方舟の管理人、世界の原本
冷たい空気が肺を刺す。ドーム状の広大な空間に、俺たちの荒い息遣いだけが響いた。精神攻撃の回廊を抜けた消耗は、立っていることすら億劫にさせる。頭の芯がまだズキズキ痛んだ。
目の前には、無数のガラス管。緑がかった液体の中で眠る少女たちの姿は、非現実的な光景として俺の網膜に焼き付いていた。
ガラス管の森の奥から、一つの人影が近づいてくる。
カツン、と無機質な床に革靴の音が響く。その音は妙に落ち着いていて、俺たちの極度の疲労と警戒心とは対照的だった。青白い光の中に現れたその姿に、俺は思わず息を呑む。
「……灰原」
隣で壁に手をついた直人が、絞り出すようにその名を呼んだ。
間違いない。クラスメイトであり、この世界の秘密を知る観測者、灰原その人だった。いつも通りの無表情で、感情の読めない瞳が俺たち三人を見据えている。
「なんで、お前がここに……!」
俺は警戒を解かずに問い詰めた。思考がうまく回らない。システムが仕掛けた罠の先に、なぜ灰原がいる? 味方なのか、それともこれもシステムの策略なのか。混乱が頭を支配する。
灰原は俺の問いに答えず、ただ佇んでいた。武器を構えるでもなく、敵意も感じられない。
「待っていたよ、神崎悠真」
抑揚のない声が、やけにクリアに響いた。
「待っていた、だと? ふざけるな! ここがどこで、あのガラス管の中身は何なんだ!」
「落ち着いてください、神崎くん。私に敵意はありません」
灰原はそう言うと、俺たちに背を向け、保管庫の中心へと歩き始めた。ついてこい、とでも言うように。
俺と直人、怜奈は顔を見合わせた。疲労困憊の今、ここで彼と事を構えるのは得策じゃない。何より、この状況を打開する情報を彼が持っている可能性は高い。俺たちは覚悟を決め、その背中を追った。
ガラス管が林立する通路を抜けると、少し開けた中央のスペースに出た。そこは、全てのケーブルが集まる中心地のようだった。
灰原は、一番近くにあった一つのガラス管の前で足を止める。
「君たちが知りたいこと……その答えは、全てここにある」
彼はそっとガラス管に指で触れた。緑がかった液体の中で、見覚えのある面影を持つ少女が眠っている。
「彼女たちは、『存在の原本』だ」
「……原本?」
俺の口から、かすれた声が漏れる。
「そうだ。君たちが知る天宮咲も、氷室怜奈も……クラスの女子生徒たちは全員、この原本から分岐した『インスタンス(複製体)』に過ぎない」
その言葉は、冷たい刃となり俺の心臓を貫いた。
複製? じゃあ、俺が知っている咲や、今ここにいる氷室さんは、一体何なんだ? 偽物だとでも言うのか?
視線を怜奈に向けると、彼女は冷静を装ってはいたが、その唇が微かに震えているのが見えた。自分の存在の根幹を揺るがす事実に、動揺を隠しきれていない。
「そんな……じゃあ、俺たちが今まで関わってきたあいつらは……」
罪悪感と無力感が、重い澱のように俺の中に沈んでいく。コピーを守るためにここまで来たのか、本当の彼女たちはここで眠っているのか。頭の中で疑問が渦巻き、足元が覚束なくなりそうになる。その混乱が、全身の疲労をさらに深めた。その時。
「原本だろーが複製だろーが関係ねえ!」
怒声にも似た叫び声が、俺の鼓膜を叩いた。直人だった。彼は荒い息を吐きながらも、力強い瞳で俺を睨みつけていた。
「俺のダチが守りてえって言ってる女たちだ! それ以上でも以下でもねえよ!」
直人の真っ直ぐな言葉が、混乱していた俺の頭に響く。そうだ。俺が守りたいのは、俺と笑い、泣き、共にこの理不尽と戦ってくれた彼女たちだ。原本か複製かなんて、それは関係ない。大切なのは、俺が何を信じるかだ。
「……直人」
「それに、氷室さんだってここにいるじゃねえか! 彼女がコピーだって言うのかよ!」
直人の言葉に、怜奈がはっと顔を上げる。彼女は自分の手のひらを見つめ、そして強く握りしめた。
