第5話
風呂で身を清め終わった青年が、白装束に身を包んで現れた。
「そいつが死装束だね」
「はい」
青年は死に際しても落ち着いた様子である。
「祭ってんなら、最期に馳走を食う位の事はしないのかい?」
「いえ。腸や膀胱に便が残っていてはいけませんから。昨日から絶食しているのです」
「妖なら、臓物を綺麗にのけてばらす包丁さばきはお手の物だから、無用な事だよ」
「気持ちの問題ですよ。では、参りましょうか」
青年が庄屋と女を伴い、家人達に見送られて玄関を出ると、辺りは暗くなっていた。
提灯を持った庄屋が先導し、青年と女が続く。
空は曇っており、月や星も見えない。
人通りは全く無く、村人達は各々の家で身を潜めている様だが、灯りの付いた家が全く無いのが不気味である。
「飯時だってのに、静まり帰ってるねえ…」
「祭の晩は、贄の喪に服するのが習わしですじゃ」
「ま、本人が最期の飯も食えないのに、周りでどんちゃん騒ぎでもされたらたまったもんじゃないけどさあ」
村の繁栄の為、他者が犠牲になる事に目を背けているのだろうと、女は思った。
社に着くと、女には結界が解けているのが感じられた。
「儂は、ここまでですじゃ」
女と青年が鳥居をくぐると、庄屋は手前で引き返そうとした。
「庄屋様、ちょいとお待ちよ」
「夜叉様は大丈夫という事じゃが、贄の装束をまとった者の他は、鳥居をくぐれませんのじゃ」
「通れると思うから、こっちに来なよ」
女に呼ばれ、庄屋が恐る恐る鳥居をくぐると、何の抵抗もなく通る事が出来た。
「これは…どういう事ですじゃ?」
「結界が消えてるのさ。こんな事はこれまであったかい?」
「いや。覚えがありませんのう」
庄屋は首を傾げて答えた。
女は、餓えのあまりに夜叉が錯乱などして、結界が無効化しているのではないかと不測の事態を想定して、青年と庄屋に、密かに個人用の防御結界を張った。
これで、普通の夜叉程度の力であれば、二人を傷つける事は出来ない。
霊力に飢えた妖は急速に理性が衰えてしまい、猛獣の様に人間を襲う事があるのだ。
「ともあれ、お邪魔しようかね」
平静を装った女が社の扉を開けると、中は板間になっており、ちょっとした集会が出来る程度に広い。
外装が神道の社殿に近いのに比べ、内部の造りは仏道寺院に近いが、祭壇や仏像の類はなく、ただ殺風景な広間である。
中は無人の様だ。
「鎮守様、僕です!」
青年が呼びかけたが、返事がない。
「提灯の灯りじゃ見にくいねえ」
女が指を鳴らすと、社の中は昼の様に明るくなった。
「ああ、済みません」
青年と庄屋は、驚く様子もなく、自然にそれを受け入れた。
「驚かないのかい?」
「鎮守様が同じ事をしていましたのじゃ。同じ夜叉様なら、当然ですじゃろう」
どうやら二人共、ある程度は法術を見慣れているらしい。
「出かけてるのかねえ?」
「いや、そういう事自体滅多にないのじゃが… 今日が祭という事も解っておられる筈ですじゃ」
「とりあえず、奥の間を覗きませんか?」
青年に促され、三人が広間に続く奥の間に入ろうとすると、戸の前で血の臭いが漂って来た。
青年と庄屋は、思わず顔をしかめた。
(もしかして、飢えに耐えかねて、余所で人間を捕らえてきたのかも知れんのう)
「鎮守様、僕です。どうなさいましたか?」
青年が戸の前で呼びかけたが、反応がない。
「…どうしましょう?」
「お前様方は待っておいで。あたしが入るよ」
女が警戒しながら奥の間を開けると、床一面に血がこぼれ、奥の壁際に人が転がっていた。
和国の服装ではない。紗麗と呼ばれる、印度の衣服を身につけている。
紗麗は赤地の絹布に金の刺繍が施され、所々に貴石が縫い込まれており、素人目にも高貴な服だと感じられる物だ。
両手には曲刀を握りしめ、その刃は自らの喉を貫いていた。
