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「君は僕のものだ」三年前に婚約破棄した元婚約者に塔へ閉じ込められましたが、彼の歪んだ愛の真実を知った私は逃げるのではなく向き合うことを選びました

作者: uta
掲載日:2026/05/27

「おはよう、リーゼ。ようやく目を覚ましたね」


知っている声だった。

知っているはずがない声だった。


だって、この声の主は——三年前、私を「公爵家の恥」と切り捨てた人なのだから。


重い瞼をこじ開けると、見慣れない天蓋が視界を覆っていた。深紅のビロード、金糸の刺繍。明らかに私の質素な寝室ではない。


身体が重い。頭がぼんやりする。まるで深い霧の中から引きずり出されたような感覚だった。


「……どこ、ここ」


声が掠れる。喉が渇いている。いや、それより——なぜ私はここにいる?


昨夜のことを思い出そうとして、頭が鈍く痛んだ。確か、エミル先生が……そう、エミル先生が私に求婚してくれて、それで——


「水を持ってきたよ。ゆっくり飲んで」


銀のゴブレットが差し出される。それを持つ手は白く、指は長く、貴族特有の優美さを湛えていた。


私は、その手を知っている。


心臓が跳ねた。嫌な予感が背筋を駆け上がる。


ゆっくりと視線を上げた。


漆黒の髪。宝石のような深紫の瞳。彫刻のように整った顔立ちに浮かぶ、完璧な微笑み。


——アルヴィン・ローゼンクランツ。


私の、元婚約者。


「なん、で……」


言葉が続かない。頭が真っ白になる。だって、おかしい。おかしいでしょう?


三年だ。三年間、一度も顔を合わせなかった。社交界から逃げるように田舎に引っ込んで、薬草園を耕して、ようやく——ようやく私は、あの日の傷を乗り越えようとしていたのに。


「驚かせてしまったね」


アルヴィンは申し訳なさそうに眉を下げた。その仕草さえ優雅で、私は一瞬、見惚れそうになる。


——いや、待って。


私は慌てて身を起こし、周囲を見回した。


豪奢な調度品。暖炉の火。窓から差し込む光——


窓。


反射的に駆け寄って、息を呑んだ。


断崖絶壁だった。


眼下には深い霧が立ち込め、どこまで続いているのかもわからない。塔だ。私は、塔の上にいる。


「外は危ないから、窓には近づかないで」


背後からアルヴィンの声。振り返ると、彼は変わらず穏やかに微笑んでいた。


でも、その目が笑っていないことに、私は気づいてしまった。


深紫の瞳の奥に、何か暗いものが蠢いている。見てはいけないものを見てしまったような、背筋が凍る感覚。


「……アルヴィン様、これは何の冗談ですか」


声を絞り出す。震えないように。怯えを悟られないように。


「冗談?」


彼は首を傾げる。本当に不思議そうに。まるで私の質問の意味がわからないとでも言いたげに。


「冗談なんかじゃないよ、リーゼ。僕は君を迎えに来たんだ」


「迎えに……」


「三年も待たせてしまった。ごめんね」


彼は一歩、近づいてくる。私は一歩、後ずさる。背中が冷たい窓ガラスに当たった。


逃げ場がない。


「あの時は間違っていたんだ」


アルヴィンの手が、私の頬に触れる。温かい。温かいのに、背筋が凍るほど怖い。


「君がいない人生なんて、意味がなかった」


——嘘だ。


三年前、あなたは言ったじゃない。


『君のような地味な女では、公爵家の恥だ』


冷え切った声で。まるで汚いものを見るような目で。私の心を、粉々に砕いたくせに。


あの日のことを思い出すと、今でも胸が締め付けられる。


華やかな夜会の席。きらびやかな貴婦人たちに囲まれて、私は必死に笑顔を取り繕っていた。地味で、華がなくて、社交界の花にはなれない自分。それでも彼の隣にいられることが——少しだけ、誇らしかった。


