黄昏時の嫉妬
陽の落ちかけた夕暮れだった。
台所の蛇口からポタッと、一滴の水がこぼれ落ちた。白地のカーテンは無造作に閉じられていて、そこから覗ける窓には先程降り止んだ雨の雫が垣間見えた。
「もう、落ち着いた?」
僕は、震えた声で尋ねた。極力不安を悟られぬように、朗らかに問いかけたつもりだったが、心の声は完全には隠せる訳でなかった。
「何が?」
彼女は馬乗りになって、両手を抑えつけたまま僕を見下ろす。彼女の黒髪が頬に触れるほど近いのに、僕の彼女への理解は限りなく遠くに感ぜられた。
抑揚のない冷たい響きのする彼女の声音は、僕を一層困惑させた。
どうして、僕は襲われているのだろう。
どうして、彼女は、冬木沙耶香はこんなに怒っているのだろう。
ふとそんな疑問が頭に過ぎる。
沙耶香は僕の小さい頃からの幼馴染だ。近隣の誼で両親同士が交流することが多く、その都度ふたりで一緒に遊んでいた。
高校生になった今でも沙耶香とは仲が良かった。
たまにタイミングが合えば一緒に下校したり、休み時間にふたりでお昼を食べたり、授業の合間で世間話することもあるくらい仲が良い。
そう、僕は沙耶香と仲が良いんだ。
なのに、僕は沙耶香が怖かった。今沙耶香が何を考えているのか到底分からなかった。
予想もできなかった。
落ち着いた場所で相談がしたい、そう言われて親のいない日の沙耶香の家にお邪魔した僕はリビングのソファに腰掛けた瞬間に押し倒された。
まさかの出来事に咄嗟に反応できる筈もなかった。僕は普段使わない力を以て必死に抵抗した。部活は空手に属し、県大会も準優勝するほどの実力を持つ沙耶香はずっしりと僕に体重をかけて、共にもみくちゃになりながらソファから床へとずり落ちた。
(白くて細いこの腕にこんなバカげた力があるなんて……)
床に倒れ、沙耶香が上から覆いかぶさるように僕を押さえつけた。
そして、その体勢が覆されることもなく拘束と脱出の攻防が数分続いた。
息もせいて、額には汗が滲む。
僕らが暴れて床の綿毛のようなカーペットがへにょりと曲がり元の位置からズレていた。
お互いが力を緩め、そのまま奇妙な休憩に入ったのはほぼ同時だった。
そして、僕は尋ねた。もう落ち着いたか、と。
けれど沙耶香は何が、としか答えなかった。
僕は少し時間を空けてもう一度尋ねた。
「どうして、こんなことを」
そう伝えたと同時に彼女の目がギラんと光ったように見えた。至近距離にあった顔を上げてその大きな瞳が僕を睨んだ。
「へぇ、惚けるんだ」
「……とぼけ、る?」
「レンくんなんか、大嫌い」
「なっ」
そう言って沙耶香は僕の首筋に顔を近づけた。
ぬめりとした湿った感触が首に走ったのはそれからすぐだった。
「や、やめっ」
「んふふ」
首を舐められてる。そう気付いた時には沙耶香は首元に吸い付いたり噛み付いたりして徐々に鼻息を荒くし始めた。
「……さや…か」
涙が出そうになるのを堪えながら、彼女の名を呼ぶ。正気に戻って欲しい。そんな期待を込めながら彼女を見つめる。
それに反応した沙耶香は頬を赤らめ、さっきの格闘じみた攻防よりも息も絶え絶えになって黒い瞳が蕩けて見つめあう。
そして、沙耶香は気づく。目ざとく、それを見逃さなかった。
「はあ♡」
僕は元より沙耶香が好きだった。長い片想いに耐え忍んできたつもりだった。白磁のような白い肌はきめが細かく、艶やかな黒髪がさらさらと靡き、キリッとした眦と大きな瞳が美しさに拍車をかけ、皆の視線を掻っ攫うのを常とした。
