マリコさん
未来はその日大学生になって、それと同時におかしな女子大生にでくわした。
おかしな女子大生の正体を話す前に、まずは、そもそもどうして未来が大学生になったのかの話から始めなければいけない。これは実に簡単な話だが、未来が通うことになった大学で入学式があったのだ。未来にとってそこは、別に望んで入った大学でもないし、かといって他の大学に入りたくて猛勉強をしていたわけでもなかったから、どうでもいいことだった。
二時間程度に及ぶ入学式のあと、未来は誰よりも早く、会場である体育館から出た。着なれないスーツはとても自分には不格好で、履きなれないヒールは靴擦れのせいで踵が特に痛かった。早く帰りたい気持ちをおさえて、バスプールへの道を痛む足を気にしながら歩き始めたところへ、体育館からでてすぐ目の前に、運動場があることに気がついた。
そこは運動場でありながら、周囲を雑草や木々に囲まれていて涼しそうで、どうしてそれでも運動場とわかるのかは、トラックとおぼしき白い線が中央に楕円を描いているからであった。普段は生徒たちの憩いの場にでも使われていそうな、そのスペースに、一人の、未来とそう歳の変わらない女子大生が寝転んでいるのを彼女は発見したのだ。
そして、冒頭に戻る。
その女子大生はスーツを着ていたが、それの汚れるのを気にせずに運動場の草原側に寝転んだまま、まるで死んでいるかのように目を閉じていた。
好奇心にかられて未来が一歩、また一歩というふうにその女子大生へと近づいていくと、彼女は気配で気づいたのか、不意にぱっちりと大きく目を開いた。
「誰だ、お前」
女子大生はこちらを見ずに未来に問いかけた。驚いた未来は視線をあちこちへと向けて、そしてその場に自分しかいないと知るや、えっと、と口ごもり一歩後ずさった。
「誰だ、お前」
女子大生はなおも同じことを聞いてきた。未来は意を決して彼女に問いかけた。
「あなた、一年生よね」
「そうだけど。それが?」
「早かったわね。私、こう見えて体育館から一番に出てきたと思うんだけど」
「そりゃそうでしょ」
「え?」
「だって私、入学式にでてないし」
未来はあっけにとられて女子大生を見た。ということは彼女は、入学式をさぼったということだろう。そんなこと、しても良いのだろうか。
女子大生は未来を気に止めずに、よいしょと掛け声をかけながら起き上がった。背中についた土汚れとか草などをぱんぱんと適当に払い、立ち上がってお尻についているのも払ってからゆっくりと伸びをした。そして未来に問いかける。
「スーツ着てるってことは、きみも一年?」
「……そうだけど」
「てことは入学式終わったのか。よし、じゃあ帰ろ」
女子大生は脇に置いてあった革製の鞄を手にしてバスプールに向かって歩き出した。未来は慌ててそのあとをついていく。単なる好奇心だった。
「あなたじゃあ、ほんとに入学式でてないの?」
「さっきも言った。しつこいなぁ。入学式にでなくたって別に問題ないでしょ。出席確認をしてるわけでもないし」
女子大生はすたすたと早足で歩いて、未来はそれに追い付こうと精一杯だった。靴擦れの踵がじんじんと痛みを訴えてくる。それでもこの女子大生に興味を持たざるを得なくて、未来は彼女のあとをついていった。
「やれ学長の挨拶だの、来賓だのって。くだらない。どうせあいつらだってくだらないって思ってるよ。とりあえずお呼ばれされたから出席して『入学おめでとうございます』を言えばもう用済み。むしろ主役は自分たちだと思ってる始末だ。あの顔を見てればわかる。どいつもこいつも似たような顔しやがって」
吐き捨てるように女子大生は言い切り、バス乗車の列に並んだ。未来もその後ろに並ぶ。周囲には未来たちと同じくスーツに身を包んだ女子大生たちや男子大生たち、そしてその父兄たちが多かった。未来の両親は仕事で来られそうになかった。
そういえば、まだこの不思議な少女の名前を聞いていなかった。
「私、未来っていうんだけどさ。ねえ連絡先交換しない?」
大学には知り合いがいなかった。まさか親しい友人もできないまま、学校生活が始まるのかと思うと、それはごめんこうむりたかった。目の前の彼女も友だちがまだいなさそうだし、ちょうどいいと思ったのだ。
ところが彼女の答えはこうだった。
「私は万里子。今の答えはちなみにノー」
