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「着きましたね。さあ、どうぞ」


 クラウスはそう呟いて先に馬車を降りた。ドアの外から手を差し出され、由美はその手を取って慎重に馬車を降りた。


「ここが、女神が居た場所…」

「ええ。そしてこれから、あなたが住む場所です」


 真白い大理石で作られた平屋のその建物はとても大きい。中に入るとその大きさを更に強く感じる事が出来る。

 高い天井には精緻な彫刻が施され、何処かに水が引いてあるのか、微かに水音が響いてくる。

 呆気にとられた由美を誘い、クラウスはゆっくりと建物の中に入っていく。その横顔には何処か楽しそうな笑みが浮かんでいる。クラウスに遅れまいと、由美は足早にその背を追った。


 つい先程まで居たあの建物よりも、衛士の数が格段に多い。数メートル毎に配置された衛士は、由美が通る度に頭を下げ、敬意を示してくる。それが居たたまれなくて視線を床に落とした。

 通り過ぎた背に刺さる視線が痛い。まるで恋人が戻ってきたかのように熱く、何かしらの情熱を秘めた視線や、崇拝にも似た憧憬の眼差しは、きっと由美本人へ向けたものではなく、女神の娘としての由美へ向けたものなのだろう。


『あれが、女神さまの娘』

『女神さまと瓜二つじゃないか』

『お美しい』


 そんな聞こえる筈もない程微かな囁き声が、しんと静まり返った広い建物内に木霊しているように感じる。誰もが好奇な目で、なにかを探るように由美を見る。


 これから私はこの視線の中で生きなければいけないのだ。

 それが酷くもの悲しい孤独を感じて、由美は視界が潤み出すのを感じた。

 私は、一人だ。


「どうかしましたか?」


 どうしてか、由美の揺れ動く感情を感じ取り、振り返ったクラウスに、由美はそっと首を振った。

 別に心配させまいとしていたわけではない。

 自分の心を素直に話せる程、クラウスへ向けた信頼が無かっただけだ。


「いいえ、何もありません」

「…それならば良いのですが」


 腑に落ちない様子で気遣うクラウスを視界の端に映しながら、由美はそれに答える事も出来ずに、歩き続けるしかなかった。


「娘、ここでお待ち下さい」


 白で統一された部屋に由美を残し、クラウスは振り返る事無く出て行った。

 所在なく手近にあった長椅子に腰掛け、部屋の中を見渡した。薄い紗のカーテンが下ろされた天蓋付のベッドは驚くほど大きく、恐らく大人が数人寝てもまだ余裕がありそうだ。色とりどりの天鵞絨のクッションがベッドを鮮やかに彩っている。家具は全て白で統一されていて、清浄な空気が流れていた。

 ここは、女神が私室として使っていた部屋なのだろうか?

 そう考えて、由美は不思議な気持ちになる。女神はもうここには居ないのに。なのにどうしてか、由美には女神という存在がとても近くに感じられた。


 ふと、何処からか水音が聞こえ、由美はその音に向かって歩き出した。昨日とは違い、すんなりと開いたドアの外には人の姿は無かった。そのまま水音に向かって宛もなく歩き続けると、程なく中庭らしき場所の隅に出る。その奥からはより大きな水音が聞こえた。

 その澄んだ音にどんどん近付いていくと、急に視界が開け、小さな滝が由美の目の前に広がった。


「綺麗……」


 由美は裾が地面に着くのも構わず跪き、ほうとため息を吐くと、滝壺にそっと手を差し入れた。ひんやりと冷たい水は、清涼な水飛沫と共に由美の心を癒し、潤してくれる。


『女神の娘、』

「へっ?」


 誰かに呼ばれたような気がして、由美は立ち上がった。

 きょろきょろと視線を周囲に走らせるものの、人の姿はない。

 聞き間違いだろうか。


「娘、ここに居たのか」

「えっ、あっ! ジャルタ、さん…」


 いつの間にか、由美の側にジャルタが立っていた。気配は、感じなかったのに。

 白の円領袍を纏ったジャルタは、とても穏やかな表情で由美を見つめていた。慌てて水から手を引くと、白い手巾で手を拭われ、気恥ずかしさに頬を赤く染めた。


「ここが気に入ったか?」

「ええと、はい…とても綺麗な所ですね」

「そうか」


 ジャルタは頷き、由美に断りもなく抱き上げた。

 筋骨隆々としたジャルタは、まるで軽い羽でも持ち上げるように軽々と由美を抱き上げる。それなりに体重もある人間をここまで軽く抱えられるのは、ジャルタくらいのものではないだろうか。


