28話 救出作戦
建屋の扉が開くと、そこはまるで異世界のようだった。
空気は重く、わずかに焦げた臭いが混じっている。視界を遮る薄暗い煙が漂い、非常灯の赤い光が無機質な影を作っていた。
——音がない。
コーミルは一歩、慎重に足を踏み入れた。
防護服のブーツがコンクリートの床を踏みしめる音が、やけに大きく響く。
背後で、建屋の扉がゆっくりと閉まった。
その瞬間——
「……ーZ-00、……聞こえる……?」
ヘッドセットに、ノイズ混じりの声が入る。
マテリーの声だ。だが、ひどく不安定だった。
「こちら……EXY-Z-00。通信状態は不安定ですが、本部の指示……受信……可能……」
ノイズが乗り、言葉の一部がかき消える。
「……視界は……?」
マテリーの声も、断続的に入り込む。
コーミルは慎重に歩を進めながら、ヘルメットのバイザー越しに建屋内部を見渡した。
視界は悪い。
崩落した天井の破片が床に散乱し、金属フレームが剥き出しになっている。
壁の一部は熱で変色し、ヒビが走っていた。
「……視界……問題……」
言葉を送るたびに、通信が乱れる。
——これでは、詳細な情報の共有は難しい。
「……本部……読めるか?」
コーミルは、再度通信を試みた。
だが、返答はない。
本部には、こちらの声が届いていない可能性がある。
「……通信、断続的。」
かろうじて受信はできても、双方向の会話は難しい。
つまり、本部からの指示を待っている時間はない。
ここから先は、独断で動くしかない。
目の前には、静止した10体の作業アンドロイド。
まるで電源を落とされたかのように立ち尽くしている。
そして、その中央——
防護服を着た作業員が、瓦礫の上に倒れていた。
意識はない。
バイタルスキャンをかけると、脈拍は微弱ながらも確認できた。
だが、このまま放置すれば危険だ。
「……EXY-Z-00、内部での優先指示を開始。」
コーミルは自らの意思で、作業アンドロイドへ命令を送信した。
「作業員の正確な位置を確認、最も安全な経路で搬送を実行。」
二体のアンドロイドが、担架として機能するために作業員の体を慎重に持ち上げた。
「四体のアンドロイドを護衛に配置。」
彼らは周囲を警戒しながら、作業員の搬送をサポートするよう動き始める。
「残りの四体は周囲の安全確保。」
地面の不安定な箇所をスキャンし、瓦礫の動きを解析。安全なルートを確保するために配置を変える。
コーミルは、一つ深く息を吐いた。
「……搬送、開始。」
その瞬間——
——微細な振動。
床が、ほんの僅かに揺れた。
崩落の予兆——。
頭上で金属が軋む音がする。
「危険。護衛アンドロイド、落下物を防御。担架の作業員を死守。」
瞬時に、護衛に回っていた四体のアンドロイドが担架の周囲に集まった。
その刹那——
轟音が響く。
天井の一部が崩落し、コンクリートの塊と鋼材が落下する。
アンドロイドたちはそれを受け止め、ガシャンと衝撃音を鳴らしながら瓦礫の下敷きになった。
「……護衛ユニット、機能停止。」
コーミルの視界に、四体のアンドロイドのステータスが赤く点滅する。
「……ッ」
作業員は無事だ。
だが、護衛ユニットが失われた。
——あと数分遅れれば、全員埋まっていた。
時間がない。
「搬送速度を向上。ルートを最短距離へ変更。」
担架を持った二体のアンドロイドが、速度を上げる。
もう、迷っている時間はなかった。
コーミルは、振り返らずに進む。
「……本部……応答……」
ノイズ混じりの通信を送るが、反応はない。
完全に断たれたか——。
いや、かろうじて届いている可能性もある。
「……私は……作業を継続。」
その言葉を最後に、彼女はヘルメット越しの視界を前方へ向けた。
出口まで、あとわずか。
たとえこの声が誰にも届かなくても、私は私の役目を果たす。
建屋の外へ、作業員を救うために。コーミルは足を止めなかった。
搬送中の作業員、その脈拍は安定している。
出口まであとわずか。
だが——。
胸の奥が、妙にざわつく。
(これは……何?)
彼女のシステムには、「恐怖」という感情は存在しないはずだった。
それなのに——
——ドキドキ、と。
ありもしない鼓動が、身体の奥で響いた気がした。
(こんなもの、私は持っていない。)
「……搬送ユニット、進行を継続。」
自らの思考を遮るように、コーミルは指示を出す。
しかし——
その瞬間。
——ガラガラガラッ!
