38話 決意
夜は深まっていた。
静かな部屋に、時計の秒針だけが淡々と時を刻んでいる。
大場はコーミルの隣に腰を下ろした。
「……寝ないんですか?」
コーミルが穏やかに問いかける。
大場は答えず、電子タバコのカートリッジを灰皿に落とした。
それが小さくカチン、と音を立てる。
綺麗になってしまった部屋を、ぼんやりと眺めながら、大場は呟いた。
「……お前が生きること、この世に羽ばたくことが……母さんの供養になるんだとしたら……」
煙の代わりに、静かな息を吐く。
「もう、俺は何も望むことはない。」
コーミルは何も言わず、大場を見つめていた。
大場は、テーブルに肘をつき、指でこめかみを押さえる。
「……マテリーを待っていたら、おそらく間に合わない。」
「……。」
「わかってる。役人だって血眼だ。俺たちがこうしている間にも、あいつらは情報を洗ってる。」
手元のスマホを指で弾く。
監視の目は確実に迫ってきている。
「時間の問題だ。じきに見つかる。……そうなったら、コーミル、お前は解体される。俺の集積回路も没収。」
「……。」
「全部、闇に葬られる。」
大場は苦く笑った。
「それだけは……させねぇ。」
コーミルは静かに瞬きをする。
「……では?」
大場は顔を上げ、鋭い視線を窓の外に向けた。
「一人じゃ絶対に無理だ。」
「……。」
「篠原と、マテリー。」
大場は、静かに言葉を続ける。
「……あの二人に協力を仰ぐしかない。」
コーミルは黙ったまま、じっと大場を見つめていた。
窓の外、都会の夜景が滲むように広がっている。
その中で、二人の影はじっと、静かに時を待っていた。
翌日——
俺の家の前に一台の車が停まった。
エンジンが止まり、ドアが開く。
降りてきたのは、約束していた篠原——
……と、5歳くらいの双子の娘たちだった。
「……は?」
俺はカーテンの隙間からその光景を見て、眉をひそめる。
子供?
篠原が来るのはわかっていた。
だが、まさかガキまで連れてくるとは想定外だった。
インターホンが鳴る。
ピンポーン。
大場は煙草をくわえながら、面倒くさそうにドアを開けた。
「なんで子供連れてきた?」
篠原はニヤリと笑いながら、双子の背を押した。
「まぁな、いいじゃねぇか。昔の親友に会わせてやろうと思ってな。」
「……は?」
「ほらぁ、シホ!カホ!」
篠原は楽しそうに双子の頭を軽く叩く。
「おもしろ機械屋おじちゃんに挨拶して。」
双子の娘たちは、揃って同じ顔で俺を見上げた。
「こんにちはー!」
「こんにちはー!」
ピッタリと揃った声。
目元も、口元もそっくりで、まるでコピーみたいだった。
「……。」
俺は呆れたように煙を吐いた。
「お前ら、俺のこと何て聞いてきた?」
「えっとねぇ……」
「パパの昔の友達でー……」
「機械をいっぱい触るおじちゃん!」
「それと?」
「パパが、おもしろ機械屋おじちゃんって言ってた!」
「……クソ親父が……」
俺はジロリと篠原を睨むが、当の本人はどこ吹く風でニヤついている。
「事実だろ?」
「……お前、昔から性格変わんねぇな。」
篠原は靴を脱ぎ、双子と共に家へと上がる。
綺麗になった部屋を一瞥し、「随分と片付いたな」と呟く。
その背後で、双子たちは興味津々で部屋の中を見渡していた。
「ねぇねぇ、このお家、ロボットいるの?」
「うん!いるよ!」
そう言ったのは、コーミルだった。
奥から静かに現れ、双子に向かってわずかに頭を下げる。
「初めまして。」
双子は目を輝かせた。
「わぁ!本当にいた!」
「お姉ちゃんロボット?」
俺は頭を掻きながら、篠原を睨んだ。
「……で、要件は?」
篠原は、すっと表情を引き締めた。
「……マテリーの件だ。」
部屋の空気が、一気に変わる。
庭では、コーミルが双子と遊んでいた。
シホとカホは、小さな手で一生懸命クローバーを摘み取っている。
その横で、コーミルは四つ葉のクローバーを選びながら、小さな冠を編んでいた。
「すごい……お姉ちゃん、上手!」
「ねぇねぇ、私のも作って!」
「いいですよ。」
コーミルは淡く微笑みながら、二人の手元に優しく手を添える。
それを、家の中から眺めながら、大場はテーブルの上で腕を組んだ。
「……で、マテリーがなんだって?」
大場が煙を吐きながら問いかけると、篠原は眉をひそめ、少し困ったような表情を見せた。
