声だけが残る
海が、軋んでいた。
それは波の音ではなく、船の鉄板が軋むような、不安定な音だった。
船底から伝わる鈍い震えが、眠気を粉々に砕いていく。
私は薄く開いた目で、錆びついた天井を見上げていた。
蒸し暑い空気が肺の奥に重く沈んでいく。
湿った油と、鉄と、血のような臭いが、空気の底にずっと溜まっている。
船には、物を扱うように、人が押し込まれていた。
だが、中にいる人は誰もが口を閉ざし、身動きひとつ取らない。
生きているのか、眠っているのかわからない。
静けさだけが、この船を支配していた。
船は南から、故郷へと向かっている。
戻れる場所があったとしても、そこに何が残っているのかは分からない。
ましてや、本当に戻れるのかどうかさえ疑わしかった。
銃声も爆音も、もう聞こえないはずなのに、耳の奥ではまだ響いている。
灰色ばかりの景色が、目の奥に焼きついて離れない。
突然、かすかな声が耳をかすめた。
「……おかあさん……」
子どもの声だ。
うわごとのような、弱々しいその声は、船の奥の方から聞こえてくるようだった。
誰の声かは分からない。子どもの姿を見た記憶もない。
だが、それは今日が初めてではなかった。
この船に乗ってから、もう何日が経ったのか覚えていないが、
その声は、毎晩のように聞こえてきた。
「おかあさん……おかあさん……」
私は目を閉じた。耳を塞ごうとは思わなかった。
ただ、消えてくれるのを待つだけだった。
「……おかあさ……」
声がそこで止まった。
途切れたのではない。ちぎれたのだ。
次の瞬間、世界が裂けた。
低く唸るような音。鉄と鉄がぶつかるような重い響き。
それが耳の奥に食い込むより早く、爆発音が腹の底を突き破った。
風が逆流する。空気が破れる。
視界が一瞬、真っ白に弾けた。
何かが私の顔に叩きつけられた。
熱く、ぬるりとして、弾力のあるもの。
頬、額、まぶた。次々に貼り付いてくる。
口の中に液体が入る。咄嗟に吐き出すが、口の中に鉄の味が広がる。
手の甲に、何かが触れる。
ぬるりとした感触。皮膚とも筋肉ともつかない、柔らかく重い塊。
何も見えない。目の前は赤と黒の膜で覆われている。
耳鳴りの向こうで、誰かが叫んでいる気がするが、意味を持った音には聞こえなかった。
身体が震える。
それが私自身の恐怖なのか、張りついた誰かの痙攣だったのか。もう、区別がつかない。
どこからか煙の匂いがする。
煙と共に、胃が反応するような、何かが焼けた臭い。
立ち上がれなかった。
力が抜けていた。
ただ、心臓の音だけが、自分がまだ生きていることを証明していた。
ゆっくりと、音が戻ってきた。
金属が擦れ合う音。誰かの呻き。どこかで水が流れるような音。
それらが、壊れたスピーカーのようにバラバラに耳へ流れ込んでくる。
私は床に手をついて、ようやく半身を起こした。
腕には血と灰がこびりついていて、自分の肌の色がもう分からない。
視界の端で、誰かの体が動かずに転がっていた。顔は……もうなかった。
上空に影が走る。
ぎぃ、ぎい、と重たい金属が低く鳴くような音が上から降ってくる。
私は反射的に顔を上げた。
そこに、黒い影があった。
空に溶けるようにして、敵の機影がひとつ、音もなく迫っていた。
大きく、無感情で、滑らかだった。
こちらに気づいているのか、もう狙っているのか、それすらも分からない。
しばらくして、突然――
バリバリバリバリバリッ!
機銃の音が、空間ごと引き裂いた。
鉄が砕ける音。甲板が跳ね上がる音。
船が叫ぶような軋みを上げる。
すぐ横で何かが破裂し、熱が背中をかすめていった。
「うあああああっ!」
誰かの悲鳴。振り返ると、倒れていた兵士の腹が開き、中身が流れ出ていた。
目が合った気がしたが、もうその目は何も見ていなかった。
視界の奥で、火花が走る。
ドラム缶のひとつが破れて、煙が噴き上がる。
熱気が一瞬、空気の層をゆがめる。
爆風の予兆が空気を揺らす。
私は伏せようとした。だが――体が動かない。
腕も足も、意志とは別に固まっていた。
爆発が、船を飲み込んだ。
甲板が吹き飛び、鉄が折れ、水柱が立つ。
船体が軋み、床が傾く。鉄の床が、海へ向かって沈みはじめた。
私は動かなかった。
いや、動けなかった。
手足に力が入らず、重さも痛みも感じない。
ただ、どこかから借りた体のような感覚が残るだけだった。
炎と煙が空を覆っていく。
焦げた臭いが喉に貼りつき、金属の味が口に広がる。
誰かの叫び声。誰かの命が、音もなく消える。
すべてが、遠く。
現実がゆっくりと、別の世界に沈んでいく。
私は仰向けに倒れた。
空は灰色で、何もなかった。
煙の向こうに敵機がいる気がしたが、もうどうでもよかった。
耳の奥で、何かが響く。
「……おかあさん……」
あの声だった。
弱く、震え、遠くから届く声。
けれど、確かに耳に入ってくる。
「……おかあさん……おかあさん……」
誰の声だろう。
あの子の声か。
いや、もしかしたら、これは自分の声ではなかったか。
私は目を閉じた。
視界は静かに闇へと沈んでいく。
周囲の音はすべて消え、最後に、声だけが残った。
その声が、海の底へとゆっくり、沈んでいった。