まあ、ミヤマは泥棒みたいな顔をしていると言えば、確かに泥棒みたいな顔しているけど」アマギは冷静な態度で秀逸な突っ込みを入れた。

「ぼくたちは皆で退治したんだよ」テンリは補足説明をした。ミヤマは自分が泥棒呼ばわりされバカにされたのにも関わらず、現在はさっきのアマギのギャグを聞き大爆笑している。

「本当?」ムツはテンリたちの三匹を尊敬の眼差しで見た。「皆は強いんだね」

「いやー」ミヤマは満更でもなさそうに照れた。「まあ、それ程でもないよ」

「ああ。ムツくんは降りなくてもいいよ。ムツくんはお腹が空いていて疲れているだろうから、目的地までは乗せて行ってあげるよ」アマギはムツが自分の背中から降りようとするのを感じたのである。アマギの体長は80ミリであり、ムツの体長は40ミリなので、ムツはアマギの半分のサイズである。

「ありがとう」ムツはお礼を言った。「それで? ここはどこで皆は誰なの?」

今はムツの母であるマミの元へ向かっているということ、自分たちはそのマミに頼まれムツを探していたのだということ、テンリはそれらを細大漏らさず丁寧に話した。

「ということは」ムツは聞いた。「皆はママの知り合いなの?」

「ああ。確かに知り合いにはなったから、知り合いと言えば、知り合いだけど、知り合いじゃなかったと言えば、知り合いじゃなかった」アマギはわかりにくい言い回しをした。

「ようするに」テンリは話をまとめた。「ぼくたちはムツくんのママと知り合いになったから、ムツくんを探すことになったんだよ。ぼくとカブトムシのアマくんにも落ち度はあったんだけどね」

「皆はとにかく親切な虫さん達なんだね。助けてくれて本当にありがとう」ムツは心からのお礼を言った。ムツはテンリの説明を善意に解釈してくれたのである。

 テンリたちの三匹はどちらにしたってムツのためを思いムツを救出したいと思うようになったので、決してクシロに言われたので、仕方なくムツを探していた訳ではない。

 テンリたちの三匹はムツが『危険の地』に入ってしまうことになった経緯を聞いた。しかし、話は入り組んではなくて至ってシンプルである。ムツは蒸し暑い日が続く中で母親のマミのため日傘になるものを探し一人で放浪の旅に出た結果として道に迷ってしまったのである。

 迷子になってしまったムツは仕方なく一夜を過ごしいよいよ次の日になった。さすかにこうなるとムツも焦ってきてしまい我むしゃらに空を飛んでいたら、ロープに気づくことなく『危険の地』に入ってしまった。ムツは『危険の地』にてサルを発見すると木の間に隠れそのまま怖くなってしまい出るに出れなくなってしまったという訳である。しかし、ムツには偉いところもある。

 恐怖の体験をしたにも関わらず、ムツはマミのための日傘を探すことを諦めていないのである。テンリたちの三匹はそれについて大いに感心した。


テンリたち一行はその後も休むことなくどんどんと歩いて行った。ムツはいよいよ母親のマミと対面できるので、今はそれを思うと思わず武者震いしてしまうような心境である。

それに加え、当然と言えば、当然ではあるが、マミは自分のことを探してくれていたことについてうれしく思いそれと同時に心配をかけてしまったので、ムツは申し訳なく思っている。

今はまだ8歳なのだが、ムツはしっかりした性格をしているのである。ただ、ムツよりも年上なのにも関わらず、世の中にはかなりちゃらんぽらんな虫もいる。

例えば、ミヤマはその一例である。ミヤマはクシロの元へ行く道中にて手を使って棘を作り『ウニ・ウニ・ウッニー!』とか『くり・くり・くっりー!』といった具合にふざけまくっている。

ミヤマのギャグは段々とマンネリ化っぽくなってきたので、アマギは白々しく思っているが、テンリとムツの二匹には大盛況だった。ムツにいたっては自分を慰めるためミヤマがはっちゃけてくれているのだと思い感動している。確かにそれも間違ってはいないが、ミヤマとしては半分はムツを元気づけるためだが、半分は自分がやりたいからといった配分である。