なのに。


「リーゼ、話がある」


彼に連れ出されたバルコニー。月明かりの下で告げられた言葉は、残酷そのものだった。


「婚約を解消したい」


「え……?」


「君のような地味な女では、公爵家の恥だ」


理解が追いつかなかった。だって、昨日まで普通に話していたのに。いつものように本の話をして、いつものように彼の隣を歩いていたのに。


「君には華がない。公爵夫人にはふさわしくない」


「待って、アルヴィン様、私、何か——」


「もう決めたことだ。明日には正式に発表する」


彼の瞳には、何の感情も浮かんでいなかった。


私を見ているのに、私を見ていない。まるで、路傍の石を眺めるような——そんな目だった。


夜会場に戻った時、私の婚約破棄の噂はもう広まっていた。好奇の視線。嘲笑。憐れみ。


「まあ、あんな地味な娘じゃねえ」

「身の程知らずだったのよ」

「かわいそうに、勘違いしていたのね」


私は逃げるように会場を出た。そして翌日には、実家に引きこもった。


社交界の笑い者になった私を、両親は責めなかった。ただ、「田舎で静かに暮らしなさい」と言っただけだった。


優しさだったのか、諦めだったのか。今となってはわからない。


——それから三年。


ようやく傷が癒えかけていたのに。ようやく新しい人生を歩み始めようとしていたのに。


「君は僕のものだ、リーゼ」


アルヴィンの囁きが、回想を断ち切った。


「誰にも渡さない。もう二度と——逃がさない」


彼の瞳が、妖しく輝いた。


扉の方を見た。


鍵がかかっている。


——私は、閉じ込められたのだと、ようやく理解した。


まあ、私だしね。


ようやく幸せになれると思った矢先に、こんな目に遭うなんて。


……本当に、私らしい。



     ◆ ◆ ◆



塔での「生活」が始まって、三日が経った。


朝は鳥のさえずりで目が覚める。朝食は焼きたてのパンと季節の果物、湯気の立つスープ。昼には好きな本を読み、午後のお茶にはアルヴィンが必ず顔を出す。夕食は豪華で、食後には暖炉の前で穏やかな時間を過ごす。


