ユリウス
コマドリの小さな囀りで目が覚める。
埃と石の、鼻腔にこびりつく古びた香り。
秋の初めの空気は、いつになく冷たい。吐いた息が白く濁るのも、もうすぐだろう。
雪化粧を施された街は、絵画のように美しい。
コンコンコン。
「お嬢様。お湯をお持ち致しました」
「……はぁい」
蝶番が軽く軋みながら、重い扉が開いた。
お湯と洗面器を乗せた銀のトレーを、ベッドサイドに置く。
「おはようございます、お嬢様。さぁ!起きてくださいませ」
「んん……やだぁ」
私は最後まで抵抗しようとして、身を捩って掛け布を抱き込める。
彼女はケトルを傾けてお湯を注ぐ。洗面器の中から、仄かに湯気が上がった。
「御父上も御母上も、もうお支度が完了しておられますわよ」
慣れた手つきでカーテンを開けると、朝日の線が私の瞳を突き刺してきた。
窓は薄く燻んで、本来そこにあるはずの青空は重い曇天が覆い隠してしまっている。
熟れたように赤いニシギキの葉が、はらりと窓の外を舞い落ちた。
もうダメだと思い、観念した私は彼女の声に促されるようにしてベッドの上から渋々上半身を起こした。
顔を洗い、髪を梳いてもらう。
私は『まだ早い』と言われて、色を乗せることすら許されていないのだ。
「あ〜あ。つまんないなぁ」
侍女は、緩く編み込んだ私の頭に金のスヌードを被せて訊ねる。
「どうしてです?」
「どうしてって……ん〜っ、もう全部よ!朝の礼拝も勉強もマナーも晩餐会もっ!」
「そうは言っても……それがお嬢様のお務めですから。
ボヘミア創立以来から続くブラン家の大切なご令嬢であるお嬢様は─────……」
─────そんなの、もう知ってるよ。
だから私は、この薄暗い石の城にずっと閉じ込められているんでしょ?
いつも眺めるだけなの。この小高い城塞のような城の下に広がる、茶色い屋根の連なった小さな城下町─────ブラン家の小さな領地と民たちを。
手鏡の中のグレージュの瞳からは、いつもの元気のカケラはすっかり失われている。
……私はお人形じゃない。お飾りの綺麗な宝石でもない。
乳白色の重いベルベットのドレスは、私の鉛の足枷になっているのよ。
腰まで波打ったこの赤錆みたいな色の髪だって、邪魔で邪魔でしょうがない。
こんな重いドレスじゃ、何処へも行けないじゃない……
気が遠くなるほど高い高い螺旋階段を見上げる。天井の窓から、鈍い光が微かに差し込んで私の足元を照らす。空気中を、埃がきらきら舞っていた。
─────私たちの食卓に並ぶパンは、何処から来ているのかしら?食後の果物は?
この美味しいチーズは?山羊のミルクは?
お父様が嗜んでいらっしゃる赤いワインは?
