俺じゃなくても/貴方じゃない
幸せそうに笑っている彼女を見て、どこか仄暗い気持ちになる俺は、きっと悪い人間なのだろう。
不幸、という言葉はきっと彼女のためにあるのだと、幼い頃から思っていた。当主の実子であり、家の長子なのにもかかわらず、病気による母親の死後、その穴を埋めるために事前に用意されていたのだとしか思えないほど素早く家に入り込んできた愛人に蔑ろにされ、半分とは言え血の繋がった妹に蔑まれ、実父にすら見捨てられたかのような彼女。
貴族令嬢としての教育などまともに受けられず、侍女ほどとまではいかないまでも家内の雑用を押し付けられるという、通常であれば絶対にありえない、ありえてはならない境遇を諦観と共に受け入れてしまった彼女。
そんな彼女が頼れる人間と言えば、幼い頃から交友があり、婚約者であったこの俺くらいのものだったと思う。多少の驕りが混じっていると言えばそうなのだろうが、少なくとも俺にはその自負があり、彼女を支えているのだという自信があった。
俺は彼女が好きだったし、その役割に誇りと優越感を抱いていたのは否定できない。彼女が不幸であればあるほど、俺は彼女の唯一になれるのだと、そんな見方によっては歪んでいるとも取れる精神性。言い方を変えれば、俺という人間を支える柱だとも言えた。
「いつもありがとう」と俺の顔を見て微笑みながら言ってくれる彼女に何度救われたかわからない。家族から何度、婚約を解消した方がいいんじゃないかと言われたかなどもはや覚えていないが、俺はそれを一蹴し続けた。彼女と一緒じゃない未来なんて考えられなかったし、彼女と一緒じゃない幸せなんて考えられなかった。
だから十六歳の時、俺達の婚約が解消されたと父親から知らされた時、比喩じゃなく目の前が真っ暗になった。証明書を手に取った直後、全身から力が抜けてその場に膝をついたし、その後は丸一日近く気絶していた。目が覚めて彼女の家を訪ねても、もう彼女は新しい婚約者の家に送られたと言われて追い返され、結局はただ絶望を深くするだけの結果に終わった。そこからしばらく、俺は抜け殻のようだった。
聞いてみれば、彼女の新しい婚約者だという男は俺よりも家格が上で、王城勤務の優秀な人間だった。俺よりも年上だが、それは性格に難ありというよりは相手を探す時間を惜しんでことだと聞いたことがある。
興味のない俺にすら噂が回ってくるほど、ご立派な男。「あはは! そりゃああの彼女の父親も鞍替えするわな! 俺のことなんか気にも留めないってか! あはは、はは――ふざけてんじゃねえぞ! くそがぁ!!」俺の部屋の家具を全部買い替えることになったのは今でも苦い記憶だが、それでも当時の俺は怒りの炎が鎮火することはなかった。文字通り荒れた。
どうも、本来は彼女の妹に来た縁談だったらしい。なのだが、彼女の両親が妹を嫁に出すことを嫌がった結果、彼女と俺の婚約を解消し、彼女と奴を婚約させた。なんとも、当事者の俺を随分と蚊帳の外においてくれるものだ。
だがそれよりも何よりも一番傷ついたのは、一週間経とうと、一か月経とうと、どれだけ待とうと、彼女からの連絡なんか一回も来なかったことだ。不躾を承知で俺から何度も手紙を送ったが、それに対する簡素な返事すらなかったのは、俺の心を折るのに十分だった。
俺は、彼女に捨てられたのだ。親に捨てられた彼女が、俺を捨てただけ。そこに恨みを持つのがどれほどのお門違いかなど理解していたけれど、俺との関係なんて初めから無かったみたいな、跡形の無さは、どうしようもない虚無感と共に、いつまで経っても俺の心の弱い部分を苛み続けた。
いつの間にか彼女の結婚式が終わっていたと知らされた時も心臓は痛み、昼夜問わず吐き通しだった。長い、幸せな夢から突然叩き起こされたような虚脱感は何年経っても抜けず、今日こうして、最悪の形で爆発した。
婚約が解消されてから早二年、家の付き合いでどうしても参加しなくてはならない夜会で、俺は彼女を見た。見てしまった。見つけてしまった。知らない男の隣で、幸せそうに笑っている彼女を。
最低だと自覚はあるが、俺は彼女が不幸であればいいと思っていた。良く知らない男と結婚して、不幸で、いつも俯いていればいいと思ってしまっていた。そこへ俺が颯爽と現れ、彼女を抱きしめて攫い、どこか遠い場所で慎ましいながらも幸せな生活を送るなんて現実味の無い妄想を、一体俺は何度繰り返したんだろうか。
「……ああ、なんだ」不幸なのは、俺だけなのか。綺麗なドレスに身を包み、高級そうな宝飾品を身に付け、夫人らしい優雅さを身に纏った彼女は、誰がどう見ても幸せな人間で。
男女の価値観は、違うらしい。男は昔の恋愛を引きずるんだとかなんとか、誰かから聞いたことがある。未練がましい無様な男である俺は、いつの間にかどうしようもないクズに堕していて、遠目から彼女の幸せそうな顔を見て、男へ寄せる信頼を感じて、現状への満足を理解して、方々への挨拶も中途半端に会場を後にした。
