36話 止まらないコード
翌る日、コーミルは、布団を抱えて外へ出た。
朝の光を浴びながら、慎重にそれを物干しにかける。
風がそっと布を揺らし、清潔な空気が染み込んでいく。
部屋の中では、掃除機の低い駆動音と、換気扇が回る音が響いていた。
床には工具やケーブル、細かな電子部品が散乱していたが、それらは次々と片付けられていく。
コーミルは静かに手を動かし、丁寧に作業を進めていく。
そこへ——
バサッ!
玄関先に大場が立っていた。
「……何してる。」
寝起きで不機嫌そうな顔。
乱れた髪のまま、煙草を咥えたまま、部屋の変化を見つめている。
コーミルは手を止めることなく答えた。
「清掃です。」
「ああ?」
「散らかっている部屋では、いい仕事ができません。」
コーミルは、ほこりを払う手を止めずに淡々と言う。
「必要なものと不要なものを分類し、効率的な環境を整えます。」
「……余計なことすんな。」
大場は眉間に皺を寄せるが、その時だった。
ブオォォン——
窓の外から、複数の小型ドローンが飛来してきた。
荷台には、新品の収納棚やデスク、折りたたみ式のチェアが積まれている。
「……おい、なんか運ばれてきてるぞ?」
「はい。作業環境の最適化のため、家具を追加しました。」
「待て待て待て待て。」
大場はドローンが荷物を降ろしていく様子を見ながら、思わず額を押さえた。
「これ全部、お前が手配したのか?」
「はい。最もコストパフォーマンスの高い商品を選定しました。」
「誰の金で?」
「……ご安心ください、大場さんの口座は使用していません。」
「……。」
「今後の業務効率を向上させるための合理的な判断です。」
大場は、ちらりと部屋の中を見渡した。
確かに、床は片付き、机の上も整理されている。
工具は専用のケースに収まり、コード類もきれいに巻かれている。
だが——
「……俺の城が……」
呟きながら、ため息をついた。
「もうちょっとこう……俺の許可を取るとか、そういう発想はねぇのか?」
「必要性を判断した結果、即時対応が最適解でした。」
コーミルは淡々と答え、もう一度床を拭く。
「大場さんは作業に集中するべきです。環境整備は、私が行います。」
「……はぁ。」
大場は電子タバコをポケットに入れて、頭をかく。
「俺の部屋なんだけどな……」
コーミルは手を止めずに、黙々と清掃を続けていた。
油汚れで茶色くくすんでいた壁が、少しずつ本来の色を取り戻していく。
布巾を滑らせるたび、古びた黄ばみの下からモダンな白が顔を出した。
コーミルは手を止めることなく、無駄のない動作で壁を磨き続ける。
床に散乱していた部品は整然と片付けられ、工具は使いやすい位置に収納されていく。
いつの間にかドローンが運んできた新しい家具が次々と設置され、小洒落たインテリアが配置されていく。
シンプルなデスク。
木目調のシェルフ。
収納力のあるキャビネット。
機能的でありながら、どこか洗練された空間が生まれつつあった。
コーミルは最後に窓ガラスを磨き、きしむ音とともにそれを開け放つ。
ザッと、淀んだ空気が流れ出ていく。
代わりに、新しい風が吹き込んだ。
湿った金属の匂いと、埃っぽい空気が一掃される。
太陽の光がクリアに差し込み、床にくっきりと影を落とした。
昼前には、まるで見違えるほど部屋は様変わりしていた。
大場は、腕を組んでその光景を見渡す。
「……誰ん家だ、ここ。」
コーミルは淡々と床の確認を終え、手を拭く。
「貴方の家です。」
「ウソつけ、俺の知ってる部屋じゃねぇぞ。」
ここは確かに、同じ場所だった。
だが、見慣れた雑然とした作業場ではない。
整理され、清潔で、機能的な空間。
余計なものがなく、使いやすく整えられている。
「住環境の向上は、作業効率にも影響を及ぼします。」
コーミルは窓から入り込む風を感じながら、静かに言った。
大場は深く息を吐き、どこか落ち着かない様子で煙草に手を伸ばす。