ついに私はある日、城から飛び出した。
雲の隙間から抜けるような青空が覗く、丁度いい天気の午前のことだった。
家庭教師たちの目を盗み、たっぷりしたドレスの裾を精一杯両手で持ち上げて部屋の窓から少しずつ少しずつ下へ下っていった。
城壁に張り付いた蔦の太い茎が、ちょうどいい足場になった。爪の間に小さい石が入り込んで痛かったけど、それよりも私は、いつも窓から見下ろすだけだった街に足を踏み入れることができることに心臓がどきどきしていた。
少し遠くを流れるヴルタヴァの大河が、細い陽光を反射して光る。
北から吹いてきた冷たい風が、色とりどりの落ち葉を攫って吹き上げる。パイルで編まれたこの厚いドレスの裾さえ、風に煽られて暴れる。広すぎる袖口は、まるで外套のようだった。
ガラガラガラガラ……
「ひゃっ」
馬の嘶き。前脚を大きく上げた茶色い馬に驚いて、私は慌てて小道の端に避ける。
御者の年老いた男性は、明らかに周囲の町人たちと身なりの異なる私に怪訝そうな目線を向けた。馬を御して去っていく時も、何度かこちらをチラチラ振り返る。
私は、草むらをかき分けるようにして小道の中を進んでいった。引き摺るようなドレスの裾に、いちいち小枝が引っ掛かって軽い足止めを食らう。
「わぁ……!」
─────やっとの思いで小橋を抜けるとそこには、私の知らない世界が広がっていた。
籠を提げて行き交う女性たちや、噴水の広場を駆け回る小さな子供たち、花屋の軒先で客引きをする、私と同じくらいの歳の花屋の女の子……
みずみずしい果物や、見たことのない見た目のチーズが、店先にたくさん顔を出している。
どの店も家も、同じような色と造りになっていて、それがかえってこの街の規則正しい外観を作りだすことに一役買っているように思えた。
鎧戸の突き出した部分に置かれた小さな籠に、季節の美しい花が飾られている。
私の背丈の倍はある角材や、大きい麻袋を担いだ男性たちの首筋には汗が滲んでいる。
彼らが通った後、ほんのり酸っぱい匂いがした。
すると、今朝獲れたての川魚を荷台に乗せてゆっくり走る小さな馬車が、私の目の前を横断する。
興味を引かれた私は、小走りでその後を追ってみることにした。
大通りの真ん中から少し離れたところ。
そこに店を構えた魚屋の前で馬は歩を止め、御者のまだ若い長身の男性が荷台から大きな陶器を下ろした。その弾みで、中の水が溢れて石畳を濡らす。
「へい!オカミさんはいるかい!?」
彼の抱える容器の中で、淡泊な色のたくさんの川魚たちが踊っている。
「はいはい、ご苦労さん」
彼の呼びかけに、仄暗い店内からすぐに恰幅の良い店主の女性が顔を出す。
「今日もいいの入ってるよ〜、ハイ、気をつけて!」
「毎度ありがとねぇ」
重い容器を受け取り、奥へ運んでいく。
少しして戻ってきた彼女は、腰に巻いたエプロンで手の水気を拭ってから、小さな布袋の中から銀貨を10枚ほど取り出す。
「最近は物価が高くってねぇ。全く、困っちまうよ」
彼女はふくよかな白い手を額に当てながらため息をついた。
「税金もグンと上がったしなぁ。食っていくのも一苦労ってもんだよ」
銀貨を受け取った男性はぼやきと共に一言礼を告げて、御者台に乗り込む。
「じゃ、今後ともご贔屓に!」
馬の蹄が石畳を蹴る音と共に、魚売りの馬車は去っていった。
石畳の水はじわじわ広がって、私のすぐ足先まで伸びてくる。
ふと頬を愛撫するような風に乗って、ほんのり芳ばしいパンの香りが漂ってきた。
何処からだろう?
