02 島
太陽の光で白く輝いている砂浜。
それが西村隼人が目が覚めて初めて見た光景だった。
(……なんだ?)
彼はぼんやりとした頭で、なんとか起き上がる。そしてうつ伏せの状態から、胡坐をかいている状態に体勢を変えると、あたりを見回した。
(どこだここは?)
彼の目の前には砂浜が広がっており、その先には林がある。彼は鉛のように思い頭を動かし、なんとか現状を把握しようとする。
(――そうだ、船が沈没して。それから……)
救命ボートでさえも転覆した。その事実を思い出し、彼は思わず立ち上がった。
「皆は!? 皆はどこだ!?」
隼人は叫ぶ。しかし、返事をする者は誰も居なかった。
彼の言葉は、穏やかな波の音に掻き消されてしまう。
彼は自分でも知らないうちに涙を流していた。
彼は自分と一緒に旅行に出かけた友人たちを思い出す。楽しみにしながら乗った船が、あのような事になるとは誰も想像していなかった。
隼人は嗚咽を堪えて涙を拭う。
(――俺だって生きてるんだ、皆もきっと生きてるはずだっ)
彼はそう信じようとした。自分以外はみんなあの後で救出され、既に家に帰っているのかも知れない。そう彼は考える。
(俺のところにも暫くしたら助けが来る。それまで、なんとかするんだ)
隼人は歩き出した。
冷たい風が吹きつける。風は彼の頬の上を静かに流れていく。
「――冷たい?」
彼は小さく呟く。
隼人はそこでようやく、全身が冷たく冷え切っていることに気がついた。全身の水で濡れている部分から、どんどん体温が奪われていっている。
隼人の奥歯が、寒さでがちがちと震えていた。
この寒さは、おかしい。
(……今は八月のはずだ。夏の盛りに、こんなに冷えるはずが無い)
確かに場所によって太陽の当たり方は変わってくるため、気温の差はあって当然だ。しかし、彼の感じている寒さは明らかにそんなものではなかった。
(何か、おかしいな)
全身を寒さで震わせながら、彼は頭を振った。隼人はそれについて考えることを止め、あてもなく歩き出した。とにかく彼には、寒さをしのぐ物が必要だった。
隼人は唐突に立ち止まった。
(――左目が)
彼は左目を押さえ、しゃがみこむ。
隼人の視界は揺れていた。見えているものがぼやけ、地震にあっているかのように、方向感覚が失われていく。
左目が激痛を発していた。左目をくりぬき、そこに熱した鉄のボールを入れられたかのように、彼の左目は熱を持ち始めている。彼はその痛みと熱さを堪えながら、ただ痛みが過ぎ行くのを待っていた。
(また、なにか――何か、映るのかっ!?)
隼人の左目は、通常では見れないものを見ることが出来る。
それは心霊現象に含まれるような幽霊といった物から、過去に実際にその場で起こったことや、未来に起こるであろうことなどである。
それらの映像は唐突に彼の左目に殺到し、彼の目に映像を焼き付けるのだ。
かつてその場で殺人が行われていたなら、殺人の映像が。これからその場で殺人が行われるとしても、同じく殺人の映像が映し出される。あるいは、殺された人の幽霊のようなものが見えることもあるだろう。
その左目の特殊な力は、隼人の力で制御することは出来ない。
未来を見たいと思っても、その時に見ることが出来るとは限らない。自分の見ている映像が、過去のものか未来のものか、あるいはそれ以外のものなのか判断することもできないのだ。
その左目の能力は唐突に発動し、唐突に終わる。
まるで偶然隼人の脳というアンテナが、そこにある電波を受け取ったかのように。暴力的にそれは訪れる。
彼はその左目が覚醒してみる映像を、『幻視』と呼んでいた。
そして、この時も隼人の左目は幻視を映し出そうとしている。
彼が居るのは林の中。砂浜から少し進んだところで、彼の目の前には人が舗装したらしき道がある。そこにたどり着いた途端、隼人の左目は激痛を発し始めたのだ。
(これはっ、いつもより酷いっ)
痛みを堪え始めてから十数秒。彼の左目は焦点を合わせ終わる。
隼人の目は、左だけ赤色に輝きだしている。右はまだ黒のままだ。
彼の視界は、今では二つに分かれている。右目で彼の居る現実を映し出し、左目で彼の居る現実とは異なる何かを映し出している。彼は左目に覆わせていた手をどかし、目の前の光景を見た。
そこには、男の死体が転がっていた。