テンリたち一行はそんな明るい雰囲気の中でクシロのいるところに到着した。今のクシロは身上相談をしてはいなかった。今日の相談は終了してしまったのである。

「おーい! クシロさーん! ムツくんを探して来たぞー!」アマギはパワフルに呼びかけた。

「おお。君達か。本当にサイカブトだ。君はムツくんかい?」クシロは用心深く聞いた。

「はい。そうです。あなたは誰ですか?」ムツは聞いた。結局はどうしてムツを探すことになったのか、テンリとアマギはミヤマとムツに詳しく説明しなかったのである。アマギの場合はただ単に面倒だったからなのだが、テンリはアマギが嫌がっているのかと誤解しているからである。

「ムツくんは説明を聞いていないようだね。ぼくは旅のカウンセラーだよ。元はと言えば、ぼくが君のママから捜索の依頼を受けたんだけど、テンリくんとカブトムシの君はアマくんといったかな?」クシロは聞いた。クシロはまだアマギから自己紹介を受けていなかったのである。

「うん」アマギは大らかに言った。「おれはアマギだ。以後はよろしく」

「アマギくんか。ごめんね。教えてくれてありがとう。話を戻すと、テンリくんとアマギくんは代わりにムツくんを探してくれたんだよ。それではムツくんのママにここまで来てもらおうか。お家はそれ程に遠くではないらしいから、ムツくんが見つかったと言えば、ムツくんのママは飛んで来るだろうね」

「クシロさんはひょっとして『魔法の石』を持っているのか?」アマギは興味深そうにしている。

「うん」クシロは淀みなく答えた。「持っているよ。アマギくんにも見せてあげるから、ちょっと待っていてね」クシロは荷物をごそごそし始めた。アマギは目をキラキラさせている。


『魔法の石』とはりんし共和国から甲虫王国への輸入品である。平たく言えば『魔法の意志』は人間界のポケ・ベルみたいなものだが、原理は大いに違っている。重要になってくるのはりんし共和国に住むチョウやガは魔法を使えるという事実である。りんし共和国の国民は魔法使いなのである。

例えば、人間界には超能力と言うものがあり中でもスプーン曲げはスプーンを変形トランスフォーメーションするものであるという話を昆虫界の虫にしてもそれは驚くに値しない。

りんし共和国の魔法はもっとすごいからである。昆虫界ではそういった魔法のグッズは『マジック・アイテム』と呼ばれている。『魔法の石』の説明に戻る。りんし共和国の魔法が宿った『魔法の石』は予め呼び出しのための色を互いに接触させて特定しておき、赤なら『赤』と言い、青なら『青』と言いながらその石に触ると一度でも接触させたことのある石はその色に変わるのである。

仮に複数の虫から呼び出しの願いが来れば『魔法の石』はちかちかと順番に色が変わる。色の止め方は『魔法の石』に触りながら「よし」と言えば、それだけでいい。

クシロは自分の『魔法の石』に触りながら「銀」と言った。こうすれば、マミの持つ『魔法の石』は銀色になるという訳である。つまり、クシロは自分を呼んでいるのだなとマミにもわかるようになる。

例え、ムツの母親がすぐに気づかなくても約三時間ほどマミの『魔法の石』はそのままの銀色になっている。『魔法の石』のメモリーは5種類の色までになっている。

「すごいね」テンリは感動した様子である。「ぼくは『魔法の石』なんて初めて見たよ」

「おれも初めて見たよ。りんし共和国にはまだまだ不思議な魔法が他にもあるんだよな。いつかはおれたちもりんし共和国に行ってみたいな」アマギも感極まった様子である。

「しかし、皆はムツくんをよく見つけてこられたね。ムツくんはどこにいたんだい? 一体」

 クシロは聞いた。テンリは少しもったいぶって答えた。

「すごいところだよ。ムツくんは『危険の地』にいたんだよ」

 クシロをその話を聞くと「なんだって?」と言い驚きを露わにした。

 「皆はよく『危険の地』に行って無事に帰ってこられたね。それはすごい快挙だよ。ところで」クシロは再び聞いた。「ミヤマクワガタくんはテンリくんたちの友達なのかな?」

「うん」アマギは最初に答えた。「ミヤマとはムツくん捜しの途中で友達になったんだ」

「そういうことだよ。おれはおもしろい虫ことミヤマだ。よろしく頼むよ。この際だから、よかったら、クシロさんもおれのダンスを見ないかい?」ミヤマはフレンドリーに聞いた。