食欲をそそるその香りと、目視できるほどの細い煙を辿って、私はきょろきょろと彷徨いながら歩く。
「タマネギにビートにリーキ、今夜のスープにいかが〜!」
「ちょっとそこの素敵なお兄さん、お花を渡したい人はいませんか?」
客引きの為に声を張り上げる店先で、干したばかりの洗濯物が風に揺れている。
一際人だかりの出来ている店の前に行くと、パンの香りがより一層強まる。逸る気持ちと今にも鳴り出しそうなお腹を抱えて、私は籠を提げた婦人たちの後ろの方に並んだ。
ゴーン……ゴーン……ゴーン……
教会の鐘が、3回鳴った。丁度お昼時である。
─────街の中にいると、こんなに大きな音なのね。
心の臓に響いてくるような、深くて大きい音。
いつのまにか雲が散り、どこまでも澄み渡る爽やかな青が天空を覆っていた。
ほんの少し温くなった風に呼応するように、名前も知らない鳥達が気持ちよさそうに天上を真っ直ぐに飛んで行く。
「いらっしゃい。……おやおや、随分と可愛らしいお客さんじゃないか」
黒い髭をたっぷりと生やした店主の男性は、私の姿を認めるなりたちまち表情を崩す。
石で拵えられた棚に、足付きの籠が乗っている。その上には、大小様々のパンが幾つも陳列されていた。
私は少し迷ってから1番手前の小さめの一つを手に取る。
「これをいただけるかしら?」
「はいよ。10グロンネだよ」
私は懐中から金貨を一枚取り出して店主の手のひらに乗せる。
すぐに店主はびっくりしたように眉を上げた。
「お嬢ちゃん、ちょっと多すぎるよ」
「?……そう、ね。なら、それは全部貴方にあげるわ。どうもありがとう!」
「えっ、あ、ちょっと!」
金貨の扱いに困惑するように、店主は私を引き留めてきたけれど、パンを受け取って軽い足取りで私は大通りを駆けていく。
人生で初めて『買い物』をした私は、歯応えのあるパンを手で千切って、口に一つ放り込む。
塩っぽい素朴な味は朝食で出てくるパンとなんら変わりはないはずなのに、なんだか妙に舌が喜んでいる気がした。
私が歩いた道の後ろには、溢れたパンの屑を求めて鳩たちがどんどん群がっていく。
「……ん?」
──────ふと、閉まりきっている酒場の近くに、一人の少年が腰掛けていた。
年は……私と同じくらいだろうか。
足元に立て掛けられた小さな木板には、『似顔絵 1枚10グロンネ』と書いてある。
「こんにちは」
私が近づき、声を掛けるよりも早く彼は顔を上げた。
とても綺麗な少年だった。
ちょっと悔しい気もするけれど、私より女の子らしい顔つきをしている気がする。
ブラウンに一滴だけ白い絵の具を垂らしたような塩梅の髪は、太陽の光のもとほんの少しだけ透けて見える。
少し皺になった生成りのシャツと、履き心地の良さそうな皮のズボン。薄汚れた革靴は紐が少し解けていて、靴の先には、継ぎはぎの跡が見受けられた。
使い古されてボロボロになったスケッチブックを持つその手の側面は、黒い木炭で汚れている。
雀斑だらけの健康そうなオレンジ色の頬にも、同じような汚れが付いていた。
「あなたは絵描きなの?」
彼が座っている石段に私も腰掛ける。
「そうだよ。一枚10グロンネ」
彼は鼻先を擦る。すると、またそこに新しい汚れが増えた。
「このパンと同じ値段だわ!」
端っこだけ欠けた手元のパンを、私は両手で二つに千切る。
その片方を、少年に差し出した。
「私一人じゃ食べきれないから、半分あげる」
「えっ、いいの?」
うん!と私が笑って快諾すると、少年は嬉しそうに緩くはにかんで私の手からその半分を受け取る。
彼の中指の側面は、少し腫れるように盛り上がっていた。
固くなったパンを懸命に咀嚼しながら、少年は言う。
「お礼に、君の似顔絵を描いてあげようか?」
「いいの!?」
無邪気な笑顔と共に、彼は小さな手のひらを差し出す。
「10グロンネだけど」
「えぇっ!お礼じゃないの?」
「これが僕の仕事だから」
仕事……
そう、この街には、仕事をしている人がいっばい。
私はこのパンを買う時、この10年の人生で初めてお金を払った。だから正直、金貨や銀貨の相場もいまいちピンときていない部分もある。
毎日、たくさんのことを学ばされていると思っていた。
それなのに私は、城の窓から毎日見ていたこの街の……自分の家の領地に暮らす領民たちの生活すら、なんにも知らなかったのね。
