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妻を愛する記銘

作者: このは

「おーい高野、ちょっといいか」

 フロアの一角にデスクで形成される島、その島端にいる上司に名前を呼ばれた。語調からして良い内容ではないことが察せられる。メールを書いている手を止めずにすばやく目線だけで顔色を伺うと、何やらしかめっ面だ。キーボードを叩く音が上司に届くように指に力を入れながら、ちょっと待ってと応えて時間を稼ぎ抵抗する。

 たっぷり1分かけて、心の準備をしながらメールを送信して上司の席へ向かう。これからお叱りを受けると思うと足が重いが、見た目だけでも誠意を見せようと道中襟を正す。

「すみません、お待たせしました。何でしょう?」

「さっきもらった見積もり見たけど、間違えてるよ」

 ため息混じりに上司が答えるが、どうやらそれほど怒ってはいないらしい。本当に逆上している時は「何だこれは?」と突き放す言い方になるが、今回は表情とは裏腹に理性的である。

 僕は内心で胸を撫で下ろしつつ、深刻そうな雰囲気を演出して聞き返す。

「本当ですか? 申し訳ありません。どの部分か教えていただいても良いでしょうか」

「工数減らしてコスト削減するって、この間の打ち合わせで決まっただろう。それが反映されてない。お前も参加していたし、議事録にも書いてある」

「え? ……あっ」

 一瞬なんのことだろうと首を捻るが、そういえばと思い出す。昨日この案件について、上司と打ち合わせの場を設けられたのだった。その中で確かにコストを下げる依頼があったし、具体的な作業内容に踏み込んで詳細を詰めたりもした。

 しかしあろう事かそのことが頭からすっかり抜けていて、不備のあるまま上司に提出したのだった。

「失礼しました。すぐに直します」

「はあ……明日でいいよ。今日はもう見る時間なさそうだから」

 今度ははっきりとした溜め息を吐く。その表情からは険が取れ、疲れが見え隠れする。

 白髪混じりの上司を見て、僕は申し訳なくなる――などということはなく心の中では、期限が延びてラッキーと小躍りしていた。

 しかしその喜びをおくびにも出すわけにはいかず、僕は落ち込んだ風を装い会話を続ける。

「承知しました。お手数おかけします」

「高野、お前……いや、もういい」

「はい。失礼します」

 明らかに何かを言いたそうな様子だが、一瞬だけ躊躇い、結局何も口にせずに僕を解放した。

 多少後ろ髪を引かれるものの、僕は自分の席に戻る。お小言を頂いたが、悪いことばかりではない。そう前向きな気持で椅子に腰を下ろそうとしたら、上司とは反対の方から名前を呼ばれた。


「高野先輩、こっち手伝ってもらっていいですか」

 振り返ると、髪を短く刈り上げたいかにも体育会系な後輩が爽やかな笑顔をこちらに向けていた。

 見積もりを提出し、細々とした作業を片付けたら作業を手伝う約束をしていたのだ。僕は腰を中途半端に浮かせた姿勢で後輩の笑顔を眺めると、けれどやっぱりそのまま椅子に腰掛けた。

「ちょっと先輩、なんで座るんですか! こっち来てくださいよ」

「だって佐藤の作業、大変なやつじゃないか」

「大変だから手伝って欲しいんですよ! ほらお願いしますよ」

 自席で一息つく間もなく佐藤が寄って来て、腕を抱えられる。佐藤は人懐こい性格で、僕に対しては過剰なスキンシップが有効であると心得たもので、積極的なお願いをしてくる。

「ほら早くしてくださいよ」

「わかったから、そう引っ張るな」

「約束を破ろうとするからですよ。頼みますよ、ホント。困ってるんですから」

 これではどちらが年上なのかわかったものではない。

 後輩のお願い攻撃に打ち負かされ、やっぱり僕は近場の打ち合わせ卓へ引っ張られて行くのであった。



***



 定時を告げる鐘が鳴った。

 手を止めて、正面一つ隣の島に顔を向けると、高野先輩は机の上の書類を手早く片付けているところだった。紙がなくなると、最後にシャツの胸ポケットからペンを取り出し、引き出しの中に転がして立ち上がる。

