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19話 コーミルとレインボーブリッジとお蕎麦屋さん

 俺はその後、港区の接客アンドロイドの整備へと向かった。お台場にある巨大なショッピングモールの中、アンドロイドたちのメンテナンスをこなす。接客用ロボは、毎日のように細かな調整が必要で、ちょっとした不具合でも客に気づかれたら面倒だからな。


 整備を終えた後、次はお台場の工事現場に向かう。ロボットの点検整備だ。そろそろ、現場用ロボも老朽化してきて、修理に手をつけなきゃならないタイミングだった。


 ブリッジの近くで作業を終えたとき、ふと目を上げると、レインボーブリッジが遠くに見えた。あの巨大な橋が、昼間の太陽を浴びて輝いているのを見上げると、なんだか開放的な気分になる。


「今日は、順調だな。」


 午前中だけで、次の予定もすべて片付いてしまった。これで、今日はかなり余裕ができたってわけだ。




 トラックのエンジンをかけながら、俺は腕時計をちらりと見た。


 ——まだ正午前。


 都内の仕事は、楽すぎて拍子抜けするくらいだった。


 助手席のコーミルは、相変わらず無言のまま座っている。


「……何か言いたいことでもあるのか?」


 返事はない。ただ、真っ直ぐ前を見据えているだけだった。


 まぁ、どうせ承認済みの仕事だったからな。俺が何をしようが、コーミルがいちいち口を出す理由はない。


「静かだな、お前。」


「監視対象の業務に違反は確認されていません。」


「だろうな。」


 都内の道路はスムーズに流れていた。


 ふと、視界の端にレインボーブリッジが映る。


 白い橋梁が、補修工事の足場で覆われている。


 老朽化の影響で、最近は定期的な補修が欠かせないらしい。


「……あれも、もう古いもんだな。」


「レインボーブリッジは1993年に開通し、現在の耐用年数は既に超過しています。」


「へぇ……よく知ってんな。」


「データベースに記録されています。」


「そりゃそうか。」


 俺はタバコを咥え、火をつけた。


 都内の澄んだ空気の下、工事用のクレーンが静かに作業を続けている。


 補修を繰り返しながら、どうにか維持されている橋。


 それはどこか、俺の仕事にも似ている気がした。


「古いもんを直して、使えるようにする……。」


「機械の修理を指しているのですか?」


「まぁな。」


「劣化したものを修復することは、合理的な選択です。」


「そうかよ。」


 合理的……か。


 だけど、合理的なだけじゃ片付かないこともあるんだよな。


「さて、昼飯でも食うか。」


 コーミルは黙ったままだった。


 ——当然、反対する理由なんてないからな。


 昼を回った頃、俺は工場の近くにあるいつもの蕎麦屋に立ち寄った。


 働いた分だけ、腹も減る。


 ガラガラと引き戸を開けると、奥の厨房から「いらっしゃい」と顔馴染みの店主が声をかける。


 ここは昔から変わらない、どこにでもあるような定食屋だ。年季の入った木のテーブル、少し色褪せた暖簾、そして香ばしい出汁の匂い。


「いつもの?」


「……あぁ、カツ丼と小盛りの蕎麦で。」


「はいよ。」


 店主が手際よく注文を通し、湯気の立つ厨房へと消えていく。


 俺は奥の席に腰を下ろし、ふと向かいの椅子に座るコーミルを見る。


 無表情。相変わらず動き一つない。


 まぁ、当たり前か。


 ほどなくして、カツ丼と蕎麦が運ばれてきた。


「はいよ、熱いから気をつけてね。」


「おう。」


 箸を割り、まずは蕎麦から啜る。出汁の香りが鼻を抜け、温かい汁が喉を潤す。


 続いてカツ丼。サクサクの衣に染みた甘辛いタレとふわふわの卵が、がっつりと胃に収まる。


 ——あぁ、美味い。


 思わず、そう呟いた。


 すると、向かいのコーミルがピクリと視線を上げる。


「美味しいとは、どういう意味ですか?」


 ——手が止まった。


 目の前の光景が、一瞬ぼやける。


 このやり取り。


 どこかで、いや、確かに知っている。