私はさっきとは反対側の袖口を探る。指先に当たった少し錆びた銀貨を一枚、少年の柔らかな手に乗せる。
「ありがとう」
宝物に触れるように、そっと銀貨をズボンのポケットに入れた。
それから身体の向きを変え、右足を組んでスケッチブックの隙間から新しい羊皮紙を取り出す。
「もう少し顎を引いて。……そう。いい感じ。手はこう、このまま。
僕の目を見ていてね」
先ほどまでの年相応の表情とは打って変わって、まさしく画家の顔つきになっている。
……息が止まるほど、綺麗な色の瞳だなぁ。
海の色、というのだろうか。私は見たことがないから想像に過ぎないけれど。
そんなふうに、天然に美しい瞳とちらちら視線が交わるものだから、私はほんの少し気恥ずかしくなってしまう。
「あなたは、この街の人?」
「うん。生まれはザクセンだけどね。今は、画家の先生の元で修行してる。
モンテネ通りに住んでる先生なんだけど……知ってる?アントニン・ビェリーク先生」
「し、知らないわ」
私が素直に首を振ると、彼は一瞬「そっか……」と、少し淋しそうに目を細めた。
「その先生のところに住んでいるの?」
「そうだよ。先生のアトリエで毎日練習して、たまにこうしてここで似顔絵を描く」
素早い手つきで線を重ね、その線たちを指の腹で少しずつぼかしていく。繊細な手つきと真剣な面差しから、私はどんどん目が離せなくなっていった。
「住むところがあるのに、どうしてお金を稼ぐ必要があるの?」
少年は一瞬、口を噤む。
「……自分で使う紙や絵の具は、できるだけ自分で買いたくて。
早く自立して、一人前の画家になって先生に恩返ししたいんだ」
儚げな容貌と反して、彼は意外とお喋りだった。
私は、急に顔が熱くなる。
その大人びた少年の前で、私はなんだか心のうちを全部見透かされているような気がして仕方がなかった。
「お父様と、お母様は?」
「いない。僕がまだ小さかった時に天然痘で死んじゃった」
少しも揺るがない表情のまま、小さい口を動かし続ける。
……ううん。もしかしたら、彼なりに努めてそうしているのかもしれない。
「ギルドのよしみで、僕の父さんはビェリーク先生とは古い仲だったんだ。父さんは、建築家だったからね。
それで先生に引き取られて、この街に来た」
「ごめんなさい、私」
一瞬だけ紙から顔を上げた彼は、「ううん、いいんだ」と少し眉を下げて微笑む。
ほんの少しの沈黙が流れた後、手を止めることなく彼が私に訊ねた。
「君は……どうして今日、ここに来たの?」
「えっ」
あ、いや……と急いで瞬きをし、少し困るように目線を彷徨させる。
その様子がなんだかおかしくて、私はとうとう姿勢を崩してしまった。
「……うーん、どうしてだろ。
ただ、1人で自由に歩いてみたかっただけかもしれないわ」
思考する間もなく、勝手にその言葉たちが口から抜けていった。
手の置き場所に困り、ほんの少しだけ割れた毛先を指に巻き付ける。
「初めて見る景色、初めて見る食べ物、初めて見る人々……今日の私、全部が初めてだった。
ねぇ、すごいと思わない?昨日まで、全く同じ毎日の繰り返しだったのに」
それに、と私は髪の毛から手を離し、少年との距離を詰める。
「私、人生でパンを半分こしたの、今日が初めて!」
暫くずっと紙の上に置いていた目線を上げ、また戻して上げてから、今度はゆっくりと下ろす。
至って真顔で手を動かし続けているはずなのに、彼の頬に完熟のアプリコットの実の色が広がっていく。
やがて、ほんの少し強い風に煽られて顔に髪がかかってしまった時、深く息を吐きながら彼は顔を上げた。
「──────出来た」
「えっ、見せて見せて!」
「ほら」
─────そこには、“私”がいた。
比喩でもない。大袈裟でもない。ほんとうに、そこには私がいるのだ。
こんな短時間で描いたとは思えないほど写実的で、何よりもこんなに幼い少年が一人で描いたとは思えない出来栄えだった。
「すごいっ!すごい、すごい!とっても素敵だわ!」
思わず立ち上がり、彼から紙をひったくる。
当の本人はちょっとびっくりした顔をして、数拍置いてから、「ありがとう」と小さく呟いて鼻の下を擦った。
「私、これお部屋に飾るね!」
「えっ、いや、ダメだよそんなのっ!
