星を眺める
フランスのとある街角で、神父と一人の女性が話していた。
神父が言った。
「ドイツでのことですが、ヒトラーが政権を取ってからというもの、ユダヤ人の立場は少しずつ厳しいものになってきているようです。
かといって、フランスではそうではないかと言えば、そうとも言えません。フランスにも、ヒトラーと同じような考え方の人々がいますからね。もし、ドイツと戦争になったらどうなるか…
ヴェイユさん、あなただって一応はユダヤ人なのですから、今のうちにどこか外国に亡命したほうがいいのではないですか?」
「そうですね。しかし、あなたも知っておられるように、私は到底、敬虔なユダヤ教徒とは言えませんよ」
「それはわかっていますが、しかし、あなた自身がどうであろうと、人々があなたをユダヤ人だと思えば、やはり彼らにとってはユダヤ人なのですし、その扱いもそれに応じたものになるでしょう。
やはり、あなたは今のうちに亡命したほうがいいように思えます」
「そうかもしれませんね。とはいえ、理想を言えば、やはり私は、ドイツ人だろうとフランス人だろうと、あるいはユダヤ人やアルジェリア人だろうと、共に生きていけることを望んではいますけれど」
「いや、それはあまり、ありそうもないことに思えますね。少なくとも、今の時点では。
ヴェイユさん、私がこんなことを言うのもおかしいかもしれませんが、あなたは少し、理想主義的すぎるように思えます。しかし、現実はなかなか、そう理想通りにはいかないものですよ」
「ええ、もちろん、私だってそれを知らないわけではありません。むしろそれについては、一家言あると思っているくらいです。
しかし、それでも私は、理想は失われてはならないものだと思うのです。
なぜなら、理想とはひとつの規範であって、それをものさしにして、ものごとの良し悪しをはかるものだと思うからです。それに近いものはより良いものであり、それから遠いものはより悪いものである、といった具合に。
いや、その点から言えば、理想は、見失われることはあっても、本当に失われることはないのだとさえ思います。そうでなければ、私達は、何かをより良いと思ったり、より悪いと思ったりすることさえないでしょうから。
建築にしても、彫刻にしても、およそ何かをつくるには、まずその理想の形を思い描いて、それから、それを規範にして作り上げるはずです。そうでなければ、なにも作ることはできません」
「いや、あなたは根っからのプラトニストですね。しかし、あなたも知っているように、プラトンは、政治の分野ではあまり実績をあげることはできませんでしたよ」
「そうですね。それは、プラトンが専らこの世を超えるものばかりを追い求めていたからなのでしょう。理想は、追い求めていけば、次第にこの世からは離れていくものですからね」
「だとすれば、それはやはり、現実には役に立たないものなのではないですか?」
「いいえ、必ずしもそうとは思いません。幾何学図形や、「数」のような、数学的な対象だって、厳密に言えばこの世のものではありませんが、それでもそれは客観的なものですし、それを規範にすることで、よいものを作ることができます。
それに、究極的な理想はこの世のものではないにしても、建築が求めるのは理想の建築で、彫刻が求めるのは理想の彫刻ですし、それらは、それぞれの分野では現実的なもので、また役に立つものだとも思います」
「しかし、それがそのまま実現することは、ごくまれなことのようにも思えますが」
「そうですね。それどころか、本当にそっくりそのまま実現することは、まずないだろうとさえ思います。なぜなら、それがこの世に現れてくるのは、この世にある素材がそれを受け入れられる限りでのことですから。
よい彫刻を作るには、理想の形を思い描くだけでなく、それを写し出せるだけの腕前がなければなりませんし、素材になる石や木が、その技を受け入れられるものでなければなりません。どんなに腕のいい彫刻家でも、水や空気を使っては、彫刻を作れませんからね。
だから、この世で何かを成そうと思うなら、理想を見据えると共に、現実をも見据えて、現実的に対処するべきなのでしょうね」
「いや、そういうことであれば、私にも異論はありませんよ。
しかしあなたは、自分ではそう言いながら、あまり現実的に対処しているようには思えませんが…」
「そうですね。私はとても、よい彫刻家にはなれそうもありません。それだけの腕もありませんし、私は、何と言うか、夢見がちな人間ですからね。
それでも、あえておこがましいことを言わせてもらえば、世の中には、夢見がちな人間だって、少しは必要だと思うのです。
ただ現実がそうだからと言って、現実のみに従っていくとしたら、この世は重力に支配されている世界ですから、重力に引かれるまま、どこまでも落ちていくことになってしまうでしょう。でも、私達を引き上げてくれるのは、もっと別のものであるはずです。
もちろん、私がそうだなどと言うわけではありません。私もまた、それを求めているだけなのです。この暗闇を超えて、梯子の頂上で、それに出会うことを…」
「いや、確かに、あなたには殉教者の風がありますよ。しかし同時に、危うさをも感じさせます。あなたが求める先に、本当にそれはあるのでしょうか?
私は、あなたを見ていると心配になってきますよ。あなたが星を眺めながら歩いているそのうちに、足元をすくわれて、そこでつまづいて倒れてしまうのではないかと…」
「そうならないよう祈りたいものですね。もっとも、つまづいたり倒れたりすることなら、今までに何度か経験してきたつもりではありますが、先のことはわかりませんからね」