「ダンスか。それではせっかくだから、見せてもらおうか」クシロはお願いした。

「OK」ミヤマは「レッツ・ダンシング」と言うとまたもや一分ほどのダンスを披露した。

ミヤマはどんな時にもダンスをするのに吝かではない。ミヤマは脚光フット・ライトを浴びているつもりでダンスを続けた。最後はお尻を振り振りし、ダンスは終わった。本当はそんなことはないのだが、ミヤマはこれを名人芸だと思っている。クシロは「なんというか」と言い当たり障りのない感想を述べた。

「ミヤマくんの踊りは実に奇抜で独自性のあるダンスだね」

「そうかい?」ミヤマは大満足の体である。「クシロさんは見てくれてサンキューな」

「ねえ。話は変わるんだけど、ムツくんのママが来ちゃったら、しょうがないけど、ぼくもクシロさんに相談をしてもいい?」テンリは少しだけ悄然として言った。実は少し前から多感なテンリはある問題についてがんじがらめになっていたのである。アマギは「えー!」と言いびっくりしている。

「テンちゃんにもなにか悩みごとはあるのか? おれは気づいてあげられなくてごめんな」アマギは恐縮そうにしている。しかも、アマギにしては珍しくしゅんとなってしまっている。

「ううん」テンリは取り成した。「全く責任はないから、アマくんは謝らないでいいよ」

「それでは場所を移そうか」クシロはやさしい心配りを口にした。

「相談はちょっとしたものだから、ぼくは皆の前でもいいよ」

 テンリは首唱した。クシロは動揺することなく「そうかい?」と言った。

「それでは遠慮せずにぼくに話してくれていいよ。ぼくはテンリくんの味方だからね」

「うん。あのね。ぼくはアマくんみたいに強い虫じゃなくて体も心も弱い虫だから、時々不安になっちゃうことがあるんだよ。そういう時はどういう風に考えたらいいのかなあ?」テンリは聞いた。

「いやいや。強くなんかなくてもテンちゃんには」アマギは言いかけた。だが、クシロは途中で遮った。まずはプロである自分の助言から聞いてもらおうとクシロは思ったのである。

「アマギくんはちょっと待っていてね。テンリくんはどうしてこの世に生きているんだと思う?」

「ええと、生まれてきたからかなあ? たぶん」テンリは心細げに答えた。

「ははは」クシロは柔和な表情をした。「確かにそれも一つの答えだね。だけど、ぼくの言いたいのは生きている意味についてなんだよ。ぼくたちは誰もが誰かに愛されるためこの世に命を煌めかせるんだよ。一匹では寂しくて傷つくのが怖くて他の虫と接することが躊躇われる時があるかもしれないけど、他の虫との結びつきはやっぱり大事なんだ。この世に一人ぼっちで誰からも愛されていない虫は存在しない。テンリくんもそうだよね? だから、この世に価値のない虫は存在しないんだ。例え、力が弱くったって弱虫だって泣き虫だってそんなことは関係ない。虫は皆平等に生きる価値があるんだよ。だから、テンリくんは力が弱いっていうことで不安になんかならなくていいんだよ。もし、それを卑下する虫がいたとしたら、間違っているのは絶対にその虫の方なんだ。わかってくれたかな?」クシロは聞いた。

 これこそはプロフェッショナルの解答である。アマギは黙って虚空を見つめている。

「うん」テンリは頷いた。「わかったよ」

 隣にいるミヤマも大いに納得している。クシロは「さて」と言いアマギの方を向いた。

「アマギくんの言いたいことは何かな?」クシロは水を向けた。

「おれはクシロさんみたいに立派なことは言えないけど、テンちゃんはカエルと対峙した時におれを助けるために必死に食らいついてくれただろう? その気持ちがあれば、強さなんて関係ないとおれは思うんだ。他にもテンちゃんにはやさしい面が一杯あるんだしさ」アマギは言った。