「お先に失礼します」

 言い終わると再び机の上に目線をやり、忘れ物がないか確認してから席を離れる。業務態度からは真面目に仕事に取り組んでいない印象を受ける先輩だが、その実几帳面な性格をしている。それは身の回りの整理だけに限らず、仕事においても当てはまる。本人は恥ずかしがって否定するかもしれないが、与えられた仕事はきちんとこなすし、上司からの信頼は厚い。その証拠に、社内でも比較的大きな案件を若いうちから任されている。また、だらしない言動が返って親しみやすさを滲ませて、強くお願いされたら断れない性格もあり、自分を含め後輩からも頼りにされている。

 そんな人間味にあふれる高野先輩だが、ここ最近は些細なミスが多いようだ。以前までは何事も卒なくこなしていた先輩が、上司に指摘を受ける場面を頻繁に目にするようになった。多少のことなら人間味が出て笑ってやり過ごせるが、こうも多くては心配になる。


「気になるか、佐藤」

 そんなことを考えていたためか、無意識に仕事の手を止めてオフィスから出ていく先輩をぼうっと見送っていると、いつの間にか背後に眉間に皺を寄せた上司が立っていた。

「ええ、まあ……。さっきもミスを注意されてましたし」

「あの時は助かったよ。高野には、今は仕事のことであまり思い詰めて欲しくない」

「別にそこまで考えていたわけではないですよ。約束していたことでもありますし、手伝って欲しかったのは本当です」

 話すネタを持っていて、上司から振られていた仕事を後回しにしても良くなったのを聞いていたから話しかけた。先輩に対してなにかしてあげたいと思いつつ、自分にできることがないのも自覚している。

「ここ最近は以前よりずっと明るくなりましたね」

「さっきも俺の話しを右から左に聞き流してたくらいだしな」

「あ、やっぱり聞いてませんでした?」

「絶対聞いてないな」

 相貌を崩して笑う上司につられて、ぎこちない笑いを零す。仕方ないなとでも言いたげに、上司は今日何度目になるかわからない溜め息を吐き出し横を向いた。その向かう方向を追いかけた先には、きれいに片付けられた高野先輩のデスクがあった。

「まあ、これも悪いことではないんだがな」

「そうですね」

 上司の心のもやもやが伝染したのか、自分もため息を漏らす。

「なにせ、結婚したばかり、ですからね」



***



 ――家に帰るのが嫌だった。

 玄関の扉を開けて中に入ると、そこには生活感があるのに誰もいない。幼い頃に母親を亡くした僕は、父が働いているために、学校から帰るといつも独りだった。僕が成長し、大学で上京して一人暮らしを始めてからも、部屋を覆う虚無感が優しかった母のことを思い出させた。子供だった僕に耐え難い孤独を味わわせた無人の家は、いつまでも喪失感を与え続けていたのだ。

 部屋で独り過ごすことが嫌だった僕は、人恋しさを紛らわす術を求めた。大学生の頃は毎日夜遅くまで友人と遊び歩いたし、一晩飲み明かしたことも数え切れない。社会人になってからもそれは変わらず、相手が同僚や後輩に変わっただけだ。

 しかし百合子と付き合い始めてからは、玄関の扉を開いても寂莫を感じる機会は減り、結婚式を挙げてからはその強い感情は日常の中に溶けてしまった。

 母の死を忘れたわけではない。胸を押しつぶすほどの心の傷が癒えたわけでは決してない。ただ意識することがなくなっただけだ。

 僕の部屋に百合子への想いが詰め込まれ、代わりに暗い感情は押入れにしまい込まれるように薄れていったのだ。

 これが思い出になるということだとしたら、自分は移り気な人間かもしれない。何かのきっかけで心の中に燻っていた気持ちが見えなくなってしまうのなら、いつか百合子と出会えた喜びや、他の様々な感情も置き去りにしてしまうのではないか。そのことに気が付いてしまうと、ここ最近の自分は心の底から笑ったり、怒ったりしたことがあっただろうかと、自分がわからなくなる。