「……。」


「美味しい、とはどのような感覚を指しますか?」


 落ち着いた機械的な口調。それが余計に、記憶の奥を掻き回してくる。


 ——ミナモとした会話と、まるで同じだった。


 俺は箸を置き、じっとコーミルを見た。


「……お前、本気で聞いてんのか?」


「はい。」


 当たり前のように頷く。


 まるでデータベースに存在しない未知の概念を解析しようとしているみたいだった。


 俺は、少し考える。


「……味がいい、ってことだよ。」


「味が良いとは?」


「……舌に馴染むとか、食べたときに心地いいとか……そういうもんだ。」


「心地よい、とは?」


「……」


 まるで無限ループだ。


「食うことで満足するんだよ。」


「満足、とは?」


「おい、もういいだろ。」


「いいえ。」


 キッパリと否定された。


 俺は溜息をつき、カツ丼を指差した。


「いいか、これはカツ丼だ。」


「認識しています。」


「揚げた豚肉に、甘辛いタレを絡めて、卵で閉じて、ご飯に乗せる。それを口に入れて噛む。すると、サクサクの衣とジューシーな肉汁が混ざって、卵の柔らかさが包み込む。それで……うまい、って感じるんだよ。」


 俺の説明を、コーミルはじっと聞いていた。


 そして、静かに首を傾げる。


「……それは、食物の物理的特性による結果であり、快楽中枢の刺激を伴う現象と推測されます。」


「……は?」


「つまり、塩分や糖分、うま味成分などの化学物質が神経を刺激し、脳内報酬系の活性化を引き起こすことで“美味しい”という感覚が生じるのではないかと考えられます。」


「……。」


「また、食事の前に運動を行った場合、エネルギー消費の影響で食欲が増進し、味覚受容体の感度が一時的に上昇するため、より強い満足感が得られる可能性があります。」


「……。」


「以上のことから、“美味しい”とは生理的および神経科学的な要因によって形成される主観的評価——」


「もういい。」


 俺は箸を置いた。


「……そうじゃねぇんだよ。」


「?」


「お前の言うことは全部正しい。……けど、違うんだよ。」


「矛盾を検出しました。」


「ちげぇよ……。」


 俺は疲れたように、カツ丼をかきこむ。


 味は変わらず美味い。だが、なんか違う気がしてきた。


「……分かった、もう何も言うな。」


「……承知しました。」


 コーミルは黙る。


 結局、コイツに“美味しさ”を理解させるのは無理なんだろうな。


 俺は最後の蕎麦を啜りながら、心のどこかで安堵していた。


 トラックのエンジンが唸りを上げ、常磐道を南から北へと向かう。


 また、あの地獄の1週間が始まる。


 福島へ続くこの道は、もう何度も往復しているが、気持ちが軽くなることは一度もなかった。


 助手席に目をやる。


 コーミル——いや、EXY-Z-00は相変わらず無表情のまま、窓の外の景色を眺めている。


 何を考えているのか、それとも何も考えていないのか——たぶん、後者だろう。


 ラジオをつける気にもならず、ただロードノイズだけが車内に響いていた。


 俺は、ぽつりと呟く。


「なぁ、コーミル。」


 一瞬、EXY-Z-00が視線をこちらに向ける。


「EXY-Z-00です。」


 訂正を促すその声は、どこまでも冷静で、どこまでも機械的だった。


 俺は鼻で笑い、前を向いた。


「そうかよ。」


 ……まだ、“そう”なんだな。


 窓の外、夏の太陽が西へ傾いていく。


 地獄のような1週間は、もうすぐそこだ。


 常磐道を降り、検問を越え、あの現場へと戻る。


 1週間の地獄の始まりだ。


 またこの空気だ。


 鉄とコンクリートが焼けた匂い。酸化した金属の鈍い臭い。わずかに混じる化学薬品の残り香。


 防護服越しにでもわかる、まとわりつくような放射線区域特有の“汚染された匂い”。


 俺は一度、トラックのハンドルに額をつけて深く息を吐いた。


 また、ここで働くのか。

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