「ちょっ、歩けます!」

「私が抱き上げるのは、不満か?」

「ジャルタさんが、というわけじゃなくて、私は自分で歩けるから、自分の足で歩きたいだけです!」

「女神は自分で歩くことは無かった」

「……えっ?」

「女神はいつも風の神と共に移動し、長時間歩くことは稀だ」

「…………」

「またここに来たいのならば来れば良い。だが、誰か側仕えを置いておかなければ皆が心配する」

「…………」


 それではまるで、虜囚かなにかのようではないか。

 出掛かった言葉を飲み込み、由美はぎゅっとジャルタの腕を掴んだ。

 迷うことなく進むジャルタは、先ほど由美が通った中庭を抜け、部屋のある方向とは別の、建物内の更に奥側へ進んでいた。


「何処へ行くんですか?」


 由美はジャルタの腕の中でそっと問いかける。


「皆のもとにだ」


 行きたくない。

 本能が、そう叫んでいた。


 けれどこんな状態では逃げることもままならない。不可思議な状況に流されすぎている自分を叱咤しながら、それでも由美はこの現状を受け入れ、そして考え続ける他なかった。

 私がこの世界に居る理由を。

 そして、女神という存在がこの世界でどんな立ち位置であったのかを。


 無知は罪だという。

 それならば由美は、知る必要があった。

 この世界というものを。女神という存在を。


 いつの間にか目的の場所に着いていたらしい。ジャルタはドアをノックすることなく部屋に入っていく。部屋には大きな机があり、数人の青年が待っていた。ジャルタは部屋の中央まで来ると、由美を下ろして青年達の輪に加わった。

 先に動いたのはクラウスだった。


「全く、何処にいらしたかと思えば、リュレーンの滝にいたのですか。お探ししたのですよ?」


 それにしては、何処も慌しくは無かった気がする。

由美の心情を正確に理解したクラウスは、深くため息を吐いた。まるで呆れたと言わんばかりの態度だ。


「女神の娘が部屋から忽然と姿を消していたなんて、大々的に言えるわけがないでしょう? 内密に探していたのですよ」

「折角帰ってきた女神がまた居なくなったとなれば、このレピストの神殿は恐慌状態に陥りますからね。当然の措置です」


 クラウスに続いてしゃべり出した青年は、紫色の長髪を高い位置で結い上げ、朱色の朱子深衣を纏っていた。その目は髪と同じ美しい紫色だ。


「初めまして、女神の娘。私は月神にしてクロトロスの領主、エンラと申します」


 片膝を着いて胸の前で供手し、頭を垂れた青年は、由美に柔らかく笑いかけた。


「月神って…神様、ということですか?」

「クラウスからお聞きになってはおられないのですか?」


 エンラは驚いたように由美を見つめ、次いでクラウスに目配せする。

 何か不味いことでも言っただろうか? 由美の表情が曇る。

 神様だなんて冗談かなにかかと笑い飛ばしてしまいたかった。けれどそう、由美の心の奥深くで、それを当然のことのように受け止めている。

 これは、どういうことなのだろう?

