32話 修理屋のアンドロイド
翌朝——。
まるで昨日の大騒ぎがなかったかのように、日常が戻ってきた。
EXY-Z-00が報道されたことも、政府が大慌てしていることも、今の大場には関係ない。
公共事業なんざ、所詮そんなものだ。
関わる時は散々振り回されるが、終われば誰も気にしなくなる。
大場は片手でスマホを耳に当てながら、適当にテーブルの上を片付ける。
「——で、そっちは?」
電話の向こうから、くぐもった同業の声が聞こえてくる。
『いまだに原発付近には立ち寄れねぇよ。現場は封鎖されたままだ。』
「だろうな。」
『続報は書面で送るっつってるけどよ、そんなの待ってるくらいなら他の仕事してた方がマシだぜ。』
「まったく。」
大場は軽く鼻を鳴らし、片手でコーヒー豆の瓶を取り出した。
どうせしばらくは仕事にならねぇんだ。
今のうちに他の修理案件を片付けた方がいいに決まってる。
「まぁ、何か動きがあったら連絡くれや。」
『おうよ。』
そう言って通話を終え、スマホをテーブルに放る。
コーヒーメーカーの前に立ち、瓶の蓋を開ける。
香ばしい豆の香りが広がる。
いつものルーティンだ。
豆を挽いて、湯を沸かして——
「私が作ります。」
不意に、静かな声が割り込んできた。
「……?」
振り向くと、コーミルがこちらを見つめていた。
「……そ、そうか?」
大場は少し戸惑いながらも、瓶を置いた。
「じゃあ、頼むわ。」
「はい。」
コーミルは淡々とした動きで、コーヒーの準備を始める。
豆を挽く手際も、湯の温度調整も、どこか機械的に正確だった。
(なんか妙に慣れてるな……)
彼女の動作を眺めながら、大場は少しだけ目を細めた。
電話を切り、スマホをテーブルに放る。
目の前では、コーミルが淡々とコーヒーを淹れていた。
静かに豆を挽き、一定のリズムで手を動かす。
無駄のない滑らかな動きは、まるでプログラムされたかのように完璧だった。
湯が注がれ、粉がふわりと膨らむ。
その香りが部屋に広がり、僅かに湿った朝の空気を染めていく。
そんな中、コーミルがふと口を開いた。
「なぜ、カイはコーヒーミルでコーヒーを挽くんですか?」
唐突な問いだった。
素朴で、しかし鋭い質問。
(……そういや、ミナモもこんな感じだったっけか。)
思わず、遠い記憶が蘇る。
あの頃も、同じような問いかけをよくされた。
何気ない仕草、当たり前の行動——
それが「なぜなのか」と問われると、意外に答えに詰まるものだった。
カイはしばらく言葉を探した。
だが、コーミルはさらに問いを重ねる。
「誰か、大事な人がそうされていたのですか?」
さすがは頭のいいアンドロイドだ。
考える前に、本質を突いてくる。
「……まぁ、母さんがな。」
気づけば、そう口にしていた。
コーミルの手が一瞬止まる。
カイは、視線をぼんやりとコーヒーミルに落とした。
母親が、毎朝手で豆を挽いていた光景——
その音、香り、静かに流れる時間。
機械で挽いた方が楽だと、何度も言ったことがある。
それでも母は、いつも同じように手を動かしていた。
『ゆっくり丁寧に淹れた方が、心が落ち着くのよ。』
そう笑いながら。
「別に、大した理由があるわけじゃねぇよ。」
カイは軽く肩をすくめ、ソファに寄りかかる。
「ただ……いつの間にか、そうなっただけだ。」
コーミルはじっと彼を見つめていた。
その瞳に何を映しているのかは、わからない。
だが——
「……あなたは、思い出を習慣にするんですね。」
静かな声が、そう言った。
カイは少しだけ笑った。
「かもな。」
コーヒーの香りが、さらに濃くなった。
カップに注がれた黒い液体が、僅かに揺れる。
コーミルが手渡してきたカップを受け取りながら、カイはふと呟いた。
「……ありがとよ。」
コーミルは、少しだけ首を傾げた。
「……どういたしまして。」
それは、彼女にとって初めての“自分の行動に対する返事”だったのかもしれない。
カップを受け取り、一口コーヒーを啜る。
深く、ほろ苦い味が口の中に広がった。
ちょうどいい温度だった。
「……お母さんは、今何をされているんですか?」
コーミルの問いに、カイの手が止まる。
ふと、カップの中の黒い液体を見つめた。
「……死んだよ。」
彼の声は淡々としていた。
「白血病だ。」
静かな沈黙が落ちる。
「もうすぐ10年になる。」
