恋
その瞬間、世界が止まってしまったように感じた。
風はやみ、エトワールは静かに頭を垂れて、日差しさえも温度をなくした森は無音になった。
――キスって、なんて不思議なの?
本気になるまい、好きだと認めるまい、とかたくなに張っていた意地が、あっけなく崩れていく。
温かな彼の唇と私の震える唇は、ぴったりと隙間なく合わさって、粘膜の触れ合いは手をつなぐこととも身を寄せることとも違う感情を呼び覚ます。
「ん……ふ……」
すり合わせるようにして、しばらく押し当てられていた唇が離れたとき、ちゅっ、と小さな音がした。それが森じゅうに聞こえてしまったのではないかと私は頬を熱くし、おろおろとうろたえた。
――だって、キスなんてしたことがないし、自慢じゃないけどキスシーンのある映画やドラマだってほとんど観たことがないし……。
そんなものは私が寝ている時間にやっているから、私には無関係だったのだ。
「怖い?」
落ち着きがない私に、ロビンハルトが首を傾げた。
思いやりのある声と、私を気遣う表情が、さらに私の胸を苦しくさせる。
「……あの」
なんといっていいかわからない。怖いわけじゃないけれど、こんなことをしていいのか不安だ。
「俺たちは違う世界に住んでいる。親密になるのが怖くて当然だ」
わきまえている発言に頼もしさを感じる。
そんな素敵な言葉を放つ彼の目が、すさまじい魅力を持って私を見る。
端整な容貌の中でもひときわ目立つ彼の瞳は、光をたたえていて、たとえ暗闇にいても炯々《けいけい》と輝くのだろう。神々しいほど美しく、うなだれてしまうほど清らかな彼の眼差し。
(ああ……綺麗……好き……)
ふいにそんな甘い感情が込み上げてきて、心臓の鼓動がうるさくなる。
もはや私の感情は、アレッサンドラの城で泣き叫び手を合わせていた女性たちと変わらない。
悔しいとか騙されたとか、そんな気持ちにはなれない。
途方もない感謝が込み上げてくる。
――ロビンハルトと一緒にいられてよかった。
異世界で生贄にされ、略奪され、さらには悪の魔王に無理難題を押し付けられているけど、絶望していないのは彼がいてくれるから。
恋が絶望から私を救ってくれている。
彼の放つ魔法は、癒しだ。
「これからお互いに助け合っていこう。俺はクレナを必ず守る。だからクレナは俺のそばにいて、俺の心を支えてくれ」
「私が心の支えだなんて……」
――ロビンが恋しているのは魔法のせい。
虚ろなイブの言葉が耳にこびりついている。
それでもロビンハルトの目に惹きつけられる。その不思議な色合いを持つ瞳の力に、引きずられていく。
キスを受けた唇が、ふつふつと熱を持つ。
「アレッサンドラを取り戻さないといけないのはわかっている。でも、そんなに急ぐことはないよ。イブは伊達に10年待っているわけじゃない。俺は君とエトワールと、それからフランソワと一緒にもう少しここで過ごしたいな」
私の手を取って握ると、にっこりと笑いかける。
誠実な彼の声は、それが心からの言葉に聞こえてくる。
もちろん、イブの術にかかっている今は、それがロビンハルトの本心なのだろう。
――もうすぐまやかしは解けて、恋心なんてなかったことになるけれど。
そう思うと、壁のない豪邸にいるこのひとときが、胸苦しいほどに愛おしい。
森の中で過ごすふたりと一匹、そして一頭の時間。
「私も……そう思うわ」
本当なら、早くアレッサンドラを連れ帰って、ロビンハルトの魔法を解き、私は東京の家に帰るべきだ。
でも、もう少し……もう少し一緒にいたい。
「クレナの茶色の目は、未来を見ている。澄んでいてとても綺麗だ」
彼が低く囁く。
「綺麗なんて」
それは、ロビンハルトにしかあてはまらない賛美の言葉だ。
「君と俺、どちらの世界を合わせても、一番綺麗だ」
恋の魔法で盲目になったロビンハルトのしなやかな指が、私の顎を捉え、ふたたび唇が押し当てられた。
ロビンハルトのまぶたが、そっと閉じられる。
長いまつ毛が震えている。
私はというと、迫力のある端整な美貌に見惚れて、目を閉じることも忘れていた。
――今だけ……今だけ、私のことを心から好きだと思ってくれている人の美しい顔。
現実世界に戻ったら、7時に寝てしまう私に恋なんて無縁だ。この世界でさえ、魔法が解けたら私はロビンハルト信者のひとりになるしかない。
――悲しいな……。
しばし、唇を押し付け合っていると、ロビンハルトの目がぱちりと開く。
「あっ」
驚いて声を上げると、ロビンハルトの唇が離れた。
「ごめん、そろそろ目を閉じたかと思って」
「……見とれちゃって……」
「キスしながら見とれてたの?」
「本当に綺麗な顔だなぁって」
正直に私が答えると、ロビンハルトがぷっと噴き出した。
「知ってる」
にやっと笑うロビンハルトの頬に、えくぼが浮かび、細められた目が半月の形になる。
「ロビンハルトったら」
いたずらっ子みたいな笑い方と、自らの美貌を鼻にかけず、笑いにしてしまう鷹揚さに私もつられてふわっと気分が浮き上がった。
「ロビンハルト教ができるのがわかるわ」
「なにそれ、俺って新興宗教の教祖様?」
「それそれ」
ついさっきまでキスを交わしていたのに、あっという間に18歳同士の軽口が始まった。
「アレッサンドラのお城で、女の人たちすごかった。泣いてたし、拝んでいたわね」
南無南無と日本式に手を合わせて見せると、ロビンハルトが如来像のように指を結んだポーズをとる。
「はい、拝んでいいよ」
おどけた反応に、笑ってしまう。まるで高校の同級生とふざけているみたいだ。
「そういうの……仏教とか、知ってるの?」
けらけら笑ってしまって浮いた涙を、手で押さえながら質問する。
アジアの文化を知っているなんて驚いてしまう。
「クレナの住んでたところだから、急いで勉強した。何でも調べられる魔法の本があるんだ、ムロマチジダイも知ってる。真面目だろ?」
――そうなんだ。
私が眠っている時間は、ロビンハルトにとって長く退屈なことだろう。
その間に日本史から勉強するなんて、発想がいかにもロビンハルトらしくて微笑ましい。
「うん、えらい」
本気で偉いなと思ったし、ロビンハルトって、なにかと真面目なんだとも感じていた。
「ロビンハルトみたいに素直な人は、師匠から教えてもらったことをどんどん吸収するんでしょうね」
しみじみしてしまう。
こんなに性格の良い弟子に、イブったら何をさせようっていうのか。
「それじゃ、クレナにもなにか面白い魔法を教えてあげる」
キラッとロビンハルトの目が煌めいた。