 自分の心が分からなくなって、由美は混乱した。


「そこまで説明する時間が無かったのですよ。それに、一度で済ませた方が楽でしょう?」


 涼しい顔でそう言切ったクラウスにエンラは息を吐いて頷き、供手を解いて立ち上がった。


「先ずは自己紹介が先ですね。女神の娘、どうぞお座りください。私から、ご説明致しましょう」


 そう言ってエンラは由美に椅子を勧め、部屋で待っていた青年達もそれぞれ席に着いた。言われるまま座った由美に、エンラは紹介を始める。


「昨日からご一緒しているクラウス、ジャルタはご存知ですね。クラウスは水神、トロストの領主です。ジャルタは星神、キルス神殿の管理者です」

「ここに居る方は、人ではないのですか?」

「女神の娘、あなたと言葉を交わせる栄誉に預かっているのは、神だけです。それをお忘れなく」


 由美は頷いた。それに満足したのか、エンラは話を進める。


「そして私の右に居るのが……」

「なんだよ。自分で言うよ。いいだろ?」


 にやりと笑った赤い髪の青年は、燃え盛る炎のように熱い赤い目を輝かせ、由美を見つめた。


「ええ、どうぞ」

「俺は火神にしてミルンの領主、イリスね。よろしく、女神の娘」

「…よろしくお願いします」

「私は、風神にしてトマスの領主、ツイです」

 柔らかそうな緑の髪がふわふわと背に掛かった青年はにこやかに言う。

「土神にしてエメルの領主、ガルだ」

 精悍そうな焦げ茶色の短髪の青年は、どこか硬い表情で言った。

「僕は陽神にして女神の側仕えとしてお側に在った、フェルト。これからは娘の側仕えとして一緒に居るから、追々知っていてね」

 少年のようなあどけない表情で明るい金髪を肩で切りそろえた青年は楽しそうにそう言った。


 次々に自己紹介をする青年達は、由美の反応を面白そうに観察する。


「陽神って…側仕えって、どういう意味ですか?」


 由美はエンラに尋ねた。


「陽神とは、太陽の神という意味です。光の神、という意味でもありますが、側仕えとはそのままの意味です。これから娘、あなたにはフェルトが側仕えとしてお使えします」

「側仕えなんてそんな…必要ありません」

「必要です。女神には。その娘であり代行者でもあるあなたには、必要な存在です」

「でも…」

「まあまあエンラ、きっと戸惑ってらっしゃるんでしょう。でも、これは昔から決まっていることだから、了承さえしてくれれば良いんだよ、娘」

「その娘、というのも止めて頂けませんか? 私は、」

「木崎由美、ですか? あなたはもうこの世界の住人であるのに?」


 厳しい口調で責めるクラウスに、由美は唇を噛んだ。

どうしたって、由美は由美として認められてはいないのだ。そう思うと、これまでの自分というものが大きく揺らいでしまうように感じる。


「娘、あなたは自分の真名を思い出せていないのでしょう?」

「真名?」

「あなた本来の、魂の名前だよ」


 フェルトは優しくそう言って、由美を宥めた。

 魂の、名前…。

 その言葉に由美は縋る思いでフェルトを見つめた。


「思い出すには、力が必要だよ。だから先ずは、力を取り戻すことから始めよう」

「取り戻す?」

「そう。記憶の扉を開けば、すべて思い出す筈だよ」


 そう言ってフェルトは立ち上がり、由美の側に寄ると、由美の額に指を滑らせた。


「思い出して。本当の、あなたを」


 視界がぐらりと揺れるのを感じ、咄嗟に肘掛を掴もうとするけれど、いつの間にか側に来ていたエンラに体を支えられ、由美は深い意識の淵に落とされ、意識を手放した。


『思い出して』


 泣きたくなるほど切実なその声は、由美の脳裏に木霊し、由美の意識を浚っていった。




 生温い風が腰まで伸びた髪を揺らす。見上げた青空は雲ひとつ無い晴天。視界を遮る銀糸の髪をそっと押さえた。広い袖口が翻る。翡翠色の布地に薄紅色の牡丹が咲き誇る曲裾は女神、イスカヴァルのお気に入りだった。

ふと、ふわりと空気が動き、イスカヴァルの近くに人が…いや、神が寄ってくるのを感じる。誰が側に来ているのかは直ぐに分かった。だからイスカヴァルは慌てることなくその人を待った。


『女神、こんな所に居たのですね』

『クラウス』


光沢のある白い直裾と墨色の褙子を纏ったクラウスは、イスカヴァルの腕を掴み、その胸板に引き寄せる。細身の体に見えて、しなやかな筋肉の付いた身体は思った以上に力強さに満ちている。イスカヴァルの頭を柔らかく撫でるその眼差しの、なんと穏やかなことか。間近に見えるサファイアの瞳が柔らかく蕩けた。イスカヴァルはその心地好さに暫し身を任せた。

 クラウスから伝わる愛情が、イスカヴァルには愛しく思えたのだ。


『女神?』

『ふふっ、クラウスは温かいわね』


イスカヴァルはクラウスの胸から顔を上げ、とんとその胸を押した。

軽い仕草で離れたクラウスは、イスカヴァルを追うように手を伸ばすが、イスカヴァルはその手を避けて空に飛び上がった。

その動きを目で追うクラウスは、何処か情欲の滲んだ熱い視線をイスカヴァルに送る。おおよそ、自身を創った祖神おやに向けるものではないその視線は、イスカヴァルにとって最早見慣れた光景だった。


『女神、あまり遊び歩かないで下さいね』

『…また後でね、クラウス』


お小言は御免だとばかりに逃げ出したイスカヴァルを、クラウスは目を細めて見送った。何処へ行こうとも、女神が帰ってくる場所は自身と、そして女神が生んだ神以外に有り得ないのだと、クラウスはよく理解していたから。


 ふわりふわりと風に乗って空を駆けるイスカヴァルを止めるものは居ない。

この世界は、なんて心地好く温かさに満ちているのだろう?

