03 怪物
川尻奏は暗い森の中を歩いていた。
太陽が沈んでから既に数時間が経過している。彼の目の前には、殆ど無明に近い闇が広がっていた。月明かりの、頼りない光を手がかりに彼は一歩ずつ慎重に歩いていく。
彼が一時間前に砂浜で目を覚ました時には、既に太陽は沈んでいた。彼は暫くそこで考えた後、あたりを探索することにしたのだった。
(この島、何か奇妙だ)
奏は声に出さずに呟いた。
彼が疑問に思っているのは、この島のようすについてだ。彼があたりを探索し、森の中に足を踏み入れてからまだ少ししか経っていないが、彼は生き物の姿を見ていなかった。
彼は近くに立っている木に、手をあてた。その表面はざらざらで力強く、木の太さも充分だった。
(こんなに立派な木がある森なんだ。生き物が見当たらないのは何でだろう?)
彼はさらに奥へと向かった。
無音。
奏はこの島をその言葉で表すことが出来る。
彼がこの島で目を覚ましてから、彼が聞いた音と言えば、波と風と木々の揺れる音だけだった。生き物の鳴き声や、鳥の羽ばたく音も聞こえない。
まるで、時間が止まっているかのように、音がしなかった。
無音で、それでいて真っ暗な中に居ると、彼はだんだんと心細くなってきた。砂浜で朝まで待って、それから探索を始めたほうが良かったかも知れない。
しかし、この寒い気候の中待っていたら、風邪をひいてしまう。仮にここが無人島だったとしたら、風邪を引いた状態で生きていくのは随分と難しいだろう。そのため、風邪を引くよりもはやく、何かで暖をとる必要があった。
(丁度良い感じの洞穴とか、無いのかな?)
奏はさらに歩く。
闇の中は無音で、そこに彼の知らない化物が姿を潜めている場面を想像した。それはきっと狼のような風貌で、それでいて物音一つ立てずに潜伏するだけの知能がある生物だ。
彼は全身に鳥肌がたつのを感じた。
(やっぱり、戻ったほうが良いかもしれない……)
奏がそう思い、戻ろうとした時だった。
彼の目の前に、大きな建物の屋根が見えた。それは瓦屋根の一部が月明かりに照らされたものだったが、彼はそれを見て心の底から勇気が湧きあがってくるような気がした。
「やったっ! 家だ!」
彼は思わず声を上げていた。そして、ちゃんと見ようと彼は足を速める。
やがて木々を抜け、彼はその建物を目の当たりにした。
それはとても大きな建物だった。時代劇にでてくるような武家屋敷のような、それだけの大きさと威厳を感じることが出来た。
築何十年と経っていそうな、神秘的で、それでいてどこか威圧的な建物だった。
(これは……、すごい)
奏は感嘆のため息をついた。
誰がここに住んでいるのかは分からない。あるいは、この島では神社のようなものかもしれない。ただ、誰かがこの島に住んでいるという事は、建物がちゃんと整備されていることから確認できた。
彼は暫くその建物の周りを巡回し、それから建物から続いている道のようなものをたどることにした。そこをたどっていけば、民家があって人が居るに違いないと思ったからだ。
彼は道を歩く。
月は真上にあがり、彼の頭上から照らし続けている。風が吹き、彼は目を細める。
それはまるで、怪談に出てくる一場面のようだった。静かで、神秘的で、恐ろしい怪談を思い出す。こういった場面では、何時だって怪物が出てくるんだ。
彼は自分の肩が震えているのを感じていた。
(恐がるなよ。僕は小学生じゃないんだから)
彼はそう思い、自分を叱咤する。しかし、彼の感覚はさらに研ぎ澄まされていった。そして、何かの気配のようなものを感じ、彼は右の林を見る。
奏は普通の人と同じく、人の気配を感じるのに慣れているわけではない。そのため、彼はその気配を気のせいだと考えることが出来る。しかし、彼はそうしなかった。
(――何か、いる)
奏はそちらを凝視し続ける。
彼の心臓は既に早鐘のように素早く打ちつけている。全身からは汗が噴出し、頭が真っ白になってくる。
彼の嫌な予感がピークに達した時、それは唐突に林から姿を見せた。
それは、怪物としか表現出来ないものだった。
林から出てきたその怪物は、後ろから見たらただの人間に見えただろう。普通に人間の服を着て、人間のように手足があり、人間のように頭がある。
しかし、一つだけ足りないものがあった。
普通の人間なら必ずある物、それがその怪物にはなかった。
(――目が、無いっ)
人型をしたその怪物には、人間にはあるはずの目が存在していなかった。
失明した人間というわけでもない。怪物には目があった痕跡すら残していなかったのだ。最初から目がないように作られているように。人間では目のあるはずの場所は、ただの肌色の皮膚が続いていた。
「――っ」
奏は喉がつまり、悲鳴を上げることさえ出来なかった。
目の前の物を認識することが出来ない。彼の常識の範囲を超えた現象に、彼の頭は真っ白になっていた。
(に、逃げなきゃっ!!)
奏は一目散に走り出した。走る方向は、先ほどから向かっている方向だ。集落がありそうな方向へと、彼は走っていく。
誰か普通の人間と会いたかったのだ。
通常の世界に住む人間と会い、自分は現実に居ると確信したかった。怪物に会ったという出来事をそれで掻き消したかった。
彼は息さえせずに、道を駆ける。
途中何度か足を躓かせたが、彼は後ろを振り返ることさえせずに立ち上がって走り続けた。
奏は見えてきた村の手前で足を止めた。
彼のはるか後ろには、怪物が後を追ってきていた。しかしその速度は遅く、彼はそれに気づいていない。しかし、既に彼にとってそれはどうでもいい事柄になっていた。
「――これは、何っ?」
彼は泣きそうな声で呟いた。彼の目は、前の光景に釘付けにされている。
彼の目の前、そこには、大量の怪物たちが居た。
当たり前のように、民家の間を徘徊している。まるで外国の映画に出てくるゾンビのようだ、と彼は頭の隅で思った。
彼の頭がしびれ何も考えられなくなっている間に、その怪物たちは奏に気づく。あるはずのない目が、彼の全身をなめまわすように見ていた。
奏は動けない。
怪物たちは、よろよろと彼に近づく。足腰を怪我した老人のような足取りだが、その怪物たちの見た目はいたって健康だった。怪我一つなく、老人であるわけでもない。若者や、子供もまじっていた。
目が無い人間たちに、奏はただ恐怖する。
怪物たちは近寄る。彼らは躊躇い無く動き、彼の目の前に迫った。
途端――。
「おい奏っ! 何してんだっ」
誰かが彼の名前を呼ぶ声がした。
その聞き覚えのある声に、彼は思わずそちらに顔を向ける。それと同時に、彼の身体は誰かに抱えあげられた。
「えっ」
「さっさと逃げろっ」
「は、隼人君っ!?」
そこには、彼の頼りにしていた友人の姿があった。