First verse「God,eat me」
First verse「God,eat me」
「……お風呂に入りたい」
カラリとした大気の下に広がる草原の道を走る。側車付き二輪車の側車の中で、わたしは天を仰いだ。
半球に広がる透き通った青空には雲一つなく、ただ真上には数隻の飛行船が悠々と大海原を航海している。地上に目を落として草原には、背の低い広葉樹やスイカズラ科の多年草が点々と自生している。
ほとんど勾配なく広がる平原には、南北に線を引く幅の広い街道が一本あって、それは平らに削った岩をパズルのように組んで作られていた。
時折輸送トラックとすれ違うその街道はこの国中に点在する町と町を結んでいて、かく言うわたし達もこの道の先にある町を目指している最中だった。
わたしは痒みの走る自分の頭をポリポリと掻いた。
艶やかさが自慢の黒髪も、スキンケアを欠かさない白い肌も、今は少し傷んでいて気分が落ち込む。今日中には町に着くはずだから、町に着いたら真っ先にホテルを確保してお風呂に入りたい。
「ねえ、アンナもそう思うでしょ?」
わたしは側車の左側にくっついている運転席に跨って、ハンドルを握っているメイド服の女に声をかけた。
「ええ、もちろんですわ、レイラお嬢様」
彼女はゴーグルの下の碧眼でわたしを一瞥してからそう答えた。
さらさらとした長い白髪を風にたなびかせながらバイクを駆る彼女。わたしよりも年上の彼女はミニスカートとガーターベルトで吊った白いハイソックスの両脚でバイクのタンクを挟んでいて、眠くなってくるほど安定した速度でエンジンを回している。その右腰には、茶色い革のホルスターに入れられた拳銃があった。
「お腹も空いてるけど、年ごろの女の子ならやっぱり団子より花よね~」
「用法が違う気もしますが…。町に着いたら、ご飯の前にホテルを探しましょうか」
アンナは品の良い色のルージュを引いた唇で緩やかに笑う。
そしてそれを消して真面目な顔を作ると、薄茶色の車体に旅荷物を満載したサイドカーの上で、彼女は言葉をつづけた。
「けれど、私たちの目的をお忘れではないですよね?」
何を当たり前のことを。わたしは少しも考えることなく即答する。
「ええもちろん。必ずあの町で見つけましょう。……手がかりを」
アンナは力強く頷いて、アクセルをさらに捻った。
後ろに身体を押し付けられる感覚と、乾いた風が頬を撫でる感触にももう慣れてきた。エンジンの鳴き声は一層高くなり、他に誰もいない街道を制限速度を超えてひた走る。
やがて地平線の下から街道の先に町の陰が姿を現してきた。
側車のカウルに取り付けた軍放出品のラジオに手を伸ばして、ツマミを回して周波数を合わせるとパーソナリティがこの世界のことを話している。
『本日のお昼は皆様どうお過ごしでしょうか。こちらはメリクリア帝国国営放送。司会は私ジョン・ポール・ジョーンズ、通称ジョンジーがお送りします。本日は国内ほぼ全域で晴れの予報。領土が大陸全土に広がる我らが帝国といたしましては珍しい一日となっております』
そう、この国は大陸全土を支配する大帝国。かつては小さく細かく分裂していた都市国家が航空機の発明と輸送路の開拓によってつながった歴史を持つ。それ故に各都市の文化や政治思想は異なっていて、それぞれの都市の事情をすべて把握している人は少ない。
嘶くエンジン音の合間を縫って饒舌なラジオの声が続く。
『それではオープニングはこの曲からまいりましょう。我が国の伝説を題材にした古典演劇「カリフィアの城」の主題歌としても使われました。曲名は「愛の狂詩曲」。お聞きください』
この国の人間なら誰もが知っている音楽を聴きながら、わたし達を乗せたバイクは広大なこの国をひた走る。
あの町はいったいどんな文化を持っているのだろう? わたし達の旅はただの物見遊山ではないとはわかっていても、そんな深い知的好奇心にわたしは今日も囚われていた。
その町に到着したのは昼過ぎのことだった。
その町は歴史の深みを感じさせる煉瓦造りの建物が立ち並んでいた。
古くは外敵や害獣から住民を守るために建てられた、町の中心をぐるりと囲む城壁を越えると、石畳の道が広がっていた。
「さて、まずは寝床かご飯、どちらにしましょうか」
「ホテルを探しましょう。汗が気持ち悪いわ」
「賛成です」
バイクを走らせて適当なホテルを見つけると、アンナは駐車場の一枠にサイドカーを停めてエンジンを切った。
絶えず響いていたエンジンの嘶きは鳴りを潜め、どこからか鳥のさえずりさえ聞こえる静けさの中、アンナは側車の後部に回った。
側車の後部には折りたたまれた車椅子が固定されていて、彼女は荷台に繋ぐ留め具を外してそれを地面に下ろすと、両輪に沿うように取り付けられたハンドリムを掴んでアコーディオンを開くように展開する。かちりと中の機構がはまる音がすると、わたしの『脚』を側車の降り口前に持ってきた。
「さあ、お嬢様。身体を」
「ん」
わたしはアンナの首に両手を回す。アンナはわたしを横抱きにしてふっと息を吐いて担ぎ上げると、慣れた動きでこの身を車椅子に座らせた。
「ここ数日は走り通しでした。おみ足の具合はいかがですか?」
「ちゃんとこまめに姿勢を変えていたから大丈夫よ」
わたしの動かない両脚は意識して血の巡りを良くしておかないとみかんが腐るようにを起こしてしまう。そうならないように、わたしもアンナも常に気を遣っていた。
とはいえわたしたちは女二人の旅の身。脚が動かないなんて理由で甘えていられない。一つのボストンバッグにまとまった、宿泊に必要な二人分の荷物はわたしの膝の上に載せた。
アンナが車椅子を押して、下から数えた方が早いようなグレードのホテルに入ると、はしたなく太ももを露出したデザインのメイド服を着た女と、車椅子の女は随分と目を引いた。けれどルックスには自信のあるわたし達の場合、最初は驚かれこそすれ不快に思われているような視線は感じない。特に、男からは。
受付の男は融和的な笑顔でわたし達を出迎えた。
「ようこそ当ホテルへ。貴女がたは運がいい。あと五分でここの受付を閉めてしまうところでしたから」
「まあ、それは。間に合って安心ですわ。今日もシャワーを浴びれないとなったら、うちのお嬢様のご機嫌が悪くなってしまうところでしたから」
気の良い軽口で応対しているアンナの下で、わたしは少し首を傾げながら、受付の背後の壁に掛けられた時計を確認した。時刻はこれからおやつ時だった。
けれどもわたしはとにかくお風呂に入りたかったので口をつぐんだまま早くチェックインが終わるのを待った。
アンナの補助を受けながら二人で入った久々のお風呂で溜まった汗や垢を落とす。生まれ変わったように清々しい気分になると、わたし達は子供みたいにお風呂ではしゃいでついつい長風呂をしてしまった。
ようやくお風呂から上がり、まだ湿った黒髪をバスタオルで拭きながら、車椅子の上で全裸のわたしは高らかに声を上げる。
「花の次は団子! ご飯食べに行きましょう! さあ早く!」
「その前に服を着てくださいっ!」
わたしはシャツを着て脇の下に拳銃を入れたホルスターを提げる。ジャケットに腕を通し、膝下丈の黒いフレアスカートと脚を守るために丈夫さと履き心地の良さを追求した膝上丈のブーツを履くとアンナと共にロビーへと下りた。
ロビーに出ると、フロントの男がこちらに気が付いて「お食事ですか?」と問うてくる。
アンナが肯定すると、彼はこう忠告した。
「それなら急いだほうがいいですよ。この町の店はどこも日が落ちる前に閉まってしまいますから」
夏至を超えて随分経ち、日没が早くなってきたのを日に日に感じる今日この頃。彼の忠告を受けて足早に町に出ると、どこもシャッターが閉まっていたり、ラストオーダーが過ぎている頃合いだった。
さて、人間と言うのは空腹が続くと不機嫌になるもので、そういうところは人類が工業的に食糧を生産し資源として他の種族の命を扱うようになった現代でも変わらない。