何不自由ない暮らし。


——檻であることを除けば。


「今日の紅茶は気に入った? 君が好きだった銘柄を取り寄せたんだ」


アルヴィンはいつも通り、優雅にティーカップを傾けている。その隣のソファに座らされている私は、無言で琥珀色の液体を見つめていた。


好きだった銘柄。


確かに、これは婚約時代に私が気に入っていた紅茶だ。華やかな香りと、ほのかな甘み。あの頃、彼の屋敷でこの紅茶を飲みながら本の話をするのが、密かな楽しみだった。


「覚えていたんですね」


「もちろん。君のことは全部覚えているよ」


全部。


その言葉の重さに、背筋が粟立つ。


「……エミル先生は」


口にした途端、空気が変わった。


アルヴィンの表情は変わらない。穏やかな微笑みのまま。でも、ティーカップを持つ指が白くなるほど力が込められているのが見えた。


「誰のことかな」


「私に求婚してくれた人です」


彼の瞳が、一瞬だけ暗く翳った。


「ああ、あの人か」


紅茶を一口飲んで、何でもないことのように言った。


「心配しなくていいよ。もう君の前には現れないから」


——消した。


直接聞いたわけじゃない。でも、確信があった。


エミル・クラウス先生。田舎町で診療所を営む、穏やかな青年医師。柔らかな栗色の髪と、温かみのある琥珀色の瞳。優しげな垂れ目が印象的な人だった。


私が暮らす町に来て、薬草園を訪ねてくるようになったのは二年前のこと。


「リーゼさんの薬草、評判いいんですよ。患者さんたちに」


最初はそんな言葉から始まった。少しずつ、少しずつ、彼は私の心に入り込んできた。


傷ついた私を責めない。過去を詮索しない。ただ、今の私を見てくれる。


「無理しないでくださいね」


それが彼の口癖だった。私が笑顔を作ろうとするたびに、そう言って首を振った。


「無理に笑わなくていいんです。辛い時は辛いって、言っていいんですよ」


そんな言葉をかけてくれたのは、彼が初めてだった。


そして三日前の夜——


「リーゼさん」


診療所の帰り道、彼は私を呼び止めた。いつもより緊張した面持ちで、何度も言葉を詰まらせながら。


「あの、僕——ずっと、言いたいことがあって」


「……はい」


「僕と——結婚してくれませんか」


息が止まった。


「あなたのことが、好きなんです。二年間、ずっと」


彼の琥珀色の瞳が、真剣に私を見つめていた。


「もちろん、すぐに返事をくれとは言いません。明日、正式に——」


「……考えさせて、ください」


私はそう答えた。答えることしかできなかった。


嬉しかった。本当に嬉しかった。


でも、あの時の傷が——アルヴィンに捨てられた記憶が、まだ胸の奥で疼いていたから。


「もちろんです。明日、返事を聞かせてください」


エミル先生は優しく笑って、去っていった。


私は幸せで、眠れなくて、窓から月を眺めていた。ようやく、前に進めるかもしれない。この三年間の苦しみに、終止符が打てるかもしれない。


そこに——黒い影が近づいてくるのを、見た気がする。


それから先の記憶がない。


目が覚めたら、ここにいた。


「どうして、私なの」


気づけば、声が震えていた。


「三年前、あなたは私を捨てたじゃない。『公爵家の恥』だって。『華がない』って。——あんなに、酷いことを言ったのに」


涙は出なかった。三年かけて、泣き尽くしたから。


でも、声は震える。心は、まだ痛い。


アルヴィンが立ち上がった。


私の前に膝をつき、見上げてくる。あの日と同じ深紫の瞳。でも、その中に浮かぶ感情が——あの時とは、全く違っていた。


「あの言葉は」


「嘘だった、とでも言うんですか」


「……本心じゃなかった」


私は笑った。乾いた、自嘲の笑い。


「信じられると思いますか」


「思わないよ。でも、本当のことだ」


彼の手が、私の手を包む。冷たい手だった。緊張しているのだろうか。


「君が初めてだったんだ、リーゼ」


「何が」


「僕を——『特別』じゃなく見てくれた人は」


その言葉の意味が、すぐには理解できなかった。


「みんな僕を『公爵家の嫡男』として見る。『完璧な貴公子』として。でも君だけが、僕の話を最後まで聞いてくれた。僕が好きな本の話を、つまらなそうにしなかった」


「それは……」


「覚えてる? 君が言ったんだ。『アルヴィン様は、難しい顔で本を読んでいる時が一番楽しそうですね』って」


——覚えている。


婚約して間もない頃。まだ私が彼に、淡い期待を抱いていた頃。


彼の書斎で、二人で本を読んでいた午後。私は自分の本に集中できず、つい彼の横顔を盗み見てしまった。難しい顔をして哲学書を読んでいるはずの彼が、どこか嬉しそうに見えて。


「あの時、僕は初めて——誰かに『見てもらえた』と思った」


アルヴィンの瞳が、かすかに揺れる。


「だから、失いたくなかった。誰にも渡したくなかった。なのに——」


彼の顔が、苦しげに歪んだ。


「奪われた。僕の知らないところで、全部——」


「……何を、言って」


「あの言葉は、僕の言葉じゃない」


彼は私の手を強く握った。痛いほどに。


「母が——僕に、言わせたんだ」


母。


ヴィクトリア・ローゼンクランツ。


あの冷たい目をした公爵夫人の顔が、脳裏をよぎる。銀糸の混じった黒髪を厳格に結い上げ、紫水晶の瞳で人を値踏みするように見る女性。婚約時代、私はいつも彼女の前で萎縮していた。


「……本当、なの?」


声が震える。違う意味で。


もし、本当だとしたら——私のこの三年間は、何だったの?


「信じてほしい、リーゼ」


アルヴィンの瞳には、狂気があった。執着があった。


でも——その奥に、確かに見えた気がした。


助けを求める、子どものような光が。


「僕を、置いていかないで」


ああ。


この人は、壊れている。


そして多分——三年前から、ずっと壊れていたのだ。


……私を、傷つけながら。



     ◆ ◆ ◆



一週間が過ぎた。


逃げ出す方法を、私はずっと探していた。


窓は開くけれど、その先は断崖絶壁。扉には常に鍵がかかっていて、アルヴィンか使用人以外は出入りできない。塔の構造を把握しようにも、許されているのはこの部屋と、隣接する浴室だけだった。


