白日夢02
瞬きをしたほんの一瞬、くらりと浮遊感に似た感覚に襲われる。気がつくと、まとは木々がざわめく森の中にいた。
風がそよぎ、辺りにはひんやりと冷たい空気が漂っている。
今しがた家族と過ごしていたはずだが、突然切り替わった光景に思わず息を呑んだ。
家の中にいた為、スリッパしか履いていない。スリッパ越しに落ち葉や小枝の感触が足裏に伝わった。
「お、お兄ちゃん……おかっ、おかあさーん!」
気が動転して、家族の名前を呼ぶ。しかし、無常にも周辺に声が響き渡るだけだった。
たちの悪い夢かと思い、試しに頬を強くつねる。が。単純に痛みを感じて終わった。
夢じゃないと悟り、同時に絶望と恐怖がまとを支配する。
そのとき、携帯に電話がかかってきた。突然の音に驚きながらも、慌ててポケットから取り出す。
画面を確認すると『非通知』とだけあった。この状況の中で出るか迷うも、恐る恐る応答ボタンをおす。
「もしもし……」
『……もしもし、聞こえる?』
最初は無音だったが、不意に若い男の声がした。
声質的に兄の紫音と同年代そうだが、雰囲気はどこか落ち着き払っている。
「……聞こえます」
『よ、よかった……ようやく繋がった! やっとこれで』
男は電話越しに喜んでいるようだった。なにが嬉しいのかわからず、まとは「どなたですか?」と切り出す。
『あっごめんごめん。まずは自己紹介だよね……俺は黒木遥歩、よければ君の名前を教えてほしい』
「須賀です」
黒木遥歩、と名乗った人物に心当たりはなかった。
ふと兄の知り合いだろうか、と考えるもこの状況でそれはあり得ないだろう。
まとの警戒心を悟ってか、アユムは『落ち着いて聞いてほしい』と言った。現状に不安を抱きながらも、渋々「はい」と頷く。
『気の毒だけど、須賀さんは妙な場所に招かれてしまった』
「招かれたって、いったい誰にですか?」
『誰でもない、場所に招かれたんだ。だからどうにか、ここから抜け出す手立てを考えないと』
「はぁ……」
突拍子もない話に間の抜けた声を漏らした。アユムも苦笑しつつ『信じられないよね』とつぶやく。
『……須賀さん。ここにきたばかりで申し訳ないけど、君に頼みがある』
「なにか困ってるんですか?」
『うん、実は俺……ある場所にずっと閉じ込められてるんだ。須賀さんに俺を見つけ出してほしい』
「閉じ込め? つまり……監禁、ってこと!?」
打ち明けられた内容に驚き、つい大きな声が漏れた。アユムもごにょごにょと「そういうことだね」と答える。
まさか、監禁された人間から電話がかかってくるとは思いもしなかった。『アハハ……』とか細く笑う声が聞こえる。
『手当たり次第電話をかけ続けたけど、やっと須賀さんに繋がったんだ。たぶん次、同じチャンスがくるとは思えない』
「そうですか……」
彼にとって、きっと途方もない行為だったはずだ。それならせめて、と思い「場所はどこですか?」と聞き返す。
『わからないんだ。どこかの掘建小屋みたいな場所、隙間から外を覗いても雑草しか見えない』
「うーん、それは困りましたね。なにか情報がないと」
『ごめんね。無理難題を押し付けることになって』
それ以前にまとも危機的状況にある、まずはまと自身の問題を解決するのが先だ。
仮にアユムを助けるとしても、話はそれらの後になる。
が。
「なんとか見つけてみせます! それまで、どうか辛抱強く耐えてください」
まとは考えるのをやめた。
『ありがとう。須賀さんが見つけてくれるまで待ってる』
「あはは、そう言ってなんですが実は私……森にいるんですよ。ここがどこなのか、その……見当もつかなくて」
先ほどの豪語も相まって、恥ずかしさが体中を駆け巡る。アユムはこれまでした会話の中で最も明快な声で笑った。
『そうか、そっかそっか。須賀さんは森にいるのか、俺が町まで案内してあげるよ』
「町? この場所について知ってるんですか?」
『俺もね、この場所に来て結構長いんだ。ある程度のことなら教えられるよ』
アユムは手始めに、まとにそこから移動するよう指示する。
通話を維持したまま、アユムの指示通りに歩き始めた。携帯に備わったライトを頼りに、見えない足元を照らす。
「当てもなく歩いていいんですか?」
『俺を信じて。須賀さんは歩いてるだけでいい、道が勝手に寄ってきてくれるから』
「いったい、なんのことですか……?」
なにを言っているのか、まとには理解するのも難しかった。しかしその言葉を信じて歩き始め、はや数分。
幸いにもまとは道路へ出た。
たまたまなのか、それともアユムの言っていた通りなのか。まとに知る術はなかった。