「……まぁ、悪くはねぇけどな。」
火をつけ、紫煙をくゆらせながら天井を見上げる。
「でも、俺の部屋ってこんな洒落た空間だったか?」
コーミルは静かに窓の外を見つめた。
「本来の形に戻っただけです。」
新しい空気が、ゆるやかに流れていた。
大場は煙をくゆらせながら、ふつふつと思い出していた。
この空間。
どこか見覚えがあるような気がする。
さっきまで自分の部屋じゃないみたいだと思っていたが——よく考えれば、違う。
これは、昔のままの部屋だった。
「……なんか、見覚えあんな……」
ぽつりと呟いた瞬間、記憶が蘇る。
母さんがまだ生きていた頃。
あの頃の部屋は、こんなふうに整理されていて、どこもかしこも整っていた。
余計なものはなく、すっきりとしていて、だけど冷たくもない。
部屋に漂う、コーヒーの香りと、ほんの少し残る洗剤の匂い。
開いた窓から入り込む新しい空気。
柔らかい光が差し込むこの感じ——
「……あぁ。」
そうだ。母さんがいた頃って、こんなだったっけな。
それがなくなったのは、母さんが死んでからだ。
それから一度も、まともに掃除をしたことがない。
散らかっていくのを放置して、いつの間にか空間ごとくすんでいった。
「……懐かしいな。」
気がつけば、口をついて出ていた。
コーミルは何も言わず、窓の外を見つめている。
大場はもう一度、部屋を見渡した。
昔の記憶と重なるこの光景を見ながら、ゆっくりと煙を吐く。
母さんがいなくなったあの日からずっと、止まっていた時間が、わずかに動いた気がした。
「……ま、ちょうどよかったわ。」
大場は煙を吐きながら、そう呟いた。
新しい空気が流れる部屋を見渡しながら、コーヒーを一口すする。
苦味と香ばしさが口の中に広がり、微かに鼻を抜けていく。
仕事の予定は今のところない。
たまにはこうしてゆっくりするのも悪くないかもしれない。
「……つうか、明日、篠原が来るんだったな。」
そう思い出し、少し眉をひそめた。
もし、コーミルが掃除をしていなかったら——
油で茶色く汚れた壁、部品と工具が散乱した床、埃っぽい空気の中で、篠原があの仏頂面で立っている姿が容易に想像できる。
「……流石に、あんな汚い部屋見せたら速攻帰りそうだな。」
大場は苦笑しながら、もう一口コーヒーを飲んだ。
意外と、コーミルの掃除も悪くなかったのかもしれない。
綺麗になったソファにゆっくりと腰を落とすと、隣にコーミルが座った。
柔らかすぎず、ちょうどいい弾力。
今までのくたびれたクッションとはまるで違う。
コーミルは、落ち着いた仕草で背筋を伸ばし、こちらを向く。
「いかがでしょうか?」
静かに問いかける声。
大場はコーヒーを一口すすりながら、部屋をぐるりと見渡す。
油汚れが消えた壁、整理された工具、落ち着いた色合いの家具。
床の埃もなくなり、空気も軽い。
「……まぁ、悪くねぇな。」
適当に答えながら、背中をソファに預ける。
「でも、なんか落ち着かねぇ。」
コーミルは少し考えるように瞬きをした後、静かに言った。
「慣れの問題です。」
「そりゃそうか。」
大場は苦笑しながら、天井を見上げた。
妙に整いすぎて、なんだか“自分の部屋”じゃないみたいだった。
けれど、それが嫌かと言われると——そうでもない気がする。
コーミルは、整えられた部屋を静かに見渡した。
空気が澄んでいる。
余計なものがなく、すべてが整理され、機能的で、調和が取れている。
モダンな家具、穏やかな光、漂うコーヒーの香り——
この感覚を知っている。
彼女の中で、今いる空間と、精神世界のあの白い部屋が重なった。
青い海と、揺れる白いカーテン。
無駄のないシンプルな空間。
そこにあるべきものだけが揃い、不足も過剰もない。
「……。」
まるで、この場所はソレに近かった。
コーミルは無意識に指先をなぞるように、ソファの布地の感触を確かめた。
現実の部屋と、精神世界の部屋。