カイがそう言った瞬間、コーミルの動きが僅かに硬くなった。
彼女は言葉を探すように唇をわずかに開き、そして閉じる。
「……すみません。」
その声は、普段よりも少し小さかった。
「配慮に欠けていました。」
カイは軽く首を振る。
「別にいいさ。いずれ聞かれると思ってたしな。」
コーミルは、どこか迷うように視線を落とした。
「……あなたは、よくお母さんのことを考えますか?」
「さあな。」
カイはカップを回しながら、ゆっくりと答える。
「考えてるつもりはねぇけど、ふとした拍子に思い出すことはあるな。」
「それは……悲しい記憶ですか?」
「そうでもねぇよ。」
カイは小さく笑った。
「もちろん、辛かったさ。でも、そればっかりじゃねぇ。」
「……?」
「たとえば、こうやってコーヒーを淹れるとき。」
彼はコーミルをちらりと見やる。
「母さんも、こんな風に豆を挽いてた。朝の支度をしながらな。」
「……それは、よくある光景でしたか?」
「ああ。何気ない、普通の朝だった。」
コーミルは僅かに瞬きをする。
「その記憶は……温かいものですか?」
「……そうだな。」
カイは苦笑するように頷いた。
「人が死んだら、その人に関する記憶ってのは、悲しみだけじゃなくなるんだよ。」
「……。」
「楽しかったこと、うるさかったこと、面倒だったこと……全部が混ざる。そうすると、不思議なことに、どこか温かく感じるもんなんだよ。」
コーミルは、じっとカイの顔を見つめた。
「……それでも、会いたいとは思いますか?」
カイは、少しだけ目を伏せた。
「……そりゃな。」
短くそう言って、カップを持ち上げる。
だが、その表情に寂しさはない。
それを見たコーミルは、どこか考え込むように、自分の手を見つめた。
「……死んだ人に会うことは、できません。」
「そうだな。」
「それは……確定的なものですか?」
カイは、コーミルの言葉の意図を読み取るように目を細める。
「……“意識”の話か?」
「……はい。」
彼女は静かに頷いた。
「もし、記憶が残っていたら、その人は存在するのと同じでしょうか?」
カイは、一瞬だけ息を飲んだ。
それは、コーミル自身の問題にも関わる問いだった。
彼女はEXY-Z-00であり、しかし今は“コーミル”として存在している。
EXY-Z-00の記憶を持つものは、果たして同じ存在なのか。
そして——
もし、人間の記憶だけを抜き出して再現できたら?
「……わからねぇな。」
カイは正直に答えた。
「人間は、記憶だけじゃねぇ。経験して、考えて、その場で生きてるから人間なんだと思う。」
コーミルは小さく頷いた。
「……では、思い出を習慣にするのは?」
「……?」
「あなたは、コーヒーを淹れることで、お母さんの記憶を今に繋げている。」
コーミルは、まっすぐカイを見つめる。
「それは、彼女が生きていた証を、あなたの中に残しているということですか?」
カイは少し考え込むように、息を吐いた。
「……そうかもな。」
「……。」
コーミルは、自分の手のひらを見つめた。
「……私も、そういうことができるでしょうか?」
「もうやってるんじゃないのか、お前が意識してないだけで……。」
コーミルは静かに考え込み、やがて小さく頷いた。
「……考えてみます。」
カイは微かに笑い、コーヒーをもう一口飲んだ。
それは、いつもの朝なのに、いつもとは少し違う朝だった。
食後のコーヒーを飲み終えた頃——
ピンポーン
不意にインターホンが鳴った。
「……ん?」
大場は反射的に身構えた。
こんな時間に来客なんて、ろくなことがない。
役人か、それとも厄介な依頼か……
覗き穴を覗くと——
そこに立っていたのは、近所の学生らしき少年だった。
手には小型の愛犬ロボットを抱えている。
(……なんだ、ただのガキか。)
少し拍子抜けしながらドアを開ける。
「なんだ、ボウズ……。」
「あの、ネットで調べて来たんですけど!」
少年は少し緊張した様子で、大場を見上げる。
「……ネット?」
嫌な予感がした。
「うちはホームページなんか構えてねぇよ。」
「でも、ありましたよ!」
少年は慌てたようにスマホを取り出し、大場の目の前に突き出した。
そこには——
『大場修理株式会社』
どこからどう見ても、まともな修理屋のホームページが表示されていた。
「……いや、ウチだ。間違いなくウチの住所だ。」
しかし、なぜ?