君のお家にはきっと、僕なんかと比べるのも畏れ多いくらい高名な先生たちの絵画が……」
「どうして?」
石段に座り直した私に、どうして、って……と彼は顔を背ける。
「僕、弟子たちの中でも1番子供だし。それに……先生に駄目出しされてばかりで。
……僕がこれ以上あそこにいたって、食い扶持が増えてくばかりだと思うんだ」
線の細い身体を丸め、セピア色の睫毛が下がると、前髪が切なげに揺れた。
「どうして?どうしてそんなふうに思うの?だってあなたは、素晴らしい画家になるんでしょ?」
「え?」
目の前に集っていた鳩たちが、弾かれたように一斉に羽ばたいた。
私は続ける。
「いいことじゃない、私たちにはいっぱい時間があるわ。今の大人たちが子供の頃にできなかったことを、好きなだけやってやればいいのよ!
私、あなたはまだ何にでもなれる気がするの」
ほんの少しだけ傾き始めた太陽に、少年が目を細める。白い前歯が小さく覗くくらい、少しだけ口を開けた。
それに、と私は腕を伸ばして、自慢げに似顔絵を掲げる。
「あなた、絶対に才能があるわ。だって私、こんなに素敵に描いてもらったの初めてだもの!」
「……ほんと?」
信じられないものを見るような目をして、少年は独り言のように呟く。そしてほんの少しずつ、硬くなっていた頬を上げた。
「ホントよ!私、嘘はつかないもの」
子供らしくふっくらした頬に広がった色が、ほんの少しだけ濃くなった。細い茶色の髪の毛が、俄かに吹き続ける北風に揺れた。
彼の唇が、何か言いたげに動く。
霞んだような息を細く吐いてから、彼はこう言った。
「ありがとう。……すごく、嬉しい」
ゆっくりと目を上げた少年は、光の粒を湛えた瞳をそっと細めて微笑む。
「また私を描いてね!」
はっとしたように目を開いた彼は、破顔した私を静かに見つめたまま、スケッチブックを優しく胸に抱え直して「うん」と呟いた。
──────けれど、幼い子供同士の口先だけの約束なんて、大人の都合でいとも簡単に破られるものだ。
この日、夕方まで帰らなかった私を心配して、お父様はわざわざ城の兵士たちを派遣して私を探させた。
この件でひどく叱られた私は、絶対に一人でお城の外に出してもらえなくなってしまった。
木々が全て紅く熟れても、木々が裸になっても、色とりどりの花が鮮やかに咲き乱れ、その葉が濃緑に変わっていっても……あの茶色い屋根の並ぶ街は、また手が届かないところへ行ってしまった。
四角い窓枠に切り取られたヴルタヴァ川は、壁に掛けられた絵画のようにそこに鎮座し続けた。
一度、お兄様に頼み込んであの街に住む画家について調べてもらったことがある。
けれど、いつのまにかアトリエごと引っ越してしまっていたらしい、もうあの街にはいないと言われた。どこに行ってしまったのかは、誰も知らないそうだ。
叶えられない約束をして、ごめんね。
ああ、彼は今どこにいるのだろう。
今日も明日も明後日も、あの酒場の前の、所々朽ちた石段の上で、パン一つ分の値段で素晴らしい似顔絵を描き続けているのだろうか?