「ありがとう」テンリは礼を述べた。「アマくんとクシロさんはありがとう。二人の言葉はすごく励みになったよ。ぼくはこれからもうこのことで考え込まないようにするよ」

 テンリは決心した。クシロは「うん」と言った。

「それが一番いいことだね。テンリくんがそうしてくれるとぼくもうれしいよ」

 この場には突然「ムツくーん」と女性の声が響き渡った。これはもちろんマミの声である。

「おや? 文字のとおり、ムツくんのママは飛んできたよ」クシロは後ろを振り返ってから趣のある表現で言った。ムツの母親であるマミはムツの傍に降り立った。

「ムツくんが無事でよかった。ママはどんなに心配したことか。ケガはない?」マミは聞いた。

「うん。ケガはないよ。ママには色々と心配をかけちゃってごめんね」ムツは素直に謝った。

「いいのよ。それより、ムツくんはお腹が空いているでしょう? 家に帰ったら、たくさんの樹液を吸うのよ」マミは言った。マミは心の底からうれしそうなので、テンリたちの三匹もうれしい気持ちになった。

「うん」ムツは言った。「この虫さんたちがぼくを『危険の地』から助け出してくれたんだよ」

「え? ムツくんは『危険の地』にいたの? ああ。ごめんなさい。そうでした。あなたたちには本当にお世話になりました。私はなんとお礼を申し上げていいことかしら? ともかく

「どうもありがとうございます。このご恩は一生忘れません」マミは心からのお礼を言った。

 テンリとアマギの二匹はそれを受けて笑顔になった。

「いや」ミヤマは得意満面で言った。「いいんですよ」ミヤマは照れている。マミとは初対面だが、ミヤマはいかにも得意そうだし、偉そうである。しかし、マミはそれについては特に触れなかった。

「仲間のミヤマクワガタくんにも助けを要請してくれたのね? 皆さんには本当に感謝してもしきれません。よかったら、皆さんは私達のお家へ来て樹液を吸いませんか?」マミは提案した。

「どうする?」アマギは聞いた。「今はイワミさんを待たせちゃっているけど、テンちゃんは樹液を食べに行きたいか?」アマギはどっちでもよさそうである。思いやりの心があるからこそ、アマギはちゃんと確認ができるのである。テンリはすぐ「ううん」と否定した。

「せっかくだけど、ぼくはいいよ。イワミさんを待たせちゃっているっていうのもあるし、見返りを求めてしたことでもないからね」テンリはすぐに返答した。テンリは度量が大きい。

「それもそうだな。それじゃあ、おれも遠慮するよ」アマギはすぐに言った。

アマギは別に名残惜しそうではない。アマギもなにかしらが欲しくて虫助けをしようとした訳ではないのである。ミヤマに関しても異論はない。

「そうですか? それではムツくんには早速に樹液を吸わせてあげたいので、私達はこれで失礼させてもらいます。皆さんは本当にありがとうございました」マミは二度目のお礼を言った。

「いいえ」アマギはやさしく言った。「それじゃあ、ムツくんは元気でな。これからはもう一人で出歩いて『危険の地』に行ったら、ダメだぞ」アマギは最後の忠告をした。普段はこんな説教みたいなことは言わないので、アマギは言ってから少しむずがゆい思いをした。しかし、テンリはそんなアマギを格好よく思った。

「それじゃあ、気をつけて帰ってね。バイバーイ」テンリはお別れの言葉を述べた。ムツとマミはテンリたちの三匹とクシロに見送られお家の方へと帰って行ってしまった。

「これにて一件落着だな」ミヤマはまとめに入るような口調で言った。

「君達はどうやらぼくの想像以上に愛と勇気ある虫さんだったようだね。盗み聞きしていたことも悪気があった訳ではないんだろうね。すまなかったよ。ぼくも少し言い過ぎた」クシロは丁寧に謝った。

「いいや」アマギは頑是ない。「いいんだよ。クシロさんともこれでお別れだな。たまには寄り道することもあるけど、おれたちはこれからアルコイリスに行く予定なんだ」アマギは内部事情を明かした。

「ほう」クシロは感嘆した。「そうだったのか。それじゃあ、ここではとんだ足止めになってしまった訳だね」クシロは申し訳なさそうである。クシロは他人の相談に乗るくらいなので、根はやさしいのである。

