時をかける男
「ねえ、お隣いいかな?」
平日の昼下がり、図書館には僕と彼女だけしかいなかった。平日とはいえ、夏休み真っ只中であるにもかかわらず、これだけの人しか入っていないのは心配になる。
彼女は僕と同い年くらいの、それはそれは美しい女性だった。二重で目がぱっちりとした端正な顔立ちに、肩まで切り揃えられているふわりとしたボブがよく似合っている。左手には指輪をはめており、それが彼女の魅力を天井まで引き出している。どうして冴えない僕に声なんかかけてきたのだろうと一瞬警戒したが、こんな美人と話せるチャンスは他にない。据え膳食わぬは男の恥。僕は彼女の要求に快く応じることにした。
「何の本を読んでいるの?」
彼女が目を輝かせて訪ねてきた。興味津々に満ちた瞳は、ほどよく潤んでおり、その魅力的な眼差しに吸い込まれそうになる。
「タイムマシンって本やで」
「ウェルズの?」
「そうそう。よう知っとるな」
「そりゃ知ってるよ!名作やもん。読んだことはないけど」
「ないんかい。でも、面白いよ。おすすめ。」
「そうなんや!うちタイムリープ系の作品好きやから読んでみよかな。」
「タイムリープ系なあ。例えばどんなん?」
「サザエさん」
「あれタイムリープものとしてみてるん?確かに同じときを繰り返してるようにも見えるけど」
「波平が磯野を助けるシーンに感動するんよ」
「そんなシーンあった?あと、どの磯野やねん。磯野の幅広いんやから、1人に絞らな」
「冗談だよ、冗談!君面白いね!」
トリッキーなボケに困惑しつつも、何とか彼女のツボを抑えることはできたみたいだ。正直美人とこんなふうに冗談を交えながら会話できるのはとても心地が良かった。気になったので、他にはどんな作品が好きなのか尋ねてみた。
「時をかける少女とかも好き!」
「いいやん!小説?映画?」
「細田!」
「守どこいってん。名字呼び捨てはあかんやろ。守ありきの細田なんやから」
「主人公のセリフが好きなんよ」
「どのセリフ?」
「あんたならできるよ」
「それ別の作品やな。主人公でもないし」
「やっぱ、いまだに腕に数字があるかどうかは確認しちゃうよね」
「あるけど、くるみ砕いたらICOCAみたいにチャージされるやつ」
「漢数字のやつね!」
いつぶりだろう、こんなふうに女の子と楽しく会話できたのは。僕はもう今日死んでもいいかもしれない。生きていれば、たまにはいいことがあるものだ。
しかし、僕が和やかな、感傷的な気持ちになっているのとは、対照的に彼女の顔はキリッとしたものに変わった。僕は背筋が自然と伸びた。シャキッと。僕は彼女のこの顔を知っている。そうこれは、大人が仕事をする時の顔だ。
「いつまで、夏休みを続けるおつもりですか?」
「え?」
「もう四十歳でしょう。お母様から依頼されてやってきました。就労支援相談員のものです」
まじか。終わった。母さんの手のものだったとは。確かに僕は夏休み中だよ。人生の。毎日が日曜日さ。彼女の左手薬指にはめられていた指輪はアクセサリーなんかじゃなく、シンプルに結婚指輪のようだ。くっそ、期待させやがって。
「でも、わたしはただの就労支援相談員じゃありません!」
そういうと彼女は勢いよく、右手首を僕に見せてきた。何だこの女、やべえなと思いつつ、よく見てみると何か書いてある。
「…八?」
「そう!わたしは映画と同じ、過去にタイムリープできちゃう系少女なのです!」
思考が追いつかない。この女は何を言ってるんだ。いや、その前に。
「少女って歳ではないやろ」
「あ?」
「ごめんなさい。綺麗なお姉さん。」
「謝ってくれればいいんですよ。で、どうしますか?飛んでみます?」
「いや、意味がわからへんよ。そんな急に訳分からん設定持ってこられても」
「ですよね。でも大丈夫!」
「吉高由里子みたいな言い方やな。銀行に行けなーいのCMのやつ」
「あなたは何もしなくていいですから。目を瞑っていれば、もうそこは過去ですから」
「スピリチュアルなん?」
本当に意味が分からない。冗談なのか?いやそんな風には決して見えない。彼女の顔や声のトーンから嘘をついているとは到底考えられない。では、本当にタイムリープできる。これは乗ってみる価値があるんじゃないか。大体、ここでノリ悪く、そんなの絶対無理だよって言ってもつまらないじゃないか。もし万が一この話にのって、過去になんか行けなかったとしても僕の人生にそこまでのダメージはない。じゃあ、ここでとりあえず話にのってみるのは全然アリだ。
行ってみたい過去ねえ。そうだ。見てみたい絵があったんだった。
「あの、どうしても見たい絵、過去の時代にしか存在しない絵があるんやけど、それを見に行くとかでもええかな?」
「いいですよ。あなたが過去にいけばそれだけで現在の問題、お母様の心労がなくなりますから」
「酷い言われようやけど、何も言い返せへん」
「じゃあ、その絵を見に行きましょう」
そういうと、彼女は色々と準備や事前説明をしてくれた。過去に行くと、自分の体型や年齢、言葉遣いなどが変わるそうだ。とりあえず関西弁ではなくなってしまう。どうやら、単純な、自分の今の姿でタイムリープすることができるというわけではなさそうだ。千昭という名前は変わらないみたいだけど。
「それでは、行きますよ!いいですか!千昭さん!」
「はい!」
これより僕の49歳の冒険が幕を開ける。
夏休みは、これからだ。