まさに、籠の鳥。


「リーゼ、今日は何を読んでいるの?」


午後のお茶の時間。アルヴィンはいつも通り、穏やかな笑顔で入ってくる。


「……植物図鑑を」


「ああ、君は薬草が好きだったね。——ここでも育てられるように、準備しようか」


「いりません」


私は本から目を上げずに答えた。


小さな抵抗。これが今の私にできる精一杯だった。


アルヴィンの動きが、一瞬止まる。


空気が変わった。


「……リーゼ」


「何ですか」


「僕を、見て」


声のトーンが、下がった。


顔を上げると——そこにいたのは、さっきまでの優雅な貴公子ではなかった。


瞳から光が消えている。笑顔は貼り付けたまま、でも目だけが——真っ暗な深淵のようで。


「お願いだから」


彼は私の前にしゃがみ込み、両手で私の手を包んだ。


「僕だけを見ていて。僕以外のことは、考えないで」


「……それは」


「君がいないと、僕は——」


彼の手が震えていた。


これが、豹変。


穏やかな仮面の下に潜む、剥き出しの執着。


怖い、と思った。


同時に——哀しい、とも思った。


「……わかりました」


私は小さく頷いた。


「図鑑は、閉じます」


途端に、アルヴィンの瞳に光が戻る。まるで何かのスイッチが切り替わったように。


「ありがとう、リーゼ。愛してる」


彼は嬉しそうに笑って、私の額にキスを落とした。


柔らかい唇。甘い香り。


——吐き気がした。


でも、私は笑顔を作る。作るしか、ない。


この人を刺激してはいけない。少なくとも、逃げ道を見つけるまでは。



        *



その夜。


部屋に食事を運んできたのは、見慣れない老婆だった。


白髪を後ろで丸く束ね、深い皺の刻まれた顔に、穏やかな茶色の瞳。小柄で腰が少し曲がっているが、足取りはしっかりしている。


「あの……」


「お嬢様、お食事でございます」


「いつもの方とは違いますね」


「はい。わたくしはマルタと申します。坊ちゃま……旦那様の乳母をしておりました」


乳母。


その言葉に、私は反射的に身を乗り出した。


「あの——少し、お話を聞いてもいいですか」


マルタは一瞬、躊躇うように目を伏せた。皺に刻まれた表情が、複雑に揺れる。


「……何をお聞きになりたいので」


「アルヴィン様のことを。——三年前、何があったのか」


沈黙が落ちた。


老婆は盆をテーブルに置き、窓の外を見た。霧に包まれた断崖絶壁。月明かりに照らされて、銀色に輝いている。


「旦那様は……あなた様が去られてから、変わられました」


「変わった?」


「ええ。笑わなくなりました」


「でも、アルヴィン様はいつも笑って——」


「ええ、笑うのです。いつも笑っておられる」


マルタは私を見た。茶色の瞳に、深い悲しみが滲んでいた。


「でも、目が笑っていない」


私は息を呑んだ。


「最初の一年は、まだ良かったのです。奥様の言いつけ通り、別のお嬢様との縁談を進めておられた。でも、どの方とも長続きしなかった」


「どうして」


「——お相手のお嬢様方が、皆怖がって逃げ出されたのです」


マルタの声が、小さくなる。


「旦那様は時折、別の誰かの名前を呼ばれるのだとか。優しく微笑みながら。まるで、そこにいない誰かを見ているように」


別の誰かの名前。


——私の、名前だ。


「二年目から、旦那様は部屋に籠られるようになりました。何をされているのか、使用人にも分からなかった。でも時々、奇妙な人間が屋敷を訪ねてくるようになって」


「奇妙な人間?」


「情報屋、というのでしょうか。旦那様は何かを——誰かを、探しておられたようです」


三年間。


彼は私を探していた。


田舎に引きこもって、静かに暮らしていた私を。


「そして三年目の春、旦那様は急に明るくなられました。『見つけた』と。——『やっと見つけた』と」


マルタは私を見た。その目に、複雑な感情が滲んでいた。


「あなた様を、見つけられたのでございますね」


「……ええ」


「旦那様は、悪いお方ではありません」


老婆の声は、どこか悲しげだった。


「幼い頃は、よく笑う子でした。虫を見つけては嬉しそうに報告に来て、本を読んでは感想を聞かせてくださった。『マルタ、この本の主人公はね、とても勇敢なんだよ』って」


私は黙って聞いていた。


「でも、奥様に——」


そこで、マルタは口をつぐんだ。


「続けてください」


「……申し訳ありません。これ以上は」


彼女は深く頭を下げ、足早に部屋を出ていった。


残された私は、冷めていく食事を見つめていた。


奥様。


ヴィクトリア・ローゼンクランツ。


三年前、アルヴィンにあの言葉を「言わせた」という、彼の母親。


そして——アルヴィンを「壊した」のも、きっとあの人なのだ。


「旦那様も、昔は笑っておられた」


マルタの言葉が、耳の奥で響いていた。



     ◆ ◆ ◆



塔に来て、二週間。


私はある事実に気づいた。


アルヴィンは、夜になると塔を離れる。


毎晩ではない。でも二、三日に一度、深夜に馬車の音が聞こえる。そして朝まで戻ってこない。


どこへ行っているのか。何をしているのか。


——エミル先生のことを調べている可能性に思い至って、私は背筋が凍った。


「消した」とアルヴィンは言った。


でも、どうやって? 殺したの? それとも——


考えたくなかった。でも、考えずにはいられなかった。


あの穏やかな笑顔。温かい手。「無理しないでくださいね」が口癖だった青年医師。


私に求婚してくれた、たった一人の人。


もし彼が死んでいたら——私のせいだ。


私がアルヴィンの執着の対象だったから。


私が、彼の求婚を受けようとしたから。


「……っ」


唇を噛む。血の味がした。


泣くな。泣いても何も解決しない。


今の私にできることは——真実を知ること。



        *



その夜。


馬車の音を確認してから、私は行動を起こした。


扉には鍵がかかっている。でも、二週間の観察で分かったことがあった。


深夜、見回りの使用人が通る時間。そのわずかな隙に、扉の鍵が開けられる瞬間がある。中を確認して、また鍵をかける。その数秒間が、私のチャンスだった。


——今夜、賭けに出る。


足音が近づいてくる。私は息を殺して、扉の影に身を潜めた。


心臓がうるさい。息を殺す。気配を消す。


カチャリ、と音がして、扉が少しだけ開く。


隙間から漏れる光。使用人が中を覗き込もうとする——その瞬間、私は飛び出した。


「きゃっ——!」


使用人の悲鳴。私は構わず廊下を走った。


どこへ行けばいい。出口は。階段は——


右に曲がる。左に曲がる。闇雲に走って、走って——


行き止まりだった。


「嘘……」


振り返ると、複数の足音が近づいてくる。


もう駄目だ。捕まる。


その時。


行き止まりだと思っていた壁に、かすかな光が漏れていることに気づいた。


——扉?