ここ最近の新聞では化学肥料の導入により、さながら革命と言われるほど農産物の生産効率が飛躍したと言われていて、近い将来の人類は飢饉と言う言葉を忘れてぶくぶくと肥え続けるだろうと言われているとしても、ミクロ単位の人類はたかだか五、六時間何も食べなかっただけでアイデンティティたる知性を失って獣になるらしい。
今年は開闢暦三千五十五年。人類が科学という技術を手にしてから三千年あまり経っても、人類の本質は変わらず……、長々と話してしまったが、つまり何が言いたいかと言うと、わたしとアンナは不毛な喧嘩をしていた。
「お嬢様がお風呂入りたいとか言うからご飯食べ損ねたじゃないですか~!」
「アンナだっていつまでもだらだらと長風呂してたじゃない!」
ぎゃいぎゃいと言い合う二人は地図とにらめっこしたり、道行く人に声をかけたりしながら歩き回り、まだ開いている店を探し回っていた。
もはや「この町の名物が食べたい」だの「お酒も飲めるところがいい」だの言っていられない状況だった。
時刻はもう黄昏時。濃く橙に染まった空がわたし達を刻一刻と暗黒の時刻へ誘っている。
「おーなーかーすーいーたー!」
空腹に耐えかねたわたしが車椅子のリムをバシバシと叩くと、アンナは大きな大きなため息を吐いた。
「こうなったら奥の手を使うしかありませんね」
「奥の手?」
アンナを見上げると、彼女は通行人が少なくなった路上できょろきょろと辺りを見まわしている。そうしてやっとこさ見つけた一人の若い男に、彼女は歩み寄っていった。
何をするのだろうと黙って見ていると、彼女は首元のロープタイを解いてボタンを二つほど外し、銀髪を手でかき上げて片耳を露わにしながらその男に近づいていった。
「もし、そこの殿方」
うわ、アンナのよそ行きの声久しぶりに聴いたわ。
彼女はスタイルの良い身体を品を損なわない程度にくねらせて、上目がちな視線を男に投げる。すると女慣れしていなさそうな彼はかなりたじろぎながら上ずったような声で返事をした。
「へ、え、ぼく…ですか?」
「ええ、もちろん。……出会い頭に恐縮なのですが、私たち今、お腹を空かせておりまして…、この時間でも開いているお食事処をご存知ありませんか?」
すると彼は困ったように眉根を寄せた。
「そんなこと言われても…参ったな…。この町でこんな時間に開いている店なんて…」
「そこをなんとか!」
アンナは彼の手を両手で包むように掴んで食い下がる。彼は顔を赤くしながらアンナから目をそらし、情けないにやけ顔を浮かべていた。
「わかりました! 一緒に探しましょう」
「ありがとうございます!」
アンナは着けている香水の香りを振りまくように頭を下げてその男への距離を詰めた。
「……」
アンナが男から見えない位置でこちらに向けてサムズアップしているのを、わたしは白い目で見ていた。
若い男の先導でアンナと共に黄昏の中に消えるわたしは、ふと頭上を見上げて、この町には街灯が一つも立っていないことに気が付いた。
若い男の必死の捜索の結果、わたし達は繁華街のビルの一階に構えるレストランを見つけた。男に礼を告げて別れると、戸鈴を鳴らしてその中に入る。店内は燭台の蝋燭が灯す柔らかい明りに照らされていた。
ベントウッドチェアとベントウッドテーブルが並ぶ店内にはいくつかのグループ客がすでに食事をしている。しかし彼らの食事風景に花はなく、沈んだ空気の中、押し込むように料理を口に運んでいる人ばかりだった。
高浮き彫りが施されたカウンターテーブルの向こうにいる店主に会釈をして、指された空席に着いたわたし達は、注文を聞きに来たウェイトレスに水と一番早くできあがる料理を注文した。一番早くできあがる料理は本当に早く出てきて、ものの数分で出されたサンドイッチの盛り合わせを、わたし達は味を楽しむ間もなく平らげた。
腹の虫が収まって車椅子の背もたれに身を預けて、わたしは店内に流れる音楽に耳を傾け、それを流しているレコードプレイヤーを一瞥した。
その音楽は、この国で平均的な生活をしている人間なら誰もが訊いたことのあるだろう歌姫の曲。
オーケストラの奏でる音楽に合わせて流れる歌声に聞き入って、わたしは感嘆の声を漏らした。
「はぁ…、やっぱりアリサの歌声を聞くと元気が出てくるわ」
この国の多くの若者がそうであるように、わたしもまたアリサのファンだった。いつかこの目で彼女の公演を見られたら。それがわたしのささやかな夢の一つ。
しばらくアリサの音楽に身を預けていると、テーブルの対岸でアンナがもの欲しそうな顔でカウンターの奥を覗いているのがわかった。
「ねえお嬢様…? ここ最近ずっと野宿でしたし、今日くらいはお酒飲んでも…」
「お金ないからダメ~」
「お嬢様のけち!」
声を上げて抗議するアンナ。
「アンナ」
わたしはトーンを落とした声で彼女の名を呼んだ。
「アンナ。わたし達の旅の目的は酒場巡りじゃないのよ?」
その言葉に彼女は真面目な顔で応える。
「ええ、お嬢様。もちろんわかってますわ。……私たちの旅の目的は…」
「おや、そこにいるのはもしかして…、アンナ?」
アンナの言葉を遮って、横合いから知らない男の声が聞こえた。と。同時にアンナの顔が青ざめるのが見えた。
声のした方へ目を向けると、三人組がこちらへ近づいてくるところだった。アンナもそちらを振り返って、嫌そうな声を出す。
「…ユーリイ」
アンナはその三人組のうちの一人の男を知っているようだったが、わたしは知らなかった。
人混みの中でもすぐ見つけられそうな高身長に、夏の日差しを浴びたレモンのような金髪、そしてブルーサファイアの如く透き通った碧眼。白が基調の軍礼服と外套に隠された肉体は細身ながらもがっしりと引き締まっていて、その腰には一振りの年代物のサーベルが提げられている。
ユーリイと呼ばれた男は、その左右に二人の女を侍らせていた。
一人は焦げ茶色のショートヘアに赤い目をした小柄な少女。見たところわたしよりも年下に見える彼女は、独特な文様が刻まれた弓を片手に、背中には矢筒を背負っている。彼女は飼い犬のようにユーリイのそばを占有していた。
もう一人の、人の背丈ほどの杖を手に持っている女は緑色を帯びた長髪を後ろで一つに縛っている。大人びた雰囲気をまとっているが、その実年齢はアンナよりも下、わたしよりも上のように見える。少なくとも飲酒はまだできなさそう。
ユーリイはアンナの姿を見るやいなや、飼い主と再会した迷子犬のように顔をほころばせた。
「やっぱりアンナじゃないか! 久しぶりだね。君が急に軍を辞めた時は驚いたよ!」
「ええ、お久しぶりです、ユーリイ。旧友からあなたのお噂はかねがね。……随分とあちこちでご活躍になっているようで」
アンナはいかにも会いたくなかったオーラを出しているが、当のユーリイはそれに気が付いていないのかぐいぐいとアンナへの距離を詰めて、彼女の服装に目を向ける。
「今の仕事は…、メイドかい?」
「ええまあ…、そちらにいらっしゃるオールダーク家のご令嬢、レイラ・オールダークお嬢様の側仕えをしています」
「それはそれは…」
ユーリイが何かを言う前に、わたしはアンナへ声をかけた。
「アンナ。そちらの方は?」
よそ行きの声で投げかけると、彼女もそれに応じて身を正し、手のひらでユーリイを指しながら答える。
「ご紹介が遅れてしまい申し訳ございません、お嬢様。こちらはユーリイ・スターマン。私が従軍看護婦をしていた頃の知り合いです」
「そう言えばあなた前に中央軍にいたとか言っていたわね」
わたしは車椅子を操作してユーリイに近づく。ユーリイはわたしの車椅子を見て一瞬驚いたような目をして、それをすぐに微笑みの裏に隠した。
「初めまして、レイラ様。ぼくは中央軍のユーリイ・スターマン。こっちの小さい女の子はラフで、背の高い方がメロウ。ぼくと共に旅をしてくれているんだ。二人ともども、よろしくね」
「……」
え、待って待って? この人、初対面でタメ口…?
