世界のノイズ、禁忌の設計図
アスファルトに滲んだ街灯の光がぐにゃりと歪む。
「悠真、しっかりしろ!」
直人の焦った声が鼓膜を揺らした。だが、俺の身体は鉛のように重く、言うことを聞かない。膝が笑い、肺が痛い。灰原が闇に消えた路地裏の冷たい空気が、まだ全身にまとわりついていた。
直人の肩に担がれ、引きずられるようにして夜の街を歩く。色とりどりのネオンサインが、一瞬、砂嵐のテレビ画面のように激しく点滅し、ノイズを撒き散らす。
「……っ!」
思わず目を細めた。気のせいじゃない。この世界そのものが、悲鳴を上げている。天宮咲という一つの存在が薄れるだけで、世界の輪郭がこうも容易く崩れていくのか。焦りが喉を焼いた。猶予期間、なんて悠長な言葉は、今は死刑宣告にしか聞こえない。
どれだけ歩いたのか。気づけば見慣れたアパートの自室のドアが開かれ、俺はそのままベッドへと倒れ込んでいた。スプリングの軋む音が、やけに大きく響く。
「ほらよ、スポーツドリンク。とりあえず水分摂っとけ」
直人がコンビニの袋を放り出し、ペットボトルのキャップを捻って手渡してくれた。その無骨な優しさが、ささくれた神経に染みる。
「……サンキュ」
かろうじて絞り出した声は掠れていた。プラスチックの感触を確かめるようにそれを握りしめ、ごくりと喉を鳴らす。冷たい液体が食道を下っていく感覚だけが、妙にリアルだった。
灰原への怒り。自分の無力さへの絶望。それらの感情の嵐が過ぎ去った今、心には、凍てつくような静かな覚悟だけが残っていた。
咲を救うための『安定化』は、他の誰かの犠牲を強いる。氷室も、御影も、識波も、俺には誰一人として記憶にない彼女たちも、消えていいはずがない。
ならば、選ぶ道は一つだけだ。
灰原が口にしたもう一つの選択肢――『世界の根幹を揺るがす禁忌』。
それに賭けるしかない。それしか道はない。
「おい、悠真……何考えてんだよ」
心配そうに顔を覗き込む直人を、俺はゆっくりと身体を起こして見返した。
「やるべきことは決まってる」
俺は枕元に放ってあったスマートフォンを手に取った。この世界に来た時から、まるで俺の一部であるかのように存在していた無機質な板。以前、これを使った時、脳の奥が焼き切れるような情報の奔流に襲われた。あれは、無数の世界線のデータが混線した結果だ。
ならば、逆用できるはず。
ノイズの濁流の中から、意図的に『禁忌』に繋がる情報を引きずり出す。
「正気かよ!お前、また倒れるぞ!」
俺の意図を察した直人が、血相を変えて俺の手を掴もうとする。
その手を、俺は静かに振り払った。
「痛くても、怖くても…これが今、俺にできる全部なんだ。誰かの犠牲の上で成り立つ平穏なんて、俺はいらない!」
俺の瞳に宿る光が本物だと悟ったのか、直人は掴みかけた手を宙で止め、悔しそうに唇を噛んだ。前話で見せた絶望の影が、彼の顔にまだ残っている。
「……無茶すんのはお前の悪い癖だけどな」
ぽつりと呟き、彼はふっと息を吐いた。
「その無茶に付き合うのが、親友の役目だろ?」
「直人……」
「いいからやれよ。ぶっ倒れたら、また俺が運んでやる」
力強く頷き返し、俺はスマートフォンの画面をタップした。
その瞬間、世界からあらゆる音が消えた。いや、違う。ありとあらゆる音が、声が、感情が、一斉に鼓膜を突き破り、脳髄の奥で衝突し、意味を失った轟音の塊となって俺の意識を塗り潰していく。
『悠真くん!』『神崎!』『ねえ、悠真ってば!』
知らない誰かの声。笑い声。泣き声。怒声。映像の洪水が網膜を焼き、記憶にない思い出が感情を乱す。精神が千の刃で切り刻まれるような激痛に、奥歯を強く噛みしめた。
ダメだ、このままじゃ意識が持っていかれる……!
