太陽は沈み、また昇る
「嗚呼……」
ひとり、太陽は嘆く。
何故、翼を捥がれ、毒を飲まされた時点で、己は死ななかったのだろうか。中途半端に生きながらえてしまったがゆえに、天の御子がふたり、地上へと堕とされた。
「空の御子よ」
サイラスは、重い身体を引きずり、かつて王であった少年の元へ辿り着いた。
いや、違う。彼にとって、目の前の少年は今も王だ。愚かな臣下の愚かな女に翼を剥離されようが、太陽から零れた光の雫が捧げる忠誠は変わらない。
「我が王よ」
太陽はもうじき、己の命が潰えると悟っていた。その前に、一目でも敬愛する王の姿を見たかったが、視界は霞み、なにも見えない。
当然かと諦観する。その敬愛する王から王権を、威光を奪った原因は、己にある。
しかし、太陽が空に抱かれているように、その身に温もりを感じる。床に崩れ落ちたサイラスを支える少年の手。
それと、もう一つ。
「王から翼を奪った私の罪は深く、最早、空の王に侍る太陽なる臣とは言えません」
「……そんなことはない。おまえから翼を奪った愚か者が、我が翼をも奪い、おまえの女を罪人へと堕としたのだ」
記憶の中の声と明らかに違う、老人のようなしゃがれ声に、サイラスは内心で動揺する。
本当にこの方は我が王なのだろうか、なんて、不敬極まりないことを考えてしまった。変わり果てた声の理由に思い至った後は、ただただ頭を下げ、身を縮ませるしかない。
身から翼を剥がされる瞬間は、誰にも言い表せないほどの苦痛に襲われる。サイラスは直後に飲まされた毒によって、すぐさま痛覚が麻痺したので、そこまで強く、長い痛みに苛まれることはなかった。
しかし、なんの処置もなく、途中で死のうが構わないと乱雑に扱われた少年は違う。苦痛に耐えられず溢れた悲鳴は、繊細な喉の中を裂くほどのものだった。
成長前の子供特有の愛らしいソプラノボイスは、今や見る影もない。
「ゆえに、おまえは己が女と共に冥府へと逝け」
死後、同じ場所へは行かせてやろう。だが、それはそれとして、空の王から翼を奪った罪を帳消しにできるわけがないので、今すぐに死んでもらう。
死にかけたままの臣下も、今この手で殺して楽にしてやる。それが、長く仕えてくれた臣下の働きに対する、せめてもの褒美。少年はそう言った。
「しかし、その前に問おう。ソレはなんだ?」
少年は、臣下の腕の中にいるモノを指し示す。白い布に包まれるようにして隠された赤子。瑞々しく滑らかな肌に対し、白い髪が不釣り合いだ。
「我が娘……いえ、次代の太陽にございます」
その赤子は、セシリアが産んだサイラスの子であった。
「翼がなく、生命力も乏しい。そんなモノが?」
言ってから、少年は唇を歪める。
「……それは、我とおまえも同じか」
一人、自嘲した。
赤子だろうが、既にある程度育った少年、青年であろうが、翼を失えば、誰でも等しく生気を欠く。
「王と同じく、切られてしまったのです。……母親に」
サイラスは翼を失ったからこそ、毒に負け、死にかけている。
セシリアは生まれたばかりの我が子の背にある翼を見て、閃いた。これを、サイラスにあげれば、サイラスは元気になるのではないか、と。
最早、セシリアはサイラスしか見えていなかった。サイラスが回復し、生き永らえるのならば、我が子が死のうが、大したことではない。
笑顔で小さな翼を持って来たセシリアは、サイラスに言った。「子供なんて、また作ればいいじゃない」と。
サイラスがいなければ、子供は作れない。セシリアにとって、サイラスの代わりはいないが、今いる我が子の代わりはいるのだ。
心優しい恋人の変わりように、サイラスは絶望した。彼は、我が子から大切な翼を奪ってまで、我が子の生気を啜ってまで、生きたくはない。
まさか、その後、天にいるはずの空の王がやって来るとは、思いもしなかった。
セシリアは、生まれたての娘の翼では力不足なのだと考えた。ならば、より強い力を持つ眷属の翼をサイラスに与えられればーー
そこに、ちょうどよく、空の王が来た。天を支配する者の翼であれば、なによりも力に溢れているだろう、と。
「…………撤回する。あの女は地獄に堕ちるしかあるまい」
少年に親はいない。兄弟もいなければ、子もいない。彼は誰かの腹からではなく、空から生まれた。
空が親かと聞かれても、違うと答える。親と子というよりも、分裂したようなものだ。だから、親がいること、子がいること、そういうものはなにもわからない。
しかし、天上には子を持つ眷属も、親から生まれた眷属もいる。彼らの姿は、毎日のように見た。親とは本来、子に対して無償の愛を注ぐ存在なのだと学んだ。
「えぇ。我が王と娘の翼を与えられたこの身も、また罪深い。セシリアと共に、私も地獄へと参ります」
サイラスは上着を脱ぐ。元は自身の君主のものであった巨大な翼は、初めから外に出されていて、服を着ていてもその全容がよく見えた。
だが、服の下、王の翼の上に、もう一つの翼がついていた。
「小さいな」
それを見た少年は、赤子を憐れんだ。この赤子は、己に翼があったことも実感できないまま、たった数十年ほどで死ぬのだろう。