百七十もある背の高さは数々の男の自信を折ってきた。華奢な体躯に不釣り合いな豊満さも兼ね備えたかくの如き美女とはまさに沙耶香のことであった。
冬木沙耶香と幼馴染み。それがどんな幸運であるか、最上の至りであるのか僕は骨の髄まで理解していた。
何故なら、他ならぬ僕こそが沙耶香に惚れていたのだから。
そんな彼女に馬乗りされ、押さえつけられ、ましてや舐められるなんてことをされてみよう。
僕も純然たる男だった。
それが否が応にも分からされてしまう。
沙耶香はそれに気づくと、とびきり嬉しそうな笑顔を浮かべ執拗にごしごしと腰を振り始めた。
「っ……!!もう、くそ、頭冷やせ!!!」
興奮していた沙耶香の隙をついて僕は右足を大きく振り上げて沙耶香の拘束から素早く抜け出した。
体勢が崩れてもすぐに優位な位置を取ろうとするのは癖なのかもしれないが、そんな動きを見せる沙耶香も遠くに逃げた僕を見て、遂には諦めたようだった。
「ばかやろッ!!順序ってもんがあるだろ、僕じゃなかったら犯罪だよ犯罪」
何故かしょんぼりとする沙耶香は悔しそうに上目遣いで見つめてくる。僕は壁際に寄って、暴れ回る朋友を押さえつける。
(負けるな僕、マけるなボク、まけるなぼくッ……!!)
「ねぇ、レンくん」
僕の葛藤を知ってか知らずか、徐に四つん這いになりながら近づいてきた沙耶香。
僕はまだ、どうしてこんな狂行に走ったのか、その理由を聞いてない。僕が何をしたのか、それでどうして沙耶香が怒ることになったのか。僕は何一つだって了承も了解も、してはいなかった。
それに、僕はまだ自分の気持ちすら伝えてもいない!!!
だから、これは!!!苦渋の決断なんだ!!!
血涙を堪えて、我慢するよりない。襲われて初めてなんてことがあっていいはずが、ない。
「ま、待ってッ!近付く前に理由を教えてくれ」
事の発端を、事の顛末を。その原因となるエピソードを、納得のいく理由を、僕は教えて欲しかった。
けれども。
彼女はかくも止まらない。
さる美女はそれでもにじりよって来る。
「おいそこ!止まれ、止まりなさいっっ!!」
「ムリ」
「えなんで止まんないの、えちょ、止ま、止まり、、止まれ!!!」
その場から動けないでいる僕は迫り来る沙耶香と相対する外なかった。僕はお腹を隠すように膝を折り、両手で以て沙耶香の奇行を止めようとした。再び、沙耶香に押し倒されると思ったから。けれど、触れられるほどの距離に来た沙耶香は恋人のそれのように僕の掌を掴み、ゆっくりと、そしてスムーズにその小さな顔を近づけた。
その両手からどんな技が繰り出されるのかしか警戒していなかった僕は、全くの予期していない動きに当惑した。一連の動作が本当にスローモーションに見えた。そして直後に心臓が飛び上がるほどの驚きが僕を襲った。
「え」
さっとどこか蜂蜜の香りのする匂いが鼻腔を掠めた。彼女に漂う微細な甘い粒子が僕の身体に絡みつくような気がした。
長い睫毛だと思った。柔らかな唇が触れて、艶かしい舌が僕の唇をなぞるように動いた。
頭をガンっと殴られたような衝撃が僕を支配して、何も考えることができなかった。ただ、全身の力が抜け、うるさいほど高鳴る心臓の鼓動だけが感じられた。
気付いた時には彼女の顔が遠ざかった。
電気も付けられていないリビングはほの暗く、窓越しに見える橙色の冬の空が彼女と重なった。
陽はもうすぐで沈む頃だった。
「本当は、こんな筈じゃなかったの」
呟くように囁いた沙耶香は俯いていた。え、と僕は聞き返したが喉がつっかえて、不明瞭に、意図せぬ裏高い声音が発せられた。瞬間に僕は羞恥心を覚えずにいられなかった。