自身が創ったこの世界を、人を、神を、イスカヴァルは心の底から愛していた。


『女神、またこんな所で…早く降りないと、フェルトが飛んできますよ』

『ツイ』


イスカヴァルは直ぐ隣に飛来した青年に、にこりと微笑んだ。

イスカヴァルと同じく宙に浮いたツイは、イスカヴァルの手を取って地上へと降りる。周囲を見渡せば、いつの間にかキルスの神殿まで来ていたらしい。巨大な石柱が支えるキルス神殿は、星見をするための神殿で、昼間の今は静寂に包まれている。

 ジャルタは来ているのだろうか?

 きょろきょろとキルス神殿の管理者の姿を探すイスカヴァルに、紺の裳に生成りの上衣を着た交領襦裙姿のツイは、緑の髪をふわふわとたなびかせ、エメラルドの瞳を緩ませた。


『女神! 探しましたよっ』

『あら、フェルト』

『あらじゃありませんっ。全く、何処かへ行くならお声を掛けて下さればよろしいのに。困りますよ、本当に』

『少し出歩くくらい、別に構わないでしょう?』

『僕は側仕えなんですよ? 僕の仕事を奪わないで下さい』


 大げさにため息を吐いたフェルトにイスカヴァルは肩を竦めた。


『女神、ようこそキルス神殿へ』

『ジャルタ!』

『ジャルタ、君からも言ってくれない? あまり自由に出歩くなって』

『女神の好きにしたら良い。ここは女神の世界なのだから』

『ありがとう、ジャルタ』


 そっと壊れ物を扱うようにイスカヴァルの頬に触れたジャルタは、熱い眼差しを向けて微笑む。その後ろでやれやれと首を振るフェルト、そして苦笑いでその様子を眺めるツイに、イスカヴァルはにこにこと上機嫌に笑った。

 こんな平和な日常が生涯続いていくことを、イスカヴァルはまだこの時信じて疑わなかった。


 それが崩れたのは、それから半年後のことだった。





『女神、危ない!』


 エンラの叫び声がして、イスカヴァルは振り返った。

 鈍く光る銀の短剣がイスカヴァルに迫る。僅かに息を呑み、けれど避けることはせず、イスカヴァルは短剣を受け止めた。

 ――その寸前、間に滑り込んだガルの体躯が短剣を腕で受け止め、短剣を握り締めていた主を蹴り飛ばした。肩越しに見えるその主は、小柄な体躯を地面に叩きつけられ、飛んできた衛士に取り押さえられている。

 顔面蒼白でイスカヴァルの側に寄ったエンラは、何処にも怪我がないことを確認し、衛士達に捕らえられた主を引きずり出すよう怒鳴りつける。


『待って、エンラ。私は別に大丈夫よ』

『女神、あなたは殺されようとしたのですよ!』

『私は神よ。死ぬことなんて有り得ない。そうでしょう?』

『ですが…っ!』

『衛士達、誰かガルの手当てをして頂戴。腕は大丈夫?』

『はい』


 そう答えるガルの太い腕からは多量の血液が流れ、床に血溜りを作る。

 転ぶようにやって来た医官に止血されたガルは、ちらりとこちらを流し見ると、自身の足で医務室へ向かった。

 衛士に捕らえられた主に向き直ると、熱い憎しみの炎を宿す瞳にぶつかった。

 肩まで伸ばした黒髪を振り乱し、歯を剥き出しにしてイスカヴァルを見るその主は、まだ年若い人間の女だった。イスカヴァルは一歩前に出る。制止しようと腕を伸ばすエンラを視線で制し、イスカヴァルは問いかけた。


『どうして、私を殺そうとしたの?』

『お前がいるからっ。クラウスさまは自由に振舞うことも出来ない! お前がいるから、クラウスさまは私の思いに応えることもしてくれない。死ねばいいっ、邪悪な女神よ!』

『クラウス…』


 イスカヴァルはそっと目を伏せ、エンラは衛士達にクラウスを呼ぶよう指示を出す。


『あなたはクラウスを、愛しているのね?』

『そうよっ。クラウスさまだけが、私の至上。大人しく殺されれば良かったのに!』

『…その口を閉じなさい、人間の女! 誰か猿轡をっ』

『エンラ、私は構わないの』

『女神、あなたはどうしてそんな…』

『ただ、聞きたいだけなのよ。そうまでして殺そうとした理由を。でも、正直に教えてくれてありがとう、人の娘』


 イスカヴァルは優しく慈愛に満ちた眼差しで微笑んだ。それに毒気を抜かれた衛士達とは違い、人間の女は更に怒りを強めた。聞くに堪えない罵詈雑言の嵐にも、イスカヴァルは動揺することなく受け止める。