その時、ノイズの奔流の向こう側から、か細く、けれど確かな声が聞こえた。
『――また明日ね』
天宮咲の声だ。
そうだ、この声を失ってたまるか。俺はそれを道標に、意識の錨を下ろす。脳裏に、あの断片的なフラッシュバックが蘇る。誰かと小指を絡ませた、あの『約束』の光景。
そうだ、俺は、約束を――。
「う……ぁあああああああっ!」
鉄の味が口の中に広がる。視界が急速に赤く染まっていく。それでも俺は、情報の濁流に手を突っ込み、必死に何かを掴もうと足掻いた。
『……旧図書館……』
『……全テノ情報ヲ格納スル……アーカイヴ……』
『……観測ヲ逃レル……管理者コード……』
断片的なキーワードを脳に刻み付けた、その時だった。鼻から生温かい液体が流れ落ちる感触と共に、俺の意識はぷつりと途切れた。
翌朝、体は驚くほどすっきりしていたが、頭の中は昨夜の激痛を覚えていた。直人に顛末を伝え、掴み取った三つのキーワードを共有する。直人はひどく心配していたが、俺に猶予はない。
重い足取りで教室のドアを開ける。昨日までの喧騒が嘘のような、いつも通りの朝の光景が広がっていた。
だが、一つだけ、決定的に違う点があった。
天宮咲の席が、空だった。
心臓が、嫌な音を立てる。俺は近くにいた男子生徒に声をかけた。
「なあ、天宮、まだ来てないのか?」
「……天宮?」
彼はきょとんとした顔で首を傾げた。
「誰だっけ、それ。うちにそんな奴いたか?」
全身の血が凍りついた。隣で聞いていた直人も、息を呑んで絶句している。
ダメだ。もう始まっている。彼女の存在そのものが、この世界から認識されなくなっていく。猶予期間は、俺たちが思っているよりずっと短い。
廊下に出た俺を、静かな声が呼び止めた。
「神崎さん」
振り返ると、そこにいたのは氷室怜奈だった。いつも通りの涼やかな表情。だが、その瞳は俺の憔悴しきった顔の奥を、値踏みするように見透かしていた。
「あなた、何か途方もなく無謀なことを考えている顔をしていますわね」
「氷室さん……」
彼女は俺の隣に並ぶと、前を向いたまま静かに続けた。
「この馬鹿げたゼロサムゲームから降りる方法を探しているのなら、私も協力しますわ」
「……! なぜ、それを」
「私の記憶の中のあなたは、よく図書館で世界の構造に関する本を読んでいましたから。このおかしな状況に、あなたが何もしないでいるはずがないと、そう思っただけです」
怜奈は、独自にこの世界の歪みを調べていたらしい。そして、彼女が掴んだ情報もまた、俺が昨夜掴んだキーワードと奇妙な一致を見せていた。
「天宮さんを救えば私が消える。実に論理的ですわ。…ですが、その理不尽な論理を覆す可能性に、私は賭けてみたいのです」
彼女はそこで一度言葉を切り、俺を真っ直ぐに見据えた。その瞳には、恐怖と、そしてそれ以上の強い意志が宿っていた。
「私の目的は、あくまで自己の生存ですわ。あなたには、そのための駒になってもらいます。……あなたに、その覚悟がおありですか?」
俺は何も答えなかった。ただ、彼女の射抜くような視線を、同じ強さで見つめ返す。言葉は必要なかった。俺の瞳に宿る覚悟が、何よりの答えだったからだ。
怜奈はふっと息を吐くと、わずかに口元を緩めた。「結構ですわ。……ところで、一つよろしいかしら」
唐突な問いかけに俺がわずかに身構えると、彼女の視線が俺のポケットに向けられた。
「あなたのそのスマートフォン、少し見せていただけますこと? どうやら、ただの通信端末ではないようですわね」
放課後。俺と直人、そして氷室怜奈の三人は、校舎の片隅にある古びた建物の前に立っていた。
「聖稜高校、旧図書館……」
錆びついた鉄の扉には『関係者以外立入禁止』の札が下がり、南京錠が厳重にかけられている。
「開けられるか、直人?」
「へっ、誰に言ってんだよ。こういうのは得意分野っしょ」
直人はどこからか取り出したヘアピンを器用に操り、数分も経たないうちに、カチリ、と乾いた音を立てて錠を開けてみせた。
軋む音を立てて扉が開く。埃と、古い紙の黴びた匂いが鼻をついた。陽の光が届かない薄暗い空間に、天井まで届く書架が迷路のように立ち並んでいる。
静寂が支配する図書館の中を、俺たちは進む。
やがて、怜奈がある書庫の一角で足を止めた。彼女の視線の先、埃をかぶった古書の並ぶ棚に、一冊だけ不自然に新しい本が差し込まれているのが目に留まった。まるで、誰かが俺たちを待っていたかのように。
「ここが、世界の『バグ』が集まる場所…あるいは、システムの設計図が眠る場所かもしれませんわ」
怜奈は、その一冊に静かに指を伸ばしながら言った。その言葉が、世界の核心に触れる、新たな探索の始まりを告げる。