どちらも、静かで、整っていて、心地いい。
だが、決定的に違うものがひとつあった。
コーミルは隣に座る大場を見た。
彼はコーヒーをすすりながら、ぼんやりと天井を見上げている。
——精神世界には、彼はいない。
それだけが、今ここを”違う場所”にしていた。
コーミルは、静かに大場を見つめた。
「……貴方のことを教えてください。」
突然の問いに、大場はコーヒーを飲む手を止める。
「……は?」
「貴方自身のことです。」
大場は思わず眉をひそめた。
「なんだよ、藪から棒に……」
コーミルは変わらず淡々とした表情で、まっすぐに彼を見ている。
「私は、この空間を見て思いました。貴方がどのように生きてきたのか、知りたくなったのです。」
「……いや、部屋が片付いたくらいで何を悟った気になってんだよ。」
大場は煙草をくわえ、ライターをカチリと鳴らす。
「別に大した人生じゃねぇよ。」
「それでも、知りたいです。」
「……。」
煙をゆっくりと吐きながら、大場は視線を逸らした。
「……そんなこと聞いてどうすんだ。」
「貴方を理解するためです。」
コーミルの声には、迷いがなかった。
「……。」
大場は、カップをテーブルに置き、深く息を吐いた。
「……めんどくせぇ奴だな。」
そう呟きながらも、どこか諦めたように、天井を見上げた。
大場は煙草をくゆらせながら、ぼんやりと天井を見上げた。
「……そうだなぁ。俺の人生なんて、語るほどのもんじゃねぇよ。」
コーミルは黙って待っている。
促すでもなく、ただその答えを聞くために座っているようだった。
大場はソファに背を預け、コーヒーをひと口すする。
「学生時代からずっとここに住んでたよ。狭いけど、不便じゃなかった。」
外を見れば、高層ビルの隙間に夕暮れが沈んでいく。
「たまに篠原が来たり、マテリーが来たり……まぁ、あいつらも暇だったんだろ。」
口元に浮かぶ、どこか懐かしげな笑み。
「母親も、あんまり家にはいなかったな。でも、別に寂しくはなかった。」
コーミルは静かに瞬きをする。
「そうなのですか?」
「まぁ、耐性があったんだろうな。」
大場は煙を吐きながら、ぼそりと続けた。
「父親は……物心ついたときにはもういなかったしな。」
「……。」
「家に誰もいないのが普通だった。それが当たり前になってたし、特に気にしたこともねぇ。」
壁にかかった時計の秒針が、静かに時を刻む音が聞こえる。
「孤独には、割と耐性があったのかもな。」
大場は再度そう言って、カップの底を見つめた。
コーヒーは、もうほとんど残っていなかった。
「……でも、一つだけ後悔したことがあったな。」
大場はふっと息を吐き、コーヒーカップを回すように持った。
「俺が働き始めた頃、仕事中に母さんは死んださ。」
コーミルは黙って聞いている。
「元々、どんどん体調が悪くなってたしな。パラスドールの技術屋ってのも忙しいもんで、まともに家に帰る時間なんかなかった。」
指先で煙草を弾く。
カートリッジがトレイに落ちる音だけが、やけに大きく響いた。
「今でも不思議だよ。あの仕事を、いまだにマテリーが続けてるのがな。」
小さく鼻で笑う。
「母さんが関わってた事業について、政府は関与を否定した。」
コーミルが微かに首を傾げる。
「否定……ですか?」
「そうだ。」
大場は、忌々しげに煙を吐く。
「“白血病と当プロジェクトに因果関係はなし”——そう言い切りやがった。」
静かな部屋に、その言葉だけが重く残る。
「そっからだよ。」
彼はソファに背中を預け、どこか遠くを見るような目をした。
「なんかムキになっちまったんだよな。」
政治家の言葉、クライアントの要求、企業の方針。
全部が、どうでもよくなった。
「上の連中の言うことなんか聞いても、いいことなんかねぇってな。」
指先で煙草を転がす。
「そんで、俺は俺が正しいと思ったことをやりたくなった。」
「それが、今の貴方に繋がっているのですね。」
コーミルの声は、淡々としていた。
