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 クロトロス神殿の中庭、その奥にひっそりと存在するリュレーンの滝は、イスカヴァルにとって一際お気に入りの場所だった。柔らかな陽光が降り注ぐ早朝、水飛沫が光を反射してきらきらと輝いている。

 鬱屈としたイスカヴァルの心とは似ても似つかない清廉な空気は、今のイスカヴァルにとってとても眩しく感じられた。


『女神』

『ツイ。どうしたの?』


 イスカヴァルの後方に降り立ったツイは、さくさくと草を踏み、イスカヴァルの隣に立った。その表情が、いつもと同じ、穏やかで柔らかなものであることを確認し、ほっと息を吐く。

 こうして普通の、今まで通りに接してくれる神達はすっかり減ってしまった。

 それが悲しくて、もどかしくて、イスカヴァルは毎日逃げるようにこの滝へ来るのだ。

ツ イはふんわりとした空気を纏い、イスカヴァルを気遣う。


『女神がここに居られると聞いて、飛んできてしまいました』

『……そう』


 恐らくはフェルトか、或いはエンラから聞いたのだろう。あの二人とも、先日の一件からぎくしゃくしてしまっていて、イスカヴァルは二人に対してどう接すれば良いのか迷っている。

 何処か苦しげなイスカヴァルの空気を察知し、ツイはそっと先日の一件を追求する。


『先日はクラウスから、ジャルタから愛の告白を受けたと聞いています』

『…………』

『彼らはあなたに、その思いに応えて欲しいと求めたのですか?』

『…いいえ』


 重く口を開いたイスカヴァルの否定の言葉に、ツイは柔らかく、そして殊更明るく軽やかに言い切った。


『女神、あなたが望むなら、その思いに応えれば良い。けれどあなたがそれを望まないのなら、思いに応える必要などありませんよ』

『ツイ、』

『彼らはあなたに、応えて欲しくて言ったのではない。けれど、思いの深さをただ知っていて欲しいと、きっとその思いだけであなたに告白した筈です』


 決して、あなたを困らせるつもりなど、無かったのでしょう。

 ふわふわと緑色の髪を揺らし、ツイは畳み掛ける。


『女神、あなたは今までどおり、あなた自身の思いのまま振舞えば良いのです。彼らが望む以上のものを与える必要は無いと、私は思います』

『そう、ね』

『ええ。だからどうか、彼らに気遣うよりも、普段通りに接してあげて下さい。彼らが今望んでいるのは、ただそれだけのことです』


 ツイの言葉には、所々違和感がある。けれどそれに気づかない振りをして、イスカヴァルはその言葉に頷いた。

 普段通りに、その言葉がイスカヴァルに逃げ場を与えた。

 きっと誰かにそう言って欲しかったのだと思う。

 イスカヴァルは淡く微笑んだ。


『ありがとう、ツイ』


 春に相応しい、桜色の褙子を翻して去っていくイスカヴァルの背を見つめ、ツイはそっとため息を吐いた。


『随分、殊勝な言い方ですね、ツイ』

『クラウス』


 木の陰に隠れていたらしいクラウスは、むっつりと鼠色の直裾を払いながらツイの側に寄ってくる。

 いつもならば、気配に敏感なイスカヴァルは、その隠れた存在に気づいた筈だ。けれど疲労困憊し、混乱しているイスカヴァルがその存在に気づくことは無かった。それだけ、この男が女神に心労を与えているのだ。

 そう思うと、ツイの眼差しは鋭くなる。

 その視線に、クラウスはふっと微笑した。妖しい微笑みなど、きっと女神は見たことも無いだろう。それはこれからも、同じである筈だ。

 ツイはもう一度ため息を吐いた。


『あなたは女神を愛して居ないのですか、ツイ?』

『無論、愛していますよ』

『そうですか? あの口ぶりだと、自身の思い等女神に届く必要は無いのだと言っているように感じましたが』

『…ただ、臆病なだけです』


 隣に並ぶクラウスを見つめてそう言えば、クラウスはそれを鼻で笑い、苦々しい表情で、既に見えなくなってしまった女神の背を追う。

 その苦しさはきっと、すべての神達が今現在味わっているものだろう。


『あまり女神を追い詰めないで下さい、クラウス』

『おや、私にだけ、そう言うのですか? ツイ』

『ええ。あなたは、女神を壊したいのではないかと、時々思うことがあります。その点で言えばジャルタは控えめで、衝動を抑えるのにも長けていますからね』

『…私は違うと?』

『女神を襲うような方が、衝動を抑えられるとは思えませんので』

『まあ、確かにそうですが…』


 遠くを見つめるクラウスの横顔は、何処か未来へと思いを馳せているようだ。

 ツイはその言葉の続きを待つ。


『皆の我慢も、そろそろ限界でしょうね。私だけではない、皆、女神を心から欲している。祖神おやとしてではなく、一人の女性として、たった一人の唯一として…』

『ええ』

『求めてやまない存在が手の届く場所に居て、衝動を抑えられるというのが、私には不思議です。触れて、声を聞きたい。沢山鳴かせて、自分だけのものにしたい。それがどうして、女神を遠ざける結果になるのでしょうね?』