あの日目に映った全ては、遠い夢の中の出来事のように私の瞼の裏に焼き付いて離れない。
たった一度会っただけのあの絵描きの少年はどんなに月日が流れても忘れることができず、胸の中の侘しい感情が小さいしこりのように、ずっとずっと残り続けた。
───────……そして、6年の歳月が過ぎた。
「フランチェスカ様。今日は一段とお美しいですよ」
「……ありがとう」
まるで自分のことのように満足げな笑みを浮かべて、彼女は私の赤毛にブラシを通す。
そう。結局、私が何をどう考えていようが、ボヘミアの名家の娘である私の人生は最初から決まっていたのだ。
少し肌寒い。室内は十分に暖められているはずなのに、何故だろう。
鏡に映る姿は随分変わった。
けれど────……唇と頬に色を乗せるようになっても、背が伸びても城の廊下を駆け回ることがなくなっても。
私はずっと泣き出したい気持ちに……逃げ出したい気持ちに、蓋をし続けているのかもしれない。
深いボルドーのドレスに身を包んだ私は、扉を開けた侍女に続いて奥の部屋に入る。
そして、豪奢なソファに深く腰掛けた。
私は今日、額縁の中に閉じ込められる。
隣国の伯爵子爵との縁談の為に、何年かぶりに画家に肖像画を描いてもらうのだ。
侍女数人はより一層忙しく動き、周囲に飾った花や私のドレスの皺に気を配っていた。頭の上のフレンチ・フードの調子を、何度も何度も微調整され続け、私はいい加減うんざりしていた。
「失礼致します。本日肖像画を依頼した画家が到着いたしました」
17回目のため息をついた時、侍女の1人が部屋に入ってくる。
私はそんな様子を、どこか他人事のように見つめていた。
無意識に興味を失い、自分の爪先を眺める。
「本日はご依頼いただき、光栄です」
歩く靴音と共に聞こえてきたのは、若い男性の声だった。
「お嬢様、こちら本日の肖像画を担当します、画家のユリウス・バボラークです」
私は、どこまでも広がるワインレッドのカーペットの端を探して、金色の刺繍の柄を目で追い続ける。
そんな私に膝をついた画家は、やがて口を開いた。
「久しぶりだね」
────────……え……?
目を上げた私の前にいるのは、背の高い、茶色い髪をした綺麗な青年だった。
そう。あの、ブラウンにほんの一滴だけ白を落としたような、あの色。
──────そんな……本当に……?
「嘘……どうして?」
「君に会うためには、これしかないと思って」
笑った顔は、あの時と少しも変わっていない。鼻筋から頬にかけて広がる雀斑は、ほんの少しだけ薄くなっていたけれど。
「こんな、ことって……」
私は口元に手を当てる。
皺ひとつない新品同様のシャツ、しっかりと形のついているズボン、磨きたてのように艶めく靴。
ほんの一段だけ濃くなった、深い海の青。
「私……ごめんなさい、ずっと約束……守れなくて」
言葉の端々がどうしても震えてしまう。
込み上げてくるものを堪えたくて、私はドレスの生地をきつく握りしめる。
「どうして君が謝るの?僕の方こそ、来るのが遅くなってごめん」
あの時は私と同じような声だったのに、すっかり落ち着いてしまった低い声で謝罪をする。
「あの時、君が背中を押してくれたこと、ずっと忘れられなかった」
声が出ない。
私も、私もずっと覚えていたのよ。
その言葉を飲み込む代わりに、私は彼に負けないくらい綺麗に微笑った。
「……今もまだ、1枚10グロンネで描いていらっしゃるの?」
「まさか」
口の形は笑っているのに、どうしても弱く震えた声になってしまう私の冗談に、彼は白い歯をほんの少し覗かせて優しく笑う。
すっかり“先生”になった彼は、大きなキャンバスの前の椅子に腰掛ける。
「約束、守らせてくれてありがとう」
下瞼の際から、とうとう持ち堪えられなくなった涙が流れる。
私の頬に、一筋線を引いた。
「また君を描くことができて嬉しい」
つきものが落ちたような、心からの穏やかな微笑をそのままに、彼は絵筆をとって油と絵の具を混ぜた。




