禁忌の設計図、観測者の警告
旧図書館の埃っぽい空気が喉に張り付く。いつの間にか窓の外は夕暮れの光に染まっていた。聖稜高校の旧図書館。その一角にある司書室は、時が止まったような静寂に満ちている。
「悠真、大丈夫か? 顔、まだ青白いぜ」
隣で肩を支える直人の声が、少し遠く聞こえた。スマートフォンの情報を引き出した代償は、まだ俺の精神を蝕んでいる。ズキリ、とこめかみが痛む。天宮咲が消えゆく世界の悲鳴にも似た痛みだ。焦燥感が胸を焼く。
「平気だ。それより、手がかりを……」
俺が言いかけた時、冷静な声が室内に響いた。
「無闇に動くのは得策ではありませんわ」
氷室怜奈。彼女は腕を組み、鋭い視線で古びた蔵書管理システム――年代物のデスクトップPCを睨みつけていた。
「感情的な焦りは、相手の思う壺ですわ。あなたのキーワードと私の情報、ここで初めて繋がったのですから」
怜奈は続ける。
「私が独自に調べたところ、この学校の創設者は、世界の構造に関する一種のオカルト研究に没頭していた、という記録がありました。その研究資料のすべてが保管されている場所……それがこの旧図書館の『アーカイヴ』だと」
俺の得たキーワードと、彼女の情報が一本の線になる。点と点が繋がり、道筋が見えてくる。これが、灰原の言っていた「禁忌」への入り口だというのか。
「つまり、そのPCが大当たりってわけか!」
直人が指を鳴らす。
「なら話は早い。ちょいと失礼するぜ」
言うが早いか、直人はどこからか取り出した細い金属片を、司書室のデスクの引き出しの鍵穴に差し込んだ。数秒のカチャカチャという小気味いい音の後、あっさりと鍵が開く。
「お前、なんでそんな技術を……」
「男の子には色々あるんだよ。それより、起動だ!」
直人が得意げに笑い、PCの電源ケーブルをコンセントに繋ぐ。しかし、メインスイッチを押しても、うんともすんとも言わない。
「くそ、壊れてんのか?」
「……貸してください」
怜奈が俺たちの間をすり抜け、PCの前に立つ。そして、俺の方を振り返った。
「神崎君。あなたにしか、できないことがあります」
促されるまま、俺はPCの筐体にそっと手を触れた。その瞬間、静電気が走ったような感覚に襲われた。体内の何かが吸い上げられる。同時に、ブゥン、と低い唸りを上げて、古びた機械が目を覚ました。モニターに光が灯り、無機質なログイン画面が現れる。
『管理者コードを入力してください』
やはり、これか。天宮咲の顔が脳裏をよぎる。彼女の存在が希薄になっていく感覚が、背中を冷たい汗で濡らした。時間が、ない。焦りが胸を焼いた。俺は冷静さを失っていた。
「ええい、ままよ!」
俺はキーボードに手を伸ばし、思いつく限りの簡単な文字列を打ち込んでエンターキーを叩いた。直人が「おい、悠真!」と叫ぶのが聞こえたが、もう遅い。
画面が一瞬で赤く染まる。
『警告: 不正アクセスを検知。初回個体の異常活動を記録。淘汰シークエンスを加速します』
「……あ」
喉から、乾いた声が漏れた。なんだ? 淘汰シークエンスを、加速?