「いや……よかったよ。正直、もう捕まってたんじゃないかって思ってた。」
「は?」
大場は眉をひそめる。
「おい、何の話だ。」
篠原は、声を潜めながら慎重に言葉を選んだ。
「……マテリーの職場が強制捜査になった。」
「……!!?」
大場の表情が一瞬で鋭くなる。
「強制捜査って……どういうことだ。」
「政府が本気で動いたってことだよ。」
篠原は低く吐き捨てるように言った。
「協力会社は全部、強制捜査の対象になってる。」
「……ってことは。」
「お前のところも、そのうち来る。」
大場は、奥歯を噛みしめた。
「……やばいぞ。」
「わかってる。」
外では、無邪気な声が響いている。
「わぁ!かわいい!」
「カホの分もあるよ!」
「ありがとう、お姉ちゃん!」
四葉のクローバーの冠を頭に乗せた双子が、笑顔で跳ねている。
コーミルはそんな二人を静かに見つめ、優しく頷いていた。
平和な光景だった。
だが、その裏で——
確実に包囲網が狭まってきていた。
スマホが振動した。
画面に映ったのは、マテリーからのメッセージ。
——『協力してやりたかった……だけど、ごめん。』
——『なぁ、悪いことは言わん。今からでも、集積回路だけは処分しろ。』
「……チッ。」
大場は舌打ちしながら、画面を握りしめた。
処分しろ?
今さら、そんなことできるか。
大場は首を振る。
「そうだよな……。」
篠原が何か言いかけた時だった。
「……おい。」
篠原の顔が険しくなる。
庭の外——
住宅街の道に、不釣り合いな車が停まっていた。
イージスハウル。
軍用車両。
政府機関の特殊部隊が使用する、武装化された警備車。
「……ヤバいぞ。」
「……クソッ。」
大場は奥歯を噛む。
コーミルも異変に気づいたのか、双子の手をそっと引き寄せ、庇うように背中へと隠した。
「……大丈夫です、静かに。」
小さな声で優しく言いながら、物陰へと身を滑らせる。
その時、車両の扉が開き——
ゾロゾロと、男たちが降りてきた。
黒い防弾ベスト。
無線機を耳につけた隊員たち。
そして——
「……。」
中央には、迷彩服を着た男がいた。
腕時計を見ながら、ゆっくりと歩いてくる。
大場の脳裏で警報が鳴る。
「……篠原。」
大場は、素早く懐から小さなパーツを取り出した。
集積回路——JX-3092-R。
すぐに篠原の手に押し付ける。
「……これを持って、できるだけ遠くに逃げてくれないか。」
「……は?」
「言ってる場合じゃねぇ、いいから行け!」
篠原は目を見開く。
「お前は?コーミルはどうする?」
「後から考える。」
その瞬間——
迷彩服の男が、足を止めた。
「よう。」
大場の目の前に立ち、腕時計をチラリと見ながら、ニヤリと口角を上げる。
「……思ったより早かったな。」
視線が鋭く、大場の顔を射抜くように見据えていた。
家の周りには、すでに隊員たちが配置されている。
——逃げ道はない。
大場は、ゆっくりと息を吐いた。
「さて……どうすっかね。」
迷彩服の男は、じっと大場を見下ろしていた。
視線は鋭く、冷たい。
「家宅捜索の許可は出ています。」
淡々とした口調で告げる。
「1日ほど、お時間を頂いても?」
「……馬鹿、言うんじゃねぇ。」
大場が吐き捨てるように言った、その瞬間——
ゴッ!!
「……ッ!」
強烈な衝撃が、頬に走った。
拳が頬骨にめり込み、大場の体がよろめく。
「……ッ、くそ……」
地面に膝をつく。
「おじちゃん!!」
「やめて!!」
シホとカホの悲鳴が響く。
「よさないか!! 子供の前で!!」
篠原が鋭く叫んだ。
一瞬、周囲が静まる。
迷彩服の男は、口元を歪めながら、大場を見下ろしたまま腕を振るった手を戻した。
しかし、その顔には少しばかりのバツの悪さが滲んでいる。
「……大場の身柄は拘束。」
冷静な声が、部隊の隊員たちに指示を出す。
「その他の者は身体検査だけしてもらいましょうか。」
周囲にいた隊員たちが動き出す。
大場は、頬を押さえながらニヤリと笑った。
「……手荒ぇな、おい。」
迷彩服の男は、大場を一瞥する。
「悪いが、逃がすわけにはいかないんでな。」
「……。」
視界の隅では、コーミルが双子を守るように抱き寄せていた。
静かに息を吐く。
その時だった。
——コーミルが、双子を押し退けた。
「……っ!」
そして、一瞬の動作で大場の背後を取る。
その動きに、周囲の隊員たちが反応した。
ガチャッ!