「やった、道路に出ました! このまま歩いていけば、助けを得られるかも」
『うん、そのまま歩き続けて。疲れても歩くのをやめないで』
街灯が点々と並ぶ道をひたすら歩く。その間、ふたりは当たり障りのない会話をした。
『そのままいけば、いずれ町に着く。そこで仲間か、必要な物を探して生存率を上げるんだ』
「どうしてですか?」
『ここから抜け出す為に必要なことだから』
ふとアユムの声にノイズが走る。最初は電波障害がきたのかと思ったが、ここであることに気づいた。
「黒木さん」
『なに?』
「たまにノイズが走るので、今しがた電波を確認したのですが」
『うん』
ワントーン、アユムの声が低くなったように聞こえる。
「ここって圏外なんですね」
そう言った瞬間、穏やかだった風が強くなびいた。
『す……さ……』
「黒木さん! 黒木さん!?」
先ほどよりもノイズが強く、アユムの声を聞き取るのが困難になる。慌てて尋ね返すも、ノイズがより強くなっていくだけだった。
『お願い。俺を見つけて』
ひどいノイズの中で、その一言だけ鮮明に聞こえる。聞き返そうとした瞬間突風が吹き抜け、電話もそこで途切れた。
同時にくらりと妙な浮遊感を感じ、驚いて辺りを見渡す。が、先ほどと同じ景色が広がっているだけだった。
「黒木さん……」
ホームに戻った画面を名残惜しそうに見つめる。心の拠り所を失った為、孤独感が一気に増した。
かけ直そうにも電話は非通知だった、再びかかってくるのを待つしかない。そもそもここは圏外、電話が出来ていたこと自体おかしな話だ。
「約束、守らなくちゃ……」
立っているだけではなにも始まらない。まとに残された道は限られていた。
アユムの言葉を信じ、まとは真っ暗な夜道を再び歩き始める。交わした約束を果たす為にも、それが最善だと思った。
歩き始めてしばらく、空も夜明けを迎えつつある。
まとは道路の端で看板を見つけた。雑草が高く生い茂り、錆に侵食され看板本来の姿からかけ離れている。
が。それでも微かに「この先」と読める文字があった。
なにかあるのは間違いないだろう、アユムの言っていた『町』だろうか。痛む足を無視して、足早に向かった。
看板の先、まとはある場所に辿り着く。荒い息を整えながら、丘から広がる光景を見下ろした。
そしてぽつりと呟く。
「町じゃないじゃん……」
丘から見えたのはちっぽけな集落だった。
畑と畑の間にたまに民家がある程度の、まるで時代の中で置き去りにされたような。
アユムはたしかに『町』と言っていた。騙されたのか、落胆と共にその場でへたり込む。
ヘトヘトで、足裏の痛みに顔をしかめた。休まずに歩いてきた為、体力の限界もとうに超えている。
夜はすっかり明け、遠目から実にのどかな場所だと思った。
「……町じゃ、ないじゃん……」
携帯を開いて時刻を確認する。と、見慣れたはずの画面には支離滅裂な文字が連なっていた。
あるべきはずの文字列は奇妙な漢字に変わり、この場所の異常性をさらに際立たせる。
「なにこれ、いったい……」
上空では山と山の隙間から顔をのぞかせる太陽が見えた。夢か現、言葉では言い表しようのない奇妙な感覚を覚える。
吐き気を覚えるような、視界が湾曲していくような感覚がまとを襲う。次第に少しずつ、息が荒くなっていくのを実感した。
一種の不安障害だと冷静に分析する。一時的なものだと、落ち着きを取り戻すまで大人しく耐えた。
どうしようもない不安に飲み込まれていくのを感じる。ふと、頭の中で妙な映像が流れていることに気づいた。
まとの背後から、無数の手がどこからともなく伸びてきている。それは取り囲むようにまとの周辺を揺蕩い、こちらの様子をうかがっているようだった。
不意にこの手に飲み込まれてはいけないと感じる。
しかしどうすれば、まとを取り囲む手は少しずつ近づいてきていた。
絶望的な状況の中、現実に戻れや消えろと必死に念じる。が。その甲斐虚しく、無数の手はまとを包み込もうとしていた。
恐怖で体中が震え、誰か助けてと心から祈る。
「須賀さん」
ふと、耳元で呼ばれたような気がした。ぱっと顔をあげると、へたり込んだまま汗が体中から噴き出ている。
それ以外はなんともなかった。頭の中で見ていた物が幻だったのか確証はないも、助かったと安堵する。
「はぁ、はぁ……。黒木さんとの約束、守らなくちゃ」
両頬を叩き、気を取り直した。次、同じ目に遭ったとしても今回のように助かる保証などない。
ならばせめて、アユムに近づける手掛かりをできるだけ掴もうと思った。痛む足を抱え、まとは集落へ助けを求めに階段を駆け降りていく。