迷っている暇はなかった。私は壁を押した。


軋みながら、隠し扉が開く。


中に転がり込んで、音を立てないように扉を閉める。


足音が近づいて——通り過ぎていった。


「……っはあ」


息を吐く。心臓がうるさい。


でも、今は——


振り返って、私は言葉を失った。


壁一面の——私だった。


肖像画。デッサン。油絵。水彩画。


笑っている私。読書する私。薬草を摘む私。眠っている私。


窓辺で頬杖をつく私。紅茶を飲む私。本を抱えて歩く私。


数えきれないほどの「私」が、この部屋を埋め尽くしていた。


「なに、これ……」


足が震える。


部屋の奥には机があった。その上に積まれた日記帳。手に取ると——


『今日、リーゼの情報が入った。田舎町で薬草園を営んでいるらしい。元気そうで安心した。でも、会いたい。会いたい。会いたい』


『リーゼが町の診療所に出入りしている。医者がいるらしい。若い男。——気に入らない』


『あの医者が、リーゼに近づきすぎている。調べさせた。エミル・クラウス。24歳。独身。——排除すべきか』


『リーゼ、リーゼ、リーゼ。僕の天使。僕の光。僕だけのもの。どうして僕から離れていくの。どうして他の男と笑うの。許さない。許さない許さない許さない許さない——』


日記を落とした。


手が震えている。全身が震えている。


三年間。


三年間、この人は——私だけを見て、私だけを追って、私だけに執着して生きてきたのだ。


狂ってる。


完全に、狂ってる。


「見つけたんだね」


背後から声がして、心臓が止まるかと思った。


振り返ると——アルヴィンが立っていた。


出かけたはずなのに。いつの間に。


「あ……私は……」


「いいんだ」


彼は穏やかに笑った。いつもの完璧な微笑み。


でも、その目は——暗い。深淵のように、暗い。


「いつか見られると思っていた。——これが、僕の三年間だよ」


「アルヴィン様……」


「狂ってると思った? 気持ち悪いと思った?」


彼は一歩、近づいてくる。私は一歩、後ずさる。背中が壁の絵に当たった。私の肖像画。微笑んでいる私。


「でもね、リーゼ。僕はこうするしかなかったんだ」


「どうして……」


「母に君を奪われると思った」


彼の声が、震えた。


「あの人は、僕から全てを奪う。僕の意思を。僕の感情を。僕の——愛する人を」


「だから、先に手を打った」


「え?」


「三年前。母が君との婚約を壊そうとしていることに気づいた時、僕は——自分から君を傷つける道を選んだ」


息が、止まる。


「母に壊されるくらいなら、僕の手で終わらせようと思った。そうすれば、君は傷つくだけで済む。母の毒牙にはかからない」


「そんな……」


「でも、失敗した」


アルヴィンの顔が、苦しげに歪む。


「君を失って初めて分かったんだ。君がいない人生なんて、生きる意味がないって」


「……っ」


「だから探した。三年かけて。そして見つけた。でも——」


彼の瞳が、暗く燃える。


「あの医者が、君に触れようとしていた」


「エミル先生は——」


「殺そうかと思った」


私は息を呑んだ。


「でも、やめた。君が悲しむと思ったから」


「じゃあ、彼は……」


「記憶を消して、遠くに送った」


記憶を——消した?


「王都の修道院にいるよ。君のことは何も覚えていない。ただ、時々——『誰かを探している気がする』とは言っているらしいけど」


エミル先生は、生きている。


でも、私のことを忘れている。


安堵と、悲しみと、怒りが——同時に押し寄せてきた。


「どうして」


声が震える。


「どうしてそんなことをするの。あなたは——私を傷つけて、エミル先生の記憶を奪って、私を閉じ込めて——」


「愛しているからだよ」


アルヴィンは、当然のように言った。


「君が僕のものじゃなくなるのが、怖いんだ」


「それは愛じゃない」


私は叫んでいた。


「それは——執着よ。支配欲よ。愛なんかじゃない!」


沈黙が落ちた。


壁一面の私の肖像画が、二人を見下ろしている。


アルヴィンは——泣いていた。


完璧な貴公子の仮面が剥がれて、その下から現れたのは——泣き崩れる子どものような顔だった。


「分かってる」


彼は膝をついた。


「分かってるんだ、リーゼ。僕のやっていることが間違っているって。でも——」


彼の手が、私の足に縋りつく。


「他にどうすればいいか、分からないんだ。僕は——愛し方を、知らない」


その言葉に。


私は——何も言えなくなった。


愛し方を、知らない。


あの冷酷な母親に育てられて。感情を殺すことだけを教えられて。「完璧な道具」として生きることを強いられて。


この人は——愛されたことがないのだ。


だから、愛し方が分からない。


マルタの言葉が蘇る。


『幼い頃は、よく笑う子でした』


その笑顔を奪ったのは、誰?


