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彼女の物語  作者: shrimp
4/8

二人の時間

 最近は世界情勢が悪くなっているみたいで、いざというときの避難についての書類がみんなの手元に届いていた。有事のためにシェルターが用意されているのだけれど、シェルターには酸素や食料、広さといった条件から保有人数に限度があるため、申請書を出した後、数週間以内に優先番号が配布されることになっていた。

「何かあったら、優先順で入れるってこと?」

「そうみたいだね」

「ふーん。わたしたちはどうなんだろ」

「若い女性はだいたい大丈夫みたいだけど。ぼくはどうだろうな。そもそも、念のため事前通告してるだけでしょ。実際そこまでのことが起きるとは思えないけどな」

「そうかもしれないけど、申請はちゃんと出しとこうよ」

結果、彼女は第二優先グループで、ぼくは第四だった。どういう基準なのかは詳しく明かされていなかったが、要するに究極的に生存に役立つ人から順に選ばれるということなのだろう。彼女はぼくの優先度が自分より低いことを嫌がり泣き出してしまった。

 彼女はこういうことにめっぽう弱く、例えば「もしもぼくが事故で亡くなったらどうする?」なんて質問をするとすぐにめそめそしていた。きっと想像力と感受性が豊かなんだろう。ぼくはそんな彼女がかわいくて、たまに意地悪でそんな話をしては泣かせていた。

 彼女の頬を伝う人肌程度の温かさがある涙を親指で拭いながら、なんてかわいいんだろうと思っていた。


 はじめは毎日のように行われていた避難シェルターに関する話も数週間したらみんな聞き流すようになっていて、たまに最新の状況が説明されたり倫理的問題について語る専門家は見るにしても、基本的には以前と変わりない日常に戻っていた。外の国での死者は数万人に上るらしいが、ぼくたちにはあまり実感がある話ではなかった。すぐそばにいる彼女の気持ちもすべて理解できないぼくに、もっと外側にある話を理解することは難しかった。

 大学生になったぼくと彼女はこのごろ忙しく、会えるのは多くても週に一回とかだった。ぼくらは学年がずれているから、ぼくはぼくでそろそろ卒業に向けて色々やらないといけなかったし、彼女は専門的な授業が増えてきたので課題に追われていた。そもそも別の大学に進学していたから、高校のときと違って、校内で会うことすらできなくなっていた。

 ぼくらは、彼女が提案で手紙の交換をするようになっていた。彼女の字は少し右肩上がりだけれどすっとしていて、角が立ったきれいな字だった。彼女が書いたすべての文字が、彼女の手によって直に生み出されたものだと思うと、内容なんかよりも一画一画に意識が向き、そこに彼女自身を見ているようでとても愛おしかった。ぼくも彼女に便乗して書いているけれど、字は下手だしいざ書こうと思うとなにも思いつかず、単にぼくの日記を彼女に渡しているようなそんなぐあいであったが、彼女はいつも喜んでくれていた。ぼくにとってなんてことはないただの字の羅列ではあるのだけれど、それがぼくの手を離れて彼女のものとなったときに価値が生まれるようでいて、お互いのためにしたためるという行為がくすぐったく、いつからか手紙を書くのが楽しくなっていた。


 あるとき、彼女が書いた手紙の中に「戦争が起こるかもしれないんだからもっと一緒にいたい」という一文があったので、ぼくはそれに対して「そんなことにならないからお互いのことを頑張ろう」と励ますつもりで返事をしたことがあった。次の週、近所の喫茶店でお昼を食べているときに、わたしはほんとうに心配なんだと言ってきた。

「分かるけどさ、ずっと一緒にいるわけにもいかないしなぁ」

「でも、明日世界がなくなっちゃうかもしれないんだよ。明日死んじゃうかもしれないのに、心配じゃないの?」

現実的すぎて、かえって悪い方向に未来を考える部分が出ていた。とくに、彼女にとってはすべての人間にいつか死があるという現実が耐えがたいものだったようで、こんなふうに、明日にでも死んでしまうんだという話をすることが多々あった。

 天井からぶら下がっている四角錐(しかくすい)の照明器具から漏れ出ている暖色の光りが、彼女に柔らかさを帯びさせながら鼻の下に影を作っていて、くすんだ赤い色のワンピースは茶色がかって見えた。

「ぼくだって一緒にいたいよ。でもそれもむずかしいじゃん」

「そうだけどさあ。わたしは好きだから一緒にいたいだけなのに。でもそれだけじゃだめなのかな。好きなだけじゃ。なにかが足りないのかな」

それだけじゃだめなのかな——。たしかにぼくたちはお互いに好き合っているだけだ。実際には、愛はそれ以外のなにかの上にやっと成り立っているようであって、ぼくら二人の情だけではほんとうのところ愛し合って生きていけないのだと思う。だとしたら、人はなんのために愛し合っているのか。愛し合っているだけでは愛し合えないのだとしたら、愛が持つ力はどこに働いているのだろうか。どこからともなく生まれてはあらゆるものを越えてゆく力が愛だと思っていたが、それはぼくの妄想にすぎなかったのだろうか。