「そんなことはないよ。クシロさんと会えてよかったよ。ぼくにとってはクシロさんは尊敬する虫さんだよ。クシロさんは言葉の力で虫を正しい方に導いてくれるんだもの」テンリは感極まった様子である。

「ありがとう」クシロは謙虚である。「でも、ぼくは神様じゃないから、実はいつも本当に自信を持っている訳じゃないんだよ。ぼくも時には間違ったことを言ってしまう可能性だってあるからね」

「テンちゃんの言うとおり、クシロさんは確かに見上げた虫だな」ミヤマも感心した様子である。

「それじゃあ、おれたちはそろそろ行くよ」アマギは言った。クシロは「うん」と頷いた。

「ぼくはまたいつか君たちと会える日がくればいいと思っているよ。君たちはやさしい虫さんだから、つらい時でもきっと他の虫さんから助けてもらえるよ。アルコイルスまで気をつけてね。さようなら」クシロはやさしい微笑みを浮かべながらきちんとテンリたちのことを気遣った。

ミヤマとテンリはそれを受けると順番に「さようなら」とか「バイバーイ」と言ってお別れの言葉を述べた。テンリたちの三匹はこうしてクシロの元を去って行った。

クシロはテンリたち一行を見送りながら反省していた。クシロはテンリとアマギが盗み聞きをしていた時に少し熱くなってしまったので、自分はもっとやさしくならなければならないと思ったのである。確かにクライアントの話を聞くことはプライバシーの侵害になるが、テンリとアマギはまだ人生経験が豊富ではないので、時折はそういう失敗をしてしまうことだってある。そんな時は自分だってミスをすることはあるのだから、自分はもう少し冷静になるべきだったとクシロは後悔している。

テンリとアマギは実際にやさしい虫だから、盗み聞きしたことに悪気はなかったのだと今ではクシロも確信を持っている。しかし「失敗は成功の基」なので、クシロもこのことをこれからの生活に役立てクライアントにはテンリとアマギのようにやさしく接することにしようと決心した。


テンリたち一行のその後の話である。しばらくの間は無言で歩いていた。テンリは見事にムツを救出できたことについて大満足である。「ローマは一日にしてならず」というので、わずか一日で発見できたとはテンリにとってはうれしい誤算だった。とはいえ、ムツは三日間も行方不明だったので、それを考えると、ムツのことは早く見つけてあげなければならないとテンリには焦りの気持ちもあった。

アマギは豪放磊落なので、ムツの発見についてはうれしい誤算だとは思っていない。自分でも言っていたが「世の中はなんとかなるだろう」という心情がアマギのポリシーだからである。

ミヤマは自分から進んでムツ探しに加わることになった訳だが、今は虫助けに成功したことにより清々しい気持ちになっておりいい経験をさせてもらったと達観している。

クシロの姿は見えなくなりさらに進んで行くと、テンリたち一行はミヤマのお家まで帰って来た。そこではやはりサセボからズイカクへのお届け物である布団は盗まれていなかった。

「さすがにそろそろはっきりさせておくべきだと思うけど、ミヤマはイワミさんと栗の木に向かったあともこのままおれたちと一緒にアルコイリスまで行くよな?」アマギは唐突に聞いた。ミヤマは不意を突かれてしまい「え?」と言葉がうまく出てこなかった。

「そうだよ。ミヤマくんも一緒に行くんだよね?」テンリは念を押した。

「ということはおれも一緒に行ってもいいのかい?」ミヤマは聞いた。

「もちろんだよ。おれたちはもう仲間だろう? それとも、ミヤマはアルコイリスには興味がないのか?」アマギはあまり心配そうではなく聞いた。アルコイリスはそれ程にどんな虫にとっても魅力的なものなのである。ミヤマは自分らしくないと思いながらも「いや」と言いつつ弱気になっている。

「興味はあるよ。でも、おれは足手まといになったりしないかな?」

「ミヤマくんはなんのことを言っているの? そんなことは今までに一度もなかったよ。特に『危険の地』に行った時のミヤマくんの活躍はすごかったよ」テンリは大いに称賛した。ミヤマの海難救助サルベージはずぶの素人にしてはとても見事なものだったとテンリは心から思っている。

