鋼鉄の子守唄
ゴウッ、と空気が唸りを上げた。
床からせり上がった鋼鉄の塊――『ガーディアン』が、その多関節の脚部を軋ませ、起動する。赤い単眼が教室をスキャンした。俺たち三人を『排除対象』としてロックオンする。その瞬間、強烈な殺意が肌を焼いた。
前話までの覚悟なんて、この圧倒的な質量と速度の前では意味をなさなかった。理屈じゃない。本能が叫ぶ。あれは、死だ。
「――ッ!」
足がコンクリートで固まったかのように、動かない。これが、システムが用意した『修正プロトコル:フェーズ3』の答えか。対話も、駆け引きも通用しない。純粋な暴力が、俺たちの目の前に立ちはだかった。
ガーディアンが動く。それは滑走する鉄塊の突進だった。床を砕く重さで、教室の机が紙細工のように弾け飛び、椅子が捻じ曲がって宙を舞う。耳をつんざく破壊音の中、俺はただ、迫り来る鉄塊を見つめることしかできなかった。
「危ねぇっ!」
その瞬間、俺の体を突き飛ばしたのは直人だった。
彼は俺と、俺のスマホを操作していた氷室さんを庇うべく前に躍り出る。近くにあった教卓を掴み、盾にした。無謀だ。そんな木片で防げるはずが――。
ガギンッ! と鈍い音が響く。教卓は木っ端微塵に砕け散った。
「ぐっ…ぁああ!」
直人の体が衝撃で壁まで吹き飛ばされる。壁に叩きつけられた背中が鈍い音を立て、彼は苦悶の表情で床に崩れ落ちた。
「高瀬君!」
氷室さんの悲鳴に似た声が響く。しかし、ガーディアンは止まらない。次のターゲットを俺たちに定め、再び突進の体勢に入る。赤い単眼が、真っ直ぐに俺を射抜いた。
「氷室さん、解析は!」
「ダメです…!」
氷室さんは冷静さを保とうと努めていた。声は震えながらも、スマホの画面を睨みつける。「動きに規則性がない…!これは、私たちの思考をリアルタイムで読み、その裏をかくよう最適化されています…!」
絶望的な事実だった。俺たちがどう動こうと、システムは常にその先を行く。完全に『敵』として認識され、能動的に殺しにかかっている。
その時、氷室さんが操作する俺のスマホから、微かにあのメロディが漏れ聞こえた。『原初の歌』。そうだ、俺はこれを歌わなければならない。
――歌う?この状況で?
脳裏に、光を失ったガラス管の光景がフラッシュバックする。救えなかった命。俺の選択が招いたかもしれない悲劇。手のひらに汗が滲み、呼吸が乱れる。喉が締め付けられ、声など出るはずもなかった。
俺の躊躇いが、致命的な隙を生んだ。
ガーディアンの赤い単眼が、再び俺を捉える。多関節のアームが、俺の心臓を貫くために振り上げられた。
「悠真っ!」
壁際にいた直人が、負傷した体を引きずって再び俺の前に立とうとする。ダメだ。今度こそ、本当に死ぬぞ!
その直人の行動より早く、氷室さんが叫んだ。
「歌って、神崎君!それが唯一の活路なら、私たちが時間を稼ぎます!」
彼女は解析を中断する。壁際にあった消火器を掴むと、渾身の力でガーディアンの単眼めがけて投げつけた。金属同士がぶつかる甲高い音が響く。ガーディアンの動きは一瞬だけ、ほんの一瞬だけ鈍った。
「歌え、悠真!下手でも音痴でもいいから叫べ!俺たちが最後までアンタを守ってやるからよ!」
直人の魂からの叫びが、俺の背中を強く叩いた。
そうだ。俺はもう、一人じゃない。誰かを失うことを恐れて何もしないなんて、もうごめんだ。二人の声が、喉を締め付けていた見えない手を振り払ってくれた。
俺は震える唇を、無理やりこじ開けた。
「――ぁ…」
か細い、情けない声だった。しかし、一度声に出してしまえば、あとは不思議とメロディが溢れてくる。恐怖も後悔も全て飲み込んで、ただ、歌う。失われた記憶の底から湧き上がる、懐かしくて、切ない旋律を。
俺の歌声が教室に響き渡る。
すると、信じられない光景が目の前で起きた。
あれほど暴威を振るっていたガーディアンの動きが、ピタリと止まったのだ。振り上げられたアームはそのままに、全ての駆動音が沈黙していく。攻撃的だった赤い単眼の光が、ふっ、と消えたかと思うと、穏やかな青い光へと変わり、静かに明滅を始めた。
それは破壊の中断ではなかった。歌に聴き入るかのような、奇妙な静寂。
これが、俺の歌の力……?
