修正プロトコルと記憶の揺り籠
旧図書館の空き教室、その中心に開いた非現実的な空間の入り口。俺たちが歌と数式でこじ開けた『Project Noah's Ark』への道だ。だが、安堵する暇はなかった。
『――観測対象のイレギュラーな行動を検知。修正プロトコルに移行します』
脳内に直接響いた無機質な声と同時に、目の前の景色が激しく揺らぐ。
ジジッ、と耳障りなノイズが走り、黒い穴だったはずの入り口が、砂嵐のテレビ画面のように明滅を始めた。空間そのものが悲鳴を上げている。
「おいおい、マジかよ! 道が消えかけてるじゃん!」
高瀬直人が叫ぶ。彼の言う通り、安定していたはずの通路の輪郭が、デジタルノイズの粒子となって霧散していく。同時に、耳の奥で幻聴のようなノイズが響き、視界の端がちらつく。空間そのものが、俺たちの認識を揺さぶりにかかっているかのようだ。
「システムの直接介入…! これが『修正プロトコル』!」
隣で氷室怜奈が忌々しげに呟く。彼女のタブレットも、異常な磁場を検知してエラー表示を繰り返していた。
進むか、退くか。
一瞬の逡巡。だが、答えは決まっていた。
戻っても待っているのは、天宮咲の消滅と、誰かを選び続けなければならないゼロサムゲームの地獄だけだ。
「行くぞ!」
俺は叫び、迷わず歪む空間へと一歩踏み出した。
「悠真!?」
「戻っても未来はない! ここに賭けるしかないんだ!」
覚悟を決めた俺の目を見て、直人は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにニヤリと口角を上げた。
「へっ、だよな! お前がそう言うなら、付き合うしかねえっしょ!」
「…合理的判断とは言えませんわ。ですが、他に選択肢がないのも事実」
怜奈も溜息一つで覚悟を決め、俺たちに続いた。
三人が回廊へと足を踏み入れた瞬間、背後の入り口は完全に閉ざされ、俺たちは不安定な光の通路に閉じ込められた。
そこは、理解を超えた場所だった。
床も壁も天井も、全てが淡く発光するデータの奔流でできている。足元を流れゆく幾何学模様は、時折ぐにゃりと歪み、平衡感覚を狂わせる。
そして、壁面には無数の映像が流れ始めていた。
それは、俺の記憶――のはずだった。
『悠真くん、こっちこっち!』
天宮咲が笑っている。知らない公園で、知らないデートの記憶。
『神崎くんのそういうところ、嫌いじゃないわ』
御影鈴が頬を染めている。知らない放課後の体育館裏。
『あなたといると、退屈しませんわね』
識波結月が微笑んでいる。知らない豪華なパーティー会場。
次々と映し出される、俺の知らない「俺」の幸せな過去。
だが、その映像は徐々に歪み、ノイズが混じり始める。
『どうして私じゃなかったの?』
『約束、したじゃない…』
『お前のせいで、私たちは…!』
非難の声。怨嗟の声。ヒロインたちの幻聴が四方八方から脳を刺す。
「くっ…!」
頭を抱える。これはシステムの精神攻撃だ。俺の記憶がないという弱点を的確に突き、罪悪感で精神を汚染し、行動不能に追い込むための罠。
「悠真、惑わされるな! そいつらは全部偽物だ!」
直人の声が遠くに聞こえる。怜奈も「ノイズに意識を同調させてはなりません!」と叫んでいる。
分かっている。分かっているんだ。でも――。
その時、ひときわ鮮明な映像が目の前に現れた。
夕暮れの教室。二人きり。窓から差し込むオレンジ色の光の中で、天宮咲が泣きながら笑っていた。
『…ありがとう、悠真。ずっと、好きだったよ』
そう言って、彼女は俺に身を寄せた。
その温もり、その匂い、その表情。
俺が持っているはずのない、あまりにもリアルな記憶。胸が締め付けられる。
もし、これが本物の記憶だったら? 俺が忘れてしまった、大切な約束の瞬間だったら――?
思考が、足が、止まる。
その躊躇が、致命的な隙となった。
ガコンッ、と足元が大きく傾ぐ。
「うわっ!?」
俺が立ち止まった場所から、回廊の床が音を立てて崩壊を始めたのだ。
「悠真!」
「神崎くん!」
直人と怜奈が俺の腕を掴む。しかし、崩落は止まらない。三人の体重を支えきれず、俺たちが立っていた足場全体が奈落へと滑り落ちていく。
まずい。俺のせいで、二人まで――!