「動くな!!」
隊員たちが、一斉に小銃を構える。
家の周囲に、冷たい殺気が張り詰める。
しかし、コーミルは微動だにしなかった。
彼女の瞳は鋭く光り、すぐに冷静な声が響く。
「ここにいる全員が人質です!!」
「……ッ!!?」
隊員たちの間に、一瞬の戸惑いが走る。
その静寂を切り裂くように——
「そこにいたか……」
迷彩服の男が、低く呟いた。
彼の表情には焦りはない。
むしろ、探し求めた獲物を見つけたという確信があった。
「……お前が、EXY-Z-00か。」
「そうですが、それが何か?」
コーミルは、冷たく言い放った。
男は静かに息を吐く。
「……なるほど、確かに普通のアンドロイドじゃないな。」
「私の命令に従えば、あなた方の安全は保証します。」
コーミルは、大場を庇うようにわずかに前に出た。
「ですが、無理に拘束しようとすれば——」
——ガガガッ!
突如、イージスハウルの機銃が回転を始めた。
「……っ!?」
隊員たちが一斉に警戒する。
しかし、違う。
機銃は彼らを狙っていない——政府側の隊員たちへと向けられていた。
「……なに?」
迷彩服の男が目を細める。
「お前……システムを……」
「乗っ取りました。」
コーミルは、静かに言った。
イージスハウルの防御システムをハッキングし、
機銃をこちら側へと向けさせたのだ。
「……ッ!」
無線機の向こうで、何かが騒がしくなる。
「機銃システムが制御不能!」
「ハッキングされています! どうしますか!?」
隊員たちの動きが一瞬止まる。
コーミルは、その隙を見逃さなかった。
「もう一度言います。」
彼女は、冷たく、しかし確実な言葉を投げる。
「ここにいる全員が人質です。」
「……っ。」
迷彩服の男が歯を食いしばる。
「EXY-Z-00……貴様、これは……」
コーミルは、淡々とした声で言った。
「ここからは、私が交渉を主導します。」
完全な、立場の逆転だった。
しかし、迷彩服の男は余裕を崩さなかった。
冷静に腕時計を確認すると、わずかに口角を上げる。
「……イージスハウルはな、サイバー戦争時に備えて設計されている。」
「……?」
「敵側のシステムが侵入を試みた場合、即座に通信網を切断し、強制リセットをかける。」
大場の表情が険しくなる。
「チッ……!」
「慌てる必要はない。」
男が無線機に短く指示を出す。
「システム起動。」
——ガガガッ!!
イージスハウルの機銃が再び音を立てる。
銃口が、ゆっくりと逸らされた。
「……コーミル?」
大場が小さく呼びかけるが、彼女は何も言わなかった。
微かに瞳が揺れる。
「……ハッキングを遮断されました。」
コーミルが静かに呟いた。
「チッ……そういう仕組みか……!」
大場が奥歯を噛む。
男はコーミルをじっと見据え、静かに言った。
「お前は確かに優秀だが……」
「これは、もう詰んでいる。」
コーミルは、ゆっくりと周囲を見渡した。
イージスハウルの機銃が、完全に制御を取り戻している。
隊員たちも再び構え直し、包囲網は崩れていない。
「……。」
コーミルは、無言でわずかに拳を握った。
彼女は確かに、敵のシステムを乗っ取った。
だが、イージスハウルには、それを阻止するための対策が施されていた。
「……ここから先は、どう動く?」
迷彩服の男が、試すような視線を向ける。
コーミルの瞳が、静かに光を宿す。
大場は、ゆっくりと息を吐いた。
「……さてな。」
再び、場が張り詰める。
篠原はゆっくりと両手を上げた。
「……わかった。」
静かに、しかしはっきりとした声だった。
隊員たちが警戒を強める中、彼は続ける。
「身体検査……受けるよ。」
「……。」
迷彩服の男は篠原を見つめ、顎を軽くしゃくる。
「いい判断だ。」
「でも、その代わりと言っちゃなんだが……」
篠原は、一歩前に出て、双子の娘たちを指差した。
「娘たちには手ェ出すな。いいな?」
迷彩服の男は、わずかに眉を上げた。
「……えぇ、ご安心を。」
その瞬間——
「篠原……!!」
大場は内心叫びそうになった。
まさか、こんな形で降伏するのか——
だが、篠原は微かに目配せをした。
(……信じろ。)
大場は奥歯を噛みしめる。
篠原は、ゆっくりと息を吐き出した。
「よし……じゃあ……」
彼は、ゆっくりと前へ——
そして、次の瞬間だった。
——篠原は走った。
「おい、こら待て!!」
隊員たちが驚き、すぐに動く。
「逃げるぞ!!」
「押さえろ!!」
——しかし、一瞬の混乱。
隊員が追いかけようとしたその時——
コーミルが動いた。
コーミルが動いた。
——ひとつ、軽やかな身のこなしで、柵を飛び越える。
まるで重力の影響すら感じさせない動きだった。
隊員たちが一瞬、驚きの声を上げる。
「おい、待て……!」
しかし、コーミルはすでに動き出していた。
イージスハウルの機銃が、再びこちらを向く。
——ガガガガッ!!