まあ、曲がりなりにも貴族の娘っていう出自を鼻にかけるつもりはないけど、最低限の礼儀くらいは弁えてくれてもよくない? わたしがまだ十代でついでに車椅子だからナメられてるのかしら。
とはいえ、この程度のことでへそ曲げるわたしじゃない。わたしは愛想のいいご令嬢スマイルを顔に貼り付けて握手をしようと右手を差し出した。
「初めまして、スターマンさん。以前はわたしのメイドがお世話になっていたようで」
「いやいやそんな。気にしてないよ」
と、若干ズレてる気もすることを言いながら右手を差し出してくるユーリイ。互いの右手が重なるまであと五センチといったところで、頬杖を突いたアンナが胡乱な目をして口を開いた。
「お嬢様。その人……魔法使いですよ」
そう言われた瞬間わたしの右手が引っ込んだ。
「……?」
「……」
凍る空気。怪訝な顔を浮かべるユーリイの顔に、沸々とわたしの心の中に嫌悪感が湧いてくる。それはまるで、まともに清掃されておらず、汚れが溜まりに溜まった下水の中を覗き込んでいるような感覚だった。
「あ…あの、レイラ…様…?」
困惑した顔で距離を詰めてくるユーリイ。わたしはハンドリムを後ろに回して目の前の魔法使いから距離を空けた。
魔法使い。開闢前暦に潰えた魔法という技術に基づいて作動する魔導具を手にしてそれを使いこなす連中。現代にまで残っている魔導具は限られている上に、選ばれた才能を持った人間しか魔導具を使うことが出来ない。選民思想の塊のような存在だ。
わたしは憎しみの限りを込めてこいつを睨みあげた。
「近づかないで、薄汚い魔法使いめ。あなた達を見ていると吐き気が襲うわ、気色悪い。今すぐわたしの前から消えて」
私怨のままに言い放つと、ユーリイの余裕ぶった顔が引きつるのがわかった。同時に、彼の背後に控えている女二人…ラフとメロウと言ったか、この二人の表情も険しくなるのがわかる。はは~ん、どうやらユーリイだけでなく、この女二人も魔法使いらしい。となると、ユーリイの腰のサーベル、ラフの弓矢、メロウの杖がそれぞれの魔導具といったところか、魔導具は魔法使い一人につき一つしか扱えないらしいし、魔導具とはえてしてオーパーツだから、それなら合点がいく。
「えっと…」
「ぬぁんですってぇ?」
ユーリイが反応に窮しているとずっと後ろにいたラフがユーリイの前に出てきた。眉間にシワを寄せたその童顔でわたしを見下ろしてくる。
「障害者だからって無礼が許されると思っているの? ユーリイ様を侮辱するっていうならその不自由な脚を消し飛ばしてやってもいいのよ」
言いながら背中の矢に手を伸ばすラフ。そんな彼女の右手をメロウが掴んで静止させた。
「ラフちゃんやめなさい。むやみやたらに魔法を振りかざしてはいけないわ」
魔法使いと意見を同じくするのを癪に思いながら、わたしは怯まずラフをせせら笑う。
「お仲間の言う通りよ、魔法使い。馬鹿の一つ覚えみたいに何でもかんでも魔法で解決しようとするべきじゃないわ。魔法使いはそんな安直な思考しかできない間抜けだから、……自分の頭を背後からアンナの銃が狙っていることにも気が付かないの」
「っ!」
言われてやっとラフはハッとした顔で後ろを振り返る。そしてアンナが腰の銃を抜いて安全装置を外し、腕を上げればいつでもラフの頭を撃ち抜けるように銃を持った手をだらりと下げているのを認識した。
アンナは静かに鋭い眼光で事の成り行きを見守っていたのだ。
「今のはお嬢様の発言に問題があるでしょう。けれど私はお嬢様のメイド。どちらに非があろうとも、お嬢様に降りかかる脅威は問答無用で排除いたしますわ」
さっきは凍った空気が、今度はジリジリと短くなっていく導火線のように静かに燃えていた。
「アンナ…」
わたしのメイドの昔馴染みだというユーリイが戸惑ったように彼女の名を呼んだ。
しかしアンナは、突き放すような冷たい口調で言い放つ。
「ユーリイ。確かにわたしとあなたは昔色々ありました。…けれど、それとこれとは話が別。…あなたと慣れ合うつもりはありません」
「……」
「ユーリイ様、この二人燃やしてもいいですか?」
閉口するユーリイの横でラフは顔を真っ赤にして怒りを露わにする。
「燃やしますね」
「ラフちゃん待って!」
そして止めようとするメロウの手を振り解いて背中の矢筒から一本の矢を抜いた。それと同時にアンナの銃を持った手が上がり、互いの武器が互いを狙う。
「このようなところにいらっしゃったのですね! 旅のお方がた!」
その直前、よく通る女の声が二人の動きを止め、張り詰めた空気を動かした。
一同が声のした方を振り向くと、店の入り口から豪奢な祭服を着た若い女がこちらに歩み寄って来るのが見えた。
ブロンドの髪と鳶色の目を持ったその女は真っ直ぐこちらにやってくると、明りを偲ぶフクロウのように静かで、それでいながらよく通る声で言う。
店内にいたほかの人間たちが彼女を一瞥して顔を険しくしていくのに気づいたのは、おそらくわたしだけだった。
「州兵の方から中央軍の魔法使いの方がこの町にやってきていると聞いて、慌てて探しに出た甲斐がございましたわ。早速で申し訳ございませんが、どうかその魔法でわたくしにお力添えいただきたいことがあるのです」
ユーリイは内心助かったと言わんばかりに彼女に向き直り、場の空気を無理矢理変えようと努めたような明るく大きい声色で声を放つ。
「このぼくに魔法で? ……失礼ですが、あなたは?」
ユーリイの行動にアンナもラフもふっと息を吐いて戦意を解き、それぞれの武器を収めた。
ユーリイに問われたその女は自己紹介もしていないことに気が付いて、その身なりらしく両手を胸の前で組んで淑やかに述べる。
「わたくしはアンジェリカ。この町で神の名の下に人々を導き治めている者です。魔法使い様…いいえ、この町を救ってくださる勇者様。どうかわたくしをお助けください」
アンジェリカは意図してかせずか重ねた両手の向こう側の大きな胸を強調するようにくんっと背筋を反らせてユーリイを見上げた。彼女の左手の薬指には、銀に輝く指輪が嵌められている。
ユーリイはそんな彼女を真っ直ぐ見て、柔和な笑みを浮かべる。
「このユーリイ・スターマン。そこに困っている人がいるのであればどんなことでも手を貸しましょう。さあ、アンジェリカさん。あなたの困っていることをお聞かせください」
「ちょっと、ユーリイくん」
二つ返事で引き受けようとした男を、メロウの声が止めた。
「困っている人を助けることも大事だけど、私たちの旅の目的を忘れないでちょうだい」
ユーリイは彼女を向いて、優しい声色を作る。
「わかっているよメロウ。しかしだ、聞いていたかい? 彼女の職業を。よく見てくれ、彼女の服装を。彼女を助けることは、僕らの旅の目的を達成するための大きな一歩になるに違いない」
唄うように語るユーリイ。わたしは彼の言葉が気になって、その会話に割り込んだ。
「ユーリイ。あなた達の旅の目的ってなに?」
下劣な魔法使いにはもはや敬意を込めてファミリーネームを敬称付きで呼ぶ必要もない。わたしが名前を呼び捨てにすると、それを親しみの証とでも受け取ったのか、妙に距離感を詰めてきて彼は答える。
「ああ、本当はあまり口外してはいけないんだけど、仲間であるアンナとその主人である君になら特別に教えてあげるよ、レイラちゃん」
あ? レイラちゃん…?
わたしは周囲に気取られない程度に深呼吸をした。いちいちこの男の無礼さに反応していては話が進まないからだ。
そしてその男は答える。
「僕らはね、ガンダーラの魔導書を探しているんだ」
「……」
「……」
彼の言葉に、わたしとアンナは沈黙のままで目配せをした。
それからわたしは頭の中の知識の書庫を開きながら、男の目を真っ直ぐ見据える。
「ガンダーラの魔導書…。我が国に伝わる、カリフィアの伝説に登場する魔導書のことね…。現存している魔法は太古の遺跡や地層から出土した魔導具を使ったものしか残っていないけど、魔法全盛の時代には魔法使い自身の能力だけで行使できる魔法もたくさんあったらしい…。ガンダーラの魔導書はそんな魔法全盛の時代の魔法をすべて網羅した唯一の魔導書。そんなものを探し出して何をするの?」
「これは皇女殿下から直々に下された任務なんだ。そして皇女殿下とその先の皇帝陛下は手に入れた魔導書でこの戦争ばかりの世界に平和をもたらすそうだ」
「……」
彼の答えに、わたしの目は細くなった。わたしは感情を殺してただ静かに会話を続ける。
「けれど、ガンダーラの魔導書は所詮伝説でしかないわ。よしんば実在するものだったとしても、現存しているかしら」
「それが最新の考古学研究で、実在した可能性が高いということが証明されたのさ。そしてそれが現存しているかを、この旅で確かめるんだ」
かつての人類がその可能性を探求し、そして廃れた技術、魔法。その魔法のすべてが手に入ったら、その人間に、そしてこの世界に何をもたらすのだろう。わたしがそんなことを考えていると、横からアンジェリカの声が聞こえた。
「あら、ユーリイ様がガンダーラの魔導書を探しているというのでしたら、私の教会にその手がかりになりそうなものがございますわ」
「えっ?」
唐突な彼女の言葉にユーリイ一行は声を揃えて素っ頓狂な声を発した。
「それは本当ですか?」
ユーリイの問いかけに彼女は頷く。
「ええ、もちろん。なにせ、私の教会にはかつてこの地を訪れた旅人が遺したそれが眠っているんですもの。カリフィアの伝説の元になった物語が」
「ビンゴだ!」
ユーリイは嬉しそうに声を上げ、連れの二人へ目をやった。
「ほら言っただろう、この人助けはこの旅の大きな一歩になるに違いないって」
彼の言葉にラフとメロウは嬉しさ半分呆れ半分の表情を彼に返す。