髪は銀髪の長毛で肌は純白、見開いたまま光を失った瞳は碧眼で、和国人には見られない容貌である。
さらに額の角と唇から覗く牙が、遺体が人間ではなく夜叉である事を示していた。
「鎮守様、鎮守様ぁ!」
青年は遺骸に駆け寄ると、取りすがって泣き崩れた。
庄屋は、祭神の死を目の当たりにして、呆然と立ちすくんでいる。
その一方で、女は冷静に遺骸を観察し、補陀洛の女官であった事を確信した。
(顔に覚えはないが、確かに補陀洛の女官じゃな。服からすると宮中詰めかや)
「お願いです! 鎮守様をお救い下さい!」
「無理だね」
青年は女に夜叉の蘇生を懇願したが、女は一言で否定した。
「何故です! 伊勢の薬売りに、治せない病も怪我もないのでしょう?」
「その曲刀は天竺で自害用に使われる物でね。敵に蘇生されて虜になっちまうのを防ぐ為に、確実に死ねる術式が込められてるのさ。ただ死んだだけなら代償も大きい代わり、手立てが全くない訳でもないけどね」
女が指を鳴らすと、床と遺骸についた血の汚れは浄化され、臭いも消えた。
「そのままじゃあんまりだ。きちんとしておやりよ」
青年は遺骸の目を閉じて、布団を出して来て床に敷くと上に寝かせ、握りしめられた曲刀の柄を手から外し、胸の上で手を合わせて合掌させた。
「刃も抜いておやりよ」
「でも、血があふれてしまいます」
「法術で血止めはしてあるから大丈夫だよ」
青年は遺骸の喉に刺さった曲刀を引き抜き、女に差し出した。
刃には、印度の文字である梵字が刻まれている。
女はそれを読み、遺骸の所属を確認した。
(先代の那伽摩訶羅闍の側仕えかや。普通ならとうに寿命が尽きておる筈じゃが、石化でもして眠っておったのかのう)
「鎮守様はどうして、こんな事を…」
「大方見当はつくけどね。遺書とかはないかい?」
見渡すと、部屋には巻物や本が並べられている。書庫としても使われていたのだろう。
また、窓際には卓が置かれ、筆と硯、そして漢文の書き置きが置かれていた。
「あたしは読めるけど、お前様方、漢文の心得はあるかい?」
「儂は読めますじゃ」
「僕も、鎮守様に手習いを受けました」
三人が書き置きを読むと、次の様な事が書かれていた。
夜叉は遙か昔、天竺を二分していた補陀洛という国の女官だったが、戦で宮殿が陥落する際に、自ら石化して身を潜めた。
定めていた時限が経って石化が解けた際、彼女は何故か和国のこの村で仏像として祀られており、飢饉を救う様祈願を受けていた。
自らの能力で村を豊作に導く代わりに贄を受ける約定を村と交わし、神として祭られたのが、今から五百年程前の事。
以来、村に君臨するも統治からは距離を置いていたが、近年、寿命が尽きかけている事を悟り、血を残す為に世話役として庄屋の一人息子を欲した。
ところが、充分育ったので想いを遂げて契ろうとした矢先、青年が今年の贄となってしまった。
とても食べる事は出来ないが、断れば村の治世に差し障る事を憂い、どうするか迷っていた。
そこに、故国である補陀洛が、君主である那伽摩訶羅闍自らの親征によって伊勢に拠点を築きあげ、尾州とも交易を進めている事を知った。
宮中を死守せずに生き恥を晒している自分がこの村にいる事が発覚すれば、那伽摩訶羅闍の怒りを受けて村もろとも鏖殺されると考え、青年が贄とされる事を拒む事を兼ね、自害を選ぶ事とした。
「そんな…」
(何と言う愚か者めが…)
青年は、夜叉が自分や村を守る為に命を捨ててしまった事に衝撃を受けていた。
女もまた、夜叉を帰参させられなかった事に対して悔やんでいた。
苛烈で知られる先代の那伽摩訶羅闍ならば厳罰に処したかも知れないが、代の変わった今、二千年前の失態等はどうでも良い事だ。
人間と共存する意思を自ら持っていた”同志”を失なってしまった事こそ、大きな痛手である。