転校初日、クラス全員が俺の元カノだった。
新しい教室の空気は、まだ俺に馴染んでいなかった。
家庭の事情で転校を繰り返してきた俺、神崎悠真にとって、見慣れた光景のはずだった。ざわめき、好奇の視線、そしてどこか品定めするような雰囲気。いつも通り、当たり障りのない自己紹介で乗り切る。そのはずだった。
「えー、神崎悠真です。よろしくお願いします」
俺が黒板の前に立ち、そう口火を切った瞬間。
空気が、凍った。いや、違う。沸騰する直前の水のように、静かだが凄まじい熱量を帯びたのだ。教室中の女子生徒、その全員から放たれる視線が、一本の槍のように俺を貫いた。
期待、嫉妬、怒り、そして悲しみ。それぞれの色が混ざり合った、理解不能な感情の濁流が、俺を飲み込もうとする。俺は完全に言葉を失い、背中に嫌な汗が伝うのを感じた。
なんだ、これ。俺は何か、この学校に来る前にとんでもないヘマでもやらかしたのか? 全く記憶にない。いや、それ以前に、俺の記憶自体が、この街に来る以前のことはひどく曖昧で、まるで霞がかかったようだ。この異常な状況は、俺の記憶の空白と関係があるのだろうか。
静寂を破ったのは、快活な声だった。
クラスの中心にいると一目でわかる、太陽のような笑顔が似合う少女――天宮咲が、勢いよく席を立つ。
「悠真! なんで連絡くれなかったのよ! 昨日の『また明日ね』って約束、忘れたわけ!?」
は?
昨日の約束? 俺がこの街に来たのは今朝だぞ。
俺の思考が停止するのを待たずに、教室の空気が爆発した。
「待ちなさい、天宮さん。悠真くんと昨日会っていたのは私ですわ」
凛とした声で異を唱えたのは、見るからにお嬢様といった雰囲気の識波結月。ウェーブのかかった長い髪を揺らし、優雅に立ち上がる。
「昨日は私の屋敷で、二人きりで過ごしたはずですもの。ねえ、悠真くん?」
「いやいや、待てって! 悠真と昨日、河川敷でトレーニングしてたのは俺だっつーの!」
今度はポニーテールがよく似合う、快活なスポーツ少女、御影鈴が椅子を鳴らして反論する。
「夕陽に向かって『次の大会、絶対勝とうな!』って誓ったじゃんか!」
次から次へと上がる声。誰もが俺の『元カノ』を名乗り、全く異なる思い出を主張する。
「……皆さん、見苦しいですよ。教室でする話ではありません」
静かに、しかし有無を言わせぬ冷たい声色で場を制したのは、窓際の席に座る氷室怜奈だった。長い黒髪が印象的な、クールな美少女だ。彼女は俺から視線を逸らし、本に目を落としたまま続ける。
「神崎くんと私は、図書館で静かに過ごす約束でしたから。あなた方のような騒がしい方々とは、そもそも世界が違います」
その声は冷静を装っているが、指先が微かに震えているのを俺は見逃さなかった。
そこからは、もう収集がつかなかった。
「私が悠真くんの彼女よ!」
「嘘つかないで! 私と付き合ってたはず!」
「去年のクリスマス、一緒にいたじゃない!」
「夏祭りの花火、忘れたなんて言わせないから!」
クラス中の女子生徒が、一斉に立ち上がった。
一人ひとりが、俺との全く異なる「思い出」を叫びながら、俺一人に向かって詰め寄ってくる。その瞳は真剣で、疑いの色はない。まるで、それぞれの主張が揺るぎない真実であると、心の底から信じきっているかのようだった。
幼稚園からの幼馴染だと泣きそうな顔で訴える子。
初めてのデートの場所を叫ぶ子。
俺があげたはずのプレゼントを指差す子。
視覚と聴覚から流れ込んでくる情報量が多すぎて、脳が処理を拒絶する。頭がぐらぐらと揺れ、目の前が白く点滅し始めた。
なんだ、これは。何が起きている。ドッキリか? にしては、全員の演技が真に迫っている。女子たちの主張は矛盾だらけなのに、なぜこうも確信しているのか。この前代未聞の修羅場を、一体どう乗り切ればいい?