「くそっ……!!」
隊員の一人が焦りの声を漏らした。
「やっぱりか……どんなハッキングのジャミングも、端末を奪われたらなす術もないってわけだ。」
そう、コーミルはすでに学習していた。
前回はハッキングを遮断された。
ならば、今度は——直接、端末を掌握すればいい。
「撃ってくるぞ!!」
イージスハウルの機銃が唸る。
先ほどまで「人質」として扱われていた彼らは、一瞬にして「標的」へと変わった。
「敵の攻撃だ! 小銃構え!!」
隊員たちは、一斉に小銃を構える。
——だが、それを待っていた。
コーミルの視線が、一瞬だけ大場へ向けられる。
大場は、その意味を悟った。
「……やるしかねぇか……!」
静寂の中、戦場が幕を開けた。
——バリバリバリバリッ!!
塀が轟音を立てて崩れる。
粉塵が舞い、コンクリート片が跳ね飛ぶ。
その向こうから、イージスハウルが庭へと乗り上げてきた。
黒く鈍い装甲。
重々しいタイヤが土を踏みつぶし、機銃が再びこちらを向く。
「撃て!!」
迷彩服の男が鋭く命令を飛ばす。
隊員たちが一斉に小銃を構える。
その時——
「やめろ!! 子供の前でそんなことすんな!!」
篠原の怒声が、空気を裂いた。
「パパ——!!」
「いやああああっ!!」
シホとカホの泣き叫ぶ声が響く。
小さな体を震わせ、必死に父親へと縋りつく双子。
その姿を見た隊員たちの動きが、一瞬止まる。
引き金にかけた指が、ためらいを見せる。
「くそ……っ!」
「お前ら、何やってる!! 撃て!!」
迷彩服の男が叫ぶ。
だが、隊員たちは動かない。
目の前で震え泣く子供たちを見て——銃口を向けることができなかった。
もし、彼らがアンドロイドだったなら。
この場に感情がなければ。
この命令を、何の躊躇いもなく実行できたのかもしれない。
「……。」
だが、彼らは人間だった。
撃てと言われても、撃てなかった。
「……ッ!」
迷彩服の男が苛立ちを露わにする。
その隙を見て——
コーミルが、次の一手に動いた。
「それを!!」
大場が篠原に叫んだ。
篠原はすぐに理解した。
「あぁ、わかってる!!」
彼はすぐにハンカチに包んだ集積回路を取り出し、大場へと力強く投げる。
「——行け!!!」
その瞬間——
イージスハウルが、猛スピードでバックを始めた。
ギャリギャリギャリィッ!!
タイヤが土を蹴り上げる。
勢いよく後退しながら、外で待機していた軍用車へと突っ込む。
——ドガァァァン!!
轟音とともに、軍用車が踏み潰された。
隊員たちが一瞬怯む。
「おい、テメェ!! 何を渡した!!」
近くにいた隊員が篠原の襟首を掴み、怒鳴りつける。
だが、篠原はニヤリと笑った。
「……はは……別れのハンカチさ。」
歯を見せ、肩をすくめる。
「乙だろ!?」
その瞬間——
——バキッ!!
隊員の拳が、篠原の頬を打ち抜いた。
「ぐっ……!!」
たちまち、周囲の隊員たちが篠原を取り囲み、無慈悲に殴りつける。
ドスッ! バキッ!
「ははっ……痛ぇな……」
篠原は唇を割りながら、血を吐き、笑う。
「……でもよ、どうする?」
「お前らがここで俺をボコってる間に——」
篠原は、倒れながら空を仰ぐ。
そこには、逃げ去るイージスハウルの姿があった。
「……もう、お前らの獲物は……逃げちまってるぜ?」
「チッ……!!」
迷彩服の男が舌打ちし、すぐに無線機を手にする。
「何してる!! もうそいつはどうでもいい!! 追え!!!」
——イージスハウルを追え!!!!!