「アンジェリカさん。その手がかりを、どうかぼくらに見せてくれませんか?」
「ええ、他でもない中央の魔法使い様の頼みとあれば、お安い御用です。…ただしその前に、私の依頼を引き受けてくださるのであれば、ですけれど」
「そのようなこと、こちらこそお安い御用です。国一番の魔法使いと言われるこの僕が、あなたの依頼を果たして見せましょう!」
彼らのやりとりを眺めながら、わたしは窓の外に目をやった。
外はもう日が沈んでいて、夜の帳に包まれている。時計を見ると、あと数分かそこらでこの店も閉まってしまうらしい。けれども店内には、まだ他の客が残っていた。
「それで、その依頼というのは?」
太陽が地平線の下に隠れて、星と月の光だけが世界に輝く。
そう、この町には街灯も、車のヘッドライトも、家々からこぼれる明りさえ一つも灯っていない。
だけどそんな時、空に一つの動く光があった。
相手の表情をうかがい知ることさえ難しい、薄暗い店内で、アンジェリカは近くの窓を開けてその光を指した。
「私の依頼はただ一つ。あの夜空に輝く神を守ってほしいのです」
眩いその光に目を細めながら見上げると、その光の正体が自ら輝く大きな鳥だとわかった。
そして神の光を背に浴びながら、アンジェリカは口を裂くような笑みでこう付け加える。
「人間から」
彼女の言葉に、わたしは目を細めた。
「それ、どういう意味?」
わたしの問いに、彼女はその表情に悲嘆を浮かべて答える。
「この町では、神の持つ光を称えて夜には明かりを灯さないように生活してきました。しかし最近、この生活に異を唱える者が現れ始めているのです。さらに彼らはあろうことか、神を討とうとさえ考えているとか。そのような不届きな者たちから、神を守っていただきたいのです」
わたしは噴き出した。
「神? ばかばかしい。神々しいのは認めるけどあれはただの鳥よ。生態が珍しいからと保護することこそすれ、神だなんだと持て囃すなんてちゃんちゃらおかしいわ」
手をひらひらと振ってみせてせせら笑うと、アンジェリカはひそめた眉を隠すこともせずわたしに敵意を向けた。
視界の端で、カウンターの奥の店主がこちらを一瞥するのが見えた。
アンジェリカはユーリイへ視線を戻す。
「失礼。この方もユーリイ様のお仲間ですか?」
「いいえ、違うわ」
ユーリイではなくわたしが言い放ったら、アンジェリカは安心と呆れを混ぜたため息を零した。
「そうですか。……もとより魔法使いでもない子供には依頼しておりません。少し黙っていていただけませんか?」
「どいつもこいつも魔法魔法って…っ」
奥歯を軋ませて言い返そうとすると、「お嬢様」と呼ぶアンナの声がそれを遮った。彼女を向くと、宥める目でわたしを見ている。わたしはふっと息を吐いて、目を伏せた。
閉口したわたしを余所にアンジェリカはユーリイを向く。
「さあ魔法使い様、私の教会にいらしてください。この町一番のおもてなしをいたします」
「ああ、よろしく頼むよ」
その返答に歓迎の笑みを浮かべたアンジェリカは一行を誘ってレストランを退室する。
出口の扉を閉める直前、ユーリイはわたし達へ言葉を投げた。
「二人とも、もし困ったことがあったらすぐ僕に連絡を寄こしてくれ。最強の魔法使いと呼ばれているこの僕が必ず手を貸そう」
わたしはその優しい言葉に、舌打ちで返した。
戸鈴が鳴って、扉が閉まった。
「もう! お嬢様のばかっ!」
戸が閉まるやいなや、アンナがため息交じりにわたしを叱責する。
わたしは口を尖らせて、ぷいとそっぽを向いた。
「最初にあいつらを魔法使いだって教えたのは、アンナじゃない」
わたしは自分の動かない脚をさすりながら、吐き捨てる。
「魔法は、悪よ」
けれどもアンナは、静かに冷たく言う。
「それでも、私たちの旅の目的は、魔法がなくては達成できません」
「……」
その感覚も無いはずなのに、わたしの動かない脚が石のように重く感じた。
わたしの脚は、一切動かない。
腰の辺りの脊椎を激しく損傷して、その中の神経が切れたのだ。
移動には車椅子が手放せないし、褥瘡から守るためのケアが欠かせない。
従軍看護婦として医学の心得があるアンナは、かつてわたしに言った、「お嬢様の脚は、現代の医学では再び歩けるように治すことは出来ない」と。
だから…、
でも…、
「……」
「目的のために、感情を隠すことも時として必要ですよ」
わたしがアンナの忠告を聞き流して過去の海に溺れそうになっていると、横合いから声がかかった。
「いや、お嬢さんの啖呵は素晴らしかったよ」
ドン、と音を鳴らしてテーブルの上にパスタの大皿が置かれた。
山盛りのミートソースパスタに目を輝かせていると、向かいのアンナがそれを持ってきた店主を見上げて当惑した顔を浮かべていた。
「失礼、頼んでいないのですが…」
「これは俺からの称賛の気持ちだ。お題は要らねえから、喰ってくれ」
「わーいっ」
店主が言うやいなや、わたしは目の前のご馳走をフォークでくるくると巻き始めていた。
赤ワインの風味に色付けされた、ひき肉の食感とトマトの酸味を堪能していると、アンナと店主の会話が聞こえてくる。
「称賛?」
「そうだ、称賛だ。さっきそのお嬢さんはアンジェリカに向かって『神は鳥だ』とはっきり言ってくれただろう? あれは聞いていて気持ちが良かった。笑いをこらえるのに必死だったさ」
店主の言葉に合わせて、店に残っていた他の客からも称賛の言葉が次々に聞こえてくる。誰かに褒められたくてやったことじゃないだけに、困惑と照れくささが混じった気持ちに襲われた。
まあ、パスタを食べる手は止めないけど。
アンナが彼らに問う。
「あなた方は、この町の宗教を良く思っていないのですか?」
「ああ、もちろんだ。それに、この町の宗教なんて言ってくれるなよ。確かにこの町は伝統的にあの光る鳥…ライデンチョウを神格化してきたが、アンジェリカの教えは違う。あれはただの弾圧さ」
彼の言葉に背後で同意する客たち。彼らの中には女もいたが、偏って男の方が多くいた。
彼らの口ぶりからして、アンナは察したような顔をする。
「もしかして、あなた方は神を討とうとしているのですか…?」
「ああ、そうだ」
店主は隠すこともなく同意した。
それから店主は客の方を向いて声を投げる。
「もう店じまいだ。誰か、表の戸締りをしてくれないか」
それに不満の声が上がることもなく、客の中の誰ぞが入り口の掛看板をクローズとして戸の鍵を閉める。それから、部屋の窓に掛けられた厚手のカーテンを全て閉めた。
そして燭台に火が灯される。
「……」
警戒心を見せたアンナは腰の銃に触れた。だがそれを、店主の声が止める。
「おっと、待ってくれ。俺たちはあんた達に危害を加えるつもりはない」
店主は両手に何も持っていないことを示しながら、そばの椅子に腰かける。その様子にアンナも警戒を少し解いた。
「今店内にいる人間全員が、あなたと志を同じくする者たちですか?」
「そうだ。この店は、俺たちリベレイターの集会所でもあるのさ」
その言葉にアンナは少し思案してから、重ねて問う。
「この店に来る時、私たちは一人の青年の案内を受けました。彼もあなた方のお仲間だったのでしょうか」
「いや、それは違うだろう。俺たちはあんた達をここに寄こすような指示を出していないからな。その青年はただの民間人で、彼がここを選んだのも偶然。……だが、その偶然が起きやすいように仕向けてはいる」
「つまり?」
「なに、簡単なことさ。店の開店時間を他の店よりも少し遅くしているだけ。そうすれば、君たちや、さっきの中央軍の連中のように、余所から来た旅人たちが飯を求めてここに来やすくなるだろう?」
蝋燭の淡い明かりだけが照らす薄暗い空間の中にアンナと店主の会話が続く。
「それで、そうして旅人を引き寄せて、私たちに何を求めているのですか?」
「……」
店主はそこで一度沈黙し、目を閉じて、開いてから言った。
「俺たちは明日、教会を襲撃する」
「……」
そこでアンナは息を呑み、わたしは食べる手を止めない。
店主は言葉を続けた。
「もう光に怯えて過ごす夜はうんざりだ。ここにいる奴は全員そう思っている。余所の州では毎夜明かりが灯り、酒場で飲み明かしたり、ダンスホールでダンスを楽しんでいるそうじゃないか。そんなことも許されないのでは、この町はみるみるうちに時代の流れに取り残されるだけだ。君たちも内心、この町のことを滑稽に思っているんじゃないか?」
「……いえ、そんなことは…」
取り繕うようなアンナの気遣いに、店主は首を横に振った。
「いや、そう思ってくれた方がいいんだ。そして余所の州や、機会があれば中央の人々に喧伝してほしい、この州の滑稽さを。住民からでは、厳しい情報統制と言論弾圧のせいで声を届けることが出来ないから」
その願いにアンナは少し目を落として、申し訳なさそうに返す。
「…中央は各州の内政には原則不干渉を貫いています。それは、この国の憲法が各州の伝統、歴史、思想、そして自由を尊重しているからです。中央には確かに強力な軍隊がありますが、その役割は基本的に他国との戦争のみ。……なので、本当に自分たちの自由が欲しいのなら…」
「自分たちで戦って、掴み取るしかない。そう言いたいんだろ?」
アンナの言葉を先んじて言った店主に、アンナは首肯した。
「そんなことはわかっているさ。だから明日、俺たちは教会を襲撃するんだ。それでも君たちには伝えてほしいんだ。正義は俺たちにあるんだって」
彼の言葉にアンナは「…承知いたしました」と短く答えた。
わたしはぱんっ、と手を合わせて完食した料理とその食材たちに感謝を伝えると、店主の方を向いた。
「いくつか気になることがあるわ」
