9話 水子の霊はどこへ行く?
ジョイフルに入ると、店内は昼時の混雑が一段落したようで、比較的静かだった。
窓際の席に座るサラリーマンたちは、ノートPCを開いて何かを打ち込んでいる。制服姿の高校生が数人、ドリンクバーを行ったり来たりしながら談笑している。年配の夫婦が向かい合ってゆっくりと食事をしている。
「——いらっしゃいませ。」
カウンター越しに、若い女性の店員がにこやかに声をかけてくる。
「あ、三名です。」女性がすかさず答える。
「こちらの席でよろしいですか?」
促されて、俺たちは奥のボックス席に案内された。
席に着くなり、女性が少し落ち着いた表情を浮かべ、俺に向き直る。
「……すみません。突き飛ばしたりなんかして。」
「まぁ、気にしてねぇよ。人間、驚けば反射的に動くもんだ。」
俺は電子タバコを取り出し、咥えかけて「店内禁煙」のステッカーを見て諦め、ポケットにしまった。
「にしても、こんな昼間っからファミレスってのも久々だな。」
メニューを開きながら、ふと隣に座るミナモを見る。
「お前、こういう場所来るのか?」
「……ミナモは、あまり外食をしません。」
「そうか。」
彼女は、メニュー表を眺めていたが、視線をすぐに俺へ戻した。
「でも、ミナモはパフェが好きです。」
「へぇ。」
「嘘です。——データベースにそう書いてあります。」
「なんだそりゃ。」
俺は肩をすくめ、メニューを適当にめくった。
「んで、あんたは何が言いたくて俺をここに連れ込んだんだ?」
俺はメニューをパラパラとめくりながら、向かいに座る女性の様子を横目で見ていた。
彼女は特に迷う様子もなく、自分の注文を決めると、ミナモの方をちらりと見て、
「パフェにしようか?」
と、まるで本当の子供に尋ねるような口調で言った。
「……ミナモは、甘いものを食べる機能はありません。」
ミナモは静かに答える。
「それでもいいの。こういう時は、食べることより雰囲気を楽しむものよ。」
「……了解しました。」
ミナモは小さく頷いた。
——こりゃまた、ずいぶんと親しげな対応だな。
注文を済ませた後、女性はふっと息をついて、俺をまっすぐに見た。
「ミナモは——私と夫の娘なんです。」
そう、はっきりと告げた。
俺はその言葉に、自然と眉をひそめた。
「……あんたの“娘”、ねぇ。」
「ええ。」
彼女の目に迷いはなかった。
「それは——比喩としてか? それとも、本気でそう思ってる?」
俺の問いに、彼女は少し考える素振りを見せた後、小さく微笑んだ。
「あなたはどう思いますか?」
「俺の意見なんか、どうでもいいだろ。」
俺は腕を組みながら、ちらりとミナモを見た。
「こいつは旧型のLX-7 PUPIL。20年以上前の教育支援アンドロイドだ。」
「そうですね。」
「子供向けのAIを積んでるし、親の代わりに勉強を教えたり、遊び相手になったりもする。でも所詮は“製品”だ。」
俺はコップの水をひと口飲み、女性の顔をじっと見つめた。
「——それでも、“娘”だって言い張るのか?」
「ええ。」
彼女は迷いなく頷いた。
「夫と私は、ミナモと一緒に暮らしてきました。だから、娘なんです。」
「……ふぅん。」
俺は電子タバコを弄びながら、目を細めた。
「まぁ、そう思うのは自由だな。」
「ありがとう。」
彼女はそう言って、少し安心したような顔をした。
「ただし——」
俺はテーブルに肘をつき、軽く指を鳴らした。
「それなら、それなりに手入れしてやれよ。オイル漏れなんて放置するもんじゃねぇ。」
「……。」