すっぱりと切り捨てた彼女に、未来はしばらくのあいだ物も言えず、どうして否定されたのかわからなかった。女子大生はちらっと横目で未来を見てこう言った。
「群がるの嫌い」
やがてやってきたバスに、未来は乗らずに万里子と数十名の父兄と学生たちを乗せて出発した。
***
初日から友人になれると思っていた人にふられ、不安を覚えていた未来だったが、一ヶ月もする頃には同じ授業を受けているよしみとして、ある程度の人と仲良くなることができ、そうなってしまうと割りとあっけなく学校という環境になれてしまった。
未来が万里子に再び会ったのは、初夏を迎えようとしている頃のことだった。彼女はやはり、運動場の草原側で気持ちよさそうに眠っていた。
しかし、未来が完全に近づく前に万里子はまるで初めから気づいていたかのように、その瞳を開いた。
「おはよう」
「……おはよう」
万里子はよいしょ、と掛け声をかけて起き上がると、ゆっくりと伸びをした。「授業は?」と未来が尋ねると、彼女は堂々と「サボった」と答えた。
やはりな、と未来は思った。度々ある授業でよく彼女の名が講師によって呼ばれることがあったが、あまり姿を見かけたことがなかった。とはいえそれをとがめるつもりはない。未来も今日、その授業をサボってしまったのだから。
万里子の隣に座ると彼女はそこを一目見ただけだった。
「どうしてサボったの?」
「嫌いな女がいるから」
またどうしてくだらない。未来は思いもよらなかった。そのあいだに万里子は突然憤怒の顔になったかと思うと、早口で語りだした。
「すっげぇむかつくあの女! 『私ぃ、麺類よりもお米派なのぉ~、だってぇ、麺って汁が跳ねるしぃ、油っこいし~』」
万里子のぞんざいな口調からは想像ができないほどのかわいらしさの強調された声が突然発せられ、未来は目を白黒させた。そして、そういえばそんな女子大生が教室にいたことを彼女は思い出した。
「お前は一生米も麺もパンも食うな! 食べ物に対する侮辱だあれは。第一、あんなかわいい声だして自分がかわいいですよアピールかよ、気持ちわりぃ! 家ではどうせきったねぇ声でしゃべってんだぜ? そういう女って」
「そんなこと言ったってしょうがないと思うけど」
未来の言葉を無視してなおも万里子は語り続ける。
「しっかも男にばっか媚び売りやがって気持ちわりぃ! キャバ嬢かよ、浮かれすぎてるアイドルかよっ! てめぇはとっとと人魚姫にでてくる海の魔女に声とられて泡になっちまえばいいんだっ!」
すっかり頭のおかしい人の発言である。未来は呆れかえってしまった。初対面のときはなんてクールな人なのだろうと思っていたが、とんだ勘違いだった。彼女はクールを装ったクレイジーな人間だ。
「それを嫉妬っていうんじゃないの?」
「は! 嫉妬? バカ言うなよ。私は男も女も嫌いだ。というか人間が嫌いだ。あんな自分のことしか考えられないような奴らなんて好きになれるわけないだろ?」
「人間だけでなくて、動物は結局自分のことしか最終的に考えないわよ。他人のために動いて努力する人間なんて言うのは所詮、マンガや小説の中だけよ」
万里子はチッと舌打ちをしたかと思うとまた草原に寝転んだ。授業中の学校内はとても静かで時折人が運動場を出入りするくらいだった。みんなして不機嫌そうな顔で草原に寝転んでいる万里子とそれの傍らに黙って座り続けている未来とを交互に見やって首をかしげている。もしかしたらこの光景はこの二人があたかも喧嘩しているように見えたかもしれないが、ただ一方的に万里子が世界を憎むがごとく怒りをあらわにしているだけで、未来はそれに付き合っているだけだった。
さて、時間はそれから五分ほどすぎた。互いに何もしゃべらなかった。万里子は仰向けになったまま空を流れる雲の流れを見つめていたし、未来は昼休みに食堂で売られていたミックスパンよりも焼きそばパンのほうが美味しそうだったと思った。ミックスパンは野菜とソーセージとケチャップとマスタードがコッペパンにはさまっている物で、焼きそばパンはやはりコッペパンに焼きそばが挟まっている物だった。値段だって焼きそばパンのほうがはるかに安かった。今度から焼きそばパンを買おうと思った。ちなみに未来が今日買ったパンは、ミックスパンでもなく焼きそばパンでもなく、何故か全く関係のない焼きおにぎりが二つだけだった。実を言うと、おにぎりのほうがかなり安かった。