わたしの言葉に店主は首肯する。
「ああ、なんでも聞いてくれ」
「まず、教会を襲撃したところでライデンチョウはそこにいないのでは? あれは高山の頂上付近に巣を作る生き物だったはずよ」
「…不思議なことに、過去のアンジェリカと対立していた司祭や記者たちが、その態度を表すと決まってライデンチョウが彼らを襲っていた。いったいどういうカラクリがあるのか、それともアンジェリカは本当に神の加護を受けているのか、そこんところはわからないが、ともかく教会を襲撃すればあのライデンチョウはやってくるだろう。俺たちはそこであの鳥を殺すつもりだ」
その回答にわたしとアンナは目配せをした。…これは一石二鳥になるかもしれないと。
それからわたしはもう一度店主を向く。
「もう一つ。……そもそもなぜライデンチョウを殺すの? 圧政を止めたいというのなら、はじめからアンジェリカを吊るし上げた方がいいのでは?」
その質問に、店主は少し目を伏せた。
「…俺たちはアンジェリカを殺さない」
「なぜ?」
「彼女もまた…、被害者だからさ」
「……」
わたしとアンナが押し黙ると、店主は訥々と語りだした。
「幼い頃のアンジェリカは、修道士の家に生まれたごく普通の女の子だった。彼女は確かに宗教的な教育を受けていたが、決して過激な洗脳や刷り込みではなかった。彼女が変わってしまい、今のように神の名の下に俺たちを支配するようになったのは、ある事件がきっかけなんだ」
店主は一呼吸置いてから続ける。
「ライデンチョウが彼女の両親を食ったのさ」
「はぁ…?」
わたしとアンナは揃って小首をかしげた。
「解せないわね。あのアンジェリカとかいうシスターは、自分の親を殺した鳥を崇拝しているの?」
「まったく同意だ。彼女にとってライデンチョウは親の仇のはず。この話を聞いた時、誰もが彼女はライデンチョウへの復讐を胸に抱くだろうと考えていた。けれども彼女はライデンチョウを恨むどころか、のめり込むように心酔していったのさ。その真意は、誰にもわからない」
「……へぇ」
わたしは双眸を細くして水を一口飲んだ。アンジェリカに対して冷めた心を冷たい水が覆う。
店主は拳を握ってわずかに語気を強める。
「イカれていると思うだろう? あるいは、心の壊れた哀れな人だと思うだろう? だからこそ俺たちは彼女の目の前でライデンチョウを殺して、あれが神ではないことを証明することで、彼女を目覚めさせ、彼女の圧政を止めるんだ。そうしてはじめて、俺たちの革命は正しいものだと掲げることができる」
前を真っすぐ見て言う彼に対して、わたしは少し前の過去を思い返しながらもう一度問う。
「…アンジェリカは中央のそれはそれはお強そうな魔法使いを雇ったみたいよ。それでも明日実行するの?」
彼は即答した。
「ああ、準備は整った。アンジェリカに気取られる前に実行しなくちゃいけない。…魔法使いがいてもだ」
彼の言葉を聞いて、わたしは目を閉じた。
「……」
それから少しの時間考えて、動かない自分の脚を撫でながら、目を開く。
暗がりの世界で、わたしは静かに言った。
「あなたたちの革命…、わたしたちも参加するわ」
○ ●
この町一番の教会は、この町一番の建物でもあった。
尖塔の高さにして約百五十メートル。煌びやかな装飾に隙間なく彩られたその建物の放つ威光は、自身に積み上げられた歴史の長さ、重さをまざまざと見せつけている。
教会の前には学校の運動場ほどの広場があって、普段は塔の中央辺りに配置されたバルコニーに立った指導者の声を民衆が集まり聴くためにあるらしい。
その広場には今、革命団が集っていて、彼らは指導者の声を聴くためではなく、指導者へ声を上げるためにそこにいた。
総勢約五十人。手に手に拡声器とライフルを持った彼らに、教会の警備に当たっている州兵たちは手を焼いているようだった。
「なかなか壮観ですねぇ、お嬢様」
「ええ、政治革命の現場に立ち会えるのなんてなかなか無い経験だわ」
車椅子に座ったわたしと、隣に立つアンナは、集団の後方、少し離れたところでそれを呑気に眺めていた。アンナの背中には、ストラップで吊られたボルトアクションライフルがある。
時刻は昨日店主の話を聞いてから約二十四時間後。つまり空が夜に差し掛かった頃合いで、彼らがこの時間を選んだのはこの光のない夜からの決別を意味していた。
革命団たちはまだ光を掲げない。それは革命が成功した暁にやることだと言っていた。
彼らは口々にアンジェリカを出せと叫んでいる。
「彼らの革命が成功して、私たちの目的が達成できると良いですね、お嬢様」
アンナは言った。
「きっと成功するわ。だって、あの州兵たちの様子を見てみなさいよ」
わたしが指さした先の州兵は、うわべこそ彼らを静止するそぶりを見せこそすれ、その動きには戸惑いや悩みが見え隠れしている。
「結局あの州兵たちも、アンジェリカとライデンチョウへの恐怖心から従っているにすぎないのよ。そして、恐怖心を用いた統治は、必ず誰かが蜂起する。…そのことは、わたし達が良知っているでしょう?」
「…ええ」
アンナは目をつぶって静かに応えた。
わたしは彼女への言葉にもう一つ付け加える。
「一番厄介なのは、自分たちこそ正義だと確信している人間よ」
バルコニーに四つの人影が見えた。ユーリイ一行と、アンジェリカだ。
どよめく革命団。彼らを王族のように見下ろすユーリイの様子に、アンナが軽蔑した笑いを浮かべる。
「随分とまあ…、乗せられちゃって」
「ねえアンナ…、あれが本当にこの国一番の魔法使いなの…?」
呆れた様子でわたしは訊いた。
「まあ…、魔法の能力はピカイチでも、知能の方はアレですからね…。けど、戦闘能力だけは本物ですよ。私がいたころの軍も彼に随分と助けられましたから。…だって、少し煽てれば勇猛果敢に敵軍を殲滅してくれるんですもの」
「…ふぅん」
アンナがそこまで言うとは…。わたしはユーリイと、その腰のサーベルを見定めるように見た。
遠くの彼は一歩こちらへ歩み寄ると、右手を掲げてバルコニーの上から声を上げる。
「帝国臣民の諸君! 私は中央軍のユーリイ・スターマンという! 訳あってこちらの町に滞在し、こちらにいらっしゃるシスター・アンジェリカの依頼を受けここで演説をさせてもらっている。どうかみな、銃を下ろしてはくれないだろうか。そして聞かせてほしい! 君たちの主張を!」
その言葉を受けて、革命団たちは口々に自分たちの主張を声に出す。
主張はただ一つ、この町の夜に光を灯せ、神のせいでそれが出来ないというのなら、その神を殺せ。
彼らの主張は少々乱暴であるが、正しさと切実さがこもっていた。
「それは違う!」
だがそんな彼らの主張を、ユーリイは一考する一瞬すら見せずに否定する。
「シスター・アンジェリカから君たちの話は聞いている。君たちは昼間にまともに働かず、科せられた税も足らず、あろうことか夜に光を灯し、夜通し遊び惚けていたいと考えていると! 勤労と納税は臣民の義務である! 自分たちの望みを叶えたいのであれば、真面目一徹に務めを果たし、シスター・アンジェリカにその働きを認められるよう、努力すべきである!」
ユーリイの発言後、静寂が流れた。
無論、革命団たちが彼の言葉に感銘を受けているのではない。
唖然、呆然。そんな単語が似合う空気の中で、わたしはアンナにだけ聞こえる声で小さく言った。
「わたし、あのユーリイって男、嫌いだわ」
「奇遇ですね。私は昔から嫌いですよ」
止まった空気の中で、それを動かす音があった。
「…ッ! ふざけるな!」
アンナから一番近いところにいる若い男の革命団員。彼は叫ぶままにボルトアクションライフルの装弾を行い、それを構えた。
だがそのライフルはすぐに破壊される。瞬時に現れた白い剣が銃口に突き刺さっていたのだ。見上げると、腰のサーベルを抜いているユーリイが見えた。
ひっ。と引きつった短い悲鳴を上げる男に、ユーリイが言う。
「自分たちの意見を押し通せないからと暴力に訴えるのは感心しないな」
「……」
わたしはライフルに刺さった白い剣を観察した。
それは単に白い色をしているのではなく、剣自体が白く発光している。電球でも埋め込んでいない限りは剣が発光するなどあり得ない。つまりあれは、科学の外にあるものの産物というわけで…。
「ヴァイスコーピオ」
アンナが言った。
「ユーリイが手にしているあのサーベルの名前です。あれを一たび振れば無数の光の剣が、正確無比、電光石火で飛来する。また、生み出した光の剣を指揮者のように操ることが出来、彼はあの魔道具で時として友軍を光の剣の防壁で砲弾から護り、時として光の剣の雨で敵軍を壊滅させてきました」
「…なるほどそれは強いわけだわ」
人間一人の機動力を備えたトーチカ、迫撃砲。魔法という代物は、それをいとも簡単に実現し、人類の叡智と技術の力比べたる戦場を跋扈し、蹂躙する。個人が独占するには大きすぎる武力が、今この地でも振るわれようとしていた。
バルコニーの上で、アンジェリカがユーリイに身を寄せ、口づけしそうな距離感で告げる。彼女の腰には金宝樹のワンドが提げられていた。
「ユーリイ様。彼らが銃など持っていては私、恐ろしくて恐ろしくてとても議論なんてできそうにありませんわ」
芝居がかった彼女の言葉に、ユーリイは深くうなずく。
「ええ、それは僕も思っていたところですよアンジェリカさん。武力を背景にした議論ほど不公平なものはない」
そう言ってユーリイは魔導具のサーベルを掲げる。身構えているのか、足が竦んでいるのか、革命団の人々は凍り付いたようにその場から動かない。
あれがもう一度振られれば、革命団の交渉権は失われるだろう。
「アンナ」
