11話 最後に見せた彼女の笑み
「……おじちゃん、起きてください。」
額に軽い衝撃を感じる。
「ん……?」
微睡む意識の中、まぶたを重く持ち上げると、
目の前にはミナモがいた。
「おじちゃん、朝です。」
俺は寝ぼけたまま、天井を見上げる。
仄かに白んだ光が、窓から部屋に差し込んでいた。
「……ああ、もう朝かよ……。」
ぼさぼさの頭をかきながら、起き上がる。
「起こし方、ずいぶん元気になったじゃねぇか。」
ミナモは無表情のままだが、
どこか以前より動きがスムーズになったように見える。
いや、実際そうだ。
バッテリーは新品に交換。
関節部のシールも全て新調。
ソフトウェアも最新のものへ最適化。
——今のミナモは、間違いなく以前より”良い状態”になっている。
「……で、今日は?」
俺がそう聞くと、
ミナモは少しの間を置いてから答えた。
「ミナモ、帰る日です。」
——ああ、そうだったな。
今日でテストは終わり。
2、3日間の試験運用を経て、ミナモは持ち主の元へ帰る。
「……そうか。」
俺はベッドの端に座り、ぼんやりとした頭でミナモの顔を眺める。
2、3日という短い期間だったが、
こいつがここにいるのが当たり前になりつつあった。
このまま、あと1週間くらいはいてもおかしくない気がする。
だが——
「……行くか。」
俺は立ち上がり、伸びをする。
「はい。」
ミナモは淡々と頷いた。
その反応は以前と何も変わらない。
——それなのに、俺は少しだけ、何かが引っかかった。
何だろうな、この感覚は。
ミナモは変わらない。
俺がいくら修理し、改良し、チューニングを施そうと、
結局のところ、こいつの本質は変わらないままだ。
それは俺にとって、ある意味“敗北”でもあり、
そしてどこか“安堵”でもあった。
——まぁ、考えたところで、答えが出るわけじゃねぇ。
俺はミナモの頭をポンと軽く叩いた。
「んじゃ、途中飯食って、行くぞ。」
「……はい。」
ミナモは相変わらず、無表情のまま頷いた。
だが、その瞳の奥には、微かに何かが宿っているような気がした——。
中央道を下る途中、俺は宣言通り飯を食うために石川PAへ滑り込んだ。
朝のPAは静かで、まだ車の数もまばらだった。
適当な駐車スペースにトラックを止め、エンジンを切る。
シートベルトを外し、車外へ出ようとドアのロックを押した——その時。
コン、コン。
助手席側の窓が、内側から叩かれた。
「……ん?」
俺は振り返る。
ミナモだった。
助手席に座ったまま、無表情で窓をコンコンと叩いている。
「……どうした?」
俺が問いかけると、ミナモは淡々と答えた。
「ミナモも、一緒に行きます。」
「……は?」
意外な返答だった。
俺は思わず眉をひそめ、じっとミナモを見つめた。
「お前、今まで外食に興味示したことなんてなかっただろ?」
「……。」
ミナモは、相変わらず無表情のままだ。
が、その瞳だけはじっとこちらを見つめている。
「……どういう風の吹き回しだ?」
俺は腕を組み、じっくりと考える。
こいつは“興味”で行動するタイプのアンドロイドじゃない。
少なくとも、俺が見てきたミナモは——ただ淡々と指示を受け、それに従うだけだった。
だからこそ、こうして「行きたい」と自己主張するのは、妙だった。
何かのエラーか? それともプログラムの影響か?