誰がこんなものを?
背後から、静かな声が聞こえた。
「私が作りました。」
「……。」
大場はゆっくりと振り向いた。
そこには、当然のように立つコーミルの姿。
涼しい顔をして、まるで何が問題なのか理解していない様子だった。
「……コーミル?」
「あなたの店には、公式の窓口がありませんでしたので、私が設置しました。」
さらりと言い放つ。
「……設置した?」
「はい。ネットワークにアクセスし、適切な業務情報を掲載しました。」
「適切……?」
大場は改めて少年のスマホを確認する。
『アンドロイド、機械修理なら大場修理株式会社へ!』
『古い型式でも対応可能!』
『修理実績多数!』
『ご相談はお気軽に!』
(お気軽に……じゃねぇよ!!)
「コーミル!!!」
声を荒げると、少年がビクッと肩をすくめた。
「えっと……やっぱり修理、無理ですか……?」
「いや、それは別にいいんだが……」
大場は一旦深呼吸し、拳を軽く握りしめる。
「とりあえず、後でゆっくり話を聞かせてもらうぞ……コーミル。」
「はい。」
相変わらずの素知らぬ顔。
(このアンドロイド、絶対わかっててやってるだろ……)
大場はそう確信しながら、少年のロボット犬を受け取った。
「まぁ、とりあえず見てやるよ。ロボット犬の調子が悪いんだろ?」
「あ、はい!よろしくお願いします!」
少年の顔がパッと明るくなった。
(……ったく。)
大場は頭を掻きながら、ため息をついた。
コーミルのやらかしは、後でじっくり“指導”するとして——
まずは、目の前の仕事を片付けるとしよう。
「さて……どれどれ。」
大場は少年から受け取ったロボット犬を作業台に乗せた。
型番はそこそこ古いが、まだ十分使えるモデルだ。
「症状は?」
「えっと……この子、今まで覚えたことが全部消えちゃったんです。」
少年は不安げに言った。
「『お手』とか『おかわり』とか、いろんな芸を覚えてたんですけど……突然、何もできなくなって……。」
「ふむ……。」
大場はロボット犬のボディを軽く叩き、メンテナンスモードに入る。
端末を接続し、内部データをチェックすると——
「……学習チップの不良だな。」
「学習チップ?」
「ああ。こいつはAI搭載型だからな。飼い主の言葉やしぐさを学習して、それをデータとして蓄積する仕組みになってる。」
大場は電子タバコをくわえ、軽く息を吐く。
「チップの寿命か、それとも何らかのエラーでデータが飛んじまったか……まぁ、どっちにせよ、このままだとこいつはただの新品状態の犬型ロボットになる。」
「え……?」
少年の顔がこわばる。
「……それって、今までのことを全部忘れちゃうってことですか?」
「そういうことだ。」
「……。」
少年は不安そうにロボット犬を見つめた。
「でも、チップを交換すれば治るんですよね?」
「まぁな。チップを入れ替えりゃ、基本動作はちゃんと戻る。バッテリーや関節の駆動系も問題なし。だから、普通に動くようにはなる。」
「……でも、それじゃあ……。」
少年はロボット犬の頭を撫でながら、ぽつりと呟いた。
「この子が、今まで僕と過ごした思い出とか……全部、なくなっちゃうんですよね?」
大場は黙って少年を見た。
「……。」
ロボット犬は静かに横たわったまま、何も言わない。
ただの機械だ。
しかし、少年にとっては“ただの機械”じゃないのだろう。
——“思い出を習慣にする”
さっきのコーミルの言葉が、ふと頭をよぎった。
「……。」
大場は作業を止め、腕を組む。
少年の目は、まっすぐロボット犬を見つめていた。
「やっぱり……この子が僕のことを覚えててくれるのが、大事なんです。」
「……そうか。」
大場はタバコをくわえ直し、天井を見上げる。
このままチップを交換すれば、ロボット犬は“正常”に戻る。
でも、それは少年にとっての“正常”じゃない。
(さて、どうするか……。)
と、その時——
「——じゃあ、こうしましょう。」
コーミルの静かな提案に、大場は少し眉をひそめた。
「おい、まさか……」
コーミルは頷き、ロボット犬の小さな体から学習チップを慎重に取り出した。