 心の起伏が緩くなり、無機質になっていく日常。いつからこうなってしまったのか、僕は自覚している。

 ――それでも僕は、部屋の前で佇む日々には戻りたくなかった。


 ふと我に返ると、電車内で最寄り駅への到着を予告するアナウンスが流れていた。

 顔をあげると、一組の男女が親しげに会話をしていた。カーブに差し掛かった遠心力で倒れそうになる女性を、男性が支えてあげている。二人には親しさはあれど睦まじさはなく、職場の同僚といった間柄だろう。

 誰とも付き合っていない時期は、当時の自分と同じ年頃の男女を見ると、カップルだろうかと羨望の眼差しで追ってしまったものだ。しかし最近は、どちらかというと若い組合せよりも結婚していそうな年齢の男女の方に視線が吸い込まれる。自分の中で気持ちの変化が生じたためだろう。

 僕は目の前の二人を視線の端に追いやり、何を見るでもなく顔を上げて目を瞑った。暗闇の中に妻の姿が浮かび上がり、僕に柔和な笑みを向けている。

 ――僕はもう、独りではない。これから向かうのは抜け殻のような家ではなく、妻の待つ家なのだ。

 やがて駅に到着して電車が停まると、ドア付近にいた僕は誰よりも先に電車を降りた。

 愛する妻の待つ家へ帰るために、夏の暑さでむせ返るような外へ大きく一歩を踏み出していった。



***



 鍵を開けて家の中に入ると、そこには薄暗い闇が広がっているようだった。

「ただいま」

 寂しさを振り払うように大きな声を上げ、奥の部屋まで届かせる。スリッパをぱたぱたと鳴らして歩みを進めながらネクタイを外し、リビングのソファにカバンとともに放り投げて寝室へ辿り着く。

 逸る気持ちを抑えながらゆっくりと戸を引く。漏れてくる冷気に眩みそうになりながら顔を覗かせると、窓から差し込む夕日に目を細める。壁際に備えられたベッドの上の少しだけ膨らんだ、柔らかな桃色の肌掛けに包まれた人物を見て口元が緩む。

「ただいま、百合子」

 ――おかえりなさい、あなた。

 今にも消え入りそうなか細い声で、妻が嫣然とした笑みを携えて僕を迎えてくれた。


 冷房をかけっぱなしにしている寝室に入ると、熱を持った体が急に冷えてわずかに身震いした。それを見逃さなかった妻が「――大丈夫? 温度を下げすぎたかしら」とリモコンに手を伸ばす素振りを見せたので、妻の手に手のひらを重ねてやんわりと押し止める。

「平気だよ。それより百合子の方こそ調子はどう? どこも痛いところはない?」

 気に病むことのないようにと、ベッドの端に腰掛けながら気安く投げかけた問いに、妻はゆっくりと首を振って応える。

「それは良かった。とはいえずっと寝たきりだと良くないから、少しの間だけでも体を起こそうか」

 そう提案して背中に手を伸ばしたが、着ている物の襟元から覗く石膏のような白の肌に思わず手を止める。

 ――どうしたの?

「……なんでもないよ」

 小首をかしげる妻を笑顔で誤魔化し、肩の後ろに手を回して抱くようにして起き上がらせる。枕元に置いてある大きめのクッションを掴み取り、腰とベッドの間に差し込む。

「今日もマッサージするよ」

 肩を並べるように座り直して、腰まで伸ばして一つに纏められた髪を、お腹側へやる。再び顔を出した逡巡を唾と一緒に飲み込んでしまい、妻の背中に手のひらを添え痛みを与えない力加減で擦り始める。壊れ物を扱うような不安と緊張を知ってか知らずか、妻はくすぐったそうに少しだけ身を捩りながら、ありがとうと呟いた。


