ゼロサムゲームの理(ことわり)
街灯が吐き出す頼りない光が、アスファルトの染みをぼんやりと照らしている。世界から音が消えたようだ。いや、俺の耳が何もかもを拒絶しているだけか。
スマートフォンの画面に浮かんでいた、消えかけた名前。天宮咲。俺の、たった一つの選択が、彼女の存在そのものを世界から削り取ろうとしている。
「……俺の、せいで」
喉から漏れたのは、乾ききった罪悪感の塊だった。膝が笑い、視界がぐにゃりと歪む。立っていられない。世界が足元から崩れていく感覚。俺が、天宮を――。
「しっかりしろ、悠真!」
肩を強く掴まれ、我に返った。隣には、俺と同じくらい青ざめた顔をした直人がいた。それでも、その目には確かな意志の光が宿っている。
「こんなとこで突っ立ってても何も変わんねえだろ! 来い!」
直人は半ば強引に俺の腕を引き、ふらつく身体を支えながら歩き出す。人通りのある大通りから逸れ、建物の影が落ちる薄暗い路地裏へと俺を導いた。
冷たいコンクリートの壁に背中を預けさせられ、ようやく大きく息を吸う。肺が痛い。
「どうすれば……」
声が掠れる。
「どうすれば、咲を……天宮を助けられるんだ」
同じ言葉が、壊れたレコードのように口をついて出る。俺にはそれしか考えられなかった。自分の罪をどう償えばいいのか。どうすれば、あの笑顔を取り戻せるのか。
「クソッ!」
ドン、と鈍い音が響いた。直人が、やり場のない怒りを壁に叩きつけた音だった。拳を握りしめ、肩で息をしている。
「……今はあの灰原って野郎を見つけるしかねえだろ!」
絞り出すような声で、直人は言った。「あいつなら、何か知ってるはずだ。どうすれば元に戻せるのかも!」
その言葉は、暗闇の中で見つけた唯一の道標だった。そうだ、灰原。あの男はすべてを知っていた。この世界の狂ったルールも、俺が引き起こした惨状も。
「……でも、どこにいるんだよ」
「知るかよ! けど、探すしかねえじゃん!」
直人の言葉に、わずかに力が湧いてくる。一人じゃない。この絶望的な状況で、隣にはこいつがいる。
俺は顔を上げた。震える唇を一度固く結び、腹の底から声を張り上げる。
「灰原ッ!」
夜の静寂を切り裂く叫び。それはほとんど祈りに近かった。
すると、まるでその声に呼び寄せられたかのように、俺たちの背後に伸びる闇が一層深くなった。
音もなく、気配もなく、灰原がそこに立っていた。
「……呼んだかい、神崎悠真」
表情一つ変えず、いつも通りの淡々とした声。その平然とした態度に、俺の中の何かがプツリと切れた。
「お前のせいだ!」
気づいた時には、灰原の胸ぐらに掴みかかっていた。しかし、俺の腕は空を切る。灰原は半歩下がるだけで、俺の激情をひらりとかわした。
「どうすれば天宮を元に戻せる! 言え!」
「落ち着きたまえ。感情的になっても事態は好転しない」
「ふざけるな!」
「悠真!」
直人が俺の肩を抑える。俺は荒い息を繰り返しながら、目の前の男を睨みつけた。
灰原は俺たちの激情を意にも介さず、静かに口を開いた。
「君の次の『選択』次第だ」と、灰原はその言葉にだけ、妙な重みを乗せて言った。単なる返答ではない。それは、この世界の理を動かすトリガーの名だ。
その言葉は、氷のように冷たかった。
「彼女の存在が希薄化しているのは事実だ。だが、消滅はまだ確定していない。猶予期間がある」
猶予。その言葉に、かろうじて一筋の光が見えた気がした。
「猶予期間内に、君が天宮咲の世界線を『安定化』させれば、消滅は回避できる」
「安定化……? どうやって!」
「簡単なことだ。例えば、君が破った『一緒に帰る』という約束を果たす。彼女の世界線こそが『正史』なのだと、君自身の行動で世界に証明すればいい。それが最初のヒントだ」
つまり、俺が天宮と『一緒に帰る』という選択をすればいいのか。それだけで……。
希望に震える俺の心を読み取ったように、灰原は言葉を続けた。その声には、一切の温度がなかった。
「だが、忘れないでほしい。この世界は、ゼロサムゲームだ」
一瞬、意味が分からなかった。
「一つの世界線を安定させる行為は、必然的に、他の世界線をより不安定にする。この統合世界の存在確率は、常に一定に保たれているからだ」
灰原の言葉が、脳に突き刺さる。
「天宮咲を救うことは、氷室怜奈を、御影鈴を、識波結月を……君が選ばなかった全員を、より深い消滅の危機に晒すということだ」
世界が、再び暗転した。
天宮を救えば、他の誰かが消える。誰かを救えば、天宮が消える。どちらを選んでも、俺は誰かの存在をこの手で消すことになる。それは、選択肢などではない。ただの、処刑人の指名にすぎなかった。
「……なんだよ、それ」
隣で、直人が絶句している。俺も、言葉を失った。喉の奥がカラカラに乾き、指一本動かせない。これが、この世界の理。あまりにも残酷で、救いのないルール。
俺はただの被害者じゃなかった。加害者だ。これからも、加害者であり続けることを強いられる。
俯いた俺の視界に、自分の震える拳が入った。
ああ、そうか。俺はずっと、このシステムの掌の上で踊らされていただけなんだ。与えられた選択肢の中から、どれがマシな地獄かを選ぶだけ。
でも。
本当に、それだけなのか?
「……ふざけるな」
心の底から、熱い何かが込み上げてくる。罪悪感でも、絶望でもない。もっと原始的で、純粋な感情。
怒りだ。
俺はゆっくりと顔を上げた。目の前の観測者を、システムの代弁者を、真っ直ぐに見据える。
「完璧なシステムなんてないだろ?」
絞り出した声は、自分でも驚くほど低く、揺るぎなかった。
「どんなルールにも、抜け道やバグはあるはずだ」
受動的な被害者でいるのは、もう終わりだ。俺は、このクソみたいなゲームのプレイヤーになってやる。ルールを逆手にとって、この盤上をひっくり返してやる。
俺の予期せぬ反抗に、灰原が初めて、わずかに目を見開いた。ほんの一瞬、その無表情な仮面に驚きの色がよぎる。
彼はしばらく俺をじっと見つめていたが、やがて、その唇の端に微かな、嘲笑とも感心ともつかない笑みを浮かべた。
「……面白いことを言う」
そして、俺の覚悟を試すように、静かに告げた。
「一つだけ、観測された前例のない方法がある」
息を呑む。直人も固唾を飲んで灰原の次の言葉を待っていた。
「だがそれは、世界の根幹を揺るがす禁忌だ」
禁忌。その言葉の重みが、路地裏の冷たい空気にのしかかる。
「咲を救うための正攻法は、誰かを犠牲にすること。そしてもう一つは、この世界のすべてを敵に回しかねない禁断の道。……君にそれを実行する覚悟があるか、見極めさせてもらう」
灰原はそれだけ言うと、すっと身を翻した。
「待て! その方法を教えろ!」
俺は手を伸ばすが、彼の姿はすでに闇に溶け始めていた。声だけが、静かに響く。
「答えは、君自身が見つけるんだ。神崎悠真」
その言葉を最後に、灰原は完全に姿を消した。
後に残されたのは、二つの絶望的な選択肢と、夜の静寂だけだった。