「……そう、ですわね。私は、ここにいる。それだけが真実です」
二人の言葉に、俺の中の迷いが晴れていく。そうだ。俺は一人じゃない。
灰原は俺たちのやり取りを見つめていたが、やがて口を開いた。
「『Project Noah's Ark』……ノアの方舟計画。その真の目的は、連鎖的な世界崩壊『大淘汰』を防ぐため、選ばれた『原本』のみをこの方舟で保護し、他の不安定な世界線を切り捨てるための、非情な救済計画だ」
「なんだと……?」
「システムは、君の『選択』を待っていた。どの原本を残し、どの世界線を切り捨てるか……その選別をさせるための最終トリガーとして、君を利用するつもりだったんだ」
システムの計画の全貌に、腹の底から怒りがこみ上げてくる。俺の選択は、誰かを救うためのものなんかじゃなかった。ただ、誰を切り捨てるかを選ぶだけの、残酷な儀式だったというのか。
「……ふざけるな」
俺の口から、低い声が漏れた。
「そんなもの、救済でも何でもない。ただの切り捨てだ!」
俺の怒りを受け止めるように、灰原は頷いた。そして、彼は俺の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「だからこそ、君なんだ。神崎悠真」
「え……?」
「君が『初回個体』であることの本当の意味……それは、どの世界線の記憶にも染まっていない、まっさらな存在だということ。だからこそ、全ての『原本』にアクセスし、システムそのものをリセットしうる……唯一の『マスターキー』となる資格を持つ」
灰原の言葉が、俺の中で一つの光を灯す。マスターキー……俺が?
「彼女たちは“コピー”じゃない。“可能性”そのものだ。そして君は、その可能性を一つに束ねることも、全てを消し去ることもできる、唯一の存在だ」
灰原の声に、初めてかすかな熱が宿る。
「君は、この悲劇の主人公じゃない。このゲーム盤をひっくり返すための、唯一のバグなんだ」
灰原の言葉が、俺の中に静かな熱を灯し始めた。絶望で霞んでいた視界の奥に、確かな光が差し込む。俺はシステムの駒じゃない。ルールに従うプレイヤーでもない。この狂ったゲームそのものを、根底から覆すためのイレギュラー。瞳の奥に、静かに、しかし確かに炎が宿り始めるのを感じた。それは絶望を焼き尽くし、反逆へと向かう、重い決意の光だった。
「分かったよ、灰原」
俺はゆっくりと立ち上がる。身体の重さは変わらない。だが、心には、確かに未来へと向かう確かな覚悟が宿っていた。
「俺が『初回個体』…マスターキーだって言うなら、開けてやるさ。誰も切り捨てない未来への扉をな!」
俺がそう宣言した、その直後だった。
『警告。観測対象によるシステムへの反逆行為を検知。修正プロトコルをフェーズ2に移行します』
無機質な合成音声が響き渡ると同時に、けたたましい警報音が鳴り響いた。青白い光に満たされていた保管庫全体が、瞬く間に不気味な赤色に染め上げられる。
「これは……!」
『原本強制初期化シークエンス、開始』
そのアナウンスと共に、一番端にあったガラス管のコンソールから光が消え、生命維持を示すランプが停止した。中の液体が濁り始め、少女の姿がゆっくりと溶けていく。
「なっ……!」
次々と、ガラス管の電源が落ちていく。まるでドミノ倒しのように。刻一刻と、彼女たちの『可能性』が消されていく。
「まずいな……システムが俺の反逆ごと、この保管庫を初期化するつもりだ」
灰原が苦々しげに呟く。
「選択の時だ、神崎悠真」
彼は俺に向き直り、鋭い視線を向けた。
「ここで全ての原本を守るためにシステムと戦うか、それとも一度退いて、外部からシステムを止める方法を探すか」
背後では、ヒロインたちの『原本』が次々と消滅の危機に瀕している。
戦うか、退くか。
どちらを選んでも、未来が閉ざされかねない。
究極の選択が、今、俺の目の前に突きつけられた。