「……アルヴィン様」


私は、そっと屈んだ。


彼の頬に手を添える。涙で濡れた、冷たい頬。


「あなたの愛し方は、間違っている」


「……分かってる」


「でも」


私は、彼の目を見た。


狂気に染まった深紫の瞳。でも——その奥に、まだ光がある。


マルタが言っていた、「昔は笑っていた」少年の面影が。


「——やり直せる、かもしれない」


自分でも驚くほど、穏やかな声だった。


まあ、私だしね。


普通なら逃げ出すところを、よりによって「やり直そう」なんて言い出すなんて。


でも——


逃げるだけじゃ、何も変わらない。


三年前も、私は逃げた。傷ついて、泣いて、田舎に引きこもって——過去と向き合うことを、ずっと避けてきた。


もう、逃げたくない。


この壊れた男を——見捨てたくない。


「リーゼ……」


アルヴィンが、信じられないものを見るような目で私を見た。


「どうして。僕は君を閉じ込めて、傷つけて——」


「ええ。許せないこともたくさんある」


私は正直に言った。


「でも、あなたを壊したのが誰なのか——私は、知りたい」


彼の母親。


全ての元凶。


「そして——決着をつけたい。三年前の、あの日に」


アルヴィンの瞳が、大きく見開かれた。


「……君は」


「私を、外に出して」


私は立ち上がり、彼を見下ろした。


「あなたの母親に——会わせて」



     ◆ ◆ ◆



ローゼンクランツ公爵家の屋敷は、三年前と何も変わっていなかった。


重厚な門。完璧に手入れされた庭園。威圧的な外観。


三年前、何度もこの門をくぐった。緊張しながら、でも少しだけ誇らしい気持ちで。いつかここの女主人になるのだと、淡い夢を見ながら。


——息が詰まる。


「大丈夫?」


アルヴィンが私の手を握った。


「……ええ」


大丈夫じゃない。足が震えている。


でも、ここで引き返すわけにはいかない。


扉が開かれ、私たちは屋敷の中に足を踏み入れた。



        *



応接室で待っていたのは、記憶通りの女性だった。


銀糸の混じった黒髪を厳格に結い上げ、冷たい紫水晶の瞳で私を値踏みする——ヴィクトリア・ローゼンクランツ公爵夫人。


痩せぎすの体躯に、黒を基調とした重厚なドレス。背筋はぴんと伸び、唇は薄く引き結ばれている。


三年前と、何も変わっていなかった。


「あら」


彼女は、薄い唇を歪めた。


「まさか、また来るとはね。——ヴェルナー家の娘」


「お久しぶりです、公爵夫人」


私は深く頭を下げた。震えそうになる声を、必死で抑えながら。


「三年前の非礼を、お詫びに参りました」


「非礼?」


ヴィクトリアは眉を上げた。嘲るように。


「あなたが非礼だったのは三年前だけではないでしょう。今こうして、アルヴィンを誑かして戻ってきたことも——十分に非礼だわ」


「母上」


アルヴィンの声が、低くなる。


「その言い方は」


「黙りなさい、アルヴィン」


ヴィクトリアの声は鋭かった。刃物のように、冷たく鋭い。


「お前はまた、この女に騙されているの? 三年前に私が教えたでしょう。この娘では公爵家にふさわしくないと」


「ふさわしくない、ですか」


私は顔を上げた。


三年前なら、この言葉に縮こまっていただろう。俯いて、黙り込んで、逃げ出していただろう。


でも、今は違う。


「三年前、アルヴィン様が私に言った言葉——『君のような地味な女では、公爵家の恥だ』。あれは、あなたが言わせたんですね」


沈黙が落ちた。


ヴィクトリアの目が、細まる。


「……誰に聞いたの」


「それは答えられません。でも——真実ですね」


「真実だとして、何だと言うの」


ヴィクトリアは立ち上がった。黒いドレスの裾が翻る。


「私は公爵家の当主として、正しい判断をしただけ。あなたのような取るに足らない娘が、うちの跡継ぎと結婚するなど——笑い話にもならないわ」


「取るに足らない」


私は笑った。


三年前なら、この言葉に傷ついていただろう。泣いて、逃げ出していただろう。


でも、今は違う。


「確かに私は、華やかではありません。社交界の花にはなれない。でも——」


私は彼女を真っ直ぐ見つめた。


「あなたの息子を、壊したのは誰ですか」


ヴィクトリアの顔色が、変わった。


「何を——」


「アルヴィン様は三年間、私を探し続けていました。眠れない夜を過ごし、他の縁談を全て壊し、壁一面に私の絵を描いて——狂っていったんです」


「それは、この娘のせいでしょう!」


ヴィクトリアが叫んだ。初めて見る、彼女の取り乱した姿だった。


「お前が息子を誑かしたから——」


「違う」


アルヴィンの声が、響いた。


静かで、冷たい声。私は初めて聞く——彼の本当の「怒り」の声だった。


「母上。あなたが僕を壊したんだ」


「アルヴィン……」


「幼い頃から、僕は『完璧な跡継ぎ』を演じさせられてきた。泣くな。笑うな。感情を見せるな。——人形のように、あなたの思い通りに動けと」