「おれはライフ・セイバーの真似事をしただけだよ」ミヤマは柄にもなくハンブルな姿勢を見せた。ミヤマはなぜか暗いままである。ミヤマはテンリとアマギに甘えているのである。

「それだってミヤマがいなければ、今頃はどうなっていたかもわからないだろう? おれたちは最高のチームだよ」アマギは笑顔である。すると、ミヤマにもテンリとアマギの熱意が伝わった。

「わかった。おれを改めてテンちゃんとアマの仲間に入れてくれ」ミヤマは言った。

「そんな堅苦しいことを言わなくたっていいだろう? ミヤマらしくないぞ」アマギは相変わらず朗々としている。今のテンリたち一行はミヤマの家の前で立ち話をしている。

話はようやくまとまったので一同は行動に出た。ミヤマは早速に布団を持って来た。テンリはてきぱきとその布団の紐をアマギの手前の角に結びつけた。テンリは割と器用な方である。

「よし」ミヤマは持ち前の明朗さを取り戻した。「ここには引っ越してきたばっかりでまだ愛着は少ないけど、しばらくはこの家ともお別れだ。長い旅になると思うから、ここからは気を引き締めないとな。それより、テンちゃんとアマとは仲間になったんだから、おれらにはやっておかないといけないことがあるな」

「何をやっておかないといけないの? それは難しいことなの?」テンリは聞いた。

「いや」ミヤマは軽く否定した。「そんなことはないよ。おれの家に先祖代々から伝わるタップ・ダンスの儀式をやるんだよ。これは仲間の印として必要なんだ。それじゃあ、いいかい? テンちゃんとアマはおれのあとに続いて振り付けをしてくれるかい? スリー・ツー・ワン! はい!」ミヤマはそう言うとテンリとアマギの後ろを向き二本足でダンスを始めた。ミヤマは実のところ家族ぐるみでダンスが好きだったのである。

「なんか、不気味な儀式が始まったな。まあ、でも、気がすんだら、ミヤマもついてくるだろうし、やりたいことはやらせておこうか。おれたちは先へ行こう」アマギはテンリに呼びかけた。

「え? いいの?」テンリは聞き返した。テンリは性格が素直なので、今はややはにかみながらもミヤマの真似をして踊っている。実はテンリがダンスをするのは初めてなのである。

「大丈夫だよ。おれにはもうミヤマの性格は読めてきているから」アマギは請け負った。

「それじゃあ、気がすんだら、ミヤマくんはついて来てね」テンリは呼びかけた。しかし、テンリの言葉は恐ろしいほどダンスに夢中になっているミヤマには届いていない。

テンリは申し訳なく思いながらもアマギと共に先に歩いて行った。ミヤマはこうして置き去りにされながらも晴れてテンリとアマギの二匹の旅の仲間になった。

テンリは歩きながら感動している。まさか、旅の仲間が増えるとはこれもまたテンリにとってはうれしい誤算だったのである。人生にはいつどんな転機が訪れるかはわからない。ミヤマのことは置き去りにすることにしたが、アマギはミヤマの仲間入りを喜んでいない訳ではない。

ただ、ミヤマなら、許してくれるだろうと思い、アマギはイワミの元へ一刻も早く帰ることにしたのである。今日に会ったばかりなのにも関わらず、アマギとミヤマにはすでに信頼関係ができている。それはテンリも同じだし、実は一緒になって死に目に合ったことも影響している。


爾後である。テンリとアマギの二匹はしばらく歩いた。その間のテンリは電気ナマズの話をしたり、アマギは空気入れで虫が膨らんだら、それはきっとおもしろいという話をしたりして楽しく時間を過ごした。

どんなに下らない話でも言い合える仲だからこそ、テンリとアマギはお互い気兼ねしなくてすむのである。ミヤマがそこへ加わるとまた違った好ましい風が流れ込むようになる。

テンリとアマギの二匹はイワミのいるはずの場所にやって来た。しかし、イワミの姿はテンリとアマギの二匹がどこを見渡してみても見当たらなかった。

「どうしたんだろう? イワミさんはやっぱり暇だったら、どこかにお散歩に行っちゃったのかなあ?」テンリは疑問を呈した。しかし、テンリは同時にイワミが約束を破るのは変だなと思っている。

