対峙 20:00
ネオンが照らす極彩色の街角を走っている一人の男がいた。彼の姿は上半身が異様に薄汚れ、下半身が湿っていた。周りのものは皆不快そうにその男を避けるように動いていた。だが、男はそんなこと関係ないとばかりに全速力でとある一点を目指していた。その顔は恐怖と希望が半々で構成されており、ちぐはぐな印象を抱くだろう。男はとあるビルの前で止まると息を整え始める。そのビルはこの街で一番高く悪名高いことで有名な、ルルイエビルだった。
僕の肺と血管が酸素を求め大暴れしているのが分かる。ここにつくまでは一切感じなかったことだが、急に不安に襲われ始める。果たして本当に来ても良かったのだろうか、そんな疑問とともに恐怖が僕の体全体にのしかかる。弱気な自分を振り切るよう両頬を力の限り叩く。思った以上に力が入り少し涙が出るが気にせずビルの中に入ることにする。正面から入るのは流石にまずいと思い裏に回ることにした。ポリバケツや寝ている浮浪者のそばに職員専用のドアがあるのが目に入る。さすがに今の状態でツイテルとは思えないが、一応神様には感謝だけしておくことにする。
古ぼけたドアをゆっくりと開ける。僕の来訪を歓迎していないのか蝶番が不愉快な異論を唱えながらゆっくりとドアを開く。それを開けた僕に襲いかかってきたのは、凝縮された生臭さだった。潮の臭いだとか、魚の臭いを煮詰め腐らせたようなそんな臭いだ。僕は外出するしようとする内包物を部屋に返すのと同時にビルの中へと入っていった。
中に入ると外にいた時以上に臭いがキツくなる。鼻にハンカチを詰めやせ我慢することで対処することにした。中は暗くとてもじゃないが進める気がしない。慎重を期してナメクジのような足取りで壁際を歩く。繊細な僕の指先が滑らかな壁に異物があることを発見する。おそらく何かしらの、部屋の照明のスイッチだろうとあたりを付けそれを押し込む。
気怠そうについた照明は、部屋の異様さをまじまじと僕に見せつけてきた。
そこは肉屋のような場所だった。部屋一面に天井から革を削がれた肉の塊が吊るされていたのだ。ただ肉が吊るされているのならばいい、しかし、それは僕の頭のなかの警報を全力で鳴らさせるのには十分だった。
その肉塊には見覚えがあった。小さい頭、スラリとした胴、細い手足。それは紛れも無く人間だった。若いも老いも、男も女も、平等に、普遍的に、その部屋には吊るされている。僕はその部屋から逃げるように内部へ続くドアを開けた。なぜあの肉塊はできたのだろう。もしやこのビルに入った者達では……。僕はそんな妄想を振り切るように走り去った。
暗いビル内をどれくらい走っただろうか、上に伸びる階段を見つけた。僕は導かれるようにその階段を登り始めた。どこかで銃声がするが無視した。叫び声のようなものが聞こえたが無視した。高笑いのようなものが聞こえたが無視した。爆発音がしたが無視した。体が訴える痛みを無視した。恐怖を無視、僕は踊り場で足を止める。もう動けない、そういうわけではない。心が、精神がこの前に行くのを許さないのだ。寒くはないのに体が震え、膝が嗤っている。僕は泣き出したかった。自らの不甲斐なさではない、この理不尽さにである。
僕はただ人を探す依頼を受けただけだ。なのになぜこのような理不尽な目にあっているのか。あの女の巻き起こした嵐は一体何を巻き込んだのか。僕は思考の渦に埋没する。暗闇の中から階段の降りる音が静かに響いて来た。ゆっくりと上を見上げる。暗闇の中からその姿が現れる。そいつの姿はショートボブで零れ落ちそうな身体を惜しみもなく晒していた。
「ショーン、お前だよな? どうしてこんなところにいるんだ」
彼女は答えない。何も言わずに僕の側まで歩み寄ってくる。僕が壁際まで後退した時、彼女は手に持っていたジェラルミンケースを突き出してくる。僕は勢いのまま思わずそれを受け取ってしまった。彼女は一言も発することなくそのまま階段を降りていった。
僕はそれを恐る恐る開く。その中には僕がいつも愛用している2丁の拳銃が収まっていた。それを手に取る。鈍く光を反射している2丁の拳銃は僕に勇気を与えた。乱暴にベルトに差すと、再び階段を登っていった。不思議とさっきまで感じていた恐怖心は霧散していた。
屋上のドアの前まで着いた。さっきまでの騒音はナリを潜め、不気味なほどの静寂が漂っていた。緊張をほぐそうと唾を飲み込もうとするが、口の中が乾燥していることに気がついた。僕は小さく舌打ちを打ちながらドアをゆっくりと開けた。
その部屋は全面ガラス張りでこの街を一望することができた。揺らめくネオンや、虫のように蠢く人々でさえ夜空の星の一つのように楽しめるだろう。だが、今はその姿はなりを潜めていた。ガラスには人間ひとり分ですまないぐらいの血がぶち撒けられ、床にはもはや生き物としての姿をとどめていなほどすり潰された何かが落ちていた。
その部屋には僕を除き三人の人間が生きていた。一人は、消えたと思っていたクラリッサ、二人目は僕をしこたま殴ったマフィアの女幹部。最後の一人は、この凄惨さを極める部屋で異様なほど白いスーツを着ているアルビノの男。
「君は誰かな? 全く今夜は来客が多いな」
アルビノの男がこちらに振り向く。その男の目は血のように紅く美しいが、それ以上に異様に濁っているように見えそこがしれない。その男の目に見つめられているとまるで心のそこまで見透かされているような気分になってくる。
僕は危険だと判断しさっと目をそらす。視線を向けた先には虚ろな目で虚空を見つめていくクラリッサの姿が目に入る。少女特有のイキイキしさは完全に消え、まるで老人を見ているかのような感覚に陥る。部屋の中央付近にいる二人から目を離し、僕と反対側にいる女に目を向ける。暗くて良くは分からないが何か焦っているのかしきりに視線を動かしていた。
「ふむ、無視かね。まあいい。今日の私は機嫌がいいからね、君たちのような下等生物も歓迎してあげよう」
男は軽い調子で言い放つとクラリッサをこちら側へ蹴り飛ばしてきた。慌てて彼女を受け止める。大きな外傷は特に見当たらないが、病院には後で行かせたほうがいいだろう。
「さてと、そろそろ時間だね。諸君ら時計を見てくれたまえ。そして、私の新たな誕生祝いだ!」
男がそう言い放つと、そいつが立っているところを中心に謎の紋様が床に浮かび上がる。男は奇妙な高笑いを浮かべながら両手を挙げる。そして部屋が光で満たされた。