過去を振り払えない惨めな男は、不幸を独占して背負ったまま地獄へ落ちるのがお似合いだ。これが誰かを苦しめることがあってはならない。彼女の幸せを邪魔しないように、俺は自室で、永い眠りについた。この数年と違って、悪夢を見ることが無い分、分不相応な幸せを甘受しようとしているようにも思えるが、まあこのくらいは許してほしい。
間際の瞬間も苦しくないという死者から寄せられたとしか思えないような眉唾な評判は何故か正しく、喉に纏わりつくような不自然な甘さが、飲み込んだ毒を幸せの結実だと錯覚させてくれるような気がした。
はい、私はこれを飲みました。瓶の中身が空っぽなのですから、私が飲んだ以外にあり得ないじゃないですか。そんな顔をされても困りますよ、飲まないとやってられない、ってやつです。裏門の守衛さんが良く愚痴ってましたから覚えてしまったフレーズですね。初めて飲みましたが、意外と不味くないものですね。何と言うのでしょう、もっとこう、喉が焼けるような苦痛を想像していたのですが。
……何故、ですか。ううん、何と言ったらいいのでしょう、私って酷い女だったようなのです。元婚約者をあっさり捨てて、今どんな生活を送っているのかなんて知らないで、きっと私の知らないところで幸せなんだろうなんて自分に都合の良い妄想で塗り固めた虚構の中にただ引きこもっていて。だからこうして、全部手遅れになってから真実を知るような報いに遭っている。
……また、何故、ですか。流石に私のことを気の毒に思ったんじゃないですか? こっそりとこの手紙を私に届けてくれた人がいたんですよ。それで軽く調べてみたら驚いちゃいました。彼から私宛への手紙が貴方の部屋からどっさりと見つかるんですから。なんで燃やさずにとっておいたのかとか、そういう質問をした方が良いんでしょうけど、どっちにしても多分私は貴方を許せないので訊くことはしません。
……ええ、読みましたよ、全部。何て言うんでしょうね、追い詰められていく人間の精神状態って、文面にも表れるんだなって思いました。貴方は読みましたか? ……でしょうね、読んでいたら流石に私に渡していたと思いますよ。……手紙? 燃やしましたよ、全部。そこにある灰がそうです。だって貴方に読ませたくなかったんですもの。変に罪悪感とか持たれても何もかもが今更で、もう全ては手遅れなんです。何が起こったかだけは教えてあげますが、彼が死にました。自室で毒を飲んで、自殺したそうです。
……先日の夜会、彼も来ていたようですよ。もしかして知っていましたか? ……そうですか。私は後悔しています。彼を失った後、新しい心の支えとして、貴方を選んでしまったことを。貴方が私に優しくしてくださったことは事実ですし、この家の人たちは私を夫人として扱ってくれました。そしてこうして、今や私の身体は私だけのものではなくなっています。正直、私は子供なんて知ることなく死んでいくんじゃないかと思っていた時期もあったので、妊娠がわかったときは飛び上がるほど嬉しかったですよ。望外の憧れでした。
……でも、いつか、彼の子を産むのだと、そう信じて人生の大半を生きてきたのですよ。私の、夢でした。その夢が突然奪われ、何の準備もなくこの家に送られた後、彼からは何の連絡もないと、私が送った手紙への返事も無いと、貴方のその言葉を信じた私が愚かだった。彼は新しい婚約者と仲良くやっていると、その嘘を鵜呑みにした私がこの上ない馬鹿だったというだけの話です。
そんなわけないのに。
そんなわけ、ないのに。
全部、握り潰していたのですね。私の手紙も、彼の手紙も、彼の情報も、全部。私の未練を断ち切るために、貴方に依存させるために、私に、受け入れさせるために。……私のため、ですか。まあ、貴方のその考えを否定はしません。ですが、結果はこれですよ。彼は死にました。貴方に寄り添う私を見て、私が大好きな彼は死んでしまった。私は貴方を妥協して愛しました。だから私は、酷い女なんです。
……え? ああ、そうですね。妥協です。人生は妥協の連続ですよ。彼と結婚できなかったから、仕方なく貴方と結婚したんです。もし彼がここにやってきて、どこか遠くで暮らそうと言ってくれていたら私は一も二も無く着いていきましたよ。私の幼い頃からの唯一の夢が、彼との生活でしたから。
だから、夢なんて、希望なんて、何一つ叶わない人生でした。結婚相手は貴方だし、孕んだのは貴方の子供だし。
……そんな顔しないでくださいよ、まるで被害者みたいじゃないですか。彼が死ぬとは思っていなかったとか、そこまでのことになるとはとか、そんなの全部、後付けの言い訳以下なんですから。
本当は、彼と同じ毒を飲もうと思ってたんです。でも、流石にそこまでは調べられなくて、後味が悪くないと評判らしいこの毒を選びました。死人が付けたとしか思えないような評価でしたけど、意外と本当だったようで今もまったく苦しくありません。確実に死ねる、が謳い文句だったのも高評価ですね。
きっと私は地獄行きですね。自分だけじゃなく、お腹の子まで殺そうって言うんですから、何の文句も言えません。でも、まあ、酷い女の私にはお似合いの末路ですよ。あーあ……、いいことない人生だったなあ……。