プロローグ
狛江犬一は逃げていた。
百人が見れば全員目を背けるような情けない逃げっぷりである。
一月前に高校二年生へと進級した彼は、朝の登校中にも関わらず顔面蒼白で息も絶え絶えになりながら懸命に走り続けた。普段の通学路として使用する駅前の大通りとは違う、人気の全くない路地裏を空き缶や野良猫を躱しながら必死の思いで駆け抜けていく。
その背後から迫るのは、黒い学生服を着たいかにも柄の悪い男子高校生が五人。
その顔には鬼のごとき形相が張り付けられており、すぐにでも犬一へ飛び掛かりそうな勢いで追いかけてくる。
犬一は背後を振り返って確認するが、後ろの連中は元気一杯で一人も脱落する気配がない。
―――喧嘩慣れした不良は体力もある。運動音痴の俺じゃあ、追い付かれるのは時間の問題だよな。
どうせ万年最下位の落ち零れ学生は体育も断トツでダメダメですよー、と犬一は内心で悲しみの叫び声を上げた。
今日は五月七日。
家を出る時に見たカレンダーにはなぜか博士の日と書いてあった。博士の日がどういう経緯で作られたかは知らないが、祝日にもならない記念日なんぞ、芯が切れたことに気付かないままテスト当日机の上に置いてしまったシャープペンぐらい役に立たない。
薄暗い路地を抜けると、犬一は休む間もなく左に伸びた横断歩道橋を登り出した。
――――振り返ればこれまでの人生、運命の女神にツバを吐き付けられたと思えるくらいろくなことがなかった。
例えば、幼稚園児の頃は近所で飼われていた猛犬にしょっちゅう追いかけ回され、小学生の頃は同級生とのヒーローごっこ遊びで毎回悪役として苛められ、中学生の頃は修学旅行の出発当日に風邪を引き、そのまま家で寝込み一人だけ参加できずに終わった。
そして現在。高校生になった犬一は、最近この辺り一帯で幅を利かせる不良グループに目を付けられ、なんと三日ごとに二万円を差し出す強制命令を受けてしまった。
当然、二万円なんて大金はサラリーマンの父親が稼ぐ月収二十万しか収益のない狛江家の経済力では何度も払える金額ではない。アルバイトもしていないので、犬一自身も他に金を集めるアテがあろうはずもない。
結論、後の展開は見えている。
三日が経っても上納金を払いに行かなかったので、腹を立てた奴らがわざわざ犬一の通学時間を狙い制裁リンチをしに来たわけだ。ホント、不良の執念恐るべし。
ところで、この三日間犬一がどんな対抗策を練っていたかというと、実は何一つ行動しなかった。そもそも犬一は知能も強さも並の中学生以下なのだ。肝心の金が用意できない時点で打てる手はない。
犬一はひどく落ち込んだ。
本心ではすぐにでも助けを求めたかったが、両親には昔からいじめの相談ばかりして気苦労を掛けてきた。高校生になってまで、これ以上余計な負担や迷惑は掛けたくない。
――それに自慢じゃないが、自分は何千回ものいじめやパシリを繰り返し受けてきた。逃げ足の速さと身体の頑丈さだけはけっこう自信をもっている。そこら辺の不良ぐらいなら、本気を出せば楽にやり過ごせるに違いない。そう、きっとうまく逃げ切れるに決まっている。
――――なんて思っていた時期もありました。
「オラァ!! 待ちやがれこの糞ガキィ!!」
「まだ逃げ出して十分しか経たねえのに、もう足がガクガクになってんじゃねえカァ! とっ捕まえるのもすぐダゼェ!!」
「ほーら、観念して止まりなイヌヤロウ! おとなしくいい子にしていれば、おしおき全殺しフルコースを大サービスの半殺し二分の一コースへ変更してやるゾォ!!」
ひえええっ!! と断末魔のような悲鳴を上げながら犬一は歩道橋の階段を転がり落ちる。慌てて降りようとしたために、うっかり足を踏み外したようだ。
そのまま硬いコンクリートの地面に背中を打ち付ける。頭をぶつけなかったのは不幸中の幸いか。
体中を擦り傷だらけにしながら、それでもすぐに立ち上がり歩行者用の通行路を走り出す。伊達に苛め慣れしてはいないのだ。骨さえ折れていなければ、多少の怪我や痛みは気にせず動いてやれる。