「まあ、確かにその可能性はあるな。それじゃあ、手分けして探してみよう」アマギは提案した。テンリとアマギの二匹は空を飛びイワミの捜索を始めた。今『平穏の地』には西日が当たり始めた頃である。

「イワミさんがいたよー」テンリは少ししてからアマギに対し声を上げた。

アマギは何も考えず言われたとおりテンリの声のする方へと飛んで行った。テンリがイワミを見つけたのは約束の場所からおよそ10メートル離れた場所である。あろうことか、アマギはイワミがぐったりして寝転んでいる光景を目の当たりにすることになった。

「イワミさんはどうしたの? 話はできる?」テンリは気がかりそうに声をかけた。イワミは体の向きをテンリとアマギの二匹の方へゆっくりと向けた。

「ああ。無理はしなくていいぞ」アマギはイワミに気を使った。テンリとアマギもこれが異常事態であるということには気付いている。「霜を踏んで堅氷に至る」である。

「実はまだテンちゃんたちと別れたばっかりの時に甘い香りに誘われてそこにある痺れ薬入りの水を飲んじゃったの。私って本当にドジだから」イワミは体を小刻みに震わせながらゆっくりとした口調で事情を説明してくれた。イワミは痛々しいので、テンリは思わず目を背けたくなった。

「なるほど」アマギは言った。「これか」

 痺れ薬は薄い円形の器に入っている。アマギは腹いせとしてその器を角でひっくり返そうとした。ミヤマは「おーい!」と言いそこへやって来た。

「おれを置いてきぼりにするなんてひどいじゃないか。って」

 ミヤマは「うげ!」と呻き声を上げた。アマギがひっくり返そうとした器が90度ほど傾いたところで運悪くそこに飛んできていたミヤマと器が激突してしまったのである。器はそのままひっくり返った。

ミヤマは必然的に器の中に閉じ込められてしまった。傍には仲間がいると思っていたのにも関わらず、実は一人でダンスをしていたので、忸怩たる思いだったミヤマに対して続け様のこの災難である。

「ん? なんだ? 誰か器にぶつかったか?」アマギは不審そうにしている。

「助けてくれー! 水びたしで暗くて出られないよー!」ミヤマは器の中でやかましい声を立てている。テンリとアマギはミヤマの声を聞くとようやく状況を把握することができた。

「全く世話が焼けるな」アマギはそう言うともう一度だけ角で器をひっくり返した。

「はあ、なんとか、助かった。って」ミヤマは早速に怒りをぶつけた。「ちょっと待てー! 世話が焼けるとはなんだよ。アマがやったんじゃないか」ミヤマは置いてきぼりにされたことも相まって少しストレスが溜まっている。テンリはそれを考えるととても申し訳ない気持ちになってしまった。

「なんだよ。ミヤマが急に飛んできたのが悪いんだろう?」アマギは反論した。

「それもおれを置いてきぼりにしたからだろうが」ミヤマは反論に反論した。

「ねえ」テンリは話に割って入った。「二人ともちょっと待ってよ。今はケンカしている場合じゃないよ。でも、ごめんね。ミヤマくんには悪いことをしちゃったね。ただ、今はとにかくイワミさんが心配だよ」

「そうだ。イワミさんは苦しそうにしているけど、どうしたんだい? 一体」ミヤマは聞いた。アマギはイワミが痺れ薬を飲んだらしいという事情を手短に話した。

「痺れ薬なんてものがどうしてこんなところにあるんだい?」ミヤマは疑問を呈した。

「それはきっと甲虫王国の国民にとって都合の悪い生き物を退治するためだよ」テンリは推測した。

「うん。そうだ。たぶん」アマギはテンリの意見を尊重した。ようは人間がゴキブリ退治のために罠を張るのと同じ原理である。確かにテンリの推測は正解である。

「でも、どうすれば、痺れは取れるんだろう?」テンリは考え込んでしまった。しかし、アマギもミヤマも妙案を口にすることはできなかった。テンリは結局のところイワミを頼ることにした。

