Memory
過去を愛してやまない人達に捧げます。
記憶とは実に朧気で消えてしまいやすく、現実との境界線は曖昧なものであるという。それでも現実と夢の出来事の区別ができない思い出があるというのはありえない。
そんな当たり前のことを完全に悟ったのは、確か高校生になってからのことだったと思う。
普通ならあるはずのない、俺はそんな儚い形をした思い出を持っていた。
………
多分、それは小学校生活が後半に入ってからの頃だったと思う。
明確に思い出せないのは、昔のことだからというわけではない。その記憶自体が酷く朧気な雰囲気を持っているというか、記憶そのものがそういった存在であろうと働きかけたというか……。
この点に関しては無理に思い出そうとは思わない。いつの記憶なのか、重要なのはそんなことでは無いからだ。もしかしたらそれは小学校にあがる以前の記憶だったのかもしれないし、はたまた社会人になって数年経つ今、ごく最近の記憶なのかもしれない。俺にとって時系列なんて、所詮はその程度のレベルなのだ。
そう。重要なのはその記憶の中身。あのときに覚えた複雑で、そして引き裂かれたと形容したくなるほどの強い感情。本質は常に物語の中にある。
少なくとも、俺はそう思う。
………
一番強く目に焼き付いているのは、はっとするほど鮮やかに染め上げられた茜色の空。
どろどろに熟し切った無花果のような色をした、大きな球体の形をどうにかかろうじて保っている沈みゆく太陽。それは下の方から熱されたバターのようにぐにゃりと崩れ落ち、そこから空一面に眩い赤色が流れ込んでいく。
優しい夕光は柔らかくこの町を包み込み、世界全体が奇麗な夕色に染まっていた。物体を縁取る赤みがかった金色のライン。町を二つに分ける河川は夕日を吸い込むように赤く。
『なぁ、知ってるか? こんな風に真っ赤な夕焼けはさ、神様の流した血の色なんだよ』
俺の隣にいた誰かが、透明が笑顔で空を見上げながらぽつりと呟いた。そいつは確か、あの頃一番の親友だったろうか。
俺は、俺たちは、小高い丘の上で町全体を眺めていた。一緒にいたのは当時仲の良かった友人たち。年の違う奴もいれば、女の子も何人かいる。他の町から来た子もいた。そういえばその中には、俺の初恋の人も混じっていた気がする。
丘には一本だけ、見上げると首が痛くなる程に大きな桜の木が悠然とした様子で立っていた。幹をぱっと見ただけでも古いものと分かる、かなりの年代の桜だ。町には何本もの桜が咲いていたが、ここまで大きなものはない。今が満開の桜の花は、時折吹く存外に冷たい風に揺らされて宙でふわりふわりと舞い踊る。淡い橙の光を浴びながら、丘の上の桜はこの町に幻想的に彩っていた。
しばらくは徐々に夕色の濃くなりゆく町の光景を眺めていたが、やがては一人、また一人と丘を思い切り走り下っていった。誰が一番早く下に着くか、そんな小さな競争の意もあって。
丘を下りると、そこは活気溢れる町の商店街。俺たちは小銭の入った財布を片手に、下らなくも笑いが零れてしまう会話を交わしながら商店街の道を歩いていた。
商店街に溢れ返っているのは、笑顔の人々、食欲を掻き立てる揚げ物の匂い、それから町の外れに建っている時計塔が歌う錆びたオルゴールの旋律。毎日一時間ごとに鳴るその異国の歌詞を乗せた切なげなメロディは、聴く者の心を掴み、揺さぶり、決して離そうとしない。
俺たちがこの時間帯にすることはいつもほとんど同じだ。いつもの店で揚げ立ての狐色をしたコロッケを買って、いつもすれ違う町の人に挨拶して、向こうも穏やかに微笑んでいつも礼儀正しく言葉を返してくれて。
そんな、見慣れた普段通りの町。人。空。
俺はこの町で、この茜空の下で友達と一緒にいるというなんでもないようなことに、これ以上とない幸せを感じていた。
けれども俺は、そんな日常の幸せに陶酔していただけではなかった。
強い中毒性すらある優しい夕色の町の裏側には、全く真逆の要素が同時に存在していたのだ。
これといった確信があるわけではない。けれども何となく、俺はその感じを読み取っていた。「何となく」という感覚は意外に大事なものだと俺は考えている。
優しい夕色の町に感じていた数々の違和感。
例えば、物の影。
西向きに長く伸びた影は、本来の色とは遠くかけ離れた禍々しい赤黒の色をしていた。ふと地面に目を向けてみると、そこには生き物の血を滅茶苦茶に塗りたくったようなおぞましい色彩のそれらが主の動きに合わせて蠢いているのだが、俺にはそれがまるで元あるべき場所から離れて自発的に行動出来る化物の類に見えてしまっていた。
例えば、目の色。
町の人々、友人たち__もしかすると俺自身も__全員はよく似通った深い夕色の瞳をしていた。町の住人のほとんどは日本人だというのに、元々の闇色の目を持つ者は誰一人としていない。それはこの町の空を凝縮してそのまま眼球に閉じ込めたかのようなとても奇麗な色をしているのだけど、現実離れし過ぎているせいか何処か異形の者を彷彿させてしまう。不快感を感じている訳ではない。ただ人間性の欠けた美しさがそこにあるのだ。心惹かれると同時に何故だか、怖い。きっとそれは、その夕色が純粋過ぎたからなのだろう。