彼女の頬は赤らんでいた。そして、かく言う僕も。
「でも、レンくんが悪いんだよ」
「……僕さ、なんかしたの?」
ここまで僕は再三尋ねてきたが、沙耶香は尚も口に出すのを躊躇っていた。素直に話すのが恥ずかしいのか、目を逸らして床のフローリングを眺めていた。
「……僕が何かしたなら、謝るよ。僕はさやかを怒らせるようなことをしたんだよね?いつも優しいさやかがこんなことをするなんて、きっと余っ程のことなんだ。けど、僕は本当に何がどうなっているのか検討も付かないんだ。ね。だからさ、僕に教えて欲しいんだ。何が君を怒らせたのか。教えて謝らせてよ、お願いだよ」
僕は努めて優しく、朗らかに訴えた。沙耶香の心に届くように。
それが実を結んだのかは分からないが、彼女はとうとうその重い口を開いた。訥々と、語り始めた。
「……レンくんのクラスに立花さんっているよね」
「立花って、ユイカのこと?」
うんと、沙耶香は頷いた。
彼女の言う立花結花とは僕のクラスメイトだった。僕は下半期の学級委員長で、ユイカは副委員長だった。その関係上、一緒に学級行事に務める僕らは他の異性よりも話す機会が多かった。沙耶香は一組だが、僕は三組だから立花さんのことを知っているとは、少し意外だった。
「最近、仲良いよね」
「仲良いって……。僕はそうは思わないけど」
「……っ!!この間、二人でサングリアの喫茶店に入って行ったって、友達に聞いたんだけど」
「それは……」
いつのことだったか。二週間ぐらい前に、僕は確かにユイカと喫茶店に行った。そう、それは間違いなかった。けれど、あれはそういうんじゃない。偶然というか、たまたまだった。塾帰りらしいユイカと会って、僕も塾帰りだったこともあって、息抜きがてら少しお茶を飲んだだけだ。決して、沙耶香の誤解するようなことじゃない。
「ほら、仲良いじゃんッ……!!!」
僕が言い淀み、思案していると沙耶香はキッと眦を吊り上げて僕を睨んだ。
「いや、違うって。あれは、本当に偶然帰りに会って話してただけで……」
「偶然会っても二人きりで喫茶店に入るぐらいには親しいんだ?」
「だから、それは……。兎に角僕は沙耶香が誤解するような間柄じゃないから、それだけは信じてよ」
「誤解?なにが誤解なの?」
「僕はユイカとは付き合ってないってことだよ」
詰め寄る沙耶香は何時にもまして不機嫌だ。さっきはあんなに恥ずかしそうにもじもじとしていたのに、今は怒りが勝って手がつけられない。こんなことは初めてだった。それに、僕も少し、憤りを募らせている。何故僕とユイカとの仲を疑い、怒りを発しているのか。意味が分からない。
「へえ、そうなんだ」
「なにが」
「レンくんて、そういう人なんだね」
「はあ?」
「まあ、そうだよね。付き合ってもない私に押し倒されて、キスされて興奮しちゃうぐらいだから、きっと立花さんともさぞかし楽しかったんだろうね。立花さん、可愛いもんね」
「……それは、お前は僕の気持ちを分かってないから!!!てか、楽しかったって……」
「分かってないのはレンくんの方だよッ…!!」
「…………」
「全然分かってない、私の気持ちなんて。立花さんの気持ちも、全然、これっぽっちも分かってない」
沙耶香は声を張り上げて叫んだ。悲壮な響きだった。
「私、見ちゃったんだ。昨日、階段の踊り場でさ。レンくんと立花さんがキス、してるの」
「えっ……」
