04 地下室
走る。
走る。
走る。
息をすることさえ忘れて二人は走る。
後ろを振り返ることさえも出来なかった。月明かりの照らす道を、ひたすらに彼らは走り続ける。
全身が汗をかいていた。心臓が高速で鳴り、全身の血が滾っている。それでいながら、彼らの身体の節々はまるで雪山にいるかのように震えていた。
恐怖が彼らを突き動かす。
「奏っ! お前さっきこっちから来たよなっ!? こっちに何か隠れられそうなとこはあるか?」
西村隼人は隣を走る川尻奏に叫んだ。声の節々が震えていたが、彼はそれを押し切って大きな声で怒鳴った。
奏は目に涙を浮かべながら答える。
「な、なんか、大きな屋敷のようなものがっ――」
「それだっ」
大きな屋敷なら、きっと隠れることの出来る場所があろうだろう。それに、屋内なら部屋に鍵をかけて篭城することも可能だった。
二人の後ろには、目の無い人型をした怪物たちが迫ってきている。彼らはまるで血に飢えた獣のように、ただひたすらに二人を目指している。彼らは走っても殆ど速度は無いが、間違いなく二人の通った道を辿ってきていた。
二人は屋敷のような建物に到着すると、正面に開かれた大きな扉を開けようとする。
隼人が思い切り扉を引っ張ると、鍵などかかっていなかったかのようにあっさりと開いた。
玄関の先には闇が続いている。どこか古い昔ながらの畳の匂いが鼻腔を刺激した。その闇に僅かに恐怖を感じるも、それよりも後ろから迫ってきている怪物たちの方が恐かった。
隼人は玄関の扉を閉める。
そしておもむろにあたりの物を散らかし始める。近くの下駄箱をあさり、その際に物がばら撒かれる。
彼はひたすら手探りで探す。
(これが下駄箱なら、あるはずだっ)
彼はやがて、目当ての物を手に入れる。それは懐中電灯だった。
彼がスイッチを入れると、それは明るい一筋の光を作り出す。
「下駄箱のそっち持て」
「う、うん」
二人は下駄箱を動かし、玄関に立てかける。少しでも怪物の進行を抑えるためのバリケードの役割を果たしてもらうためだった。
がたんと大きな音がして、即興のバリケードは作られる。しかしぱっと見ても隙間が大きく、とてもそれではまともに防げそうもなかった。
「は、隼人君。この後どうするの……?」
奏の声には恐怖の色が含まれていた。
「隠れるか、何か対策を考えるっ」
土足で上ることに抵抗があったが、靴を脱いでもいられなかった。奏は恐れながらも隼人に続いていく。二人の心臓は、長距離走を終えた時のように激しく打ち付けている。
隼人が数歩進み、奥の闇をライトで照らした途端だった。
彼の左目が、熱を持ち始めた。
彼の左目が、違う次元の物を映し出し始める。
「うっ……」
彼は思わずうめき声をあげた。それに対して奏は駆け寄り何かを叫んだが、隼人はそれを聞き取ることが出来なかった。
彼は奥の廊下に目を凝らす。
左の視界はノイズが入ったようにぼやけている。無理やりに違う場所に焦点を当てているのだから、それは当然のことだった。
彼の前に、一人の少女が居た。
長く、艶のある黒い髪。それに、彼は思わず声を上げていた。その少女は、彼のよく知っている人にとても似ていたからだった。
彼の知り合いに、とても良く似ていたのだ。
(これは――)
そんな隼人の戸惑いも気にせず、その少女はゆっくりと奥へと歩き始める。その足取りは重く、彼女が躊躇っているように思えた。迷いながらも少女は先に進む。
(……行かないと)
奏が彼に何かを言った。しかし、隼人には聞こえない。彼の耳は既に、現実から切り離されていた。彼が見て、感じているのは目の前にいる少女だけだった。
隼人は少女を追うため、闇へと足を踏み出した。
隼人と奏は、懐中電灯の明かりを頼りに先に進む。
隼人は左目を見開き、前を歩く少女を凝視し続ける。
彼にはまだ、少女が自分の知っている彼女であることを信じることが出来なかった。
――少女は坂上楓だった。
隼人と奏を含むグループの一人の、坂上楓だった。
彼女が居るということをどう受け止めたら良いのか隼人には分からなかった。彼女がここに何らかの形で立ち寄ったという事は、彼女は今も生きているという証になる。しかし同時に、この島に居るという事は怪物に遭遇することもあったはずなのだ。
つまり、彼女は怪物に襲われる可能性――襲われた可能性があるということになる。
(もし、もしこれが、過去の映像でも未来の映像でも無かったら……)
そうだとしたら、彼女は既に幽霊になって彼の前を歩いているという解釈しか出来ない。彼はそれだけは、どうしても信じたくなかった。
そうだとしても疑問は残る。……なぜ彼女が一人で、この屋敷を訪れたのかということだった。
隼人は楓のような少女を追いかける、奏はその後を不審そうに付いていった。
やがて彼らは、一つの部屋にたどり着いた。
その部屋は他の部屋と変わりなく、畳のあるただの和室のようだった。楓はその部屋に入ると、部屋の隅に行った。そして、そこで床にしゃがみこみ、何かを探りはじめる。
隼人はそれを、ただ見ていた。
やがて彼女はそこから何かを取り出すと、部屋の逆側へと向かった。そして彼女は、再び地面にしゃがみこんだ。再び何かを探し始める。
(何だ……?)