例えば……例えばそう、街の雰囲気。
町はどこか、現実味があるくせに夢の中にいるようでもあった。言葉では上手く言い表せない。とにかく、俺の記憶の中の町はそんな雰囲気をしていた。最初に述べたように、それこそ現実と夢の境界線など最初から存在していないもののように思えた。
色々な感情がその記憶に対して存在していた。親しみと恐れなんていう、普通なら相対しあう感情が同時にあった。あの町は、人は、ごちゃ混ぜにされた感情と共に俺の記憶に強く深く刻まれている。
どうしてなのだろうか。
あの夕色をした商店街は。
寂しいほど優しくて。
狂おしいほど愛しくて。
切ないほど、懐かし過ぎて……。
………
俺が記憶している思い出の話は、これで全てだ。
あぁ、一つだけ付け加えるとするならば、あの町は現実には存在しないらしい。よくよく思い返すと、俺が小学校の頃に住んでいた町はあんな姿ではない。住人や雰囲気はまるで同じだが、それ以外は全くの別物だった。
だからこのことを話したりすると、ただの夢を見たんだろうと周りに云われる。確かに普通なら俺だってそう思う。
けれども……あの町での思い出は、どうしてもそう簡単に割り切れなかった。この事だけは譲れなかった。この記憶が夢なら、この現実の世界だって夢と同じだ。偽物だ、幻だ、あの思い出こそが確かな現実の出来事なんだ……と。
勿論、そこまで強く周りに主張したではない。そんなことを繰り返して言い張れば、孤立してしまうのが分かっていたからだ。俺は人一倍に臆病者で、独りになるのが堪らなく怖かった。だから沈黙を選んだ。
それでも俺にとっての現実の思い出は、社会人になった今も消えることはなかった。そして、俺の思い出に対する感情や狂おしい願いもただただ強まるばかりだった。
『もう一度だけ、あの町でみんなと会いたい』
それが俺の望む、今では唯一の願い。
………
久し振りに俺は気分転換にと街へ出かけた。それも珍しく一人で。何となく、今日はそんな気分だったのだ。
夕方に差し掛かった頃、一通りの買い物を終えて家に帰ろうとする途中。俺ははしゃぎ声をあげながら走っていく子供たちとすれ違った。みんなが幸せそうな無邪気な笑顔を浮かべていて、見ているこちらが思わず微笑んでしまうような光景だった。
当然、俺は子供たちを見てあの町の記憶を思い出す。
……自分にもあんな頃があったんだよな。今ではみんなはどうしているだろう。俺と同じようにこの夕焼け空の下、元気でやっているだろうか。
思わず感傷に浸っていると、くすりと誰かの笑い声が耳に入ってきた。何者だろうか。遠ざかっていく子供たちの小さな背中を見送って、俺は笑い声の持ち主の方を振り返った。
「……っ!」
そこにいたのは……幼い姿のままの、俺のかつての親友の姿だった。透明な笑顔を浮かべ、優しい声で今日のような鮮やかな夕焼け空について語っていた、
__中学にあがる前に死んだはずのあいつが。
「なん、で……?」
呆然とする俺に、あいつはあの時と変わらない笑顔を浮かべて手を差し伸べてきた。
「行きたいんだろ? 俺たちと、一緒に」
「え……」
「行こうよ。あの頃に戻ろう? それが……お前の唯一の願いなんだろ」
「俺の、願い……」
気が付けば目尻からぽろりと、熱い涙の粒が零れ落ちていた。誘われるがままに俺はあいつの手を受け取る。それはちゃんと人の温もりを持っていて、幻想なんかじゃないことを伝えている。あいつの深い夕色の瞳に映った自分の姿は、本当の自分よりも随分と幼く見えた気がした……気のせいだろうか。
「……行きたい。俺も、みんなと……」
「うん」
「もうこれ以上、我慢出来ない……どんどん変わっていく人や世界について行けない……俺は……俺は、過去に戻ってしまいたい……」
「うん」
「みんなに会いたい……変容していったものしか残らない未来なんて、望んでない……!」
「うん、その通りだ。未来なんて要らない。俺たちが本当に望んでいるのは、懐かしさに満ち溢れた過去の世界なんだ。人は変わらなくちゃ生きていけない。でも、変わり過ぎても人は生きていけない。お前はよく頑張った。もう充分だよ」
掴まれた手が、ぐいと強く引かれる。
「連れて行ってやるよ。そこで、みんなで一緒に……永遠に幸せに暮らそう」
「うん……」
目の前が夕色いっぱいに包まれて、その眩しさに思わず目を瞑った。空間が、時間が、変わっていくのが肌で感じる。繋がれた右手は優しく温かい。
そして、目を開けた先に広がっていた光景は__
「会いたかったよ」
ーhappy endingー
ハッピーエンドの形は、人それぞれだと思う。
この物語が受け入れられずとも、少なくともそれだけは知っていてもらいたい。