俺が本気で気を失いかけた、その時だった。
「おーおー、やってるねぇ。うちのクラスの姫君方が全員、俺の親友にロックオンとは」
軽薄だが、今は神の声に聞こえるその声と共に、ガッと肩を掴まれた。
「お前、いつの間にそんな大罪を犯したんだよ、悠真」
振り返ると、ニヤニヤと笑う高瀬直人が立っていた。この学校で唯一、俺が「旧知の仲」と認識している男だ。
「ちょ、直人……!」
俺の言葉は、安堵からか震えていた。
「まあ、詳しい話は後で聞かせてもらうとして。今は戦略的撤退だ」
直人は俺の腕を掴むと、女子たちの包囲網を強引に突破し、廊下へと引きずり出した。背後で「待ちなさい!」「逃がさないわよ!」という悲鳴が追いかけてくるが、お構いなしだ。教室の扉が閉まり、喧騒が遠ざかっていく。
息を切らして逃げ込んだのは、吹き抜ける風が心地よい屋上だった。
俺はフェンスに手をつき、ぜえぜえと肩で息をする。心臓がうるさいくらいに脈打っているのは、階段を駆け上がったせいだけではない。
「……助かった、直人」
「どういたしまして。にしても、面白ぇじゃん? 転校初日からハーレム王とか、どんな徳を積んだんだよ」
「ハーレムってレベルじゃない。あれは地獄だ……」
俺は力なく項垂れた。この状況をどう乗り越えるべきか、全く見当もつかない。
「なあ、直人。俺、本当におかしいんだ。あの子たちのこと、誰一人として知らない。なのに、みんな俺を知ってる。俺は……俺には、記憶がないんだ」
絞り出すように告げた本音に、直人はいつもの軽薄な笑みを消した。そして、俺の肩をぽんと叩く。
「落ち着けって悠真。お前が記憶喪失か、こいつら全員が集団幻覚見てるかのどっちかだろ。どっちにしろ、俺はお前の味方だ。それだけは忘れんなよ」
その言葉が、ささくれだった神経にじんわりと染み渡る。そうだ。この狂った状況で、直人だけは正常だ。それだけで、少しだけ正気を保てそうな気がした。
だが、その安堵も束の間だった。
女子たちの剣幕を思い返した瞬間、ズキン、と脳の奥が疼いた。
――視界にノイズが走る。
夕焼けに染まる教室。誰かの小さな手。俺の小指に、そっと絡められる柔らかな指。
『約束、だよ』
誰の声だ? 顔が見えない。思い出せない。でも、その温もりだけは、やけにリアルだった。
「うっ……!」
思わず頭を抱えてうずくまる俺に、直人が慌てて駆け寄る。
「おい、大丈夫かよ、悠真!」
「……ああ、なんでもない。ちょっと、目眩がしただけだ」
嘘だ。今のはただの目眩じゃない。断片的な映像。フラッシュバック。だが、あの指切りをした相手が、教室にいた誰かなのか、それすらも分からなかった。
俺たちが言葉を失っていると、背後で静かに扉の開く音がした。
振り返ると、そこに一人の男子生徒が立っていた。
教室の隅で、あの騒動をただ静観していた男。確か、名前は――。
「初めまして、神崎悠真くん」
感情の読めない瞳で俺を真っ直ぐに見つめ、彼は淡々と言った。
灰原。確か、そんな名前だったはずだ。
彼は俺と直人の前までゆっくりと歩を進めると、再び口を開いた。その言葉は、俺の混乱をさらに深い奈落へと突き落とす。
「……そして、お久しぶりです。君が『選ばれる』のを、待っていました」
初めまして、と、お久しぶりです。
明確に矛盾した挨拶が、屋上の風の中に溶けていく。
俺は、この世界がどうしようもなく歪んでいることを、確信した。