「どうしても我慢しないといけないこともいっぱいあるんじゃないかな。それはしかたないと思う。一緒にいられないことを考えるんじゃなくて、ほら、会えてるこの瞬間を楽しんだら良いんだと思うんだ。会えないことだってある。でもそれは一人でいる大事な時間でもあるわけだし。考え方だと思うんだよね」

「うん……そうだよね。ごめんね、わたし、分かってたんだけど、でもどうしても心配になっちゃって」

 喫茶店を出た後は本屋に行ったり雑貨屋を回ったりして適当に過ごし、暗くなってからは二人で手をつなぎながら散歩をした。相変わらず彼女の手はじんとした温かさがありすごく安心できた。ぼくはいつも以上に強く手を握り、それを感じとったのか彼女もぼくの手をぎゅっと握り返してきた。

 途中、ぼくらがはじめてデートをした公園に寄った。青色がはげてところどころ酸化した鉄がむき出しになっているベンチに腰掛け、今となっては小さく見える砂場やぶらんこを見ながら話しはじめた。白い街灯に照らされた彼女の肌は雪のような白さをまとっており、赤いくちびるが目立っていて、髪の黒さは一部白く反射している以外には静かな影としてそこにあった。

「デートって言ってここに連れてきたときはびっくりしたよ」

「しょうがないじゃん。ほとんど恋愛経験なかったんだし。でも、喜んでほしくて、分からないなりに必死に考えて、そしたら、よく知ってる場所ならかっこよく回れるかなって思って。それがいいかなって」

「回るって。小さな公園だよ」

「冷静に考えればそうだよ。ばかだと思うけど。でも、別になにも言われなかったからいいのかなって思って」

「味をしめて、二回来たもんね」

「ごめんって」

ぼくらは笑い合った。彼女はさらりと髪に手ぐしを通した。ほのかに夏の香りがした。

「いいんだよ。だって、そうやって考えてくれたことがうれしいし。ここに座ってお互いのこともたくさん話せたでしょ。仲良くなれた大事な日だったと思うよ。一生懸命なのも分かってるし、それがかわいいんだよな。二回目連れてきちゃうところとか、ばかすぎてむしろいい」

はじめは先輩後輩のなかだったぼくらも、今では立派なカップルだった。ふつうの間柄では言わないこと、言えないこと、見えないところ、見せないこと、お互いのいろんなところをぼくたちはそれぞれたくさん知ってきた。彼女がこうやって結構直球で愛情表現をするだなんて思いもしなかったけれど、そういう他の人が知らないことを知っていくのにはとても愛を感じるし、そのおかげで自分の存在意義を強く持てているという気もしていた。

「なんだよ。ばかにして」

「してないよ」

「いやいや。ばかすぎるって言った」

「違います。むしろいい、ってところが大事なんです。別にわたしは一緒にいられればそれでいいし」

それは付き合ったときからずっと言われていることだった。ぼくは、彼女がどうしてぼくに対してそう思っているのかいまでも分からなかった。じぶんのどこに魅力があるのか、彼女のようなかわいい人がなぜそこまでの想いをぼくに持ち続けているかはどれだけ考えても答えが出なかった。

 でも、彼女のその想いは彼女の中で確かなものであるのだからぼくがそれを否定する理由もなく、それを信じて受け入れる強さをぼく自身が持っているべきなのだ。愛されること自体は珍しいことではないのかもしれないけれど、愛し続けてもらうのはそれと比べたらずっと稀有(けう)なことであり、彼女が同じ想いで居続けているのはほんとうに奇跡的なことだと思えた。

 彼女は腰を浮かせてそっとそばに寄ってきた。街頭の灯りは彼女の影を暗い地面に落とし、ほんのりあたたかい夜風が切なさを持った彼女の人恋しい甘い香りを運んできた。肩と肩が触れあいぼくたちは見つめ合っていた。彼女のみずみずしく澄んだ眼の中で青い月光が波打った光りかたをしていた。伏し目がちになった彼女の黒髪をかき分けてそっと頬に触れながらじぶんの顔を近付け、ふわりとした彼女の唇にじぶんを重ねた。

 いつもとおなじ、甘い牛乳のような味。だんだんと力が抜けていく彼女をぬれた唇に感じながら、ぼくはじぶんの愛を彼女に伝えようとした。けれどそれはいつまでも満たされず、好きだからこうしているのに、でも、もっともっと、好きな気持ちが生まれてきて、ぼくはなにをどうしたってじぶんがどれほど彼女を想っているかをぜんぶ伝えきれないのだった。

 やがてぼくたちはそっと唇を離し、顔を近づけたまま街の残響とお互いの吐息に耳を澄ませていた。ぼくたちの間にはいま、ことばにしなくても分かることがあったと思う。彼女のことが、ほんとうに好きだ。

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