***
それから間もなくして、一週間後のことだ。事件が起きたのは。いや、それは果たして事件だったのか。今となっては難しいところだった。人によってはどうでもいい長話で、しかし未来や万里子にとっては相当な事件に値した。ともあれ、付き合ってほしい。
その日、授業へ向かう前に未来は運動場の近くを通った。そしてそこにいるはずの万里子がいないことに気付く。珍しいこともあるものだと思いながら、さては風邪で休みか、それこそ学校を欠席してしまったか、あるいは気まぐれを起こして授業に出席する気になったのかもしれない。三番目が正解だった。万里子は未来がやってきた教室に、すでにいた。
いつも着ている白のシャツと黒のズボンという格好を彼女はしていなかった。今日の服装は全体的にオープンだ。空色の袖無しシャツに白のミニスカート。化粧だってしている。
いったいどういう心境の変化なのか。
いつもの、人が近づきにくくされてしまうような威圧感はどこへやら、きょろきょろとあたりを見渡している。せわしない。未来は近づくのをよそうかと今更思ってしまったが、それを実行に移すより先に万里子自身によって気付かれてしまった。
「ちょっと来て!」
万里子は未来と目が合うなり椅子から立ち上がったかと思うと、彼女の手を引っ張って周囲が注目しているのをよそにさっさと教室を未来と共に飛び出した。廊下をずんずんと進んでいき、人の気配が少ない階段下まで連れてきたかと思うと、やっと万里子は立ち止まって未来と顔を合わせた。がしっ、と両肩をつかまれる。
「やばい」
「何が」
「好きな人できちゃった」
「へ?」
何を言われたのかと未来はしばらくのあいだ言葉を失った。万里子の目を穴の空くほど見つめ続け、そこに嘘がないことはすぐにわかった。鋭い眼力はいつも以上に鋭くなっていて、見た者を震え上がらせるほどのものだった。
しかし未来は、万里子のその変わりようの方が少し恐ろしかった。
今日の万里子の服装を未来はもう一度見てみる。いつもは目立たず、おしゃれなんて少しも意識していないシンプルすぎる服装をしていたはずなのに、今日はやけに、特に肌を意識しているのか全体的にオープンだった。細い腕をだして胸元は少し開けている感じだ。白い太もももしっかりとでていて、いささかやりすぎな気がした。
呆然としている未来をよそに、万里子は語り出す。
「もうやばいのそいつ――あ、その人! ちょっと挨拶しただけなのに、『おはよう』って挨拶返してくれて! かっこいいの! 私が運動場で寝てたら、『こんなところで寝てたら風邪ひくよ? あと授業に遅れるから』って。あいつ――あ、あの人! 絶対私のこと好きだわ。今からどう落とそうかって悩んでるんだよ。私もアピールすべきだよねそういうの!」
「それ。ただの挨拶と気遣いだったんじゃないの?」
「なわけあるかよ! あ、そんなわけないでしょう?」
いつもの彼女と一八〇度ガラリと変わったその性格に、未来はどういった表情と言葉を返せばいいのかわからず、苦笑いのような表情を浮かべていたかもしれない。仲が良かろうと悪かろうと、こういう性格の人間なんだと認識していた人が突然、態度をがらりと変えてしまったら、誰だって驚くことと思う。未来がそうなのだから。
そのうえ万里子は口調まで変わってしまった--いや、変えたのだ。これは何かあるに違いないと、未来はただ恐怖しか感じなかった。おそらく逃げるのなら今だろう。
「あ、そう。ところでもう授業始まるしそろそろ行くべきだと思うわよ。それじゃ」
「待ちなさいってば」
逃げ去ろうとした未来の腕を、がっしりと強く万里子がつかんだ。爪は紫と赤に色付いていた。
「私、今日さっそく告白してくるわ」
「唐突すぎるんだけど」
「善は急げってやつよ! それにほら、こぉんなかわいい格好してるのに落ちないほうがおかしいってば!」
おかしいのは君の考えである、未来は即座にそう思ったが言わないでおいた。いくら大学生とはいえまだ高校の垢が抜けない年頃だ。ちょっと男子と目が合っただけで浮かれて、あの人は自分を好きなのではないかと勘違いする。今の万里子は同級生にアタックすることに情熱をかけるよりも、夜のホテル街を歩いていたほうがよほど男を釣りそうだった。その男の年齢層はさておくとしても。