アルヴィンは一歩、母に近づいた。


「リーゼだけが、違った。彼女だけが、僕を『人間』として見てくれた。なのにあなたは——その唯一の光を、奪おうとした」


「お前のためを思って——」


「僕のため?」


アルヴィンは笑った。乾いた、悲しい笑い。


「あなたが考えていたのは、公爵家の体面だけだ。僕のことなんか、一度も見ていなかった」


「そんなことは——」


「お前の役目を忘れたのか」


アルヴィンが、母の口癖を引用した。


「これが、あなたがいつも僕に言っていた言葉だ。——僕は人間じゃなかった。あなたにとっては、ただの『道具』だった」


ヴィクトリアの顔が、蒼白になっていく。


「違う……私は、お前を……」


「愛していた?」


私は口を開いた。


「それなら、どうしてアルヴィン様の気持ちを聞かなかったんですか」


「……何ですって」


「三年前、婚約破棄を決める前に——息子さんに聞きましたか? 本当にいいのかと。後悔しないのかと」


ヴィクトリアは、答えなかった。


答えられなかったのだ。


「聞いていないんですね」


私は静かに言った。


「あなたは息子さんの人生を——本人に相談もせず、勝手に決めた。それは愛じゃない。支配です」


「……っ」


「アルヴィン様の『歪んだ愛』は、間違っている。私を閉じ込めたことも、エミル先生の記憶を消したことも——許せない」


私は一歩、前に出た。


「でも、彼をそうさせたのは誰ですか。愛し方を教えずに、感情を殺すことだけを強いてきたのは——誰ですか」


ヴィクトリアの瞳が、揺れた。


初めて見る——彼女の動揺。


「私は……」


「母上」


アルヴィンが、最後の一言を告げた。


「もう、あなたの言うことは聞かない」


ヴィクトリアの顔から、血の気が引いた。


「僕は自分の人生を生きる。リーゼと——やり直すために」


彼は私の手を取った。


「行こう、リーゼ」


「……ええ」


私たちは背を向けた。


「待ちなさい!」


ヴィクトリアの声が背後から響く。


「アルヴィン! お前の役目を——」


私たちは振り返らなかった。


扉が閉まる音。


それが、彼女への決別だった。



        *



屋敷を出ると、春の陽射しが眩しかった。


「終わったね」


アルヴィンが、小さく笑った。


泣いているのかと思ったら——本当に、笑っていた。


初めて見る、彼の本当の笑顔だった。


目が、笑っている。


「……ありがとう、リーゼ」


「私は何も」


「してくれたよ。君は——僕を、人間にしてくれた」


彼の手が、私の手を握る。


今度は——温かかった。


「塔に帰ろう」


「……ええ」


私は頷いた。


「でも、一つだけ条件があるの」


「何?」


「扉の鍵を——外して」


アルヴィンは一瞬、息を呑んだ。


彼の中で何かが戦っているのが分かった。「逃げない」と信じたい気持ちと、「また失うかもしれない」という恐怖。


それから——くすりと笑った。


「分かった」


「本当に?」


「ああ。君が望むなら——何でもする」


「……まだ、信じられないけど」


「いいよ。時間をかけて、証明するから」


彼の瞳には、まだ狂気の残滓が見える。


でも——その奥に、新しい光が生まれようとしていた。


「私も」


私は小さく言った。


「時間をかけて——あなたを、信じられるようになりたい」


風が、私たちの間を通り抜けていく。


春の、穏やかな風だった。



     ◆ ◆ ◆



それから、三ヶ月が経った。


塔の扉には、もう鍵がかかっていない。


窓は大きく開け放たれ、春に植えた薬草が、小さな芽を出し始めていた。私の薬草園——の、新しい形。


「リーゼ、お茶を持ってきたよ」


アルヴィンが部屋に入ってくる。もう、ノックをしてから入るようになった。小さな変化。でも、確かな変化。


「ありがとう」


私はティーカップを受け取った。


「今日の紅茶は何?」


「君が先週気に入っていた銘柄。——覚えてた?」


「覚えてる。でも、押し付けないで聞いてくれるようになったのは——嬉しい」


アルヴィンは少しだけ目を伏せて、それから笑った。照れたように。


「まだ、難しいんだ。『聞く』ということが」


「知ってる」


「でも、練習してる」


「知ってる」


私たちは、向かい合って紅茶を飲んだ。


以前のような緊張感はない。かといって、完全に心を許しているわけでもない。


微妙な距離感。でも——悪くない、と思う。


「ねえ、アルヴィン」


「何?」


「エミル先生のこと、調べてくれた?」


彼の表情が、一瞬だけ強張った。


でも、すぐに元に戻る。以前のように豹変することは——もう、ほとんどなくなっていた。


「……調べた」


「教えて」


「修道院で、医療の手伝いをしているらしい。記憶は——少しずつ戻っているみたいだ」


「そう」