「このチップのデータを解析し、新しいチップへ移植します。」
「……言うのは簡単だがな。」
大場はタバコをくわえ直しながら、端末を起動する。
チップをパソコンに接続し、解析ソフトを立ち上げると——
そこに広がったのは、無限に続く0と1の記憶配列だった。
「……おいおい、マジかよ。」
大場は思わず画面を見つめたまま息をのんだ。
そこに並んでいるのは、ただのバイナリデータじゃない。
0と1の単純な並びではなく、それぞれが異なる意味を持つ情報の塊。
一つひとつのデータは、ロボット犬が学習した記憶——
・飼い主の声の周波数
・「お手」や「おかわり」の動作パターン
・抱かれた時の圧力データ
・散歩の時間と、歩く速度の変化
……それだけじゃない。
ロボット犬はただ記録するだけでなく、データを自ら組み換え、関連付けることで経験を積んでいる。
つまり、単純なコピーでは移植できない。
大場は額を押さえた。
「まさか……これを一から解析して、新しいチップにそのまま移すってのか?」
「はい。」
コーミルは淡々と答える。
「ただのコピーペーストではなく、記憶の構造をそのまま移植する必要があります。」
「バカ言え。」
大場は舌打ちし、画面を指差す。
「このデータ、どれだけの情報量があると思ってんだ。」
たった一匹のロボット犬の学習チップ。
だが、その中には——
何億、何兆、いや、何千京もの情報が含まれている。
単純にコピーするならまだしも、個別にデータを解析し、整理し、新しいチップへと適切に移植する。
それは、脳細胞のDNAを新しい脳細胞に移植するのと同じ作業だ。
「いくら理論上可能とはいえ……無理に決まってるだろ。」
人間がやるには気が遠くなるような膨大な処理だ。
どれだけの時間がかかるか、想像もつかない。
だが——
「いいえ、可能です。」
コーミルは静かに言った。
「私がやります。」
大場は彼女を見つめる。
コーミルの青い瞳は、微かに光を帯びていた。
パソコンのモニターに映し出された、無数の0と1。
それは、ただのデータの羅列ではない。
このロボット犬が生きてきた証そのものだった。
コーミルが端末に手を触れた瞬間——
記憶配列の移行が始まった。
画面上に並ぶ古いチップのデータが、急激に更新されていく。
最初は小さな変化だった。
旧チップのデータが、新チップの領域へと一つずつ書き込まれていく。
だが、それはすぐに加速する。
1列、2列……10列、100列……いや、1秒ごとに数十万、数百万ものデータが移動し、新たな記憶の構造が形成されていく。
「……。」
大場は、じっと画面を見つめるしかなかった。
0と1の羅列が、まるで有機的な生命のように、徐々に形を成していく。
(これは……)
まるで、脳細胞が自らの記憶を繋ぎ直し、蘇ろうとしているようだった。
“記憶”が、“新しい体”へと移植されていく。
データの流れは、まるで川のように滑らかだった。
古いチップの中に蓄えられた記憶が、まるで新たな生命へと生まれ変わるように、新しいチップへと書き込まれていく。
最初は、単なる数列だったものが——
次第に意味を持つ形へと変化する。
・音声データ —— 少年の声、呼びかけ、命令のイントネーション。
・行動パターン ——「お手」「おかわり」、じゃれつく仕草、夜の寝る時間。
・触覚情報 —— 頭を撫でられたときの圧力、抱き上げられたときの温度。
そのすべてが、慎重に、そして完璧にコピーされていく。
「……おい、本当にいけんのか?」
大場が呟くように言う。
コーミルは、モニターを見つめたまま答えた。
「問題ありません。」
彼女の指先が滑るように動き、データの流れがさらに加速する。
桁が増える。
増える。
増えていく。
旧チップに蓄えられていた記憶配列が、1つも欠けることなく、新チップに刻み込まれていく。
「……まるで、生きてるみてぇだな。」
思わず、そう呟いてしまった。
記憶とは、ただのデータではない。
ただのコピーでは、絶対に再現できないもの。
だが——
目の前で、確かに“記憶”が、新しいチップに命を吹き込まれようとしていた。