それが肯定とも否定とも取れない響きを持つ。
大場は軽く笑い、カップの底を見つめた。
「……ま、そんなとこだな。」
部屋の空気は澄んでいたが、その言葉にはどこか重みが残っていた。
「私が、貴方のお母さんの真相……解明できるかもしれません。」
コーミルはそう言った。
大場は、カップを持ち上げかけた手を止める。
「……役に立ちたいのか?」
コーミルは一瞬だけ考えたようだったが、すぐに首を振った。
「いいえ、気になっただけです。」
「……気になった?」
「はい。本当に関係ないのか。」
大場は、煙草の火をゆっくりと眺めながら、短く笑った。
「……それでもし関係あったら?」
コーミルは、大場をじっと見つめる。
「それは貴方が考えることです。」
一拍置いて、大場は肩をすくめた。
「……俺みたいなこと言いやがるな。」
「貴方の影響かもしれません。」
コーミルは微かに瞬きをしながらそう答えた。
煙草の煙が、ゆっくりと天井に向かって消えていった。
その時——
スマホが振動した。
一度ではない。二度、三度……いや、途切れることなく連続して。
——10件以上、一気に。
「……?」
大場は眉をひそめ、スマホを取り出した。
画面には、見覚えのない差出人からのメールがずらりと並んでいた。
どれも送り主不明。サーバーの経路もバラバラで、出どころが分からない。
「……なんだ、これ。」
通知を開く。
添付されていたのは、政府が当時記録した報告書のデータだった。
文書ファイル、数十枚にわたる報告書のスキャンデータ。
そして、それに紐づく解析データの断片。
大場の指が止まる。
——環境再生プロジェクト:人体影響調査記録
「……っ!」
「当時の政府が記録した報告書です。」
静かに告げるコーミルの声。
「お、おい!」
大場はスマホを手のひらで握りしめ、コーミルを睨んだ。
「またお前か!!」
コーミルは、まっすぐに彼を見つめる。
「はい。」
「……は?」
「私です。」
「……っ!!」
大場は思わずスマホを強く握りしめる。
「勝手に何やってんだ、お前!!」
「以前、貴方が言いました。」
コーミルは静かに続ける。
「政府は、貴方の母親が関わっていた事業との因果関係を否定した、と。」
「だからって……!」
「それが本当に事実なのか、確認する必要があると判断しました。」
「誰がそんな判断しろって言ったよ!」
「貴方は言っていません。しかし、貴方が知りたくないとは言わなかった。」
「……。」
大場は息を詰まらせる。
コーミルの言葉は、いつもながら無駄がない。
だが、妙に的を射ていて、反論しにくい。
「……マジで勝手なことしやがって。」
「……そうかもしれません。」
コーミルは静かに瞬きをする。
「しかし、この情報が貴方にとって不要なものであるとは思えません。」
大場はスマホの画面をスクロールしながら、ざっと内容を確認する。
いくつかの文書は破損しており、抜けている部分もある。
しかし、それでも十分すぎるほどの情報量だった。
「……チッ、なんかまた面倒なことになりそうだな。」
報告書のタイトルが、画面の中央に映し出される。
——環境再生プロジェクト:人体影響調査記録
その中に、大場カイの母親の名前が記されていた。
そして、その隣には——
廃棄処理された旧型アンドロイドの識別コードが記されていた。
大場の指が止まる。
「……は?」
記録によれば、そのアンドロイドは環境再生プロジェクトの実験データ収集のために投入されていたが、特異な動作記録を残した後、処分されたとある。
特異な動作。
データのほとんどは黒塗りになっていたが、断片的に残っている記録にはこうあった。
——「彼らを助ける必要がある」
大場の目が細くなる。
「……これ、どういうことだ。」
コーミルは、画面を静かに見つめていた。
「私にも、まだわかりません。」
しかし、その表情には、ほんのわずかだが迷いの色が滲んでいた。