……いや、そんな単純なもんじゃねぇ気がする。
俺はしばらくミナモを観察し、
最後に肩をすくめ、ドアのロックを解除した。
「……まぁ、いいか。降りろ。」
「はい。」
ミナモは淡々と頷き、助手席のドアを開けて外に降りた。
——PAの朝の冷たい風が、俺たちの間を吹き抜けた。
石川PAのフードコートに入り、俺は適当なラーメン屋のカウンターで食券を買った。
朝からラーメンは少し重いかと思ったが、昨日からまともな飯を食ってなかった。
味が濃くて脂が乗ってるくらいの方が、疲れた体にはちょうどいい。
「おじちゃんはラーメンを食べるんですね。」
ミナモが横に立ち、淡々とした声で言う。
「……そうだけど?」
俺はカウンター越しに丼を受け取り、適当な席に腰を下ろした。
フードコートは朝の時間帯だからか、まだ人が少ない。
俺たちの周りには、新聞を広げたサラリーマンと、
仮眠を取るトラック運転手くらいしかいなかった。
ミナモは俺の向かいに座り、じっとこちらを見つめている。
「ミナモは何か食わねぇのか?」
「ミナモは食事を必要としません。」
「まぁ、そりゃそうか。」
俺は軽く笑いながら、箸を割り、スープをひと口すすった。
——うまい。
シンプルな醤油ベースのスープ。
やや太めの麺がよく絡み、しっかりとした出汁の旨味が広がる。
「……あぁ、これは当たりだな。」
俺は満足げにうなずき、ズズッと麺をすすった。
——すると、ふと視線を感じる。
ミナモだ。
相変わらず無表情ではあるが、どこかじっと俺の動きを見ている気がする。
「……なんだよ。」
「おじちゃんは、おいしそうに食べます。」
「当たり前だろ。飯ってのはうまいもんだ。」
「……。」
ミナモは少し考えるように間を置いた後、静かに言った。
「“おいしい”とは、どういうことですか?」
俺はラーメンをすする手を止めた。
「……は?」
「味覚によって、美味しい・美味しくないが決まるのは理解しています。
ですが、おじちゃんの表情や声のトーンからは、
味そのもの以外にも“満足”や“喜び”のようなものを感じます。」
「……。」
俺はミナモをじっと見つめた。
こいつ、今までこんな風に“感情”について話したことがあったか?
「……まぁ、簡単に言えば、うまい飯を食うと気分が良くなるってことだな。」
「“気分が良くなる”とは?」
「おいおい、俺に説明させんのかよ……。」
俺は少し困ったように笑いながら、スープをひと口飲んだ。
「まぁ、例えば……すげぇ疲れてる時に、あったかいもん食うとホッとするだろ?」
「……。」
「逆に、クソまずいもん食わされたら腹が立つ。
つまり、味だけじゃなくて、食うって行為自体が
人間の“気持ち”に影響を与えるってことだ。」
「……。」
ミナモは、少しだけ目を伏せるようにして考え込む。
その仕草が、妙に“人間らしく”見えた。
俺はスープをすすりながら、ふと違和感を覚える。
——いや、待てよ?
ミナモは今、「おいしさとは?」と聞いてきた。
それだけなら、ただの疑問だ。
けど——
「気分が良くなる」「満足」「喜び」
この単語の使い方が、どこか微妙に“人間的”だった。
今までのミナモなら、
「おいしいものを食べると、人体にどのような影響が出るのか?」
みたいにもっと機械的に聞いてくるはずだ。
でも、今の質問の仕方は、まるで“感情”というものを前提にしているような——。
「……おい、ミナモ。」
「はい。」
「お前……感情ってやつを理解し始めてるのか?」
「……。」
ミナモは答えない。
いや、違う。
“答えられない”という表情をしている。
俺は、箸を持つ手を止めたまま、じっとミナモを見つめた。
確信には至らない。
まだ、こいつが本当に“感情”を持っているかはわからない。
だが——
“何かが、変わり始めている”
それだけは、間違いない気がした。
俺は黙ってラーメンの残りをすすり、
湯気の立つスープをじっと見つめた。
目の前には、無表情だけど、どこか“楽しそう”に見えるミナモがいた。
中央道、午前十時。
俺はトラックのアクセルを軽く踏み、中央道を滑らせた。
時刻はちょうど午前十時。
天気は快晴。
フロントガラス越しの空は青く澄み渡り、
遠くの高層ビル群が陽光を受けて輝いている。
車内にはエアコンの涼しい風。
窓の外を流れる景色は、都心ほどの喧騒はなく、
けれど地方ほどの長閑さもない、ちょうど中間の空気を持っていた。
俺は片手でハンドルを回しながら、
もう片方の手で電子タバコを咥え、
煙を静かに吐き出した。
助手席では、ミナモがじっと外を見ている。
小さな体をシートに沈め、
まるで風景のひとつひとつを記憶しようとしているかのように。
「おじちゃん。」
突然、ミナモが口を開いた。
俺は軽く眉を上げながら、視線を横に向ける。
「ん?」
「“楽しい”とは、どういうことですか?」
俺は、