だからわたしはメイドの名を呼んだ。わたしのメイドは何も聞かずに首肯して、一歩二歩と前に歩み出た。そしてバルコニーの上まで届く大きさで声を投げる。
「剣を下ろしなさい、ユーリイ!」
鶴のような彼女の声が広場に響き、ユーリイの動きを止めた。
「アンナ!」
飼い主を見つけた子犬のような声色でアンナを呼ぶユーリイ。
彼は光の剣で足場を作りつつ、段々に飛び降りてきた。
道を開けるように退く革命団に目もくれずアンナに相対する彼は、相変わらずアンナに友好的な笑みを浮かべた。
「昨日ぶりだね。どうしてこんなところに?」
「私がここにいる理由なんてどうでもいいでしょう。それよりも、アンジェリカに与して民衆に剣を向けるのを止めなさい」
アンナの言葉に、ユーリイは困ったように眉根を寄せる。
「それはこっちの台詞だよアンナ。どうして彼らの味方をしているんだい?」
ユーリイの背後からラフとメロウが走り寄ってくるのが見えた。
ユーリイはアンナの答えを待たず、重ねて問う。
「聞かせてくれ。その行動は君たちの意思によるものなのか? 君たちは一体どうして、旅をしているんだ?」
「…それは……」
言い淀むアンナ。わたしは後ろから言葉を挟む。
「乙女の秘密よ。詮索しないで」
わたしは車椅子を漕いでアンナとユーリイの間に割って入った。
そして見上げる形でユーリイを睨む。
「あなたとアンナは昔馴染みのようだけど、今のアンナはわたしのメイドよ。気安く近づかないで」
「それは、アンナの自由意思によるものかい?」
「……、そのはずよ」
わたしは少しの逡巡の後に答えた。それにユーリイが何かを返すより早く、後ろからラフが出てきた。
「あっそ、それじゃあわたしからも言わせてもらうけど…、ユーリイ様の行く道の邪魔をしないでくれる?」
そう言って彼女はわたしの車椅子に足を掛け、わたしを後ろへ突き飛ばした。咄嗟にわたしはハンドリムを手でつかんで片輪が浮いて倒れそうになるのを抑える。
地面に頭をぶつけずに済んで一息ついたわたしの耳にラフの声が響く。
「自分の脚で歩く力も無い人は、隅っこで大人しくしてなさいよ」
悪意のこもった言葉が胸に深く突き刺さって、わたしが何かするよりも早くアンナの身体が跳ねるように動くのが見えた。
「この…っ!」
「止めなさい、アンナ!」
わたしは言葉で彼女の動きを止める。すると彼女は、抗議するようにわたしの名を呼んだ。それにわたしは努めて平静を装った声で応える。
「いいのよ、アンナ。この程度の悪意、わたしにとっては今更だわ。……それに、わたしたちの役目も達成できたみたい」
わたしの言葉の意味が分からず怪訝な顔を浮かべるユーリイ一行の背後から、多くの人々の雄叫びが聞こえてきた。
「……っ、これは…!」
驚いて振り返るユーリイ。わたしは彼に告げる。
「革命団がこの広場にいるだけだと思った? アンジェリカに不満を持っている人がたかだか三十人そこらだと思った?」
バルコニーの上では、昨日訪れた店の主をはじめ、数人の男たちがアンジェリカに銃を突き付けて取り囲んでいる。教会の中には、もっと多くの、それこそ百人単位の革命団がそこを占拠しているだろう。
わたしはユーリイに勝ち誇った笑みを浮かべてやった。
「革命団の計画になかった懸念材料であったあなた達はわたしとアンナが引き受けることになっていたのよ。アンナの見立て通り、わたしの計画通り、あなたはまんまとアンナに釣られてアンジェリカから離れてくれた。あなたたちはそこで、銃口に囲まれながら、事の成り行きを眺めていなさい」
革命団はわたし達のやり取りの間、半円状にユーリイ達を取り囲んで、一人一人が構えたライフルの銃口を彼らに向けていた。彼らがいくら優秀な魔法使いといえど、腕が二本しかないのなら、この銃の檻から逃れることは出来ないだろう。
広場にまで落ちてくるような大声で店主が叫ぶ。
「さあシスター・アンジェリカ! これでわかっただろう、俺たちの力を。これで聞こえただろう、民衆の声を! 神を盲信し、俺たちを苦しめるのはもうやめてくれ!」
誰への気持ちか、その声には深く締め付けるような痛みが混ざっていた。
「……」
沈黙したまま店主を睨むアンジェリカに、彼は重ねて問う。
「どうして君は、親を殺したあの獣を神と崇めてそこまで心酔できるんだ!」
店主が問うと、彼に賛同する声が民衆から上がる。それと同時に、アンジェリカのことを侮辱する言葉も。それが積み重なっていくたび、まるで自分自身に向けられた言葉かのように、わたしの心の奥深くに突き刺さっていく。
無意識のうちに車椅子のハンドリムを握る手に力がこもっていく。わたしはそのこもった力を努めて隠して、胸の中に沸き上がる気持ちを殺した。
民衆たちの批判の声は渦を巻いて、熱を帯びていく。火災旋風のように回転するその渦は、やがて憎悪の色に染まっていった。
「……」
それをただ静かに、しかし目を瞑って険しい表情で聞いていたアンジェリカは、やがて開眼する。
彼女は震える息を長く吐く。
その瞳には、深く暗い夜が宿っていた。
「私の親が死んだのは、それが神の思し召しだからです」
「違う」
店主が即座に否定する。
「君の両親が死んだのは、不幸にも肉食の動物に襲われたからだ。そこに神の意思はないし、ましてや君の両親を食った獣が神のはずがない」
「いいえ、神ですよ」
そうでなくては…。そう零すアンジェリカの声に熱がこもっていく。
彼女は大きく息を吸い込んで、慟哭した。
「そうでなくては…、どうしてパパやママが死ななくてはならなかったのですかッ!」
その気迫に気圧された店主たちを余所に、アンジェリカは腰に差した杖を抜きはらい、天高く掲げた。
「偽の魔導師の杖・フェノミナン! 我が願いに従い、束の間の夢を授けよッ!」
瞬間、フェノミナンと呼ばれたその杖から閃光が煌めいた。周囲の男たちの目の前でその魔法は発動し、空の上からライデンチョウの高い鳴き声が聞こえた。
「…きた」
わたしはその輝きを目に映して、ひそかに口角を上げた。
黄昏を越えた夜の始まりの中で一つの降りてきた。それは月でも、星の輝きでもない。光を纏った白い鳥が、アンジェリカの呼び声に応じて教会の上空に滞空したのだ。
「おお…神よ」
輝ける神々しさに、アンジェリカは恍惚の表情を浮かべていた。
慄きどよめき、身を竦ませる民衆。彼らのつま先が後ろを向くのを見て、わたしは高らかに叫んだ。
「今更なにを恐れている! 今更なぜ恐怖に従属しようとする! あなた達はここに何しにきたのだ! 自分たちの自由を手に入れるためではないのか! あるいは迷えるみなしごを救うためではないのか! 両手の銃を意味を思い出し、かの神を撃ち抜け!」
わたしの言葉に民衆たちは、自分たちが革命団であることを思い出し、銃口を空に向けた。
そして彼らの一斉射が始まり、豪雨のような銃声の連続が響く。しかし、素人たちの銃撃は、空高くひらひらと舞う鳥にはかすりもしない。
「お、おい待ちたまえ君たち!」
硝煙の臭いが充満する雨音の中で動揺したユーリイの声が聞こえる。しかし彼は腰の剣を振らない。頭の悪そうな彼でも、引き金を引くことを躊躇わなくなった人々の恐ろしさくらいは理解しているらしい。
「……当たりませんね、お嬢様。ここはいっそ私が…」
わたしのそばでアンナが自分のライフルを構えようとする。しかしわたしは、手で銃身を抑えて動きを止めた。
「待ってアンナ。あなたは撃たないで、こっちに来て」
騒然とする空間の中で、わたしはいたって冷静な口調でアンナのメイド服を引き、車椅子を動かす。
「お嬢様…?」
怪訝な表情の彼女は、それでも歯向かわずに付いてくる。彼女を引き連れて、わたしはそばの小屋に入った。
二人入って窮屈に感じるくらいの石造りの小さな小屋。今もそのまま使っているらしく、教会の警備室と思われた。
側に机と椅子が設置されているガラス張りの窓から外の様子を覗く。視界の先では、州兵たちが撤退していく。教会に指揮権を掌握されている彼らがライデンチョウを撃てるはずもなく、それができないのであれば彼らが次に取る行動は自分のみの安全の確保だ。そしてそんな彼らの様子に、血相を変えたメロウがラフとユーリイを連れて民衆から距離を取るのが見えた。
「ついでにあの三人も巻き添えになればいいと思ったんだけど…残念ね」
落胆するわたしの様子を見て、アンナは何かを察したような顔をして、ただでさえ白い肌のそれを蒼白にした。
「まさか…」
アンナは窓際からライフルを構えた。
「アンジェリカを殺します!」
わたしはそれを力づくで下ろさせる。
「やめなさいアンナ! もう遅いわ」
わたしが言うが早いか。朝日よりもまぶしい光がわたしたちの目を焼いた。反射的にわたしとアンナは小屋の中に身を隠す。
「お嬢様は始めからこうなることがわかっていて彼らを扇動したのですか!」
「……」
わたしは彼女の問いには答えず、ただ自分の心を支配する知的好奇心に従いながら、目を覆う指の隙間から窓の外を観察した。
夜に輝くその白光はただの光ではない。
空気を割る雷鳴が胸を打つ。
ライデンチョウ。その名が示す通り、彼らは電気を使って狩りをする。翼の中にある器官を帯電させて、地上の獲物に向かって雷を落とすのだ。
そしてそれはこの瞬間、革命団に落とされた。
雷鳴は長く、十秒ほど続いた。その間わたしは、ライデンチョウが雷を落とす光景を目に焼き付けた。個体数の少ないライデンチョウの狩りの光景は映像にも残っておらず、こうして間近で見られる幸運に、わたしは打ち震えていた。
「……」
そんなわたしの様子に、アンナはただ絶句していた。
やがて雷鳴が鳴りやんだ。