私は紅茶を一口飲んだ。温かい。美味しい。


「……会いたい?」


私は首を振った。


「今は、いい」


「どうして」


「私が会いに行ったら——彼を傷つけることになるかもしれないから」


アルヴィンは黙った。


「でも」


私は続けた。


「いつか、謝りに行きたい。あなたも一緒に」


「僕も?」


「ええ。あなたがしたことを——彼に伝えるべきだと思うから」


アルヴィンの顔が、苦しげに歪んだ。


「……許してもらえると思う?」


「分からない。でも——逃げないで」


私は彼の手を取った。


「一緒に、向き合おう」


彼の瞳が、揺れた。


「リーゼは……どうしてそんなに、強いの」


「強くないよ」


私は笑った。自嘲ではない、穏やかな笑い。


「三年かかった。傷ついて、逃げて、引きこもって——ようやく、立ち上がれるようになっただけ」


「でも、立ち上がった」


「ええ。だから——あなたにも、できる」


アルヴィンは何も言わなかった。


でも、その手が——私の手を、強く握り返してくれた。



        *



窓の外を見ると、夕陽が塔を染めていた。


三ヶ月前、ここは「檻」だった。


閉じ込められて、逃げ場がなくて、息が詰まりそうで。


今は——違う。


「ねえ、アルヴィン」


「何?」


「私、外に出てみたい」


彼の手が、一瞬だけ強張った。


「……どこに」


「町に。買い物とか——普通のこと、してみたい」


沈黙。


彼の中で、何かが戦っているのが分かった。


「逃げない」と信じたい気持ちと、「また失うかもしれない」という恐怖。


私は待った。


急かさない。強制しない。


これが——私たちの「やり直し方」だから。


「……一緒に、行っていい?」


ようやく、彼が口を開いた。


声は震えていた。でも——言えた。


「もちろん」


私は微笑んだ。


「一緒に行こう」


アルヴィンの顔が、ゆっくりとほころんだ。


まだぎこちない。まだ不安げ。


でも——確かに、前に進んでいる。


「明日」


「え?」


「明日、町に行こう。——僕が、エスコートする」


私は笑った。


「楽しみにしてる」


窓から差し込む夕陽が、部屋を暖かく照らしていた。


この塔は、もう檻じゃない。


私たちが関係を築き直す——始まりの場所だ。



     ◆ ◆ ◆



翌日。


私は塔の扉の前に立っていた。


三ヶ月ぶりの——外への扉。


最初にここを出たのは、アルヴィンの母に会いに行った時だった。あの時は緊張で足が震えていた。


今は——少しだけ、違う気持ちがある。


「準備はいい?」


アルヴィンが隣に立つ。


私は頷いた。


「行こう」


扉が、開かれた。


眩しい光が差し込んでくる。朝の光。新しい一日の光。


一歩、踏み出す。


「リーゼ」


「何?」


「……ありがとう」


「何が?」


「僕を——見捨てないでくれて」


私は振り返った。


彼の瞳には、もう狂気の影はなかった。


代わりにあるのは——不安と、希望と、そして確かな愛情。


まだ歪んでいる。まだ不器用。


でも——これが、この人の「愛し方」なのだ。


「アルヴィン」


「何?」


「私も——ありがとう」


「何が?」


「私を——迎えに来てくれて」


彼は一瞬、呆然とした。


それから——泣き笑いのような顔になった。


「……そんなこと、言ってくれるの」


「だって、本当のことだもの」


閉じ込められたのは、最悪だった。許せないことも、たくさんある。


でも——もし、彼が来なかったら。


私は一生、過去から逃げ続けていただろう。


田舎で薬草を育てながら、「あの時」の傷を抱えて、誰のことも本当には愛せないまま——生きていただろう。


今、私はここにいる。


壊れた男と一緒に。


不完全で、不器用で、間違いだらけの二人で。


でも——それでいい。


「行こう、アルヴィン」


私は彼の手を取った。


「新しい一歩を——一緒に」


彼は私の手を握り返した。


今度は——優しく。


塔の外に広がる世界が、私たちを待っていた。


青い空。白い雲。春の風に揺れる木々。


何でもない景色が、とても眩しく見えた。



——これは、「囚われの姫」と「壊れた王子」の物語。


歪んだ愛から始まった、やり直しの物語。


まだ完璧じゃない。多分、一生完璧にはならない。


でも——それでも、私たちは前に進む。


一緒に。



まあ、私だしね。


普通の恋愛なんて、できるわけがないんだから。


——でも、それも悪くない。


そう思えるようになったのは、きっと成長だ。



塔の扉は、開いたままにしておこう。


いつでも出られるように。


いつでも戻れるように。


この塔は、もう檻じゃない。


私たちの——始まりの場所だ。

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