彼女は畳のふちに指をひっかけると、それをゆっくりとスライドさせた。
「っ!」
隼人は思わず声をあげそうになった。
畳というのがスライドしていくのを、彼は始めてみたからだった。中に何かを隠している様子で、畳が直ぐに動かせるようにしておいたらしい。
そしてその畳の下に、丸いマンホールが現れる。
しかし、それはマンホールではなかった。それはこの屋敷の下に繋がる、地下への入口だったのだ。
楓のような少女はそこに先ほど拾った何かをはめ込む、そして取っ手を持って思い切り上に持ち上げた。そして彼女はその何か――入口の鍵を元の位置に戻すと、自らを地下への入口へ滑り込ませた。やがて、蓋が閉まり、内側から鍵がかけられる。
彼の左目は、そこで通常の視点に切り替わった。
「隼人君っ!」
すぐ近くで聞こえた声に、彼は驚いた。
「……悪い。ちょっとぼうっとしてた」
「で、ここからどうするの?」
奏はその和室を見回した。隼人が左目で見ていた光景を、彼は共有していなかったのだからそれは当然の反応だった。闇雲に歩き出した隼人について、奏は心配している。
「――地下があるらしい。だから、地下に行くぞ」
「えっ?」
奏が驚きの声を上げた。隼人はそれを無視すると、部屋の隅へと向かった。そしてしゃがみこんで、巧妙に隠してある鍵を手に取る。
「くわしい話は後だ」
隼人はその鍵を使って、地下への入口を開けた。
地下にはいくつかの部屋があった。
それは単純な造りになっており、一本の通路に部屋がいくつか連なっている。通路の左右に扉があるその様子は、まるで牢獄のようだった。
「ここは……」
奏は震える声で言った。
隼人は何も答えない。答えることは何もなかった。彼自身、この地下にあるものが何なのかさっぱり分からないからだ。
二人は懐中電灯の明かりを頼りに前に進む。
どこからか、焼けた線香の匂いが漂ってくる。たった今まで誰かがここで線香をたいていたのだろうか。しかし、光で照らしても人影は全く見えなかった。
(楓……)
隼人は先ほどみた彼女を思い出す。
彼女はなんでこんなところに入ったのだろうか。まるで以前入ったことがあるかのように、彼女はあっさり鍵を見つけて中に入った。それが気がかりだった。
以前来たことがあるのだとしたら、それは何のためなのか。
隼人は考えたが、答えは見つからなかった。
二人は通路を歩く。近くにあった扉を開くと、そこには大量の書物が保管されていた。
「なんだ?」
「よく分からないけれど、何かの専門書じゃないかな」
奏は本を手にとって眺める。表紙の文字は既にかすれ、読み取ることは出来ない。彼はそれを懐中電灯の傍で開いた。
「なんだ、こりゃあ」
隼人は中を見て思わず呟いた。
そこには、彼には分からない文字で埋め尽くされていた。奏はそれを中国語ではないかと思った。
漢字がひたすら並べられているその本は、到底日本で書かれたものとは思えない。
「中国語だけど……、何か妙だ」
奏は更に頁をめくった。紙がこすれる音がする。
奏はあるページで手を止めた。彼が開いているそのページには、円が描かれている。それもただの円ではなく、円というよりも多角形のようだった。複雑で細かい模様がついている。その図形のいたるところに、小さな文字で文章が書かれていた。
「これは……、ゲームとかで良く見る魔法陣って奴じゃないか?」
隼人が言った。
「そう、だね」
「なんだこりゃあ、中国語で魔法ってのを研究してたことがあるのか?」
隼人はバカにするように言った。
魔法というのはあくまでファンタジーの世界の話なのだ。現実世界でそのようなことが行われているなど、彼には考えることが出来なかった。
しかし、すぐに彼は思い出す。
二人は先ほどまで怪物に追いかけられて来たのだ。
地下に入り鉄の入口を閉めて安心していたが、今思い返せばとても現実とは思えない事態だった。目が無く、ひたすら迫ってくる怪物達。それらは魔法などの非現実と強く結びついていた。