彼女の表情が、わずかに陰った。
「それは——」
言いかけたところで、ちょうど店員が注文を持ってきた。
パフェの載った皿がテーブルに置かれ、ミナモの前にスプーンが添えられる。
ミナモはじっとパフェを見つめた後、小さな手を伸ばした。
——そして、ぎこちなくスプーンを握った。
「いただきます。」
彼女はそう言って、ゆっくりとパフェをすくい、口元へ運んだ。
——何も味わえないはずの、アンドロイドの口元へ。
俺はテーブルの上に肘をつきながら、ミナモがパフェを口に運ぶ様子を見ていた。
——いや、正確には「口に運ぶフリ」をしているだけだ。
アンドロイドに味覚なんてない。
それなのに、まるで普通の子供のようにスプーンを握り、甘いものを食べる動作を繰り返している。
「……やめてくれよ。」
思わず、言葉が口をついて出た。
「そんなの見せられても、こっちが気まずくなる。」
少しだけ、口調が強まる。
俺は目の前の女性に視線を向けた。
彼女は驚いたように俺を見つめ、その後、少し悲しそうに笑った。
「……ごめんなさい。」
「いや、謝ることじゃねぇけどよ……。」
俺は手元のグラスを持ち上げ、水をひと口飲んだ。
喉が妙に渇いている。
この空間が、やけに居心地が悪い。
「……ミナモは、生まれる前に死にました。」
静かに、彼女がそう言った。
俺は——
それだけで、すべてを理解した。
「あぁ、そういうことかよ……。」
俺は、軽く目を閉じ、ため息をついた。
ミナモが“娘”である理由。
このアンドロイドが、彼女にとってただの機械じゃない理由。
全部、繋がった。
「……。」
居ても立っても居られない。
俺は椅子に深く座り直し、電子タバコを口にくわえた。
煙を吐き出しながら、ぼんやりと天井を見上げる。
「……クソッたれが。」
思わず、そう呟いた。
彼女の“娘”は、生まれることなく消えた。
——そして、その代わりに「ミナモ」がいる。
俺には、それを肯定することも、否定することもできなかった。
ただただ、居心地の悪い気まずさだけが、この空間に満ちていた。
俺はグラスの水を飲み干し、テーブルの上に置いた。
「最近、ミナモはすぐに寝てしまって……それで、起きなくなるんです。」
彼女はそう言って、静かにミナモを見つめる。
ミナモはパフェのスプーンを持ったまま、無言でこちらを見ていた。
「……まぁ、バッテリーの劣化だろうな。」
俺は無造作に答える。
古い型のアンドロイドなら、バッテリーの寿命は十数年程度が限界だ。
今のミナモがどういう状態かわからないが、充電回数が積み重なれば、どんなに頑丈なバッテリーだって、いつかは限界が来る。
それはただの“物理的な劣化”だ。
だが——
「もし、このまま……ミナモが起きなくなったら。」
彼女の声がかすかに震えた。
「私たち夫婦は……また失うんです。」
俺は、その言葉に手を止めた。
一瞬、沈黙が落ちる。
「……。」
居心地が悪い。
テーブルを挟んで、俺と彼女の間に、重い空気が流れる。
彼女が言いたいことはわかる。
ミナモは彼女たちにとって、ただの機械じゃない。
——“娘”なんだ。
たとえそれがアンドロイドであっても。
「……。」
俺は、口の中の苦みを吐き出すように、ゆっくりと言った。
「なら、メンテナンスしてやれよ。」
彼女が、俺を見た。
「……え?」
「ミナモを“生かしたい”んだろ? なら、できることをやれよ。」
俺は腕を組み、椅子にもたれながら続ける。
「……正直、俺にはわからねぇ考え方だ。」
「……。」
「ミナモはアンドロイドだ。人間じゃない。」
