水と油のふたり
「アイシャさん、今日のおやつは何?」
「ふふふ、焼き立てアップルパイっす、自信作ですよぅ!」
「げ、アイシャさんが焼いたのか……」
「げってなんすか、げって!」
「うふふ、好き嫌いはいけませんよ、殿下」
「メニューでなく、パティシエが問題です」
アイシャのコメディーリリーフに感謝しながら城内を歩いていく。
おかげでイリーナの追及を止められた。感謝感謝。まあとぼけた人でもないんだし後で追及があるんだろうけど……。
ふと前を見ると、向かい側から歩く老人と対面する。
「おやおや、これはこれは」
「こんにちは」
「ええ、こんにちは王子殿下。ご機嫌麗しゅうございますな」
目の前で跪くこの男はラモス将軍。
一見細身で腰の曲がった好好爺であるが、国王の不在時に王都の守りを任せられているほどの存在だ。
「それにイリーナ殿、しばらくですじゃ。この国はもう慣れましたかな?」
「ええ、将軍。おかげさまで。皆様にも大変良くしていただいております」
イリーナはいつも通り、親しみのこもった柔和な笑顔を浮かべる。
…………。
いつも通り、か?
一見何でもない会話。
しかし、わずかに違和感を覚える。
イリーナの、表情が硬い……気がする。ラモスのことが苦手なのだろうか。
「わが軍の魔法練度はそなたにかかっておるでの。最大級の戦果を残せるように、頼みますぞ」
ラモス将軍はそれなりに高齢ながら、平時は激剣師範として若手に剣の指導をしている。
この二人は剣と魔法、二つの教官として国軍の育成を支えあっている、はずだ。なのに……。
ラモスと話すたびに、ほんの少しずつ、彼女の顔が曇っていく。
「それはそうと、そろそろ踏み絵をしてくださいませんか?みな求めておりますぞ。イリーナ殿を信頼したいのですじゃ」
「ご遠慮申し上げます」
恐らく、俺にしかわからないくらい、些細な違いだ。
俺やアイシャと話すときはもっと口元が緩む。他の兵士と話しているときだって、もっと……。
「おお、そうだ殿下。よろしければ今から我が稽古を見学に参りませんか?そろそろ殿下にお見せしたいものもありますし、殿下が見ているとなれば兵たちも身が引き締まるでしょうじゃ」
「見せたいもの?」
何だろうか?確かに剣の訓練はしっかりと見たことがない。精々遠目から覗くくらいだ。じっくり見て見るのもいいかもしれない。
そう思い、俺が興味を持つと、
「殿下っ!!」
かん高い声が、廊下に響く。
声の主は、イリーナだ。
イリーナは……先ほどまでとは明らかに違う。
今まで見たこともないような形相を浮かべていた。
いつも心の内をのぞかせない柔和な微笑を浮かべていたはずの彼女が、何かにおびえるように俺の手を握る。
「は、早くお部屋に戻りましょう……。アイシャが焼いたアップルパイが冷めてしまいますわ」
「ああ、それはそれは、大変ですじゃな。冷めてしまっては台無しじゃ」
無理に作り笑いを浮かべるイリーナを見て、ラモスは、
……実に、醜悪に嗤った。
「うん、行こうか」
事情はわからない。しかし二人を引き離したほうがいい、そう思ってイリーナの手を引く。力いっぱい。
……イリーナの手は、震えていた。
……この二人は、おそらく仲が悪いとか、そんなレベルじゃあない。
もっと根が深い。
「それでは拙者はここで去るとしましょう。老兵は去るのみ、ですじゃ。あ、そうそう。イリーナ殿、魔法の修練の際、決して兵に矛盾を教えることなきように」
去り際にラモスが問う。
「愚かな偽善の、ね?」
イリーナは一瞥もすることなく歩を進める。彼女も俺の手を握りしめながら。
見るからに、余裕がない。
いったい、イリーナは何を思って、何に怯えているのだろうか。
俺では、力になれないのだろうか。
震えるイリーナの手を握りながら、そう思った。
◆◇◆◇◆◇
俺の自室で3人でパイをつまむ。
今日は天気がいい。暖かい陽気ながら、さわやかな風が吹いており、暑さを感じない。
実に過ごしやすい日取りと言えるだろう。
この気持ちのいい気候を受けてか、窓からはスズメたちの可愛らしい鳴き声が、下階からは兵士たちの修練の掛け声が聞こえてくる。
……だと言うのに、室内は暗い空気に包まれている。
イリーナは、元気がない。本当に珍しい。落ち込んだ顔を見せるのも、重い空気をまとうのも。
聞きたい。いつも余裕のある彼女が、何故……。
何を悩んでいるのか。
何故悩んでいるのか。
『イリーナ殿、決して、わが兵に矛盾を教えることなきように』
先ほどのラモスの言葉。
矛盾とは、偽善とは、何を意味するのか……。
「さっきの話ですけど……」
俺は意を決して口を開く。
「……意外とおいしいよね、このパイ」
「意外ってなんすか!意外って!失礼な意味に受け取りますよこんにゃろう」
「いや、誤解しないで普段ガサツなアイシャさんの意外な特技だなって……いでででででっ!!」
「誤解じゃねすよ、こら」
「やめっ、王子!僕一応王子っ!」
頭にこぶしをぐりぐり押し付けるアイシャに必死の抵抗を見せる。
「ぷ……ふふっ、そのくらいにして差し上げて。アイシャ」
俺たちのやり取りを見て、イリーナが吹き出す。
俺とアイシャは目を合わせてにんまりとした笑みを浮かべる。
これが正解だろう。
彼女はプロの教育者であり、自立した一人の大人だ。
6歳児の教え子に心配されるなんて、大きなお世話だ。
俺にできることなんてほとんどない。
できる事があるとしたら、いつも通りに接することだけだろう。何も気にしてない、という風に。
「昔は料理なんてちっともできなかったのにねー」
「こらイリーナ!昔の話は反則っ」
「先生は、アイシャさんを古くから知ってるんですね」
「ええ、この子がやんちゃしてた頃から知ってますよ♪」
「やんちゃ?元ヤン何かだったんですか?」
「ななななななーにを言っているのでーすかー王子。ままま、まさか私が酒とタバコと喧嘩と薬とセック、げふんげふん!に明け暮れたチンピラなわけは無いじゃないですかー、やだなもう」
「あ、うん。察することにする」
やんちゃどころじゃねえっ!子供の前でなんてことを言うんだよ。
「アイシャ、ごめんなさい。でも語るに落ちすぎよ。そこまでばらすつもりはなかったわよ……」
「ふ、ふ、二人とも……記憶を失ええええええっ!!」
「「きゃー!」」
荒れ狂うアイシャを相手にもがく俺、なだめるイリーナ。
ついさっきのことなんて、まるで無かったかのように。
……それでも、無かったことになんてできない。
一度生まれた好奇心は、日に日に増大していった。