 透き通るように白い肌は、目を凝らせば血管が透けて見えそうだ。下手に触れると傷が付いてしまうのではないか、力を込めて押し込んだら崩れ落ちてしまうのではないか。そんな不安を抱くほどの肌だが、実際に触れるときめ細やかで、ふわふわと柔らかで、想像する手触りとのあまりの落差に戸惑いを覚える。

 寝たきりの妻の苦痛を少しでも軽減するために、マッサージを施すことを日課としている。毎日触れている妻の体だが、しかしいつまで経っても躊躇いは拭えない。

 妻の体は病気に蝕まれ、日に日に弱っていく。最近は寝たきりで過ごす日も多く、筋肉が落ち、体重が減り、今でも綿のように軽い細身の体はますます痩せていくだろう。病のせいで会話をするのも大変なのか、言葉数も減ってきた。昨日まで気持ちよさげにしていたマッサージにも、今日は苦痛を訴えるかもしれない。愛する妻を傷付けたとあっては、僕の心はバラバラに砕けてしまうことだろう。

 そうは思いつつも、ずっと横になっている妻の負担を和らげるには、マッサージのようなケアが必要になってくる。寝ているだけで苦痛を覚えるようになるまで妻を放置することも、僕は選択できない。だから毎日恐る恐ると手を伸ばし、未だ病の侵食を感じさせない妻の体に触れる。妻の方も気持ちが良いのか、頬を上気させながら時折艶かしい息を漏らす。

 僕は、まだ大丈夫だと自分に言い聞かせながら、今日も妻との会話を弾ませる。


「おっと、そろそろ夕飯を作るよ。食べたいものはある? 何でも作るよ」

 後輩をネタに盛り上がって話題も尽きてきた頃には、部屋に差し込む夕日が赤みを増していた。時間の経過を察した僕は言いながら立ち上がり、これ見よがしにシャツの腕を捲くる。そんな僕の何でも卒なくこなす男アピールを見抜き、彼女は鈴を転がすように笑う。

「随分と話し込んでしまったね。お腹が空いてるだろうし、お肉がいいかな」

 ――そうね。美味しいものがいい。

「難しい注文をするね。そうだな……挽き肉があったはずだから、ハンバーグにしようか。百合子の好きな、チーズが乗ったやつ」

 ――じゃあハンバーグでお願いするわ、コックさん。

 無邪気な子供のように笑いながら、期待を乗せた視線を寄越す。これは料理だけでなく寸劇も求められていると感じた僕は、声のトーンを下げて大げさに礼を執りながら応える。

「かしこまりました、お客様。少々お時間いただきますので、ごゆっくりお待ち下さい」 

 ごゆっくりの辺りで堪え切れずに妻が吹き出したものだから、僕まで気恥ずかしくなってしまった。

「じゃあとびきり美味しいハンバーグを作ってくるよ。夕飯ができたらまた呼びに来るから、それまでゆっくり休むと良いよ」

 早口に捲し立てて照れを誤魔化しながら、僕は踵を返す。それすらも看破されたのか、後ろからくすくす笑う声が聞こえる。敵わないなとぼやきながら部屋の出入り口で立ち止まり、顔だけで振り返る。

「また後で」

 ――ええ、待ってるわ。

 短い遣り取りを交わし、茜さす空間に妻を一人残して僕は部屋を後にした。

 言葉だけでなく、百合子を想う心も置いていければいいのにと思いながら、台所に向かうのだった。



***



「先輩の奥さん、結婚してすぐに病気が見つかったって聞いてます」

 定時後の打ち合わせから上司が戻ってきた頃には、もうすっかり日が沈んでいた。

 その間自分が何をしていたかといえば、だらだらとデスクに向かって作業していた。

 先程は上司が話を切り上げて、打ち合わせへと向かった。先輩の奥さんが病気を患ったことは本人からも直接聞いていたが、なんの病気で、どの程度重いのかは知らなかった。先輩もあまり言いふらして回っている様子ではなかったため、病状が良くないことを察してあまり気にしないようにしていた。しかし、それでも知りたいと思ってしまうのが人間である。悶々とした気持ちでは仕事が手に付かず、さりとてこの厄介な感情を抱えたまま退社する気にもなれず、惰性でデスクに貼り付いていた。一人二人と帰路につき、今オフィスに残っていたのは自分だけだ。