「レンくんが立花さんを好きじゃないのは知ってる。わざとじゃなかった。レンくんが階段から落ちそうになる立花さんを支えようとして、その拍子でキスしちゃったのも、知ってる」
「そこまで、見てて……。じゃあ何がそんなに気に入らないんだよ」
「その開き直った態度もムカつくし、立花さんもムカつくし、何より、何も分かってないレンくんがムカつく」
「……」
「レンくんはさ、何も分かってないんだよ。どうして立花さんがレンくんに話しかけるのか」
「それは、クラスのこととか学校のこととか……」
「ううん、違うよ。立花さんがどんな思いでレンくんに話しかけてるのか。なんで偶然会ってもそこでさよならしないで、喫茶店に誘うのか。事故でキスしても、どうしてあんなにはにかんで嬉しそうにしてたのか。ねぇレンくんは、どうしてだと思う?」
そこまで言われて分からないほど、僕は馬鹿じゃなかった。馬鹿にはなれなかった。僕はユイカのことを好きじゃない。好きな人が、他にいるから。だから、目を逸らしていた。誰かの好意なんて、まやかしだと思っていた。僕を好きなやつなんて、いないと思っていた。
誤解していたのは、僕だけだった。
「ほんとにムカつくんだよ。レンくんは、無防備すぎて腹が立つの。立花さんも、それを利用する女も大嫌い」
「ごめん」
「私がどうして誰とも付き合わないのか、レンくんは聞いてもこない。私の事、そんなに興味ない?」
「……ごめん」
「私さ、すごい頑張ってると思うんだ。勉強も部活も上位に入れるように努力して。この髪のサラサラを維持するのも手入れが大変だし、ニキビができないように毎日スキンケアも欠かさずするし、ご飯を食べたら絶対走るようにしてるし、太らないように大好きなお菓子もずっと控えてる。本当はこんなこと、やりたくないのに」
「……うん」
「私の為ではあるよ。でも全部が全部、自分の為に続けられることじゃなかった。誰かさんの可愛いになりたかった。誰かさんの一番になりたく、誰かさんにずっと見ていて欲しくて、ずっとこんなことをしているんだよ」
「……そうだね」
「だから、告白ぐらいは頑張って欲しいじゃん。片想いなんて思わずにさ、頑張れよ。私、それだけの為に今までやってこれたんだよ」
「……ごめんよ」
「これだけ頑張って、待っていたのに。ずっと私のものだって、なのに。私より先にキスするなんて、何が何でも我慢できない。絶対に許さない。こんなの、許せないよ」
沙耶香が吐露したものは、僕の心を抉った。輝かしいほどの健気な少女に恐れ、いつしか僕は殻に閉じ篭っていたんだ。これまで何も持ち得なかった僕は、茫漠たる砂漠の平原に独りで立って、足元の砂を掬い上げるのも恐れた。手からこぼれ落ちるそれらを眺める勇気もなかった。掌に幾許か残る砂粒をしかと掴むことさえ……。手の中で僕を温めてくれるその存在を、その砂粒を、光を、どうして掴もうとしなかったのか。
彼女はそれでも僕を待ってくれていた。僕を見捨てようとはしなかった。
そう思うと途轍もなくいたたまれなくなった。
僕は、僕が情けなかった。
沙耶香は軽やかにその場に立った。リビングの電気をつけに歩き始め、広げたままだったカーテンを閉めた。
「次さ、好きでもないのに、誰かに油断見せたら。次こそは本当にぶち犯すからね」
ニコッ、と沙耶香は花が咲くような笑顔でそう告げた。冷たい悪寒が背筋に走ったのは、気のせいではなかった……。
○
桜舞う春爛漫の黄昏時。
僕らは紆余曲折ながらも前に進めた。
けれど、僕の恋の行方を記すには、やはりまだ、このひと時を充分に満喫してからにしておこうと思った。