「-―っ」
隼人は思わず叫びそうになった。その映像は、彼が今まで見て来たあらゆる幻視よりも、はっきりとしたものだったからだ。
彼は悪寒を堪えながら、男の死体を見る。
その死体は、うつ伏せに倒れている。服装は最近のものと違い、数十年前のファッションを思い出させるようなものだった。そしてその服ごと、男の胴体は何かに貫かれていた。男を貫いたであろう凶器は、既にそこには残っていない。ただ、おびただしい量の血を流し、倒れている死体があるだけだった。
血。
それは男の死体を包み込んでいるかのように見えた。土に染みこみ、地面が黒く変色している。
男の表情は恐怖に引きつり、目を見開いたまま死んでいた。口はだらしなく開き、そこには乾いた血がぱりぱりの状態でこべりついている。
「うっ――」
隼人は胃液が逆流するのを感じ、それを押し留めようとした。しかしその努力も空しく、彼は足元に吐瀉物を撒き散らす。
「はぁ、はぁ」
彼は肩で息をする。
今まで彼は、何度か幻視で人の死体を見たことはあった。しかし、それは一瞬のことで、白日夢のようなものだった。
――あまりにもリアルで、彼の脳はそれを理解することが出来なかった。
彼は地面に這い蹲り、男の死体を凝視し続ける。右目だけは現実を映し、そこには死体はおろか、血の一滴もこぼれていない。
あまりにもはっきり左目と右目がわかれているため、その負担は今までに彼が経験した比ではなかった。凄まじい頭痛が絶えず彼の脳みそをかき乱す。
何時終わるとも知れない暴力の渦へと、彼の意識は放り投げられる。
頭痛が治まってようやく、彼は左目が正常に戻ったことを知った。
隼人は左目が元に戻ってからも、数分の間動けないでいた。
日が傾きだし、あたりは一段と冷えてくる。夕日のオレンジの光が、彼の頬を照らしていた。
(……いったい、何だったんだ?)
彼は心の中で呟いた。
なぜこんなにはっきり映ったのか? なぜ胸を貫かれた死体が転がっているのか? 今のは過去の映像なのか?
その他もろもろの疑問が、彼の頭の中を渦巻き始める。それらを解決させる術を彼は持っていない。
彼は考えながら、再び道を歩き始めた。
隼人が道を進んでいくと、その道はやがて大きな通りになった。そして小さな民家のようなものが、彼の前に現れてくる。民家の一つ一つは、どこか古臭い感じがした。家々は今食事の準備をしているのか、調理をする火が焚かれて煙が昇っている。
彼はその光景を見て、ほっと息をついた。
「良かった。ちゃんと人が住んでたのか……」
舗装された道を見てもしやとは思っていたが、誰も居ないのではないか、という不安は拭いきれなかったのだ。日は既に沈み、彼は一人で野宿することを覚悟していたところだった。
(本当に良かった。人が住んでるってことは、船も来るってことじゃないか。そうすれば、何時になるか分からないが、帰ることは出来るはずだ)
彼は自分のその考えに一人喜んだ。そして、近くを歩いていた住民に声をかけた。
「あの、すいません」
住民は老人のようだった。腰が曲がり、歩くのも大変そうに見える。老人は暫く隼人を見てから、言った。
「どちら様ですじゃ?」
「あの、俺。俺の乗っていた船が転覆しちゃったんです。それで気がついたらこの島に居て……」
隼人は自分がこれまで起こった事を説明した。当然のことながら、彼が見た幻視については伏せてある。あれは既に、彼にとって忘れるべきことだった。
ただの幻視で終わらせておきたい。かかわりたくない。彼はそう心の底でそう願っていた。
全ての話を聞き終わってから、老人は笑顔を浮かべた。隼人はその笑顔に、思わず微笑んだ。
「それは大変だったのぅ。どうじゃ? 今晩はうちに泊まっていくかい? ……この島は狭いからの、旅館はないんじゃ」
「はいっ。ありがとうございます」
「船なら丁度明後日にこの島に着くことになっておる。荷物を運ぶための船じゃが、きっと助けになってくれるはずじゃ」
老人はそういって、隼人を安心させた。
(――明後日、明後日になれば、俺は家に帰れるんだ)
彼はほっと一息つくと、今夜の寝床を確保するために老人について歩き出した。幻視を見てからずっと続いている左目の痛みも、ほとんど気にしなくなっていた。
島の夜は、ゆっくりと更けていく。