 だから上司がに戻って来るなり、褒められた行動ではないと自覚しているが、尋ねずにはいられなかった。

「高野のことか」

「はい。自分は何の病気か聞いたことないですが、何かご存知ですか?」

 上司も躊躇われるのか、唇を結んで押し黙った。自分も負けじと目を合わせ続けていると、やがて観念したように口を開いた。

「あまり言いふらすんじゃないぞ」

 コクリと頷いて先を促すと、上司は次の言葉を紡いだ。

「癌だ。それもかなり末期で、全身に転移していたそうだ」

「……そうですか」

 予想していた病名の一つではあり、ある程度は覚悟していた。しかし実際に耳にしてしまうと、相づちを打つことしか出来なかった。

「骨にも転移していたそうで、体も弱っていたんだろう。転んだ拍子に太腿を骨折して寝たきりだ」

「癌って、そんなになるまで気付かないものなんでしょうか」

「そこが癌の怖いところなんだろうな。若いほど病気の進行が速いとも聞く。発見したときにはもう手の施しようがなくて、医者も匙を投げたと聞いた」

 病気について詳しくない自分は、上司の言葉をすぐに受け入れることは出来ないが、どうしても考えてしまう。何か出来ることがあったのではないかと。しかし事実として、手の施しようがないというのは本当だったのだろう。

「高野と奥さんは確か同い年のはずだから、三十一歳か。結婚したばかりだっていうのに」

 上司の口から、惜しむような声が零れた。

 

 一度だけ、先輩の家へ飲みに招かれたことがある。その時に先輩の奥さん――当時はまだ結婚していなかったが、百合子さんを目にした。

 美人というよりは、可愛らしい人だった。セミロングの髪を揺らしながら鼻歌混じりに料理し、男二人に振る舞ってくれた。先輩とのくだらない遣り取りも横でニコニコしながら聞いていて、時折冗談を言って先輩をからかっては楽しんでいた。先輩も満更でもなさそうで、甘ったるい空気に当てられ、急に込み上げた胸焼けのようなものをビールと共に飲み干したのを覚えている。

 二人はとても幸せそうだった。明確に意識することはなくとも、先輩も百合子さんも、これからもっともっと幸せになるのだと信じていたに違いない。

 しかし二人の幸せな未来は、百合子さんの病気によって打ち砕かれた。


「あっという間でしたね」

 幸せな過去から現実に意識を戻して呟く。

 百合子さんの病気が発見されたのは、結婚してから一ヶ月も経たない頃だろう。式が挙げられて一月も待たずに、先輩の様子がおかしくなったのを覚えている。

 結婚したばかりなのに、医者から奥さんの病気を告げられた時、先輩はいったいどんな気持ちでいただろうか。幸せの絶頂から叩き落とされたその心中は計り知れない。

 最後の夜に目にした先輩の姿が今でも忘れられない。暗い顔でお別れを告げに来る人々の手前、先輩は力の抜けた拳を膝の上に乗せ、終始抜け殻のように呆然として床を見据え続けていた。

 当時の先輩の哀れな姿に、自然と俯いてしまう。と、おい佐藤と呼ばれたので顔を上げようとしたところで背中を叩かれた。

「お前その不景気な顔を止めろ。お前まで暗い顔をしてどうするんだ」

 言うと同時にもう一度背中が叩かれ、活を入れられる。

「高野と一番中が良いのは佐藤じゃないか。やっと最近になって高野も調子を取り戻してきたってのに、お前がいつまでも後ろ向きでいたら逆戻りだ」

「――っ!」

 ハッとして自分の顔を手で覆う。確かに上司の言う通りだと心の中で頷く。先輩が涙に暮れている時、一緒になって悲しんでしまうのは、それだけ先輩を慕っている証拠だろう。だが今はもう、先輩は悲しみを乗り越えるステップに移っている。一番辛いはずの高野先輩が乗り越えようとしているのに、それを支えるべき周りの人間が足を引っ張ってどうするのか。