「馬鹿っ! 何してんだよ悠真!」
「静かになさい、高瀬君!」
怜奈の叱責が、俺の絶望を遮った。彼女は顔色一つ変えず、猛烈な速度でキーボードを叩き始めている。画面には意味不明な文字列が滝と化して流れ、システムのログらしきものが次々と表示されていく。
「……この程度のアラート、想定内ですわ。むしろ、システムに尻尾を掴ませました」
彼女の指が止まる。画面には、一つのファイル名がハイライトされていた。
『Project Noah's Ark』
「見つけました。ですが……」
クリックすると、再びパスワード入力画面が現れた。万策尽きたか。俺のせいで、咲が……。後悔と自己嫌悪で、目の前が暗くなる。
その時だった。「神崎君……?」心配した怜奈が俺の腕にそっと触れた。その指先がトリガーになったのかもしれない。頭蓋の内側で、何かが弾けた。本来、記憶の共鳴はこうして特定の相手との物理的な接触でしか起きない。だが今回は、限界を超えた精神的負荷が重なり、断片的な記憶の嵐が強制的に引き起こされたかのようだった。
――夕焼けの帰り道。誰かの小さな手。小指に絡まる、温かい感触。
『――きみとわたしの、ひみつのうた』
誰かの声が、聞こえた。忘れていたはずの、忘れてはいけなかったはずの、短いメロディ。俺は無意識に、その歌のフレーズを口ずさんでいた。
「……今の、は?」
怜奈が俺の口元を凝視している。
「神崎君、もう一度、今の歌を」
言われるがまま、俺は掠れた声でメロディを繰り返す。怜奈はそれを聞き取ると、躊躇なくパスワード欄に打ち込んでいった。それは日本語でも英語でもない、ただの音の羅列に見えた。エンターキーが押される。
カチリ、と錠が開くような軽い音と共に、ファイルが開かれた。そこに表示されたのは、俺たちの住む世界の、あまりにも無慈悲な『設計図』だった。
無数の線が伸び、分岐し、また一つに収束していくフローチャート。一つ一つの線が『世界線』を示しているのだろう。チャートの中心には『初回個体:神崎悠真』の文字があった。そこから伸びた線が、いくつかの選択肢に分かれている。俺が誰かを選ぶたび、選ばれなかった世界線が、一本の矢印に導かれていく。
その矢印の先にあるものを見て、俺は息を呑んだ。
それは、デスクトップでお馴染みの、『ゴミ箱』のアイコンだった。
人の生きた証、記憶、存在が、ただのデータとしてドラッグ&ドロップされ、削除される。効率的で、合理的で、虫唾が走るほどに非人道的だった。
「…これが、こいつらにとっての『世界』かよ。ただのデータか、ゴミか何かみたいに…!」
握りしめた拳が、静かな怒りで白く変色していく。許せない。こんな理不尽なルールを、この世界を設計した奴らを、絶対に。
これが『禁忌』の正体。このシステムの管理者権限を乗っ取り、根幹から破壊する行為。漠然としていた目標が、明確な敵意へと変わった。
「…おい、悠真。これ、見てみろよ」
静かな怒りに震える俺の肩を、直人が叩いた。彼が指差したのは、部屋の隅にある書架だった。びっしりと並んだ古書の中に、一冊だけ、不自然に装丁の新しい本が差し込まれている。
手に取ってみるが、中身は意味不明な記号の羅列だった。それは単なる文字ではなく、この世界の物理法則を記述した数式にも見える。PCの中のデジタルな『アーカイヴ』とは対になる、物理的な世界の改変マニュアルか。この世界の成り立ちを書き換える設計図のようだ。今は解読できそうにない。
「後回しだな……」
俺が本を棚に戻した、その時だった。
『――警告』
PCのスピーカーから、ノイズ混じりの合成音声が響き渡った。それは男の声でも女の声でもない、あらゆる感情を削ぎ落とした、絶対零度の声。
俺たち三人は、凍りついたように音の発生源を見つめる。
『これ以上の詮索は、観測対象の即時排除に繋がります』
観測対象。それは、間違いなく俺たちのことだ。システムの管理者が、俺たちの行動を完全に捕捉している。
『選択を続行しなさい、神崎悠真』
それは、最後の警告だった。このゲームのルールに従えと、冷酷に告げていた。
俺たちの前に、ついに姿を見せた『敵』の、紛れもない宣戦布告だった。