 私には分からない。

 そう言うクラウスの狂気を感じ、ツイは首を横に振った。


『女神があなたを許している今の内に、きちんと向き合うべきです。でなければクラウス、あなたはすべてを失うことになる』

『そんなこと、させませんよ』

『クラウス』

『ツイ、私はね、女神を独占したいとは思わない。だから共有するという道も、私は受け入れているんですよ。ですが、遠くに行くことだけは許せない。私を拒むだなんてそんなこと、許せる筈もない』

『…その思いは、あなた自身を殺しますよ、クラウス』

『私はとうの昔から女神ただ一人のものだ。私を捧げるただ一人のひと。だから私を捨てようだなんて言う女神が居るのなら、泣いて縋りますよ。みっともなく泣き喚きながらね』

『…………』

『それが私を創った女神に対する、唯一の恩返しです』

『…狂ってますね、クラウス』

『そうですか? 私は正常だと思いますが』


 爽やかな笑みを浮かべるクラウスに、ツイは深いため息を吐いた。

きっとクラウスはそうと分かっていて、けれど常人のように振舞うのだろう。

 たちが悪い、とツイは心の中で毒づく。


『まあ、あなたのことなんてどうでも良いですが、女神を傷つけることだけは、しないで下さい』


 頼みますよ。

反論を許さぬ強い口調でそう言ったツイはふわりと宙へ飛び、自身の自治領へと去っていった。

その背を見つめ、クラウスは肩を竦める。


『すべては、女神の御心次第ですよ、ツイ』


 そう呟いて、クラウスもまた身を翻し、自身の私室へと足を向けた。

 そこに待つ、エンラを思い、少しだけ苦いものを浮かべながら、渇望する、ただ一人のひとを思う。


 女神、あなたが居なければ私は、息を吸う事も、生きることさえ億劫に感じる。

 あなたが居るから、私はまだ私としてここへ留まっていられるのです。

 ですからどうか、私の思いを退けないで欲しい。


 そう願いながら、クラウスは瞼の裏に焼きついた、女神の微笑みを思い浮かべた。





『僕って本当、存在感ない?』


 クラウスの背を見つめ、ふわふわと宙に浮かびながら、イリスは苦笑する。

 実はイリスも一連の出来事をここから注視していた。ツイは気づいていたようだけれど、この一件に関与していないイリスのことはスルーしたようだ。

 やれやれと首を振ったイリスは顎に手を当てて考え込む。


『さあて皆、どう動くかな?』


 どこか楽しそうなその声音を聞く者は誰も居ない。

 火は秘に通じる。火神であるイリスが生みの祖神(おや)であるイスカヴァルと実は同じ頃に生まれた神であることを知る神は居ない。

 きっと女神イスカヴァルは、自分を頼ることになるだろう。

その確信は、イリスの心を沸き立たせた。


 愛するひとが頼ってくれるのは嬉しい。それがどんな願いであれ、叶えてやりたいと思うのが人情だ。

イリスはくすくすと笑い、静観を決め込んでリュレーンの滝に降り立った。


『あなたの為ならどんなことでもするよ。イスカヴァル』


 イリスは滝に手を差し伸べ、その水を掬い、唇へ近づける。


『楽しみだね』


 イリスは一人笑った。





 イスカヴァルはその日、人払いをして神殿の最奥にある部屋へ向かった。何人たりとも足を踏み入れることのないその部屋は、イスカヴァルの聖域だ。

 ここは、神達であっても決して入らせることのない部屋でもある。

 豪華絢爛な石造りの神殿の中にあって、この部屋だけはいっそシンプルな程質素な造りとなっており、最低限の家具すらこの部屋の中には無い。

 その部屋にあるのは、清涼な少し大きめの泉とその泉を水鏡として映し出す、この世界の中心たる証のみが存在している。

イスカヴァルはそっと扉を閉め、泉の側へと腰を下ろした。


 泉は世界のあらゆる情景を映し出す。それらはイスカヴァルにとってひどく愛しいもの達だ。けれどそう、イスカヴァルは決意を持って、この世界から離れることを決めた。この世界の神達がどのような考えで今ここに在るのかは、分かっているつもりだ。