「新人の頃から高野に面倒見てもらっているんだろう、立派になりやがって。今こそ恩を返すチャンスじゃないか。……そうだな、今度高野と飲みにでも行ってこい。親睦会費出してやるから」

 目線を上げると、上司が人の良さそうな笑みを浮かべていた。

 そうだ、このままでは駄目だ。先輩にしたって、表面上は落ち着いて見えるけれど、気持ちの整理が完全に済んでいるわけではないだろう。アドバイスに従って、料理の美味しい居酒屋でも探して先輩を連れて行こう。腹いっぱい料理を食べさせて、浴びるように酒を飲ませて、そして愚痴でも聞いてあげよう。アルコールで感情の枷を外して、頭が空っぽになるまで気持ちを吐き出させれば、きっと酔いが醒める頃には何もかも忘れて、新しい一日に向かって歩みだすことが出来るだろう。

 もう一度顔を伏せ、今度は笑顔を作ってから顔を上げる。それはきっと、どこか不格好な顔になっていたかもしれない。

 上司の粋な心遣いに感謝しつつ、力強く頷いた。



***



 日もすっかり沈んだ頃、男は隣の部屋から大きな物を抱えてきた。骨董品を扱うかのように丁寧な動作でそれを食卓の椅子に起き、自らは向かい側の椅子に腰掛ける。男とそれとの間には、二人分の食事が用意されていた。

「いただきます」

 男は何が嬉しいのか、機嫌良さそうに手を合わせながら言った。 

「今日のは自信作なんだ。うまく肉汁を閉じ込めることが出来たと思う。食べてみてよ」

 箸を手に取りながら、はしゃいだような声を出す。しかしそれは、物音一つ立てることなく椅子の上でじっとしている。

「おいしい? それは良かった。ハンバーグなら余分に作ってあるから、おかわりもあるよ」

 男の声が、誰もいない部屋に虚しく反響する。

「百合子にはたくさん食べて、早く元気になって欲しいからね」

 返事はない。

「面倒だなんて思わないよ。百合子に食べてもらえるなら嬉しいよ」

 誰もいない。

 それから暫くの間、男は誰もいない空間に向かって喋り続けた。手前の皿の料理をすべてお腹に収めた後も、男は冷茶をちまちまと飲みながら、誰の耳に入れるでもなく、言葉を無駄にしていった。

 すると、何かに気付いたように男は言う。

「あれ、どうしたの百合子? お腹空いてない?」

 向かいの椅子のそれの前には、誰も手を付けていない一人分の冷めた夕飯がある。

「いいって、そんなに謝らないでよ。無理に食べさせるものでもないし、残してもいいよ」

 男は困ったような表情を浮かべながら、けれど楽しそうにそれを眺めている。

「それじゃあどうする? お茶でも飲む? ……そうだね、疲れてるならベッドに戻ろうか」

 男は椅子を引いて立ち上がり、それの隣に膝をつく。

「それじゃあ持ち上げるよ。よっと」

 掛け声とともに、男はこの部屋に入ってきた時と同じくそれを大事そうに抱える。それからゆっくりとした歩みで隣の部屋へ入り、腕の中にあるものをベッドに横たえる。肌掛けを引っ張り、ふわりとそれを覆う。

「今日はもう寝てしまうと良い。僕も早めに休むよ」

 目を細めながら顔を寄せ、男は触れたかどうかもわからないような口づけをした。

「おやすみ」

 男は呟いて立ち上がり、部屋の入口へ移動する。

「良い夢を」

 壁に埋め込まれたボタンを押すと、バチッという硬質な音とともに照明が消えた。背後に光を携えた男が戸を閉めると、室内は完全な無人となる。

 ベッドの上には、男が「百合子」と読んでいたそれが残された。

 感情の宿らない瞳で天井を見つめるそれは、男と妻が新婚旅行で訪れた京都で購入した、人の子供ほどの大きさの京人形であった。



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