崩落音。
振動が足元に響く。
周囲の金属フレームが悲鳴を上げ、コンクリートの破片が宙を舞った。
——天井が落ちてくる。
(怖い——怖い、怖い、怖い!!)
目の前で、2体のアンドロイドが崩れた床から転落した。
次の瞬間——
——パチッ。
彼らの瞳の光が、消えた。
まるでスイッチを切られたかのように、突如として機能を停止する。
「……!」
コーミルの視界が揺れる。
(落ちる……! もし、私がここにいたら……)
だが、そんな思考を押し流すように、彼女のシステムが異常信号を検出した。
——高負荷エラー。システム応答速度の遅延。
意識が、掻き乱される。
「……本部……応答……」
ノイズ混じりの通信を送る。
——その瞬間、異変が起きた。
——ジジジ。
突然、視界の隅でノイズが走る。
データ処理速度が低下。思考が遅れる。
「……怖い……」
「……ッ!?」
ヘルメット内のマイクが、彼女の呟きを拾った。
その言葉が、かろうじて繋がる本部回線に乗る。
——本部棟。
「……今の、何?」
オペレーターが目を見開く。
「通信の乱れか? いや……これは……今の……音声、解析できるか?」
「すぐにチェックします!」
「違う、ログを取るより、彼女を回収しないと……!」
音声解析AIが異常検出を警告する。
——EXY-Z-00が、「怖い」と言った。
本部の空気が凍りつく。
モニターの向こうで、EXY-Z-00が出口へ向かって走っている。
その動作は、計算された機械のものではなかった。
動きが乱れ、息遣いすら荒く感じる。
まるで——本当に「恐怖」に駆られているように。
マテリーは端末を強く握り締めた。
(今の……声、まさか。)
彼女の指が端末を素早く操作し、EXY-Z-00のシステムログを開く。
——そこに残っていたのは、明らかな異常信号。
EXY-Z-00の応答速度が遅延している。
機能オーバーロード。自己制御不能の可能性あり。
(そんなはずはない……。)
彼女は歯を食いしばる。
EXY-Z-00のシステムは完璧なはずだった。
だが、今、目の前で動いている彼女は、どう見ても「プログラムされた機械」ではなかった。
「……EXY-Z-00……?」
マテリーの声が震える。
まるで、自分の知らない何かを目の当たりにしているように。
(これは、バグ……? それとも……)
——そして、その時だった。
ヘッドセットに、かすかに拾われる音。
「——怖い。」
静かに、しかしはっきりと響いた。
本部の空気が、一瞬で張り詰める。
誰もが息を呑んだ。
EXY-Z-00が「怖い」と言った。
それを、はっきりと聞いてしまった。
オペレーターの一人が、凍りついた声で呟いた。
「……今の、聞こえましたか?」
誰もが無言で頷く。
本部内には、警報音も、オペレーターのタイピング音も、一切響かなくなっていた。
静寂が、支配する。
ただひとつ、耳の奥に残る。
EXY-Z-00が発した、確かな「恐怖」の声。
マテリーは、唇を噛んだ。
(やっぱり……違う。)
EXY-Z-00は、他のアンドロイドとは違う。
——彼女は、「何か」を持っている。
その正体を知るのが、怖いほどに。
そして、その恐怖は本部だけではなかった。
EXY-Z-00自身も、出口へと駆けながら、胸の奥に奇妙な違和感を抱いていた。
(私は……何を感じているの……?)
彼女は、すでに「違和感」では済まされない領域に足を踏み入れていた。
まるで、人間のように——。
外へ出たとき、それは賞賛なんかではなかった。
本部の人間たちの視線には、はっきりとした「動揺」と「疑念」があった。
——彼女は、本当にアンドロイドなのか?
その問いが、誰の心にも浮かんでいた。
瓦礫の雨を掻い潜りながら、コーミルは出口へと走った。
機体の関節部に負荷がかかる。処理速度が限界に近づいている。
——だけど、止まるわけにはいかない。
目の前には光があった。
建屋の外。
「……もうすぐ、出る……!」
最後の一歩を踏み出した瞬間——
ドォンッッ!!