 けれどこの世界の何処にも、イスカヴァルの居場所は無いのだと、ここ最近の出来事で疲弊した心はそう叫んでいる。

 例えそれを神達が望まずとも、イスカヴァルはこの世界からの消失を決めていた。


 泉に手を翳し、部屋の四隅に敷いていた結界を解く。三日三晩掛けて創った肉体の器は、イスカヴァルの創造通り、美しく生命力に満ち溢れた存在としてイスカヴァルの目の前に現れる。

 自分によく似た風貌の年若い少女は、人間としての生気を感じさせず、いっそ清廉な程に神々しい気配を放っている。そっと頬を撫でると、少女がひっそりと笑ったような気がした。まだ魂を入れていないというのに、不思議なものだ。

 イスカヴァルはそっと、自分の魂の一部を少女の器に込める。慎重に、慎重に、器が魂を拒絶しないよう万全を期して行ったが、魂はするりと器に入っていく。


「娘……」


 この器に十分な気が行き渡った時、“娘”を別の世界へ送り出そう。そして、“娘”が成長し、この世界を支えられるまで、私は今暫くこの世界を見守っていよう。

 イスカヴァルはそっと娘の頬を撫で、それから丸二日間、部屋を出ることなく、娘へ自身の気を分け与え続けた。





「イリス、お願いがあるの」

「いいよ。僕に出来ることなら、何でもする」

「…ありがとう」


 部屋から出たイスカヴァルが真っ先に向かったのは、火神イリスの私室だった。イリスは元々、イスカヴァルと同時期に生まれた神であり、同時に、イスカヴァルがこの世界を創造した頃に突如転生したいと言い出し、イスカヴァルとイリス自身の力によって新たにイスカヴァルの世界の神として生まれた、特殊な神だ。

 転生前の力を未だ持つイリスは、今のイスカヴァルにとって最も重要で、頼れる存在でもある。

 イリス自身、久しぶりに見たイスカヴァルの柔かな微笑みに目を細め、了承したイリスは、イスカヴァルに続きを促す。

 彼ならば信用出来る。信じられる。それが嬉しくも悲しかった。長く共に過ごした神達が、まるで幻のように思えてしまうのは、イスカヴァルが長く生き過ぎたせいなのだろうか。


「娘を、異世界へ送り出して欲しいの。時の神でもある、あなたの力で」

「いいよ」


 蕩けるような笑みを浮かべたイリスは、イスカヴァルと共に聖域に足を踏み入れ、器の前で自身の力のすべてを解放する。見守るイスカヴァルの目に痛ましげな光が宿り、苦難を背負わせることになるであろう娘に懺悔する。

 けれどそこに後悔の念は無かった。そしてイリスもまた、イスカヴァルの選択に異を唱えることなく、イスカヴァルのためだけに力を振るう。

 水鏡に映った世界へイリスの力で送り出された娘は、イスカヴァルの世界からそっとその姿を消した。


「ありがとう、イリス」

「どう致しまして、女神」


 にこりと微笑むイスカヴァルを抱きしめ、イリスは仄暗い笑みを浮かべた。

 ここぞという時に締め出された神達は皆、イスカヴァルの選択に反発するだろう。それも、イスカヴァルがこの世界から消失する寸前まで、この事実に気付く者も居ないに違いない。

 頼られるということは、信頼されているということ。イスカヴァルが今、一番信頼している人物がイリスである、その事実だけで、イリスは幸福に満たされていた。

 同じ時代に生まれた神であるからこその信頼。恐らく誰もこの事実に気付いては無いのだろう。


 イスカヴァルはこの世界が好きで、愛しくて堪らないのだ。けれどこの世界の何処にも、イスカヴァルが存在する理由となるものが無くなってしまった。

 それは神達の裏切りに他ならない。

 イスカヴァルにとって神達は愛しい子どもであり、家族であり、友人だったのだ。けれど誰もがイスカヴァルを求めながら、まるで雲を掴むように、イスカヴァルの本質に辿り着いては居ない。


 イスカヴァルの本質は守ることにある。守られることではない。

 けれどそう、この世界の神達は皆、イスカヴァルを守ろうとする。そして束縛し、自由を奪い、イスカヴァルがイスカヴァルで在ろうとすること忌避する。

 それはイスカヴァルにとって、存在意義を奪うものでしかない。

 だからこの世界から消えたいと、イスカヴァルは決めたのだろう。


 イリスはそっとイスカヴァルの身体から手を離し、「そろそろ戻ろうか」と手を引いて、三日ぶりの私室へと誘う。

 それに抵抗することなく着いて来るイスカヴァルは、そっと胸を押さえ、憂鬱そうな表情を浮かべながらも何処か肩の力が抜けたかのように、拒絶する気配を消した。

 イスカヴァルの選択が何をもたらすことになるのか、この時のイスカヴァルには知る由もなかった。



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