「どうすれば、痺れは治まるか、イワミさんは知ってる?」テンリは聞いた。

「テンちゃんたち(昆虫)から見た『危険の地』に行けば、痺れを取る薬があるはずだけど」イワミはそこで言葉を続けられなくなってしまった。しかし、アマギにはそこまでの情報で充分である。

「よっしゃ! それなら、また『危険の地』に行こう!」アマギは即断即決した。

「え? 本気かい? まあ、アマのことだから、本気だよな」ミヤマは呟いた。

「うん。おれは本気だ。ミヤマとテンちゃんはなんなら待っていてもいいぞ」アマギは提案した。

しかし、テンリは勇敢にも同行する旨を申し出た。それはミヤマも同じである。先程はアマギにより「おれたちは最高のチームだ」と言われたので、ミヤマは自信がついたのである。

「ちょっと待って」イワミはかすれ声でやる気満々の三匹に注意を促した。

「どうしたの? ゆっくりでいいよ」テンリはイワミにやさしく話を促した。

「また『危険の地』に入ることはテンちゃんたちにとっては危険すぎるわ。三日も経てば、痺れは取れると聞いたことがあるから、私は大丈夫よ。そのくらいは耐えられる」イワミは主張した。

「三日なんて全く大丈夫じゃないじゃないか。死活問題だよ。ここはやっぱり薬を探しに行った方がいいよ」ミヤマはオーバーではなく必死の思いで提案した。

「ミヤマくんは心配してくれてありがとう。でも、それなら」イワミはなにかの話を続けようとした。

「イワミさんはまだなにか言いたいことがあるみたいだよ」テンリは呼びかけた。アマギとミヤマの二匹は早くもいきり立っている。イワミは少し前の右足を動かし方向を示した。

「聞いた話によると、向こうの方向を真っ直ぐ行けば『医療の地』という場所があるらしいの。そこに行けば、たぶん『魔法の薬』を手に入れることができるわ。私が飲んだのは『魔法の毒』だから、対処はそれでもできると思うの。たぶん」イワミは必死になって声を絞り出した。

しかし、イワミのセリフには二回「たぶん」が出てきたとおり、本当に『医療の地』に薬があるのか、本当にその薬を飲めば、イワミの体調は優れるのかはどちらも確証はない。

 魔法という単語からもわかるとおり、もちろん『魔法の薬』を処方してくれであろう『医療の地』という場所はりんし共和国の提案と協力によって作られることになった土地である。

「よし」アマギは血気盛んに言った。「そうとわかったら、早速に行こう」

「そうだな。行ったことはないけど『医療の地』っていう名前はおれも聞いたことがある。まず、間違いなく痺れを取るための薬は置いているだろう。足踏みしている時間も今はもったいないから、おれらはとっとと行ってとっとと帰ってくることにしよう」ミヤマは早くも気合いを入れている。

「イワミさんはちょっと待っていてね。ぼくたちはできるだけ早く帰ってくるからね」テンリは励ました。

「ありがとう」イワミはしわがれた声で皆に礼を言った。イワミは口も痙攣していて普段の声が出せなくなってしまっている。それを受けると、テンリはイワミに深く同情した。

アマギはテンリに布団の紐を解いてもらい、布団はイワミの傍に置いておくことにした。『危険の地』に入る訳ではないが、アマギとしても身軽な方がいいからである。

「よーし!」アマギは元気一杯に叫んだ。「それじゃあ『魔法の薬』を求めて出発だー!」

 テンリたちの三匹は『医療の地』へ向けて歩き出した。ムツの捜索が終わったかと思えば、今度はイワミの救出とはまるで僧の行脚みたいである。

しかし、テンリたちの三匹は誰もそれを不快には思ってはいない。それはもちろんテンリたちのやさしさの証拠でもあるが「至誠は天に通ず」と言うようにイワミによるテンリたちを気遣う気持ちのおかげでもある。イワミは自分の具合が悪くなっても相手を気遣っていたからである。

あとに残ったイワミはテンリたちの三匹のことを信頼しているので、安心して彼等の帰宅を待つことにした。イワミはそれでもテンリたちの三匹が無事に帰ってこれるようお祈りをした。

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