ただの認証キーなんかじゃない。暴力そのものを鎮圧する、世界の物理法則に干渉するような、根源的な『力』。歌が単なる認証キーに留まらない、世界そのものに干渉する根源的な『力』であることを、俺は今、確かに体感していた。
「停止ではありません…」
呆然とする俺の耳に、氷室さんの冷静な声が届いた。彼女はすでにスマホの画面に視線を戻し、高速で指を動かしている。
「これは…システムがあなたの歌を『認証キー』として認識し、防衛プロトコルと認証プロトコルの間で処理がフリーズしている状態です…!長くは持ちません!」
万能の力なんかじゃなかった。システムの矛盾を突いた、一時的なバグに過ぎない。それでも、今はそれで十分だった。
「見つけました…!」
氷室さんの声が弾む。
「ガーディアンがフリーズしたことで、システムのセキュリティに一時的な脆弱性が生まれています!あなたの歌が認証キーとして機能した結果、システムが一時的に認証済みユーザーと誤認したのでしょう。その結果、本来なら厳重にロックされているはずの、システムの心臓部『Project Noah's Ark』の物理保管庫への緊急アクセスルートが、今だけ解放されています!」
希望の光が見えた。そう思った、その時だった。
これまで壁際で静観していた灰原が、ゆっくりと口を開いた。彼の声は、いつものように淡々としていたが、その言葉は俺たちの見つけた光に、冷たい影を落とした。
「その道は、システムが君たちを歓迎するために用意した墓標だ」
その声に、俺と氷室さんは同時に凍りついた。希望の光が射したはずの空間に、一瞬で氷のような空気が張り詰める。俺はゆっくりと灰原の方を振り返った。彼は壁に背を預けたまま、表情一つ変えずにこちらを見ている。その瞳は、これから起こる惨劇をすでに見終えた後のように、静まり返っていた。
「墓標…?何を言っているんですか、灰原さん!」
氷室さんが、鋭く反論した。彼女の指はまだキーボードの上にあったが、その動きは止まっている。
「これはシステムログから割り出した正規の緊急アクセスルートです。データに偽装やトラップの痕跡は一切ありません!」
「データは嘘をつかない。しかし、データが見せるものが真実とは限らない」
灰原は淡々と返す。
「あのシステムを構築した人間は、神にでもなったつもりだった。自分の箱庭に侵入しようとする愚かな人間を、どうやって嘲笑い、絶望させるか。その一点において、彼は天才だった。君が見つけたその『希望の道』は、彼が用意した最も悪質なジョークだよ」
彼の言葉は、論理的な根拠を何一つ示してはいなかった。だが、システムの深奥を知る者だけが持ちうる、不気味な説得力があった。俺の背筋を冷たい汗が伝う。確かに、都合が良すぎる気はしていた。俺の歌というイレギュラーな事象によって、偶然にもシステムの心臓部への道が開かれるなんて。
「時間がありません…!」
氷室さんの声が、俺の迷いを断ち切るように響いた。彼女の視線の先、静止していたガーディアンの黒い装甲の表面に、砂嵐のような微細なノイズが走り始めていた。システムの自己修復機能が、俺の歌が引き起こしたバグを修正し始めているのだ。
「この脆弱性が閉じられれば、もう二度とチャンスは…!」
罠かもしれない。だが、このままではジリ貧だ。俺の喉も、いつまでもつか分からない。一縷の望みに賭けるべきか、それとも――。
俺は灰原の目を見据えた。
「なら、どうすればいい。あなたには、別の道が見えているのか」
俺の問いに、灰原は答えなかった。ただ、その凪いだ瞳で俺を、そして氷室さんを、さらにはフリーズから回復しつつあるガーディアンを静かに見つめるだけだった。その沈黙は、俺たちに最後の選択を迫っている。罠だと知りながら進むか、それとも別の方法を探すか。どちらを選んでも、その先には深い闇が口を開けている。