一瞬、何を聞かれたのか分からず、
そのまま電子タバコの蒸気をゆっくりと吐き出した。
「……またかよ。」
「また、とは?」
「さっきもフードコートで聞いてきたじゃねぇか。」
「でも、まだよく分かりません。」
ミナモは相変わらず、無表情のままそう言った。
だけど——
なんとなく、その声色がいつもより柔らかい気がする。
俺は肩をすくめ、
ハンドルを握る手に力を込めた。
「楽しいってのは……そうだな。」
言葉を探しながら、
中央道の景色をぼんやりと眺める。
空には、幾筋もの飛行機雲。
隣の車線を、自動運転のバスがスムーズに追い越していく。
「たとえば、お前、誰かに“ありがとう”って言われたことあるか?」
「はい。」
ミナモは、コクンと小さく頷いた。
「修理をしてもらった時、おじちゃんに言われました。」
「で、その時、どう思った?」
「……“役に立てた”と認識しました。」
「だろ?」
俺は鼻で笑う。
「それが、“楽しい”ってことだよ。」
「……それが?」
「まぁ、ちょっと違うかもしれねぇけどな。」
俺は窓の外を見ながら、
電子タバコをもう一度咥え、ゆっくりと蒸気を吐く。
「楽しいってのは、何かいいことが起きた時に感じるもんだ。
ワクワクしたり、嬉しくなったり、
気持ちが軽くなるような、そんな感じだ。」
「“ワクワク”とは?」
「……またそこからか。」
俺は苦笑する。
「たとえば、好きなことをしてる時とか、
美味いもんを食ってる時とか——」
「おじちゃんは、今“楽しい”ですか?」
俺はミナモの言葉に、
不意を突かれたように眉をひそめた。
「……なんでそう思う?」
「フードコートでラーメンを食べていた時、おじちゃんは“おいしい”と言いました。
その時の表情が、“楽しい”という概念に近いと感じました。」
「……。」
俺は目を細めながら、
朝の日差しを浴びるミナモの横顔をちらりと見た。
相変わらずの無表情——だけど、
なんとなく、楽しそうに見えた。
「どうだかな。」
俺は鼻で笑い、
ハンドルを軽く叩いた。
“楽しい”って何なのか、
改めて考えたことはなかった。
だけど、こうして中央道を走り、
ミナモとどうでもいい話をしている今——
それは、案外悪くない時間だったのかもしれない。
トラックを公園の入口に停める。
午前の空気は柔らかく、穏やかな陽射しが木々の葉を照らしていた。
鳥のさえずりが聞こえ、ベンチでは老人たちが新聞を広げ、子供たちは遊具の周りを走り回っている。
待ち合わせ場所のベンチ。
そこに——
ミナモの“家族”がいた。
夫と妻、二人は手を繋ぎ、こちらをじっと見つめていた。
不安げな表情、それでいてどこか期待に満ちた眼差し。
「……ほら、行ってこい。」
俺はハンドルの上に肘をつきながら、ミナモの横顔を見た。
「料金はもうもらってる。 これ以上、俺の関わることじゃねぇ。」
ミナモは静かに俺を見つめた。
その瞳は、どこか名残惜しそうな——いや、それとも違う何かを抱えているように見えた。
「……行ってこい。」
もう一度、そう促す。
ミナモは一瞬だけ動きを止めた。
そして——
俺の方へ振り返り、じっとこちらを見つめる。
「おじちゃん。」
「ん?」
「ミナモ、おじちゃんに会えて、嬉しいです。」
俺は一瞬、息を呑んだ。
言葉の意味を咀嚼する前に——
ミナモが、ふっと笑った。
——確かに、“笑った”のだ。
それは、ほんの僅か。
口元が微かに持ち上がり、目元がわずかに柔らかくなる。
アンドロイドの無機質な表情ではなく、
どこか温かみのある、穏やかな微笑み。
俺は、それを見て、言葉を失った。
「……ありがとう。」
ミナモはそう言うと、
スムーズにドアを開け、軽やかに飛び降りた。
そして——
走り出す。
細い体が、朝の光の中を駆け抜ける。
ワンピースの裾がふわりと揺れ、
軽快な足音がアスファルトに響く。
夫婦の元へ向かって一直線に。
「……。」
俺はトラックの窓から、その後ろ姿を見送った。
「……ったく。」
思わず、舌打ち混じりに笑う。
相場よりも安い仕事だった。
だが、それ以上の“何か”を受け取ってしまった気がする。
ミナモは——
本当に、変わらなかったのか?
それとも、変わったのか?
俺にはわからない。
だけど、一つだけ確かなことがある。
——“アンドロイドは感情を持たない”。
俺はずっと、そう思っていた。
そう、信じていた。
けれど——
俺の記憶の中には、
確かにあの、ミナモの微笑みが刻まれてしまっていた。
「……くそ。」
電子タバコをくわえ、
蒸気を吐き出す。
まったく、後味が悪い仕事だった。
そう思いながらも、
俺はどこか満たされた気持ちで、エンジンをかけた。
公園の木々が風に揺れる。
穏やかな朝の陽射しが、ミナモの背中を照らしていた。
俺は一度だけバックミラーを覗く。
そこには——
家族の元へ駆け寄る、
小さな背中があった。