忘れないための歌
光の通路は、幻だった。
俺たちが一歩足を踏み入れた途端、背後の輝きは唐突に収束し、分厚い金属の壁が滑り落ちる重い音が響き渡った。ガツン、と鼓膜を揺さぶる閉鎖音。完全に断絶された空間に、息が詰まるような圧迫感がのしかかる。
「ぐっ…!」
壁際に寄りかかった直人が、苦悶の声を漏らした。ガーディアンの攻撃を受けた脇腹を押さえ、額には脂汗が滲んでいる。
「高瀬君、動かないでください。気休めにしかなりませんが…」
氷室怜奈が冷静に声をかけ、自分の制服の裾をためらいなく引き裂くと、手際よく直人の傷口に巻き付けていく。その白い指先には、普段の彼女からは想像できない切迫した色が浮かんでいた。
俺の視線は、部屋の中央に鎮座する旧式のコンソールに吸い寄せられていた。緑色の文字が明滅するスクリーン。そこに浮かび上がる無機質な文字列の中に、ひときわ不気味な単語が混じる。
...RESURRECTION_SEQUENCE: ACTIVE
...TARGET_ENTITY: ██████
『蘇生シークエンス』。黒く塗りつぶされた誰かの名前。
心臓が嫌な音を立てて脈打つ。ここは、システムの深層。俺たちが招かれざる客であるのは、火を見るより明らかだった。
「どうだ、氷室さん。何か分かりそうか?」
壁に背を預けたまま、直人が尋ねる。彼の声は痛みのせいで少し掠れていた。
怜奈はコンソールに向き合ったまま、驚異的な速さでキーボードを叩き続けていた。カタカタと響くタイプ音だけが、この閉塞した空間で唯一の生命活動の証のように聞こえる。
やがて、その指がぴたりと止まった。
「…ダメですわ。核心的なログは全て、強力なプロテクトが掛けられています。これは…触れた瞬間に構造を変える、生きた暗号ですわ」
唇を噛みしめ、怜奈が悔しそうに呟く。彼女ほどの解析能力をもってしても、このシステムの壁は突破できない。システムは俺たちをここに閉じ込め、存在しないものとして扱っているかのようだった。
「罠、じゃねえのか…」直人の言葉に、怜奈は静かに首を振った。
「ええ。これは罠ではありません。灰原さんの言葉が、現実味を帯びてきましたわ…『禁忌』に触れた俺たちは、管理者から敵と見なされた。ここは、俺たちのための『墓標』かもしれません」
その言葉が、部屋の温度をさらに数度下げた。
出口はない。応答もない。
行き詰まった状況の中、俺の頭の中で何かが軋み始めた。コンソールに明滅する『蘇生』の文字。ポケットの中で微かに震えるスマホから聞こえた『原初の歌』のメロディ。これまでの戦いの中で脳裏をよぎった、天宮さんや、聖稜高校2年A組の皆の顔。
断片的な情報が、互いに引かれ合うように繋がり始める。
ズキン、と鋭い痛みがこめかみから脳の芯を貫いた。
「うっ…!」
頭を押さえる。視界にノイズが走り、世界がぐにゃりと歪んだ。
――その瞬間、俺は見ていた。
目の前の光景が、白い光に塗りつぶされていく。
気づけば、俺は同じような、けれどどこか違う場所に立っていた。今いる観測室よりも、もっと清潔で、窓から柔らかい光が差し込んでいる。
目の前には一人の少女がいた。
儚げな、今にも消えてしまいそうな輪郭をした少女。顔立ちは靄がかかったようにはっきりしない。けれど、その存在だけは、どうしようもなく鮮明に感じられた。
『彼女』の体が、足元からゆっくりと透けていく。「行かないでくれ…!」
声を発したのは、俺だった。今の俺ではない。『過去の俺』だ。今の俺よりも少しだけ幼く、必死な顔をした俺が、彼女の手を握りしめている。
『彼女』は悲しそうに微笑んだ。『…もう、時間みたい。でも、大丈夫。私がいなくなっても、あなたは一人じゃないから』
その言葉が、未来を予見していたかのように胸に突き刺さる。
「嫌だ! 俺が、君を忘れるもんか!」
『過去の俺』は叫び、歌い始めた。
それは、システムを突破するために使った『原初の歌』。だが、その音色は全く違って聞こえた。誰かを騙すための偽りの鍵じゃない。ただ、ひたすらに切実な、祈りのようなメロディ。
「この歌があれば、僕が君を忘れない。何度でも思い出せる。だから…!」
約束を交わす。消えゆく誰かを、この世界に繋ぎとめるための、たった一つの約束を。
――そこで、ビジョンは途切れた。
「…はっ…!」
息を弾ませて現実に戻ると、直人と怜奈が心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。
「悠真? おい、大丈夫かよ!」
「神崎君…?」
大丈夫なわけがなかった。
全身から血の気が引いていく。コンソールのスクリーンに映る自分の顔が、知らない誰かのものに見えた。
思い出した。
いや、違う。これは俺の記憶じゃない。でも、確かに俺が体験した過去。
「神崎悠真…?」
怜奈の声が遠い。
一つの、あまりにも残酷な可能性が頭をもたげる。
もし、この世界が、本当に誰かを『蘇生』させるための装置なのだとしたら。
もし、その対象が、今しがた見た『彼女』なのだとしたら。
だとしたら、天宮さんも、氷室さんも、クラスのみんなは――『彼女』を蘇らせるための、ただの代用品だったというのか?