落雷のあとの広場にはリヒテンベルク図形が刻まれ、銃を空に構えていた人々はその身を黒く焦がし、さっきまで自分が立っていた場所に横たわっている。いいや、あれらはもう人ではない。丸焦げの身体の中にはもう魂が宿っていないのだ。
あれほどの雷災の中でも生存者がいた。
一つはユーリイとラフ、そしてメロウ。彼らは広場の端でユーリイの剣で防壁を作って身の安全を確保していた。
もう一つはとっさの判断で射撃を止め、身を低くしていた何割かの革命団。落雷に対する正しい対処法を取った彼らは、周囲の惨状を見て絶望顔を浮かべた。
「う…、うわぁああ!」
そして彼らは銃などかなぐり捨てて遁走する。
「お、おい! 待てお前たち!」
バルコニーの上の店主が逃げ惑う仲間たちに向かって叫ぶ。その隙を突いて、アンジェリカがフェノミナンを振るう。
「神よ!」
彼女が叫ぶと、ライデンチョウはその鋭い眼光をバルコニーの上に向けて、怯む男たちに向かって突進する。
「う、撃て!」
店主は果敢にもライフルを構える。しかし彼が引き金を引くよりも早くライデンチョウはバルコニーの上に乗り上げ、その大きな爪の足で男たちを掴み上げ、一人一人バルコニーの上から地上へ落としていった。
その様子を見て、冷静さを取り戻したアンナが耳打ちをするようにわたしの側で話しかけてくる。
「お嬢様、あれは…」
わたしはアンジェリカがライデンチョウを隷属させているように見える光景に乾いた笑いを零した。
「まったくこれじゃあ、神が人を支配しているのか、人が神を支配しているのかわからないわね。……でもあれは、あの魔杖・フェノミナンの能力ではないわ」
わたしは懐から双眼鏡を取り出して、バルコニーの上で暴れているライデンチョウを観察する。輝くその身体に網膜が傷んでいくのに耐えつつ、よく観察する。すると、白い身体の中で唯一白くなく、輝いてもいない部位……両脚に注目すると、そこに青銅細工の古びた足輪が嵌められているのを発見した。
「アンナ、鳥の足を見て」
わたしの言葉に応じてアンナはライフルに取り付けられたスコープを覗く。
「青銅細工の足輪…、きっとあれも魔道具なんだわ。あんな猛獣にどうやって着けたかは知らないけど、アンジェリカがライデンチョウを従えているのは、あの魔道具の能力ね」
「では、あの足輪を撃ち抜けば…」
「自ら避雷針になって黒焦げになるアンナの姿はさぞ傑作でしょうね」
「……」
わたしの皮肉にアンナは閉口した。
バルコニーの上で、アンジェリカは独り、フェノミナンを掲げる。
そして彼女は神に命ずる。
「神よ! 私の愛するこの世唯一の神よ! あなたを堕とさんとする愚かな民衆たちに、鉄槌を下したまえ!」
ライデンチョウは高く鳴き、翼を羽ばたかせ、逃げる民衆たちに落雷を落としていく。
その光景を見たアンナは、広場の隅へ声を投げる。
「ユーリイ!」
無数の光剣を網のように組み合わせたトーチカの中で、ユーリイと取り巻きの二人がこちらを向く。
「これでわかったでしょう! アンジェリカの狂気性が! あなた達のその自慢の魔導具でライデンチョウかアンジェリカを殺しなさい!」
その言葉にユーリイは少しの迷いを見せてからアンナに言い返す。
「それはできない! どんな理由があろうとも、僕には女の子を傷つけることはできないし、彼女の心の拠り所を奪うことも出来ない!」
「でしょうね知ってましたよ! あなたがそんな浮ついたポリシー掲げてるマシュマロ野郎だってことくらい!」
心から軽蔑したように吐き捨てるアンナにわたしは苦笑した。
そんなやり取りを見ていたラフがユーリイに問いかける。
「ユーリイ様。つまるところアンジェリカもライデンチョウも傷つけずに民衆が逃げられるようにすればいいんですよね? アンジェリカを鎮める方法はその後に考えたらいい」
「その通りだけど…、なにか方法があるのかい?」
「簡単な話ですよ」
ラフは自分の弓を取り出すと、その弦を引く。撓っていく弓の動きに合わせて、赤い色の矢が三本、虚空から出現し、そのまま弦に掛かる。
「…魔弓・スピットファイア」
スピットファイアと呼ばれた魔弓から放たれた矢が光剣のトーチカの隙間から飛来する。その矢は広場の中央と教会の壁に突き刺さり、直後に爆発した。
その爆発は周囲十メートル近くに亘り黒煙をまき散らす。それはそのまま煙幕となり、民衆たちを覆った。
これで民衆はライデンチョウの目を逃れ、安全な場所へ隠れることができるだろう。
だがそれよりも、わたしとアンナは爆発が教会の壁でも起こっていることに顔を青ざめた。
アンジェリカがライデンチョウの足を掴んで逃れていることなどどうでもよくて、爆炎の中で崩れていく教会の陰にわたし達は頭を抱えて叫んだ。
「やりすぎだぁ~!」
わたしはラフを糾弾する。
「教会まで崩してどうすんのよ! あの中にはまだ民衆が残っていたのよ!」
そんなわたしの言葉に、ラフはハッとした顔で「あっ!」と口元に手を当てる。
「忘れてた!」
わたしは本気で頭が痛くなるのを感じた。
アンナは焦った表情でわたしに言う。
「…お嬢様。事態は切迫し始めました。早くアンジェリカを無力化して瓦礫の下の人々を救出しなくては」
「…そうね」
そう答えつつ、わたしは頭の中で計算する。
あの爆発の規模と、見た目から予測できる教会の耐久性を考えて倒壊の規模は半壊程度。崩落から逃れられた人間が自分たちで救出活動を行えていることを祈る。
そしてわたし達の目的の物に損害が出ていないことを願う。
「アンナ」
わたしはメイドを呼んだ。
「はい、お嬢様」
「発砲を許可するわ。ただしそれは、わたしが合図を送ってから。あなたが黒焦げにならないように、わたしがあの鳥の力を削ぐ」
「どうやって…?」
そう問うアンナに声は返さず、わたしは窓から外を見渡した。
「…あった」
この場所が教会とは言っても、現代であれば一つくらいは置いているだろうそれを見つけて、わたしは車椅子のハンドリムを操って小屋の出口に向かう。
そしてそのそばに掛けられている一つの鍵と、立てかけている二本の警棒を取る。
「お嬢様っ、外に出ては危険です! 何をすると言うのですかっ?」
「悪いけど説明している時間はないわ。あの煙が晴れる前にあそこに到着しないとわたしが焼かれちゃう」
わたしは両手に一本ずつ警棒を持ちながらハンドリムを操作して小屋の外に出る。肉の焦げた匂いが充満する広場の中を必死に車椅子で走る。
そういうスポーツをしていて、専用の車椅子を使っている人ならいざ知らず、通常の車椅子を全力で漕いでも得られる速度は整地でも精々健常者が歩く程度。この広場は芝生だから、その速度はもっと遅くて、腕にかかる負担も桁違い。
それでもわたしは漕ぎ続けた、肩が熱くなって、腕に張るような痛みが浮かんできても。
ここであの脅威を排除して教会に入ることが出来なくては、わたし達の旅の目的は達成できない。それだけは嫌だ。それだけは許せないから、ここで逃げてはいられない。
破れんばかりに心臓が脈動して、肺が際限なく酸素を求める。痛くなる脇腹を抑えることも出来ないまま、わたしは健常者であれば息を切らすこともなく辿り着ける距離を汗を滲ませながら走る。
そしてわたしはそこにたどり着いた。目の前にあるのは一台の自動車。車体の側面に『警備』と書かれたその車両は、外の道に繋がる場所に止められていた。
わたしは車のドアに鍵を差してそれを開けると、車椅子から運転席に乗り込む。
動かない脚を引きながら這いずるように乗り込んで、両手で脚を持って座席の下に収める。
運転席の鍵穴に鍵を差してエンジンを始動させると、お尻の下から振動が伝わってくる。
フロントガラスの向こうでは煙が晴れてきていて、ライデンチョウだけが照らしていた夜に車のライトが輝く。その光は神の気に触れるらしく、二つの目がこちらに向けられている。
「ふぅ…、…よし…ッ!」
わたしは覚悟を決めた。
この車はオートマ車ではなくマニュアル車。オートマ車なんてレアな車、そうそう見かけるものではない。つまりこの車は前に進むだけでもクラッチ操作が必要なのだ。
わたしは頭をフル回転させて手順を考えながら実行に移す。右手に持った警棒でクラッチペダルを押し込みながら左手でギアを一速に入れる。右手に持っていた警棒を左手に持ち替えてから、もう一本の警棒を右手で持ってアクセルペダルを少しだけ押し込む。
その状態のままクラッチペダルをゆっくりと戻していくと、半クラッチ状態になった車は低速で前進し始めた。速度が乗ってくるとクラッチを完全に繋いだ。
「天っ才だわ…わたし」
思わずそんな自画自賛まで生まれてくる。
冷や汗が滲んだ頬にゾクゾクする笑みを浮かべながら左手でハンドルを操作し、エンジンが止まらないギリギリの速度を保ちながら広場の中を周回する。窓ガラス越しに広場に下りたライデンチョウとアンジェリカを睨みながら、時折クラクションも鳴らす。
からかうようなリズムを刻んで鳴らしたクラクションをアンジェリカは案の定挑発と受け取り、フェノミナンの先をこちらに向ける。それに応じて、ライデンチョウの殺気が一層強くなった。
「お嬢様ッ!」
小屋を飛び出して駆け寄ろうとするアンナに手のひらを突き出して、彼女を制す。
「さあそのまま向かって来い害獣よ!」
わたしの叫びに応じてライデンチョウが羽搏く。飛び上がったその白い巨体は低空飛行し、わたしの乗る車のフロントガラスの上に着地した。すかさずわたしはダッシュボードに放置されていた誰かのサングラスを拝借して自分の顔に掛ける。
直後にライデンチョウが放電した。
サングラス越しでも世界は眩しく明滅して、パイロットランプがすべて消灯した。確認するまでもなく、この車の電装系はすべて破壊されただろう。
それでもわたしの身体は無事だった。