冷たい言い方になったのは、わざとだった。
「それなのに、人間みたいな生き方を強いられてる。」
「……。」
「アンドロイドが、それを“不幸”に思うかどうかは知らねぇよ。」
俺は煙を吐き出しながら、淡々と続けた。
「だけどな——少なくとも、俺は不幸だと思うぜ。」
「……。」
彼女の表情が、かすかに曇る。
「機械に、感情なんてねぇ。バッテリーが切れれば、それで終わりだ。 だが——」
俺はミナモを見た。
「こいつを“娘”として扱うってのなら、バッテリーくらい交換してやれよ。」
ミナモの視線が、俺を捉えていた。
電子音のような瞳。
でも——
そこに何かが宿っているように思えたのは、俺の錯覚だろうか。
「……やれることをやらねぇで、ただ失うのを待つなんて、馬鹿げてる。」
俺はそう言い放ち、電子タバコの火を消した。
「……で、どうすんだ?」
俺は、彼女に問いかける。
ただし、答えはわかりきっていた。
俺は腕を組み、ミナモをじっと見た。
そして、少し考え込んでから、静かにため息をつく。
「……ふん。2、3日だけ借りるぞ。」
彼女が驚いたように俺を見た。
「えっ……?」
「修理だよ、修理。バッテリーの状態を見て、交換できるなら交換する。それで様子を見てやる。」
俺はコップの水を一口飲み、テーブルに置いた。
「ただし、保証はしねぇ。こいつは旧型だ。純正のパーツなんて、まず手に入らねぇからな。」
「……それでもいいです!」
彼女は力強く頷いた。
「お願いします……どうか……ミナモを……。」
「ったく、大げさだな。」
俺はぼやきながら、ミナモの肩を軽く叩いた。
「おい、ミナモ。しばらく俺んとこに来るか?」
ミナモは、少しの間沈黙したあと、小さく頷いた。
「ミナモは、メンテナンスを受けます。」
「よし、決まりだ。」
俺は立ち上がり、ポケットからスマホを取り出す。
「……さて、こいつを運ぶか。」
彼女は少し困ったように言った。
「ミナモ、歩けると思いますけど……その……重くないですか?」
「別に。」
俺はミナモを片腕で抱え上げた。
——軽い。
さすが旧型のアンドロイド、骨格は合成樹脂製で、人間の子供よりもずっと軽い。
「お、おじちゃん……大丈夫ですか?」
ミナモが少し不安そうに俺を見上げる。
「こんなの朝飯前だ。」
俺は肩をすくめ、店の出口へ向かった。
「……じゃあ、数日したら連絡する。」
「本当に……ありがとうございます。」
彼女は深く頭を下げた。
俺はそれを適当に受け流しながら、トラックのドアを開けた。
「ほら、乗れ。」
ミナモを助手席に乗せ、ドアを閉める。
エンジンをかけると、ナビの画面が青く光った。
「さて……これでまた厄介事が増えたな。」
俺は軽く肩をすくめながら、アクセルを踏んだ。
——こうして、俺は“娘”を預かることになった。
夕暮れの中央道を、トラックは滑るように走る。
オレンジ色の陽光が地平線に沈みかけ、雲は薄紅に染まっている。
街の明かりがぽつぽつと灯り始める時間。
ミナモは助手席で、相変わらず無表情のまま窓の外を眺めていた。
だが——
なんとなく、楽しそうに見えた。
感情がないはずの顔なのに、どこか満ち足りた雰囲気が漂っている。
風景が流れていくのを、じっと目で追いかけている。
「……楽しいか?」
俺が聞くと、ミナモはこくりと頷いた。
「楽しいです。」
「……ふぅん。」
俺は適当に相槌を打つが、イマイチ理解ができなかった。
アンドロイドに“楽しい”なんて感覚があるのか?
プログラムされた反応なのか?