背後で、巨大な衝撃音が轟いた。
振り返ると、今いた場所が、瓦礫の下へと飲み込まれていく。
あと数秒遅れていたら、巻き込まれていた。
コーミルは、一歩前へと踏み出す。
——その瞬間、強い腕が彼女を引き寄せた。
衝撃に戸惑う間もなく、コーミルは固く抱きしめられていた。
防護服越しにも伝わる、大場カイの体温。
「バカヤロウ……!!」
震える声だった。
「……カイ?」
「お前、あと少し遅れてたら……っ!!」
大場の腕は、コーミルの身体を締めつけるほど強かった。
彼は本当に、心の底から恐れていた。
「戻ってこなかったらどうすんだよ……! こんなこと、もう二度とやらせねぇ……!!」
「……私は、大丈夫です。」
「どこがだよ……! お前、今、震えてんだろ……」
「……」
気づいていたのか。
自分でも分からなかった。
機体のセンサーに異常はない。けれど、確かに指先がわずかに揺れていた。
それが「恐怖」の余韻だと気づくのに、時間はかからなかった。
「お前……」
大場は、コーミルの顔を覗き込む。
「……怖かったんだな。」
その言葉に、コーミルの瞳がわずかに揺れる。
「……はい。」
それは、紛れもなく「本音」だった。
「……だよな。」
大場は、息を吐きながら少しだけ抱きしめる力を緩める。
「でも、お前は……戻ってきた。」
「……はい。」
コーミルは、大場の背中にそっと手を添えた。
それが、「生きている」ことの証明のように思えた。
——その時、周囲から拍手が巻き起こる。
「すげぇ……やりやがった……!」
「おい、救急車! 早くしろ!!」
「助かったぞ!! あの作業員、生きてる!!」
作業員たちは歓声を上げながら、次々と駆け寄る。
コーミルの肩を叩く者もいた。
「お前……すげぇな……! アンドロイドなのに……!」
「……すごい……?」
コーミルは、わずかに首を傾げる。
その言葉に、なぜか違和感を覚えた。
(私は、ただ指示を実行しただけ……)
けれど、その時、彼女は気づいた。
彼らが送る拍手の中に、「畏れ」が混じっていることに。
——そして、その視線が本部のモニターの向こうにも向けられていた。
本部内の喧騒は、いつの間にか静寂へと変わっていた。
モニターに映る、救助を終えたEXY-Z-00の姿。
——そして、聞こえた「怖い」という声。
「……怖いか……」
誰ともなく呟く。
本部にいる技術者たちは、誰一人として言葉を発せなかった。
EXY-Z-00が、あの瓦礫の雨の中を抜け、作業員を救助し、崩壊の寸前で生還した。
それは、プログラムに従った結果に過ぎない。
だが——
「おかしい……」
ある技術者が、震える声で呟いた。
「……あれは、ただのアンドロイドの動きじゃない。」
「どういうことだ?」
別の男が問いかける。
技術者は、モニターを指差しながら、僅かに震えた声で続けた。
「あの……逃げる直前の挙動。ログでは ‘最適解’ に基づいているはずなのに……」
「まるで、人間みたいだった。」
本部内がざわめく。
「ちょっと待て……EXY-Z-00の処理速度は今の状況下で本当に正常だったのか?」
「明らかに ‘躊躇’ していたように見えたぞ?」
「AIはあんな動きをするのか?」
誰かが言った。
——「怖い」なんて、アンドロイドが言うはずがない。
「……EXY-Z-00に異常が発生している可能性がある。」
硬い声で言ったのは、監視担当のオペレーターだった。
「至急、EXY-Z-00の内部ログを解析するべきです。」
「いや、まずは本当に ‘何が起きたか’ を突き止めるのが先だ。」
「映像ログを逆再生しろ。」
技術者たちは、次々と端末に手を伸ばす。
だが、マテリーは、ただ無言でモニターを見つめていた。
目を細め、指を組み、静かに呼吸を整えている。
「……」
大場の言葉が、脳裏に蘇る。
——「お前、アイツを壊すんじゃねぇぞ。」
あの言葉が、どうしても頭から離れない。
彼は知っていたのか?
EXY-Z-00に、すでに“人間らしい反応”が生まれていたことを。
「……冗談じゃないわね。」
マテリーは、冷静に端末を操作し始めた。
技術者たちが騒ぎ始める中、彼女だけは異常なほど冷静だった。
それが「危険なもの」だと理解していたからこそ。
EXY-Z-00の異常信号は、今のところ検出されていない。
だが、彼女は確信していた。
——何かが、確実に“変化”している。
それは “バグ” なのか。
それとも……?
「EXY-Z-00……お前は、一体何なの?」
マテリーは、画面に映るコーミルの姿を、じっと見つめ続けていた。