(それに――)
彼自身、非現実的な力を持っているではないか。
現実とは違う物を見ることの出来る左目を、持っているではないか。
それで見た未来や過去、そして幽霊などの物の存在を知りながら、魔法などのことは否定するのか。それを思うと、隼人は複雑な気分になった。
暫く図を見ていた奏は、顔をあげた。
「これはたぶん、風水か何かの解説をしているのだと思うよ」
「何?」
「方角や色、地形。そういったものを重要視してかかれているみたいなんだ。だから、たぶん風水の事だと思う」
「へぇ」
隼人は感心して呟いた。
彼らはその部屋を出て、向かい側の部屋に行った。そこには前の部屋と同じように、多くの本が置かれていた。
床に落ちていた本を手に取ったが、やはり外国の言語で書かれているらしく、読み取ることは出来なかった。
二人は他にもいくつか部屋を調べたが、そのうち殆どが本の保管場所に使われていた。
「どうなってんだここは?」
「分からない。大きな書斎みたいなものじゃないかな」
二人は奥へと進んでいく。
やがて闇の中に、小さな光が漏れているのが見えた。そこに行くと、そこは大きな部屋になっていた。その部屋はまるで体育館のように何も置かれておらず、二人の入った反対側には大きな鉄の扉が閉じられていた。
光はその部屋の上の隅から入ってきているようだった。
天井近くには格子状の通風孔があった。そこは直接外に出ていて、月の光が差し込んできているのだった。
大きな鉄の扉は閉まっており、鍵はどこにもなかった。
左目が何かを写すことを期待したが、それは起こらなかった。使いたい時に使えず、使いたくない時にも発動してしまう。それが彼の左目の欠点といえるものだ。
「ねぇ……」
二人は床に座り込んでいた。壁に背を預け、並んで座っている。二人は書斎の一つに毛布が落ちているのを見て、寒さをしのぐために持ってきていた。
「なんだ?」
隼人は格子越しに月を見ながら言った。
「……あのさ、さっきから気になってたんだけど。なんで地下があるって分かったの?」
奏は恐る恐る言った。
その声には恐怖の色が含まれているようだった。聞いてはいけないことを聞いているのかもしれない、そう彼は思っているのだろう。
隼人は大きくため息をついた。
「――じゃあ、お前にだけは話す。あまり人に言うなよ」
彼は説明を始めた。
それを今まで人に説明したことは殆ど無かった。今まで一人を除いて誰にも言わなかったその隠し事を、友達に話している。それはどこか不思議な気分だった。
隼人が言う言葉を、奏は熱心に聞いていた。
本当のところ、彼にとって地下があることがどうして分かったかなどということはどうでも良かった。ただ黙りこくって座っているのが嫌で、とても心細くて、話の話題を探したのだ。
背中が壁に触れているため、そこからどんどん体温が奪われていくような気がした。
全身が冷え切っていき、やがて自分の身体をまともに動かせなくなることを想像する。それは恐かった。闇の中に一人取り残されるような恐怖が、そこにはあった。
隼人の説明する彼の左目の話は、奏にはとても信じることの出来ないものだった。
しかしそんな突拍子も無い話だからこそ、信じることしか出来ないと思う。わざわざつまらない冗談を言う場面じゃないのだ。
それにきっと、この話は信じなければならない。
――彼だってきっと、信じてもらえないかもしれないと思っているはずなのだ。
だからこそ、否定されることを覚悟で説明をする彼の言葉を信じなければならない。そう思う。それこそが本当の友達と呼べるものではないだろうか。
――本当の、友達。
奏は心の中に出てきたその言葉に、思わず息を呑んでいた。
それは彼がずっと手に入れようともがいてきた目標であり、それでいて、希望だった。闇の中でさえも、なんとも無いように輝き続ける光こそが友達だと思っていた。
……全てを包み込むようなその絆は、彼にとって宝物だった。