灰原、と名乗った男の言葉が、脳髄に直接響くようだった。
何を言っているんだ、こいつは。
俺の隣で、直人が警戒心を剥き出しにして一歩前に出る。俺を庇うようなその動きが、今はひどく頼もしかった。
「おい、てめえ。さっきから訳の分かんねえこと言いやがって。悠真に何の用だ」
喧嘩腰の直人の言葉にも、灰原は表情一つ変えない。まるで凪いだ湖面のような瞳は、変わらず俺だけを捉えていた。その視線は、俺の内側を、記憶の奥底を、値踏みするように探っている。不快感で背筋が粟立つ。
「君には関係ないことだ。僕が話したいのは、神崎くん、ただ一人だけだ」
「あぁ? 関係なくねえだろ。こいつは俺のダチだ」
食ってかかる直人を、俺は左手で制した。冷静になれ、と自分に言い聞かせながら、乾いた喉で言葉を絞り出す。
「……お前は、誰なんだ。俺を知っているのか? そして、なぜクラスの女子全員が俺の『元カノ』を名乗るのか。この奇妙で危険な関係の始まりについて、何か知っているのか?」
今、俺が一番知りたいこと。目の前の男が何者で、何を目的として俺に接触してきたのか。そして、あの指切りの記憶と、あの女子たちの矛盾した主張と、何か関係があるのか。
俺の問いに、灰原は初めて微かに口角を上げた。だがそれは、笑みと呼ぶにはあまりに無機質で、冷たいものだった。
「知っている、とも言える。そして、これから知っていく、とも言える。今の君は、大事なピースが欠けたパズルのようなものだから」
「……何が言いたい」
「君が思い出そうとしている『約束』。その在り処を、僕は知っている。そして、なぜ彼女たちが君を『元カノ』と認識しているのかも」
約束、という単語に、心臓が大きく跳ねた。
そうだ。あの映像は、ただの記憶の断片じゃない。誰かと交わした、大切な約束。忘れてはいけない、何か。指を絡める温もりと、固く結ばれた誓いの感覚。それが、灰原の言葉によって輪郭を帯びていく。
こいつは、知っている。俺が忘れてしまった、俺自身のことさえも。あの女子たちが抱く、矛盾する記憶の謎も。
「……どうして、お前がそれを」
声が震えるのを止められなかった。混乱と、得体の知れない恐怖。そして、ほんのわずかな、失われた記憶を取り戻せるかもしれないという期待。それらが混ざり合って、思考をぐちゃぐちゃにかき乱す。
「話すには、まだ時が満ちていない。今日はただの挨拶だ。君が、舞台に上がる資格を得たことを伝えに来ただけ」
灰原はそれだけ言うと、俺たちに背を向け、屋上の出口へと歩き出した。引き留めるべきか迷っているうちに、彼の背中は数メートル先へと遠ざかっていく。
「待て!」
俺が叫ぶと、灰原は足を止め、ゆっくりと振り返った。傾き始めた西日が彼の横顔を照らし、長い影をコンクリートの上に伸ばしている。
「次の『選択』は、もうすぐだ。逃げないでくれよ、神崎悠真くん」
その言葉だけを残し、彼は今度こそ屋上から去っていった。
扉が閉まる乾いた音がやけに大きく響き渡り、あとには俺と直人、そして吹き抜ける風だけが残された。
直人が心配そうに俺の顔を覗き込む。だが、俺は何も答えられなかった。
『約束』と『選択』。
灰原が残した二つの言葉が、頭の中で不気味に反響していた。
欠けたピース。歪んだ世界。そして、思い出せない約束の相手。
俺の日常は、もうとっくに、音を立てて崩れ始めていたのかもしれない。
そして、この奇妙で危険な関係の始まりは、一体どこへ向かうのだろうか。