 しかし側に居たエンラや衛士達は今にも人間の女を射殺さんばかりに鋭い眼差しで睨み付ける。

 程なく、けたたましい沓くつ音と共に蒼白な表情をしたクラウスが駆けてきた。

 愛しい男の姿に、人間の女は怒りを忘れ、憧憬の眼差しで一心に見つめる。

 その視線に気づくことなくクラウスは駆け寄ったイスカヴァルに怪我が無いことを確認し、ほっと息を吐いた。


『お前、お前が女神を…』

『クラウス、この女を知っているか?』

『ええ。トロストの領主館で働く人間の女です』

『この女が言うには、お前のために女神を殺そうとしたらしいが、これはどういうことだ?』


 詰問するエンラの表情は固い。クラウスはそれに驚愕し、次いでイスカヴァルを見つめた。


『どういうことです、女』

『ああ、クラウスさま。このような場でお会い出来るなんて、なんて光栄なことでしょう。申し訳ありません、あの邪悪な女神を殺し損ねてしまったのです。ですが大丈夫です。私が必ず殺して、あなた様を自由にして差し上げます』

『…そんなこと、誰が頼みましたかっ! 女神を殺そうとするなど、断じて許すことなど出来ません!』

『その通りだな、女。お前は幽閉の上、極刑に処す。今この場で切り伏せられても文句は言えまい』


 まるで青白い炎を纏うかのように怒気を強め、どこからともなく一振りの月剣を出したエンラは、今にもその剣で斬り捨てようと構える。


『お止めなさいな、二人とも』


 イスカヴァルはそう、二人を止めた。


『何故ですか女神!』

『私はその娘を許します。娘、あなたの思いは十分に分かりましたよ。ですがあなたに殺されるのは私の本意ではない。クラウスと話をつけ、故郷へお帰りなさい』

『女神、あなたって人は、どうしてそこまで…っ』

『エンラ、クラウス、この場は任せます。私は部屋に戻っているわ。私が居ては話も出来ないでしょうからね』


 イスカヴァルはエンラの制止も聞かず、身を翻して自室へ下がった。その背に突き刺さる数多の視線を黙殺して。

 エンラは構えを解き、月剣を納めてクラウスに目配せし、イスカヴァルの背を追った。その背を苦虫をかみ締めるように複雑な表情で見つめたクラウスは、人間の女に向き直り、感情を削ぎ落とした目で女を見遣った。


『女神はああ言ったが、女、おまえは追放処分とする。今後一切、私の目の前に現れるな。次にその姿を見た時には、それがお前の最後だと思いなさい』

『何故ですかクラウスさまっ! やはりあの女神に操られて…』

『お黙りなさい! 人間の分際で女神を、祖おやを殺そうなど、おこがましいっ。お前などと話しているなど、吐き気がします。何処へなりと行きなさい。そして二度と姿を現さないことです。衛士、その女をここから出しなさい』

『いやっ、いやですクラウスさま。どうして、どうして!』


 衛士達に掴まれた体を精一杯ひねり、女が叫ぶ。

 それをさも醜いものでも見るようにクラウスが見、『醜い』と吐き捨てた。

 女が声にならない絶叫を上げ、口から泡を吹かせてクラウスに飛び掛ろうとするのを、衛士達が全力を持って押しとどめた。


『女、お前の質問に答えましょう。私にとって女神は、唯一無二の存在。たった一人の至上。それだけです』


 クラウスはそれ以上何も話すことはなく、身を翻してイスカヴァルの部屋へ向かった。

 衛士達によって捕らえられた女の絶叫が響く中、その声はどんどん遠ざかり、小さくなっていく。その煩わしさに、クラウスは顔を歪め、そしてその声を遮断した。


 イスカヴァルの部屋の前には、手当てを終えたガルと、息を切らして到着したジャルタ、ツイ、イリスが待っていた。部屋の中からは、フェルトとエンラの声が響く。クラウスはそれに苦笑し、示し合わせて中に入った。



 ――この一件を機に、イスカヴァルの周囲は大きく変化する。

 それはイスカヴァルにとって戸惑いの日々への始まりでもあった。



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