少年は見た目も精神も子供だが、実は既に一千年以上を生きている。サイラスなど、他の臣下達と比べれば、まだまだ少ない年数。しかし、数十年と比べれば、気が遠くなるほど長い。
サイラスは赤子を抱えたまま、頭を垂れた。
「そのような身でありながら、図々しくも、王に乞い願う無礼をお許しください」
赤子を掲げる。
「どうか、この娘を王の庇護下に置いていただきたく」
その願いに、少年は嘲笑を浮かべた。
「先ほどからおまえは、我を王、王と呼ぶが、我はもう空の王ではないのだ。このような赤子一人を守る術も、最早ない」
そんな少年に対し、サイラスは首を横に振る。
「私はそうは思いません。翼がなくとも、あなた様の存在がこの世に在ることは変わりません。私と娘もそうです。現に、我々の中には未だ、空の、太陽の力の欠片がある」
太陽が常に輝いているように、サイラスの瞳もまた、輝きを失っていない。
少年は赤子を見遣る。寝ていたはずが、いつの間にかに開かれたその瞳の中にも、太陽が在る。
少年が指先を擦れば、寄り添うように風が吹き、雷が弾ける。
力の全てを失ったわけではないのだと、少年は理解した。
「であれば、空に浮かび、空と共に在る我ら太陽は、永遠に空というあなた様の臣にございます」
頭を下げたままのサイラスの目が濡れた。脳裏を過ぎ去る数多の無念が、鋭利な刃となって胸を刺す。
「しかし、私はもう、あなた様と共に在ることはできません。代わりに、この太陽の娘を傍らに置いてください。大いなる空と比べれば、生まれたての太陽など、か弱く、無知で、矮小な存在でしょう。ですが――」
「太陽が空に在るのは、世界の理。それが生まれたてだろうが、短命だろうが、太陽だと言うのならば、この空の下に置くのは、至極当然のこと」
サイラスが言おうとした言葉は、そのまま少年が口にする。
少年はサイラスから手を離す。代わりに、赤子を受け取り、胸に抱いた。
「娘の名は?」
「ドロテア」
サイラスはそう答えたが、
「しかし、娘は私の命を救う為に、神がセシリアに与えたものではありません」
その名前に不満があるようだ。
「ならば、エリアナの名を授けよう」
少年はサイラスに微笑みかける。サイラスには見えていなくとも構わない。最後の慈悲を、生まれた時から仕えてくれた忠臣に与えたかった。
殺すことはやめた。たとえ、遠く離れるとしても、子から親を奪うことは忍びない。
「太陽なる娘」
少年は一つ、エリアナの小さな額に口付けという祝福を授けた。
「おまえはいずれ、この昏き地中をも照らす光となれ」
少年はサイラスを見る。
「太陽は、このように狭い地中に昇ることはできぬ」
「空もまた、このように狭き鉄の箱に収まりません」
サイラスも笑う。最後の進言を口にする。
「虹を目指してください」
「虹?」
少年は目を瞬かせた。
「虹の麓に行くのです。虹の橋を渡れば、翼がなくとも天へ行くことができます」
実は、天の眷属の中でも、天に属する自然から生まれたモノは、翼を甦らせることができる。ただしそれは、いつでも、どこでもできるわけではない。自身が生まれたものに身を浸すのだ。
つまり、空から生まれた少年は、空に身を浸ける。太陽から生まれたサイラスや、サイラスから太陽の半身となる資格を受け継いだエリアナは、太陽に身を浸ける。さすれば、再びその背に翼が生えるであろう。
「ご武運を」
天井に黒い円が浮かび、爆発する。火の粉が落ち、地下牢に炎が満ちた。
しかし、それはサイラス、少年、エリアナを焼くことはない。太陽が生み出した炎は、太陽自身も、太陽が浮かぶ空も傷付けられない。
崩れ落ちた天井に、少年はエリアナを抱えて登る。翼がなければ、空を飛ぶことはできない。だが、僅かだとしても風を操れば、それだけで跳躍の補助ぐらいはできる。
「太陽の……いや、サイラス!」
ふと、サイラスに伝えたいことが少年の頭に浮かんだ。崩れかけの床から――サイラスにとっては天井から、ひょこりと顔を出すので、天井が崩れやしないかと、彼は気が気じゃなかった。
「我は空の王であることを諦めぬことにした。だが、今、翼がないのは事実。ゆえに、我は今日からクロードと名乗ることにする! 翼のない不自由な王とな! わはは!」
「笑いごとじゃないんですがっ!?」
叫ぶサイラスに、少年は――クロードは屈託なく笑う。天上で彼を振り回していた、悪戯な悪童と同じ顔。
「我が太陽よ。大義であった」
だが、すぐに王として表情を引き締める。天に君臨する空の王に相応しい覇気を纏い、近く死にゆく定めの臣下を労わった。
「バイバイ」
とはいえ、それも長くは続かない。すぐに表情は崩れた。稚い仕草で、手を振る。
崩落音を聞いた者達の足音が迫る中だろうと、クロードは別れの言葉を忘れなかった。
もう二度と会えないであろう兄貴分へ、これまでの親愛を込めて。
または、これから永遠に引き離される父娘の為に、赤子の手も摘んで、最後の挨拶の補助をしてやる。
クロードは未来を知らない。だから、現世に残ったサイラスの僅かな思念が娘と再会を果たすなど、考えてもいなかった。