どうあれ、かわいいの基準を履き違えているが、未来はアドバイスをする気にはなれなかった。男程度で態度をころころ変えるなんてくだらないと思ったのだ。それこそこの前、万里子が大きな声で豪語していた「男に媚びばっか売ってそう」な状態に万里子は実際なっていた。
「私が告白しておっけいだって言われたら、すぐに祝杯あげよう! 盛大なパーティになるからね! ああ楽しみ!」
そのときチャイムが響き渡り、万里子はスキップをしながら教室へと戻っていった。後になって未来も続いたが、万里子の言う告白が仮に成功しなかったらその祝杯はどうなるのだろうと半ば以上本気で考えていた。
結果はすぐに知れることとなった。
***
「ばっかやろおおおおおおおおおおおおおおおっっっ!」
万里子が叫んだ声は、夕方の空をつんざかんばかりに響きわたり、そしてもしその叫び声が目に見える形で表れていたのなら、大気圏を優に突破し、あっという間に宇宙空間へととどろいたことだろう。
その声を隣で耳をふさいで耐えていた未来は、バス停からここまで引っ張られてきた経緯を思い出す。授業を終えた未来は最寄り駅まで行く学バスに並んでいる最中、突如万里子に「ちょっと来て!」と呼び止められ、引っ張られ、何故か一号館の屋上まで連れてこられたのだ。あまり人が立ち入らないゆえに枯れ葉などのゴミが散らかっている。
「なんであいつ、私に優しい顔向けておいて、私のこと好きじゃねえんだよっ! おっかしいだろ! ならお前が私に向けていたその顔は何だってんだよ! ただの社交辞令か? バカにしてたんか? そんな気遣いいらねえよちくしょうがっ!」
散々その男子を罵倒する言葉を並べながら、万里子はその場で地団駄を踏んだ。その場にあったゴミなどが飛んで砂埃がたつ。未来はその様子を眺めながら何も言わなかった。いや、言わないでおいた。
失恋、というべきなのだろう。この状況からして。だから何を言っても今の彼女には気休めにしかならない気がした。未来は黙り続ける。万里子はいつまでも地団駄を踏んでいる。あほらしい、と未来は感じた。それこそ、万里子がよく感じているように。
万里子は不意にそれをやめた。怒りはそれでもおさまらないらしく、しばらくのあいだ肩を震わせていたが。
「今から何か食べに行こう」
「……はあ」
ふられたというのに何か食べに行こうと言うのは、祝杯でないことはたしかだろう。彼女は妬け食いでもするつもりなのか。万里子は突っ立ったままの未来の手を引っ張った。
「ほら行くよ、行くよ!」
未来は万里子に引っ張られるがまま、屋内に入った。万里子はそのまま近くの階段をおりるのかと思いきや、廊下奥に設置されてあるロッカー群のうちのひとつに歩みより、それを開けた。
そこにはごちゃごちゃと教科書やら化粧道具やら鞄やらが無造作に置かれていた。彼女らしいといえば彼女らしいのかもしれない置き方だった。
万里子はそこにある紙袋を取り出すと中から白いシャツと黒のズボンをだした。そして誰もいないことを確認せずにそのままその場で着がえだす。未来は少々あきれていた。夜の繁華街がにあいそうな服から彼女はいつもの格好に戻る。こんなところ誰かに見られでもしたら本人は気にしないだろうが、相手は顔を真っ赤にして逃げ出すだろう。本人は気にしないだろうが。
紙袋をたたみ、次に彼女は鞄を取り出した。愛用のものなのだろう。初めて出会ったときにも持っていた。しかしあんなに綺麗だったその黒の革製の鞄はすっかり角がすれてぼろぼろになっていた。きっと扱いが悪いのだろう。ロッカーの中は滅茶苦茶に物が散乱しているし。
黒い革製の鞄からでてきたのは、化粧ポーチだった。それもやはりぼろぼろだった。万里子は化粧落としをそこからだすと、ロッカーに付随してある鏡を見ながらばしばしたたいていって、あっという間に顔がいつも通りに戻っていった。断然こっちのほうがいい。
いつも通りの彼女に戻ると、鞄を手にしてロッカーを勢いよく閉めた。
「さ、行こう」
「どこに?」
首をかしげる未来の手を万里子は引っ張る。
「適当に何か食べられるところ!」
「食堂とか?」
「あんなところじゃなくて!」
「でもここら辺、全然行くところないじゃない」
「バスで行くしかないでしょ」
「私、帰りたいんだけど」
「失恋した私に対して扱いひどくない?」
「私が失恋したわけじゃないもの」
未来はため息をついて万里子が引いていた手を振りほどいて、彼女の先を歩き出すのだった。