それとも……
「外の景色、動いているのが面白いです。」
ミナモは、淡々とした声でそう言った。
「そりゃ、お前が今まであんまり外を見てこなかっただけだろ。」
「はい。ミナモは、屋内での活動が主でした。」
「だろうな。」
家庭用の子供向けアンドロイドなら、基本的には家の中で子供の相手をするのが仕事だ。
外に出る機会はほとんどなかったはず。
だからこそ、こうして流れる景色を見て、妙に嬉しそうにしているのかもしれない。
俺は電子タバコをくわえ、白い蒸気を吐き出した。
「……変なヤツだな、お前は。」
「そうでしょうか?」
ミナモが首をかしげる。
「まぁな。アンドロイドが“楽しい”とか言うのは、ちょっと気持ち悪いって話だよ。」
「そうですか……。」
ミナモは少し考える素振りを見せたが、それ以上は何も言わなかった。
夕日が沈み、空がゆっくりと青紫へと変わっていく。
トラックはそのまま、静かに中央道を走り続けた。
自室に戻ると、ミナモはソファに腰を下ろしたまま、微動だにしなかった。
まるで電池の切れたオモチャのように、じっと座ったまま。
「……おい。」
呼びかけても、返事がない。
怪訝に思いながら近づくと、ミナモの瞳がうっすらと光を宿した。
「省電力モードです。」
淡々とした声。
「……なんだそりゃ。」
「エネルギー消費を抑えるため、活動を制限しています。」
「勝手にスリープすんなよ。せめて言え。」
「……はい。」
相変わらずの無表情で頷くが、そのまま動こうとしない。
まるで「今のままで問題ない」とでも言いたげな様子だった。
俺は肩をすくめ、ミナモを尻目にパソコンを起動する。
デスクの上のモニターが立ち上がり、薄青い光が部屋の中にぼんやりと広がる。
キーボードを叩き、検索ウィンドウに文字を打ち込む。
「LX-7 PUPIL……っと。」
検索結果がズラリと表示される。
だが、肝心のパーツ情報を確認すると——
「げ……在庫なし、かよ。」
まあ、20年以上前のモデルだ。
今さら純正のパーツが手に入るとは思ってなかったが、それにしてもここまで何もないとはな。
「……ちっ。」
舌打ちしながら別の検索をかける。
完全な純正品はなくても、流用できる互換パーツくらいはあるはずだ。
電源モジュール、関節用シリンダー、音声出力装置……
いくつか代替品が見つかる。
「……まぁ、これならなんとかなるか。」
俺はタバコをくわえたまま、椅子の背にもたれた。
ミナモは相変わらずソファの上で、じっとこちらを見ている。
——こいつのために、ここまで動くなんてな。
自分でも少し笑えてきた。
俺は引き出しを開け、奥にしまってあった小さなケースに手を伸ばした。
中には、八潮の工場で“抜き取った”集積回路が収まっている。
こいつを持ち帰ってから、ずっと机の奥に眠らせていた。
「……さて。」
ケースを開け、指先で回路をつまむ。
滑らかな金属の表面が薄く光を反射する。
集積回路。
アンドロイドの“意思決定”を司る核とも言える部分——記憶のデータではなく、“経験”に基づく行動を決める領域。
……あのクレーンロボットは、壊される寸前に手を伸ばした。
誰の指示でもなく、誰の命令でもなく。
ただ、“助けようとした”。
「なぁ、ミナモ。」
ソファの上に目を向ける。
ミナモは相変わらず無表情のまま、だが、俺の声に反応し、わずかに首を傾げた。
「……お前は、ここに来る時“楽しい”って言ったよな?」
静かに問いかける。
「はい。」
迷いのない答え。
「どこまで本気だったんだ?」
ミナモは一瞬、まばたきをした。
俺は集積回路を指先で転がしながら、目の前のアンドロイドを見つめた。
コイツはただのプログラムなのか、それとも——
「……。」
ミナモは少し考えるような仕草を見せた。
そして——
「楽しい、という定義は曖昧です。」
ゆっくりと口を開いた。
「ですが、私は“楽しい”と感じました。」
「……へぇ。」
「“楽しい”とは、どういうものですか?」
その問いに、俺は小さく鼻で笑った。
「そんなもん、人間だってちゃんと答えられねぇよ。」
ミナモは静かに瞬きを繰り返しながら、それでも何かを理解しようとしているように見えた。
俺は集積回路を軽く弾く。
「……楽しい、か。」
ふと、壁に目を向ける。
そこには、昔の俺と母親の写真があった。
子供の頃、母さんと過ごした時間——
楽しいと、確かに思っていた。
「——クソ。」
俺は苦笑しながら、集積回路をそっと引き出しに戻した。
「……まぁ、悪くねぇか。」
ミナモが“楽しい”と言ったこと。
それが本当かどうかなんて、今さらどうでもよかった。