電気は車のボディだけを伝い流れていくため、車内に電気が流れることはないからだ。
だがそれでもライデンチョウは放電を続ける。車と落雷の関係をアンジェリカが把握しているのかは知らないが、怒りに感情を支配されている彼女は考えなしにわたしを殺そうとライデンチョウに放電を命じ続けている。
「それでいい。そのまま放電し続けなさい」
わたしの言葉通り、ライデンチョウは電気を放ち続ける。そしてそれは、目に見えてわかるほど急速に衰えていく。
読み通りの状況になって、わたしは笑みを零した。
「足りてないんでしょう? アデノシン三リン酸が。あなた達は電気ウナギと同じくそれを消費して発電する。あなたが発電を繰り返して疲労を蓄積していくたびに、あなたは発電できなくなっていく」
そしてその時は訪れた。
ライデンチョウが頭を垂れ、明らかに疲労を露わにする。世界は闇に包まれて、白く輝いていた身体は見る影もない。
「なにをしているのです神よ! 早くその女を殺しなさい!」
しきりにフェノミナンを振っているアンジェリカを無視して、わたしは座席の下の発煙筒を発火させた。それをダッシュボードの上に転がして、周囲を赤く照らす。
わたしはあらん限りの声量で叫んだ。
「撃て! アンナ! ライデンチョウの足輪を!」
「ッ!」
まともに動くことも出来ず、ただの的と化した鳥にアンナは銃口を向ける。
そして一発の銃声が夜空に響いて、青銅細工の足輪がわたしの目の前で砕け散った。
「……」
広場に静寂がやってきた。
わたしは煙くなる前に発煙筒を持ったまま車の外に出す。赤い明かりの中で、アンジェリカは声を発する。
「…か、神よ…」
その呼び声に、神と呼ばれた獣は振り向く。だがその眼光に神々しさはなく、獲物を見つけた獣の殺気だけがあった。
「あれだけ放電したんだもの、そりゃあお腹が空いているわよね。だってあなたはただの生き物なんだから」
ぐるぐるぐる、と、ライデンチョウの喉が鳴る。そして動物的本能のまま、彼は少し休んで体力を回復した身体で羽搏き、アンジェリカへと距離を詰める。
「神よ! 私は…ぐぁ…っ!」
アンジェリカが何かを言う前にライデンチョウが彼女を押し倒した。圧倒的な体格差にアンジェリカはなすすべなく仰向けに倒れ込み、その身体に鋭い爪が突き刺さる。
「アンナ! フェノミナンを守れ!」
わたしはまだ燃えている発煙筒をアンジェリカの方へ投げた。その声に応じたアンナはもう一度引き金を引く。彼女の放った弾丸は、これまた正確にフェノミナンが握られたアンジェリカの右手を撃ち抜き、それを本体から捩り切って離れたところへ飛ばした。
右手を失った痛みにすら気が付いていない様子でアンジェリカはライデンチョウを見上げている。
その表情は、恍惚に満ちていた。
もはやただの獣であるはずのライデンチョウへ、アンジェリカは叫ぶ。
「ああ! ああ…ッ! なんて残虐でお美しい姿なのでしょう…っ! それでこそ神! それでこそ私が追い求めた本物の神ですッ!」
それがアンジェリカの最期の言葉だった。
次の瞬間にはアンジェリカの喉にライデンチョウのくちばしが突き刺さり、肉を引きずり出された。
「神と一つになれて、あなたも本望でしょう」
一人の女が喰われていく光景を、その場にいた生存者の全員が黙って見届けていた。
やがて食事を終えたその鳥は、羽搏いて夜の空に消えた。
○ ●
騒乱の跡に静けさが戻ってきて、革命団の生き残りや周辺住民が集まって救助活動が始まった。
そこで初めて、住民たちはこの町の夜に明かりを灯した。
原始的な松明の明かりの中でわたしはアンナが持ってきた車椅子に乗り込む。そして彼女に車椅子を押してもらって、広場の端に向かう。
「やっと…、第一歩ですね、お嬢様」
「ええ」
少し複雑な感情を孕んでいながらも、嬉しさを込めたアンナの言葉に、わたしは短く応える。
わたしは芝生の上に転がっている魔杖・フェノミナンを拾った。
くっついている人の右手を外して放り捨てて、その杖を松明の明かりに照らす。
少し血で汚れている金宝樹の杖は黒い輝きを帯びていた。
「偽の魔導師の杖・フェノミナン。これがあれば魔法使いとしての才能がないわたしも魔法使いになれるのよね」
「ええ…、その力はついさっき、アンジェリカが証明してくれましたわ」
わたしはその杖を失くさないように大切にジャケットの内ポケットに入れた。
「これでわたし達の旅路の第一歩。…そして、あの中に第二歩目がある」
「……」
わたしとアンナは、半壊して瓦礫の山になった教会を見上げた。
○ ●
わたしとアンナはバイクの中からランタンとカメラを持ってきて、教会の中に入った。教会の地上部分にわたし達の目的の物は見つからず、革命団に取り押さえられていた教会関係者に話を聞き、それが地下にあることを知った。
地下にある階段はわたし一人では降りることが出来ない。だからアンナに抱えてもらって、車椅子を地下に下ろしてもらって、わたし達は地下に下りた。
地下の闇をランタンの淡い明かりが照らす。
「…見つけた」
わたし達が追い求めた物は、一枚の壁画だった。
それはある程度劣化しているものの地下にあったおかげで保存状態は良く、大人が両手を広げて五人並んだ長さくらいの大きさだった。
「これは『カリフィアの城』の原作」
わたしは誰にともなく言った。
「カリフィアの城は魔法の時代からこの土地に伝わる伝説で、この国の国民なら誰もが知っている童話の一つ。その内容は、その昔、魔法全盛の時代。カリフィアの城に魔法が使えなかった不出来な一人のお姫様がいた。魔法が使えないせいで友達が出来なかった彼女はいつも『友達が欲しい』と願っていた。ある日、それを哀れに思った精霊がいて、その精霊は彼女に魔法使いとしての才能と『ガンダーラの魔導書』を授けた。ガンダーラの魔導書を手に入れた彼女は、その魔導書を使って初めて魔法を使えるようになった彼女は、その魔法で友達を作り、幸せになった」
「良くあるおとぎ話の一つであり、単なるフィクションだと思われていましたが、最近になってこの壁画が見つかり、この伝説が実話であり、ガンダーラの魔導書が実在する魔道具である可能性が高いという研究結果が発表されました。しかし…」
「この壁画が見つかったこの町はアンジェリカの圧政が支配していて、彼女が検閲した情報しか外から得ることは出来ず、具体的にそのガンダーラの魔導書がどこにあるのかという情報を得るには実際にこの地に来るしなかった」
「そして私は昔の伝手から、ユーリイ達がガンダーラの魔導書の捜索を命じられたことを知り、彼らよりも先にそれを手に入れるためにこうして旅をしている」
互いに自分たちの状況を復習しあったわたしとアンナは、改めて壁画をよく観察した。
その壁画一枚の中にカリフィアの城の物語が収められていて、古語でこう書かれていた。
「『連なる山々、南北に並ぶ三つの火山、空は乾き、地は松とオークの林に覆われている土地に、ガンダーラは遺される』」
「…場所、わかりますか?」
「……」
わたしは歯噛みして首を横に振った。
アンナは他に情報がないかと観察を続ける。そこで彼女は何かを見つけたようでわたしを呼んだ。
彼女の方へ車椅子を進ませてランタンで指されたそれを見る。
それは、古い文字で書かれた文章の上に、無数の細かい記号の列が併記されている。
わたしはそれを本で得た知識として知っていた。
「これは…、魔法の時代の楽譜だわ」
わたしはアンナにそのまま照らすように命じ、カメラでその楽譜を撮影していく。
ひとしきり撮影すると、アンナが問うてきた。
「この楽譜、読めますか?」
「読めはするけど、記号で指示されている歌い方が複雑すぎて歌えないわ。…そして楽譜の上に書かれている文章はこう書いている。『ガンダーラの魔導書の精霊は愛の狂詩曲にのみ耳を傾ける』」
「……つまり、この歌を歌わないとガンダーラの魔導書は起動しないということでしょうか?」
「どうやらそのようね」
タスクが追加されたことにわたしとアンナは大きなため息を吐いた。
「愛の狂詩曲は現代でも歌われているけど、それはすべて現代に合わせてアレンジされたもの。ガンダーラを起動するには、この楽譜に書かれている通りに歌わないとダメみたいね」
けれどわたしもアンナも、歌を歌うのは好きだけどそこまでの歌唱力は持ち合わせていない。
「それでは、ガンダーラの場所を突き止めることと、愛の狂詩曲の解決。どちらを先にしますか?」
アンナの問いに、わたしは即答した。
「ガンダーラの場所にしましょう。こっちの解決策にはわたしに心当たりがあるの」
「心当たり?」
重ねて問う彼女に、わたしは短く答えた。
「わたしの恩師よ」
○ ●
この町での目的を果たしたわたし達は町を出て西を目指した。
ユーリイ達は気が付いた時には消えていた。きっとメロウ辺りが彼を説得して先に進んだんだろう。だからきっと、彼らには再びどこかで巡り合うかもしれない。
街道を走る側車付き二輪車に揺られながら、わたしは空を見上げていた。
空は雲一つない蒼穹で、航行している飛行船が小さく見える。
まぶたが重たくなるのを感じていると、運転席のアンナがこちらに話しかけてきた。
「解決すべき問題が多くて、予想以上に前途多難ですけど、手がかりが集まってよかったですね、お嬢様」
「ええ、そうね」
「ユーリイ達も気がかりですけど、それでもきっと私たちがガンダーラの魔導書を手に入れる。今は私、そんな気がするんです」
「…ええ、そうね」
「そうしていつかガンダーラを手に入れられたら、それを使ってきっと治しましょうね」
「……」
アンナは言う。
「お嬢様の脚を!」
彼女の言葉に応えず、わたしはまどろみの中に身を投じた。