それに、ここで寝込んでいては後でもっと悲惨な傷を増やされてしまう。
「はぁ……はぁ……もう……いい加減に……してくれ……」
そろそろ体力の限界が近い。
そのことを悟ると、犬一はすでにあきらめモードに入ろうとしていた。
元々、犬一は汗水流して死ぬ気で頑張るような熱血人間じゃない。むしろできないことはすぐに妥協し、嫌なことからは何がなんでも離れようとする負け犬根性の染み付いた生粋のダメ人間だ。
――――どんな風に謝れば後で殴られる回数が減るかなぁー、と前向きか後ろ向きかよく分からない悩みを抱いていると、ふいに見慣れた我が校の姿が視界に入る。
「武功学園……。ここからじゃ……二十分は……かかるかな。逃げ込め……そうには……ないか」
朝日に照らされた武功学園の真っ白な外壁を眺めながら走っていると、交差点へ差し掛かったところで一つの人影が飛び込んでくる。
余所見をしていたせいで、曲がり角の死角から歩いていた人に気付くのが遅れてしまった。
「っ!?」
ぶつかる!! と思った瞬間ほぼ条件反射で後ろに飛び跳ねる。苛められっ子は危機感知能力だけは達人級なのだ。
しかし、咄嗟の反応だったため躱した後のことまで考える余裕はなかった。そのまま勢い余って尻餅を着く。
「痛ててて……、すいません。大丈夫でしたか?」
ぶつけた尻を擦りながら相手の様子を確認する。
――女の子だった。背丈は小さく全体的にも幼い印象を受ける。薄紅色のカーディガンから伸びる細い手足は白磁の人形のようで、触れた瞬間に砕け散りそうな儚さを感じさせる。不意に吹いた風が短めのスカートを揺らし少女の絶対領域を犯そうとするが、擦れ擦れの範囲で見えずに元の位置へと戻っていく。
その肝心の少女は驚いた様子で口元を押さえている。頭に乗せた大きめのベレー帽が邪魔をして表情は見えないが、きっと目を見開いて地べたに座る少年を覗いているのだろう。
少女は犬一の質問を聞くと、慌てた様子で口を開く。
「あっ、はい。わたしは平気ですけど、あなたは大丈夫ですか?」
質問に質問で返されてしまった。
鈴を鳴らしたような澄んだ声で聞いてくる女の子に対し、犬一は気恥ずかしい思いで頭を掻く。小さな子供に心配されるのは高校生にとって屈辱的だが、悪意ゼロな美少女の前では笑って誤魔化す以外他にない。
「うん。俺は……全然なんともないよ。それよりも君は――――」
女の子へ返事を返そうとするが、すぐ傍に迫る複数の走音を聞きつけ途中で言葉を切った。
どうやら、今のやり取りをしている間に不良グループとの距離がだいぶ詰められたようだ。このままでは追い付かれるのに一分もかかるまい。
犬一は血の気が引いた。
一気に立ち上がり「ごめん! 今度また改めてお詫びするから!!」と言ってお互いの携帯電話の番号を教え合う。それから迷うことなく交差点を渡り、再び別の裏路地を見つけ急いで逃げ込んだ。
その数十秒後にさっきの不良たちが同じ路地へ入ってくる。
こうして災難に追われては逃げ、逃げては周囲を巻き込み、そして新たな災難に巻き込まれていく。狛江犬一はそういう星の元に生まれ、それは生涯変わることなく続けられる宿命の連鎖。才能にも運にも見放された少年の、不幸で哀れな日常の一幕だ。
これこそ狛江犬一の世界。
不満も不平も押し殺して、ただありのままに苦痛を受け入れる。そこには現状を打破する勇ましい精神や、自分を変えようと努力する意思の心は微塵も存在しない。
本当のダメ人間とは、何をしても必ず失敗する者ではなく、失敗を前提に考えあきらめてしまう者のことを言うのだ。
この場合、犬一のカテゴライズがそのダメ人間でも断トツで最低の部類に入っていたというだけの実につまらない話だ。
ちなみに、本日の日付は五月七日。
世界はこの日も相変わらず少年に冷たく、災難の手を緩めるつもりは全くなかった。
その証拠に、犬一は数十分後には飛ばされてしまうのだから。
――――異世界へ。