俺は、被害者じゃなかった。
この世界の歪みの、元凶だったのかもしれない。
「…この歌は、誰かを救うための歌じゃなかった」
震える声で、俺は呟いた。
「…たった一人を、忘れないための歌だったんだ」
「悠真、お前、何を…」
混乱する直人の声が聞こえる。だが、罪悪感の奔流が、俺の思考を飲み込んでいく。俺のせいで、俺が『彼女』を忘れなかったせいで、こんな世界が生まれてしまったのか?
その時だった。
ガッ、と強い力で胸ぐらを掴まれ、壁に叩きつけられた。
「…っ!?」
目の前には、苦痛に顔を歪ませながらも、燃えるような瞳で俺を睨みつける直人がいた。
「…わけわかんねえこと言ってんじゃねえぞ、悠真…!」
「直人…!」
「過去がどうだろうと、今お前が救いてえ奴らを救え。理由はそれだけで十分だろ、悠真!」
親友の魂からの叫びが、俺の混乱した頭を殴りつけた。そうだ。過去がどうであれ、俺が今、ここにいる事実は変わらない。俺が救いたいと願う奴らがいることも。
罪悪感を、恐怖を、全て飲み込む。
俺は一つの決断を下した。論理的な解析でも、確率論でもない。
ただ、今見たばかりの、あの不確かな記憶と歌を信じるという、あまりにも非合理な選択だった。
俺は直人の手をそっと外し、何もない壁の一点に向かって、ゆっくりと歩き始めた。
静かに息を吸い込む。
「♪――」
震える声で、『原初の歌』を歌い始めた。
それはもう、システムを欺くための道具じゃない。過去の俺が、たった一人に捧げた祈りの歌。
俺の声が観測室に響き渡ると、奇跡が起きた。
俺が向かい合っていた壁面が、淡い光を放ち始めたのだ。光は線となり、複雑な幾何学模様を描き、隠されていたデータの羅列が壁一面に浮かび上がる。
「これは…!」
怜奈が息を呑み、即座にコンソールに向かう。
「緊急用の脱出プロトコル…! まさか、こんな形で隠されていたなんて…! ガーディアンが歌に反応したのは、侵入者を排除するためだけじゃなかった。正規ユーザーの、忘れてしまった記憶を呼び覚ますための補助機能でもあったんだわ…!」
怜奈は驚愕しながらも、浮かび上がったデータを解析し、プロトコルを起動させる。
「非合理ですわ。ですが…信じましょう。あなたの記憶がこじ開けた、この僅かな可能性を」
彼女がエンターキーを押した瞬間、目の前の壁が音もなく光の粒子に変わり、その向こうに新たな通路が現れた。
希望の光。
「やったな、悠真!」
直人が歓喜の声を上げる。
俺たちは顔を見合わせ、光の扉へと一歩踏み出した。
その時だった。
『WARNING: DETECTED FORCED INTERVENTION BY MASTER KEY.』
観測室全体に、冷たく、抑揚のないシステム音声が響き渡った。
コンソールのスクリーンが赤く染まり、最終警告の文字が浮かび上がる。
『FURTHER INTERFERENCE WILL CAUSE PERMANENT DAMAGE TO THE EXISTENCE DATA OF THE RESURRECTION TARGET ENTITY: ██████.』
――警告:マスターキーによる強制介入を検知。これ以上の干渉は、蘇生対象個体『███』の存在データを永久破損させます。
俺の足が、その場に縫い付けられたように止まった。
目の前には、脱出への光。
しかし、その先へ進むことは、俺が忘れたくないと願ったはずの『彼女』を、この手で永久に消滅させることを意味する。
進むも地獄。
留まるも地獄。
究極の選択を前に、俺はただ、立ち尽くすしかなかった。