自分の弱さが招いた最悪の事態に、血の気が引いていく。
「偽物の思い出に浸ってる暇はねえぞ、悠真!」
耳元で、直人の怒声が炸裂した。
「お前が助けなきゃいけないのは、今まさに消えかかってる『本物』だろ!」
ハッと我に返る。そうだ。俺が救いたいのは、消えかけている天宮咲だ。こんな偽物の幻じゃない。
「感情は最大のノイズ…ですが、それを乗り越える意志は最強の暗号キーにもなり得ますわ」
怜奈の冷静な声が、混乱した思考に一本の芯を通す。
「信じなさい、あなた自身の選択と、ここにいる私たちを」
二人の顔を見る。必死の形相で俺の腕を掴む直人。冷静を装いながらも、その瞳に強い意志を宿す怜奈。
不確かな過去の記憶なんかじゃない。今、目の前に、俺を信じてくれる仲間がいる。
「…ごめん。もう迷わない」
俺は歯を食いしばり、正面の幻影を睨みつけた。
「偽物の過去より、今目の前にいるお前たちを信じる!」
叫びと共に、身体の奥から何かが溢れ出す感覚。それは前にも感じた、精神の力。
俺が『初回個体』であることの証明。
「うおおおおっ!」
俺を中心に、淡い光の波紋が広がった。その光に触れた幻影と幻聴が、悲鳴のようなノイズを上げてかき消えていく。
「今ですわ! 回廊の構造パターン、安定ルートを予測しました! 進行方向、右へ三歩!」
怜奈のタブレットが瞬時に最適解を弾き出す。
「道がねえじゃんか!」
直人が叫ぶ。怜奈が示した先は、崩れた瓦礫が浮遊する空間だ。
「道は作るもんだろ!」
直人はそう言い放つと、俺の腕を掴んだまま、この歪んだ空間の不安定な物理法則を本能的に読み取り、肉体を限界まで引き絞るような跳躍で瓦礫の一つに飛び乗った。
「行くぞ、悠真!」
俺は直人に引かれ、怜奈はその俺たちの服を掴んで、連鎖的に空間を跳ぶ。直人が道を塞ぐ瓦礫を蹴り飛ばし、怜奈が次の足場を指示し、俺が精神エネルギーでシステムの妨害ノイズを中和する。
三人の呼吸が、完璧に一つになった。
どれくらいの時間、そうしていたのか。
最後の瓦礫を蹴って着地した先は、硬く、冷たい床の上だった。
データの奔流は止み、耳障りなノイズも消えている。俺たちは、精神攻撃の回廊を突破したのだ。
「はぁ…はぁ…死ぬかと思った…」
直人がその場にへたり込む。俺も怜奈も、肩で大きく息をしていた。前話からの疲労も相まって、全身が鉛のように重い。
俺の精神エネルギーとやらは、どうやら燃費が最悪らしい。激しい消耗感で頭がぐらつく。
だが、顔を上げた俺たちの目に飛び込んできた光景は、そんな疲労を忘れさせるほどに異様だった。
そこは、サーバー室のような場所ではなかった。
ドーム状の天井を持つ、体育館ほどもあろうかという広大な空間。壁も床も継ぎ目のない白い素材でできており、全体が青白い光でぼんやりと満たされている。
そして、その空間を埋め尽くすように、無数の巨大なガラス管が林立していた。
管の中は緑がかった液体で満たされ、その中心に、何本ものケーブルに繋がれた人影が、静かに浮かんでいる。
まるで、巨大な標本室。あるいは、生命の揺り籠。
俺は、何かに吸い寄せられるように、一番手前にあったガラス管へと歩み寄った。
俺が数歩近づいたその時、ガラス管の根本にあるコンソールが淡く明滅し、ピ、と微かな電子音を立てた。まるで、俺の接近を認識したかのような反応だった。
管の中には、俺たちと同じくらいの年頃の少女が眠っていた。白いワンピースのようなものを着て、安らかな顔をしている。
青白い光のせいだろうか。その少女の顔が、一瞬だけ、消えかけている天宮咲の顔と重なって見えた。
「咲…?」
思わず声が漏れた。安堵と、再会できたことへの喜びが胸に込み上げる。
しかし、俺がガラスに額をつけんばかりに目を凝らした、その瞬間。
心臓が凍りついた。
違う。
髪型も、顔の輪郭も、どこか咲の面影がある。だが、彼女は天宮咲じゃない。
俺が一度も見たことのない、全く見知らぬ少女だった。
衝撃のまま隣のガラス管に目を移す。そこに眠る少女は、快活そうな顔立ちで、どこか御影鈴を思わせた。そのまた隣は、気品のある顔立ちが識波結月に似ている気がした。どの少女も微妙に顔立ちは違う。だが、クラスの女子たちの誰かの面影が、そこかしこに散りばめられている。一体、これは…?
俺は息を呑み、言葉もなくその光景に見入っていた。
背後で、怜奈がガラス管の根本にあるコンソールに触れ、表示された情報を解析している。
やがて、彼女が驚愕に染まった声を上げた。
「これは…生命維持装置などではありませんわ。記憶の…いいえ、存在そのものの『原本』を保存しているコンテナ…?」
『存在の原本』。
その言葉が持つ意味を、俺はまだ理解できなかった。
その時だ。
コツン。
静まり返った保管庫の奥から、一つの硬質な音が響いた。
コツン、コツン。
ゆっくりと、だが迷いのない足取りで、何者かがこちらに近づいてくる。
俺たちは、音のする暗がりの方を、固唾を飲んで見つめることしかできなかった。




